養老孟司さんがTVで「人間はいつ『死』を自分事と考えるのか?」
まっ、「死はいつでも横にあるものと認識する」ということでしょうかね。
養老さんの言葉は以下の通りです。
三人称はニュースや面識の無い人の「死」
二人称は近いし関係、家族や友人、目の前で起こった事故などの「死」
一人称は自分の「死」
人は二人称の「死」に衝撃を受けて、自分ごとに感じる
二人称は近いし関係、家族や友人、目の前で起こった事故などの「死」
一人称は自分の「死」
人は二人称の「死」に衝撃を受けて、自分ごとに感じる
人というのは、そんなに賢くないことを実感していなくて、いつも「私は賢い」とまで思わなくても「私はバカじゃない/愚かではない」と常日頃考えています。
「『死』のことは解っているし、どうなることも解っている」というわけですが、「二人称の死」を目の当たりにすると「あっ!人間って死ぬんだ!!」と身につまされます。これが「『死』の初めての認知」ということでしょう。よくよく考えれば、次の瞬間の命の保証なんて誰も無い訳なのですからね。どこか「徐々に弱っていって死ぬのだろうから、突然には死なないだろう」という解釈です。
これまた、人間のバカなところは強烈に意識付けられた「死」も時間の経過とともに薄れていって「元の木阿弥」になる。これは人間が正常を保つために辛いことを忘れるという機能が付いているからだ。
文面や会話で出る言葉では「解ったつもり」になっている。
私が考えるに、二人称の「死」だけでは意識付けられることはインパクトとして弱いと思います。自分の体が弱ってくる、体が大きく損傷した、体の機能が失われた、老齢期に入ってくるという「反応促進剤」がないと「死の臨場感の固定」は難しいと思う。
養老さんが強く死を意識するようになったのは、二人称の死と、ご自分が老齢期に入ったという「反応促進剤」があったからだと思う。老齢期に入れば、これを脱することは出来ないわけで、「日常的に死が隣にいる生活」が続くわけで、嫌でも意識付けられるわけです。
養老さんが大ベストセラーである「バカの壁」で『人間の死亡率は100%』と書いていたが、この時は老齢でないので戦争体験も「反応促進剤」だったのかも知れない。
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