母は大正12(1923)年、東京の笹塚に生まれ、すぐ父親の勤務地大連に渡った。昭
和6(1931)年代々木上原に帰国。昭和8年小田原、昭和10年笄(こうがい)町と小
学生時代を送り、府立第六高女(現都立三田高校)に進んだ。昭和15年、卒業後は、
銀行と海軍省に勤務した。昭和16年、従兄弟が慶應にいた関係から塾歌の発表会を
聴いている。
昭和54年、私の父が亡くなり、やがて私が結婚して以来、87歳になる今日までずっ
と一人暮らしだった。昨年秋あたりペースメーカーを付けている心臓がなにかの拍
子で虚血状態になると認知症のような症状が出るようになった。
今年に入って、ちょっとした「事故」が起き、家内が週二三回、母の住む鷹番へ通
っていたが、結局この5月初旬、鷹番を引き払って、わが夫婦と同居するようになり、
三人の新しい生活が始まった。
ほどない、5月中旬になって、ある日大きな虚血状態から意識障害になり、救急車で
藤が丘の病院に入院した。医者は「このまま安定するでしょう」といい、いくら呼
びかけてもまったく反応なく、眠るばかり。一時は、最悪の場合を覚悟した。
ところが、入院4日目に血栓が溶けたか奇跡的に意識が戻り、よたよたながら歩け
るようにもなった。一方病院は、こうなったらここは救急病棟だから早く出てくだ
さいという。ほとほと困り果てたが、家内が走り回ってくれ、運よく転院先を見つ
けることができた。
母は、今、町田の転院先に入っている。転院先の病院の中では、点滴もなく、患者
で一番元気かもしれない。意識がなかった時のことはむろん覚えていない。

母が救急車で運ばれた藤が丘の病院
受け入れ病院決定までには救急車の中で30分待たされた
和6(1931)年代々木上原に帰国。昭和8年小田原、昭和10年笄(こうがい)町と小
学生時代を送り、府立第六高女(現都立三田高校)に進んだ。昭和15年、卒業後は、
銀行と海軍省に勤務した。昭和16年、従兄弟が慶應にいた関係から塾歌の発表会を
聴いている。
昭和54年、私の父が亡くなり、やがて私が結婚して以来、87歳になる今日までずっ
と一人暮らしだった。昨年秋あたりペースメーカーを付けている心臓がなにかの拍
子で虚血状態になると認知症のような症状が出るようになった。
今年に入って、ちょっとした「事故」が起き、家内が週二三回、母の住む鷹番へ通
っていたが、結局この5月初旬、鷹番を引き払って、わが夫婦と同居するようになり、
三人の新しい生活が始まった。
ほどない、5月中旬になって、ある日大きな虚血状態から意識障害になり、救急車で
藤が丘の病院に入院した。医者は「このまま安定するでしょう」といい、いくら呼
びかけてもまったく反応なく、眠るばかり。一時は、最悪の場合を覚悟した。
ところが、入院4日目に血栓が溶けたか奇跡的に意識が戻り、よたよたながら歩け
るようにもなった。一方病院は、こうなったらここは救急病棟だから早く出てくだ
さいという。ほとほと困り果てたが、家内が走り回ってくれ、運よく転院先を見つ
けることができた。
母は、今、町田の転院先に入っている。転院先の病院の中では、点滴もなく、患者
で一番元気かもしれない。意識がなかった時のことはむろん覚えていない。

母が救急車で運ばれた藤が丘の病院
受け入れ病院決定までには救急車の中で30分待たされた
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