今日が一番素敵

丁寧な暮らしを心がけながら、日々、折々のの心模様を素直に語ります。
今が一番素敵との思いを込めて。

家族のために尽くし切ったような私の半生

2017-09-28 07:23:53 | 家族

昨日は、次女宅へ、孫に会いに行く日でした。

K君が五年生の秋から、始めたことです。

塾に通い始めた頃に重なります。

お婿さんの希望だったようですが、娘はママの体力では、日を指定して毎週来てもらうのはもう無理と思っていたようです。

遠慮がちに、その話をしたのを今でもよく覚えています。

 

けれど頼まれれば、私は断れない性分。

苦労と感じるどころか、そのことを生きがいにまで昇華して、頑張れる得な性格です。

事実、五年生の時は週に三回、六年になってからは、週に二回通い続けてきました。

孫のおやつの用意だけでなく、お洗濯ものをたたんだり、お部屋の整理整頓もしています。

お夕食も、孫の口に合うものは運ぶように心がけてもいます。

昨日は持って行くのを忘れ、次女とかれんちゃんがお料理を受け取るために、日が暮れた頃、我が家に来ました。

 

たらの甘酢あんかけ・卵とトマトの炒め物・きゅうりの甘酢しょうが炒め
料理ブログ用に撮った画像です。
この半量を娘宅へ。

 

K君は二番目に授かった孫。

初孫のR君が誕生したのは、私が50代の中頃。

そのころは、もっともっと私は元気でした。

孫に夢中で、娘にお守りを頼まれた時はむろん、私の方から積極的に孫の面倒を見たものです。

 

R君が保育園に通い始めたとき、最初のお迎えにも、私が行きました。

多くの子がそうであったように、R君も、ママ、パパに見捨てられたかのような恐怖だったのでしょう。

私が迎えに行くまでは泣き通しだったらしく、疲れ切って放心したような顔で、保育室から出てきたR君。

フラフラの足どりで、私のもとにきました。

そして私にしがみつき、いつまでもいつまでも泣きじゃくっていた姿が今でも忘れられません。

 

その後も保育園には、両親に代わり、一時間近くかけて、足繁く通いました。

お休み期間は、我が家で預かり面倒もよく見たものです。

夏休みなどは、一週間近くわが家に一人で滞在。

近くのスイミング教室や、他のお教室にも通わせたりもしました。

 

今では考えられない、私の気力の充実ぶり。

体力はもともとありませんでしたから、孫可愛さで、元気になれたのでしょう。

それまでにも、過労で入院したことが二度会った身です。

油断はなりませんでしたが。

 

時には、こんなにボリュームのあるおやつも。
育ち盛りのK君ですから。 

 

ところが案の定、60代になった年の冬、ついに過労でまたダウン。

一週間、入院する羽目に陥りました。

この時は人生の大きな転機だったのかもしれません。

 

家族の世話と孫の世話に明け暮れ、夢中で過ごした50代。

前半は親の介護もありましたから。

諸々の疲れが、一気に噴き出したのでしょうか。

 その病気を契機に、体力に一層自信を無くしてしまった私。

孫の面倒はそれまでのように見られなくなりました。

長女夫婦も遠慮して、私に孫の世話を頼まなくなり、

この後の数年間は、海外旅行や国内旅行に度々出かけ、余暇を楽しんだ時期に当たります。

 

そしてしばらく経過後、次女のお婿さんが単身で他県の研究所勤務となり、娘とK君との数年間の同居も経験しました。

K君が一番かわいい時期で、保育園のお迎えとママが帰宅するまでの面倒はすべて私と夫がみたものです。

私はまた元気復活。

そんな感じだったでしょうか。

数年間の同居の後は、最寄り駅一分のところにあるマンションを購入。

そして今の私は、そこに週二回通い、週末は一緒に夕食を共にしています。

 

小学校一年生の孫娘の部屋の点景です。

 

このように五十代の後半は、孫の世話で、忙しい日々でしたが、50代の前半には、両親の介護もありました。

父はしばらく一人暮らしをしていましたので、期間にずれがありますが、約五年間、一緒に同居。

成長していく孫の世話と違って、衰えが日増しに進む親の介護に希望は見えず、大変なものがありました。

母は認知症も患っていましたから。

でも最後まで可愛くて、我儘一つ言わないで、亡くなった母です。

  

子育と夫の介護もいれて振り返ると、私の半生は家族のためにだけ尽くしてきたようにも。

きっと、この仕事が私の天職だったのでしょう。

不満に感じたことは、ほとんどありませんでしたから。

 

いろいろ大変な思いもしましたが、私の唯一の取柄は、あまり愚痴を言わないことかもしれません。

 子育てから始まり、最後は夫の介護と看取り。

考えると、ずっと家族の世話ばかりしてきました。

けれどその最中にいる時は、当たり前のこととして受け留め、辛いとは全く思わなかった私です。

 

両親二人の介護で、睡眠不足の日々が続いていたころも、近所の方や友人によく同情されたものでしたが。

私は本当に苦労とはあまり思っていなくて。

その言葉かけに、愚痴で返すような事はほとんどありませんでした。

 

恐らく言いたい泣き言や苦労話は、もしかしたらたくさんあったのかもしれませんが。

負の感情を抱くと、苦労が倍加してしまうようで怖かったのでしょう。

日々に抱く思いは、かけがえのない毎日を如何に充実させ、悔いなく過ごすか、そんなことばかり考えている私ですから。

その前向きの心が、常に私を支えてくれているのだと思います。

 

かれんちゃんのベッドの枕元
可愛い!
パッチワークのベッドカバーはママのお手製です。

 

子育ても入れるなら、家族のためにつくし続けてきた私の半生も、ついに彩りが変わりつつあり、なんだかとても不安です。

今でも、わずかながら、娘達の役にも立ててはいますが、すでにもう随分前から、力関係は逆転。

親の威厳は維持しているつもりですが・・・・・・。

娘から見ると、心配が多くなってきた親であるに違いありません。

 

でもまだ、子供たちのお荷物にはなりたくないなあ~。

80歳、90歳になっても、自立した気力の充実したおばあちゃんでいたい。

体力には自信がないので、今後は一層気力に重点をおいていこうと思います。

素敵な余生を過ごせるように、これからも頑張ります。

  

今日は広島から上京した同窓生から電話があり、久しぶりのデート。

病気になって以来初めての遠出になりますから、お誘いを受けるかどうかとても迷いましたが・・・・・・。

脚の悪い事も話してありますので。

同窓生ながらいつも私を温かく見守っていてくださっていた、幼友達で同窓生のH君。

お会いしないわけにもいかず、OKのお返事をしました。

このお話は次回にでもさせて頂きますね。

 

前回の記事では、1000ポイント以上の温かな応援をいただき、有難くもびっくり。
何だか緊張してしまいました。
でもとても嬉しく感謝でした。
有難うございます。                                    

9月27日朝からの記述

 

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  花のように泉のように

 


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