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日中戦争1937はなぜ拡大したか ~歴史は繰り返す?~

2025-01-12 05:00:00 | 近現代史

以前にも少しく書いたかもしれないが、改めて「日中戦争」をで
きるだけ簡単に整理しておこう。

まずは、山川の『詳説日本史 日本史探究』2024より
1935(S10)年以降、中国では関東軍によって、華北(チャハル、
綏遠、河北、山西、山東の5省を日本側では華北と呼んでいた。)
を国民政府の統治から切り離して支配しようとする華北分離政策
が公然と進められた。・・・・・・

中国国民のあいだでは抗日救国戦線が高まり、1936(S11)年12
月の西安事件をきっかけに国民政府は共産党攻撃を中止し、本格
的な抗戦を決意した。

第1次近衛文麿内閣成立直後の1937(S12)年7月7日、北京郊外の
盧溝橋付近で日中両軍の衝突事件が発生した(盧溝橋事件)。

いったんは現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力
に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大
した。

これに対し、国民政府側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦
いは当初の日本側の予想をはるかにこえて全面戦争に発展した。

8月には上海でも戦闘が始まり(第2次上海事変)、戦火は南に広
がった。

9月には国民党と共産党が再び提携し(第2次国共合作)、抗日民
族統一戦線を成立させた。

日本はつぎつぎと大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を
占領した。

国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶に退いてあくまで抗
戦を続けたので、日中戦争は泥沼のような長期戦となった。


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関連年表--昭和12(1937)年
6月4日 第一次近衛内閣成立

7月7日 盧溝橋事件(日中の衝突事件。「
誰が最初の一発を撃っ
たのか、いまだによくは分からない」)
7月11日 現地停戦協定が成立。
一方、日本政府は「北支事変」と命名。6個師団の派兵を閣議決定。
7月13日 日本兵が中国軍に爆殺される(大紅門事件)
7月17日 蒋介石「盧溝橋事変の成行きは中国国家の問題であり、
その終結如何は最後関頭の境界線である」(「最後の関頭」廬山
演説)
7月25日 中国が電線修理中の日本軍部隊を攻撃(廊坊事件)
7月26日 北平で中国軍が日本軍部隊を攻撃(広安門事件)
7月27日 参謀本部、3個師団を動員、華北派遣へ
7月28日-支那駐屯軍が平津地域(北京・天津)を総攻撃(平津
作戦)
7月29日 通州事件(通州の冀東[きとう]保安隊、日本人多数
を殺害)

8月9日 大山事件(上海海軍特別陸戦隊大山中尉が中国保安隊に
射殺される。)
8月13日 閣議において、米内海相の要請を受けて、上海居留民
(約2.5万人)直接保護を目的として、陸軍の派兵が決定。(第2
次上海事変)
8月14日- 海軍の「渡洋爆撃」
8月14日 深夜の閣議において、米内海相は、第三艦隊旗艦「出雲」
に対する中国空軍の攻撃を受けて、これまでの慎重な姿勢を一変さ
せ、事変の不拡大主義の放棄を主張、さらに全面戦争となった以上
南京を攻略するのが当然であると、強硬論に転じた。
8月15日 日本政府声明:「支那軍ニ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ
反省ヲ促ス」
8月15日 上海派遣軍(陸軍)編組が下命される(司令官松井石根
大将)
8月23日 上海派遣軍(陸軍)2個師団が上海に上陸--
中国軍が中央直系の最精鋭部隊を投入したため、苦戦を強いられる。
9月2日 「北支事変」を「支那事変」と改称

10月20日 第10軍(陸軍)を編成(司令官柳川平助中将)。
11月2日-トラウトマン(独)工作(翌年1月16日「爾後国民政府を
対手とせず」[第1次近衛声明])
11月5日 第10軍、杭州湾に奇襲上陸
11月7日 中支那方面軍(上海派遣軍+第10軍)を編成(司令官松井
石根大将)
11月中旬 日本軍は上海全域をほぼ制圧
11月15日 第10軍は「独断追撃」で南京進撃。

12月13日 日本軍、南京入城。南京事件。

(必要に応じて加筆します。if any)


○日中戦争において、イギリス、アメリカ、フランス(当初)、
ソ連は、「援蒋ルート」を通じて中国を支援する。


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ひるがえって、「ウクライナ戦争」(ロシアのウクライナ侵略)は
この2月で3年となる。西欧、米国はウクライナを支援。

かりに、これらの支援が(状況は異なるにせよ)日中戦争のように
継続すれば、「ウクライナ戦争」はあと5年は続くことになる。

5年後にプーチンは78歳になる(ゼレンスキーは51歳に)。


参考図書:『日中戦争』新書版



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<父と日中戦争>(ファミリー・ヒストリー)

父は昭和18年9月、大学を繰り上げ卒業。

18年11月 東部第64部隊(佐倉市)入隊
18年12月 内地出発 開慶にて集合教育
(写真は開慶におけるお正月に同期?と。父は25歳)

19年3月 開慶にて幹部候補生試験を受ける。
20年1月 第117師団(弘)に配属。京漢線沿線の警備に当たる。
20年8月 終戦。シベリア抑留へ。


上記の「同期名簿(23名)」(昭和41年8月作成)


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