川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

米倉先生の弔辞

2007-11-08 11:44:08 | 父・家族・自分
 
4日通夜、5日葬式と、父を送る儀式が無事終了し、娘が川越に帰ったのを最後に遠くから来てくれた親族も皆いなくなりました。僕は昨日、娘を高知空港に送った後、通夜に顔を出してくれた旧友であり、父の元主治医であったT君の家を訪ね感謝の言葉を伝えてきました。ご本人は仕事で不在ですがS 子夫人が長時間応対してくれました。S子さんとももう30余年の付き合いです。妻と二人、女性同士の会話が弾み、僕はたいてい聞いているだけですが、いい女性と出会ったなーと改めて敬意を抱きました。私たちは妻でもっているのです。
 葬儀では父の後輩である米倉益(すすむ)先生の別れの言葉が心に響きました。先生は室戸小、佐喜浜中で父の同僚、年は19歳下です。今は障害を持つ人々の施設「はまゆう園」の園長さんです。
 父を慕って室戸小に赴任し、奥さんともそこで出会いました。学校の職員室での結婚式はいまどきの何億もかけた著名人のそれよりも遥かにすばらしかったと誇らしげに語ります。マイクも持たず、原稿なしで会場に響き渡る肉声で父に語る言葉は為やんを愛し、尊敬する人の熱情に満ちています。
 父は校長として、先生方一人ひとりを信頼し、その実践を励まし、見守るような
存在であったようです。米倉さんが「荒れる」子供の心に思いいたり、障害を持つAくんと歩み始めたとき、それを支持し、学校全体の取り組みへと導いてくれたそうです。Aくんは卒業にあたり自分の創作物を、校長先生にと言って父に渡し、一生懸命働く人になりますと述べたということです。Aくんは、「校長先生」とは幾度も会っていたわけでなく、また、父も、そのときはすでに他校に転勤していたのです。米倉先生の今日まで続く障害児教育の原点はここにあるらしい。
 先生方にあれこれと指示することはほとんどなかった。憲法記念日が近づくと「憲法をしっかり教えていますか」と問いかけるときを除いて。
 父は昭和のはじめ、浜口内閣が教員の給料を全国一律に削減しようとしたとき、郡の教員の会議でこれに反対する決議を提案しようとした。父の勤めていた羽根村のように極貧の村の教員の給料は他に比べて低く、ただでさえ困窮していたのです。
 この企てを知った校長たちは恐れおののいて、父の説得に当たった。共産党と間違われて君の未来が危うくなるという人もいた。結局、自分がかわいい校長たちに丸め込まれたらしいが、国民の教育条件に差別があってはならないという父の信念は益々強まった。
 こんな父にとって、戦後の新しい憲法は血肉のようなもので決して譲り渡すことの出来ないものだったと、米倉先生は父の言葉を引きながらその思いを語りました。
 
 先生は障害者とともに歩む長い功労のゆえに先日、知事の表彰を受けられました。その朝の新聞で父の訃報に接したそうです。橋本知事の横に父の姿が確かにあったと話されました。
 
 こうやって文章をつづりながら、僕も米倉先生のように、尊敬する先輩を心をこめて送りたいものだと思います。他の人がどのように評価しようが、自分にとっては本当に大切な人。その思いを生きているうちに届けることはもちろんですが、出来ることなら人々に聞いてほしいものだとも思わされたのです。

 葬式の前後にいろいろな話を聞きました。父は学校で赤ちゃんの子守もしていたそうです。託児所のなかった時代、乳飲み子を抱えて出勤する女先生の授業中、赤ちゃんを抱えて過ごしたのです。校舎の補修に明け暮れた話は聞いたことがありますがこれは初めてです。嬉しくなりました。
 教員生活の半分以上が「校長」です。僕がいつになったら校長になれるのかと心配していたフシがあります。そのうちにあきらめたのか、啓介はいつも子供たちと一緒でいいなーというようになりました。僕は父にまつわるいくつかのエピソードを聞いて、父の校長生活も先生方や子供たちとともにある充実感に満ちたものであったろうと思うことが出来るようになりました。