ピアニストの久邇之宜(ゆきのぶ:読み方が難しい?)先生が2
月15日(月)逝去された(→こちら)。
先生とワグネル男声合唱団の「出逢い」は、昭和48(1973)年5
月27日(日)の「六連」で、ワグネル男声合唱団がJ.ブラームス
『運命の歌』の伴奏をお願いした時である。
難しい伴奏を、すばらしく、きっちり弾いていただいた録音が残
っている(12月の定演時は別の先生による伴奏)。
録音テープを聴かれた木下保先生が大久保先生や我々に「聴きま
したッ。ワグネルはドイツ人だね、エヘヘ」と絶賛されたのも忘
れられない。久邇先生は当時、弱冠23歳だった。
当時、たまたま責任者を仰せつかっていた私には忘れられない記
憶がある。
六連『運命の歌』のゲネプロは、世田谷区民会館で行われた。当
日までの練習でできあがっているから、ゲネプロはさらっと通し
て終わりになる。
ところが、体操も発声練習も終わり、ゲネプロの開始前になって
も久邇先生が現れない。
「困ったな~」
と思っていると、畑中先生が
「家に電話してみてよ」
公衆電話から久邇先生の、たしか鎌倉のお宅に電話すると、お母
様だったか
「もうとっくに出ましたよ」
(現在の私なら「何時頃?交通手段は?」などと詳しくお訊きするのだが。)
--畑中先生にそのままお伝えする。
しかるに久邇先生が到着されないまま、ゲネプロは20分ほどで終
わってしまった。
ほどなくして、久邇先生がご到着。ホールの片隅で、
畑中先生が優しく
「どうしたのよ~?」
「すみません、車が渋滞していまして・・・・・」
横から大久保先生が
「車は、ダメ。こういうときはダメよ~っ」
不肖私は、顔には出さなかったが、オロオロするばかり。
携帯電話もスマホもない、48年前のことであった。
先生、すばらしい演奏を有難うございました。安らかにお眠りく
ださい。お疲れ様でした!
ブラームス『ジプシーの歌/愛の歌』(2002/ウィーン録音)
ピアノ:久邇之宜・谷池重紬子
平成13(2001)年夏、私はウィーンから畑中先生に「マーラーの息遣いが聞
こえます」と書いた絵葉書を差し上げた。
その翌年、上記CDがウィーンで録音されたのは偶然?
畑中先生傘寿記念?
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運命の歌のゲネプロ遅刻事件も忘却の彼方
でもこのとき久邇先生がブンダバーさんに
「代わりに弾ける学生がいたんですか」と尋ねられ
ブンダバーさんが「ええ、まぁなんとか」とお答えになった
そのことはうっすら覚えておりますので、その「なんとか」
学生はワタシのことではなかったかと
卒業後のある時期、阿佐ヶ谷に住まいしていたワタシは
荻窪の畑中先生のお宅を訪問したことがありましたが、
ちょうど「青の会」の本場前通しげいこをされている最中で
このときも伴奏の久邇先生が遅れて来られた
急遽代役に駆り出されたことがありました
全然お役に立てなくて、今思い返しても冷や汗モノです
久邇先生はブンダバーさんと同い年、まだお若かったのに
ご冥福をお祈り申し上げます
ブンダバーさんより5歳ほど上と思ってましたが、まだお若かったんですね。残念でなりません。ご冥福をお祈り致します。
たしかに「沙羅」の伴奏もすばらしかったですね~。