私には尊敬して止まない叔父叔母が幾人もいましたが、ほとんど全員旅立たれてしまいました。
敬愛して止まなかった友人にも、先を越され、逝ってしまった方達が何人もいます。
寂しい限りですが、これは世の常ですから・・・。
私がその日を迎えるのも、然程遠いことではないでしょう。
その訃報が届く度に、お通夜やお葬式に、時には新幹線で向かったり・・・。
都内や近隣県であれば、慣れない道のりをやっとの思いで辿り、通夜や葬儀に参列してきました。
幾年たっても、忘れ得ぬお別れの儀式ばかりでした。
友人と親戚のみを時系列に辿ると・・・。
私の大学時代の大親友あっちゃんの告別式があったのは、私がまだ50代の頃のことでした。
クリスマスシーズンで、瞬くイルミネーションがとても美しいカトリック教会の大聖堂で執り行われました。
信者で心がとても清らかだった友に相応しい式に、強く胸を打たれたものです。
お見舞いの内祝いに添えられていたカード。
今も私の宝物で、大切にしています。
松山で、正岡子規の博物館の館長となり、ご活躍された、高校担任のH先生の松山にての葬儀。
この時は訃報が届いた翌々日には、私は松山へと。
私が一方ならずお世話になった恩師でした。
そして、高校時代の親友、Iさんの葬儀。
親友と言っていいほど親しかったママ友さんTさんIさんの葬儀。
ママ友さん達は同じ沿線にお住まいでしたので、季節ごとにお食事会。
そんな仲で、彼女たちの麗しい人柄は、今も懐かしくて・・・。
まだ亡くなられたことが信じられないくらいです。
更に、小学校時代からの幼友達で、名前で呼び合えた男友達N君の盛大な告別式。
そしてコロナ禍になる少し前に、亡くなられた従兄のSさんと叔母のTさんの葬儀等々。
葬儀の写真は撮ったことはありませんが、上の画像は、
名前で呼び合えた幼友達N君の葬儀の前に撮影した珍しい画像です。
希望が平服とのことでしたので、インナーはシルクの柄のブラウスにしました。
実業家でいらっしたので、広島のリーガーロイヤルホテルの大広間を貸し切っての立派な式でした。
彼は、爆心地から一キロの所で被爆。
お母様は熱風に耐えられず、お宅の前を流れる川に赤子のN君を抱きしめて飛び込まれたようです。
それでも74年の生を全うし、活躍
そして最後は被爆が原因だったのでしょう。急性白血病で亡くなられました。
前の記事にも関連するので取り上げました。
二人で中学時代に家庭教師をしていただいたK先生を訪問した時の写真です。
先生は兵庫大学の名誉教授でドイツ文学が専門でいらっしゃいました。
先生も7~8年前に亡くなられ、その後ふたりでまた、弔問のためにこのお宅を訪ねました。
こんなことを綴っていると、何だか胸に迫るものがあり、悲しくなってきます。
自分の年齢を考えれば、当然のお別れだった人もいますが・・・。
皆さん、とてもお世話になった方達ばかり。
私は何か一つでもご恩返しができたかしら、と思うと、悔やまれることだらけです。
最近では、二年前に亡くなった従兄のSさのお別れも、惜別の思いがし、とても悲しい出来事でした。
私にとって憧れの人でしたから。
私が婚約時代の事。
Yさんとデートするために、徳川家の旧お屋敷を通り過ぎたすぐ先にある、目白の叔母のお宅に、度々泊めていただいたものですが・・・。
ご長男だったSさんがあまりに素敵で、浮気してしまいそうなくらいでした。(笑)
まだ乙女の頃からの憧れのお兄様で、一時は、私との結婚話も出たくらいでしたが・・・。
血縁関係で血が濃すぎるとかで、その話は進まなかったようです。
それだけに、Sさんの訃報は相当なショックだった私です。
最近届いた訃報もそれと同じくらい、ショックな出来事だったようにも・・・。
父の妹に当たる叔母さまの訃報です。
年齢は88歳になられていたので、驚くような報せではないのかもしれませんが。
郷里の広島では、娘時代、結構交流がありました。
祖父母の家に遊びに行くと、良く会いました。
国立大学で学んだ声楽を生かして、音楽の教師に。
とても聡明で明るくて、何故か、清少納言のような女性、と言われていた時も。
とても賢くて、ウイットに富み、話術が巧みでいらしたからでしょうか。
顔は私に似ていて、でも性格は妹にそっくりかな。
退職してからも、医療ボランテイア始め、多岐にわたって色々活動されていたようです。
専業主婦一筋の私と違い、高い能力を備えた叔母様を私は尊敬していました。
4年前、お姉さんに当たる叔母が99歳で亡くなられた時の事。
その葬儀で、広島から上京されたH叔母様に、私は久しぶりにお目にかかることが出来ました。
その時の私の印象は、年齢よりはるかに若々しくみえて、とてもお元気そう。
声楽で鍛えた通る声は相変わらずで、笑顔が美しいおばさまでした。
ですから、この度の突然の訃報はとても信じられなかった私です。
眠るように亡くなられたと伺い、随分心が慰められましたが。
コロナ禍でなければ、新幹線に乗り、妹と駆け付けていたことでしょう。
それが叶わず、妹ととりあえず弔電と、妹との連名で大きめの供花をお届けしました。
葬儀の時は、妹が色々手配してくれたので、四十九日におけるお悔やみのお手紙は私が認める事に。
妹との連名のお香典を添えて。
お手紙を認めるのに、時間がかかりました。
想いが溢れ、お悔やみの手紙なのに長文になってしまいました。
とてもお元気そうに見えた叔母の訃報に接し、妹も私も最初は言葉を失い・・・。
妹に、弘子お姉様(私たちはこう呼んでいました)と同じ年に亡くなるとしたら、お姉様は後十年の命よ、と。
そんなに長く生きられるかしら?
なんだか、死が急に近づいた気持ちになりましたが・・・。
今の私にとって大切なことは、残り少ない日々をいかに充実させ、悔いなく過ごすことが出来るか。
ある方のブログのタイトル、「だんだんと美しくなる人生」。
この言葉、大好きです。
そうありたいですが、私にとっては。あまりに高すぎる理想かな。
先の死を意識しても仕方ない事。
その日は、神様の御心に委ねることと致します。
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