北朝鮮の難民と見られる4人が青森県の深浦で保護されたということです。8世紀から10世紀にかけて今の北朝鮮から中国東北部を版図としていた渤海の使節がこのあたりに漂着したという話を思い起こしました。白神山地をはじめて訪ねたとき十三湊(とさみなと)に寄り、知ったことです。笹舟のような船で良くもたどり着いたものです。
<北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会>が早速、声明を出し、政府にたいし、北朝鮮人権法に基づき、難民として処遇するように求めたことは時宜にかなっています。これからどれだけの人々がこうやって日本海をわたってこられるかはわかりませんが、助けを求めてきた人たちを受け入れる心と仕組みを作って行くことがいよいよ現実味を帯びてきたのです。
北朝鮮に関わる人権問題は拉致事件だけではありません。金独裁政権は今日の世界で、私たちの常識では考えられない支配体制を作り上げています。僕は古代の王朝国家のようなものかと想像しています。そこには国民はいません。人々は王様の巨大な墓を作ったり、王権に従わない人たちを征服する戦争に動員される奴隷のような存在です。朝鮮戦争という征服戦争に失敗して、その人員不足を補うため日本から動員した10万人くらいの人たちの運命は過酷です。近代的な市民の意識を持っているため、反抗的と見なされ、強制収容所に入れられたり、公開処刑されている人も少なくありません。10年ほど前には300万人に達する人々が餓死したと伝えられました。今も多くの人々が飢餓線上をさまよっていると思われます。
僕の想像が多少とも事実であるとすれば、隣人である私たちは否応なく、この事実に直面させられます。戦争などの極端な悲劇を避けるために今できることを力を合わせてやるほかはありません。
金正日が日本人拉致を認めた日(02・9・17)をさかいに、僕は拉致問題をはじめとする北朝鮮問題に力を割くようになりました。もとより微力ですが、友人たちと協力して、横田さん夫妻を招いてお話を伺ったり、早くから北朝鮮難民の救援に取り組んできた方々の報告を聞いたり…。「考える会」の機関誌『木苺』でもこれらの貴重な取り組みやさまざまな考えを交流するようにつとめてきました。人権や教育に関わるグループでこのように取り組んできた例はあまり聞きません。
「考える会」を終結させることを僕が考えるようになったのは、直接的には私たちの高齢化・病気などにより、責任ある活動が困難になったという事実からですが、私たち世話人の問題提起に答えてくれる会員や読者が少ないというより深刻な事実を認めざるを得ないからでもあります。呼びかけても活動に参加してくれない、意見も書いてくれない。誰がどういう考えを持っているかがさっぱりわからないのです。新しい友人たちとの出会いは私たちを励ましてくれたのですが、新しい酒は新しい革袋に入れるほかはないようです。世話人会で相談し、終結の力が残っているうちに会を閉じることにしました。(つづく)
<北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会>が早速、声明を出し、政府にたいし、北朝鮮人権法に基づき、難民として処遇するように求めたことは時宜にかなっています。これからどれだけの人々がこうやって日本海をわたってこられるかはわかりませんが、助けを求めてきた人たちを受け入れる心と仕組みを作って行くことがいよいよ現実味を帯びてきたのです。
北朝鮮に関わる人権問題は拉致事件だけではありません。金独裁政権は今日の世界で、私たちの常識では考えられない支配体制を作り上げています。僕は古代の王朝国家のようなものかと想像しています。そこには国民はいません。人々は王様の巨大な墓を作ったり、王権に従わない人たちを征服する戦争に動員される奴隷のような存在です。朝鮮戦争という征服戦争に失敗して、その人員不足を補うため日本から動員した10万人くらいの人たちの運命は過酷です。近代的な市民の意識を持っているため、反抗的と見なされ、強制収容所に入れられたり、公開処刑されている人も少なくありません。10年ほど前には300万人に達する人々が餓死したと伝えられました。今も多くの人々が飢餓線上をさまよっていると思われます。
僕の想像が多少とも事実であるとすれば、隣人である私たちは否応なく、この事実に直面させられます。戦争などの極端な悲劇を避けるために今できることを力を合わせてやるほかはありません。
金正日が日本人拉致を認めた日(02・9・17)をさかいに、僕は拉致問題をはじめとする北朝鮮問題に力を割くようになりました。もとより微力ですが、友人たちと協力して、横田さん夫妻を招いてお話を伺ったり、早くから北朝鮮難民の救援に取り組んできた方々の報告を聞いたり…。「考える会」の機関誌『木苺』でもこれらの貴重な取り組みやさまざまな考えを交流するようにつとめてきました。人権や教育に関わるグループでこのように取り組んできた例はあまり聞きません。
「考える会」を終結させることを僕が考えるようになったのは、直接的には私たちの高齢化・病気などにより、責任ある活動が困難になったという事実からですが、私たち世話人の問題提起に答えてくれる会員や読者が少ないというより深刻な事実を認めざるを得ないからでもあります。呼びかけても活動に参加してくれない、意見も書いてくれない。誰がどういう考えを持っているかがさっぱりわからないのです。新しい友人たちとの出会いは私たちを励ましてくれたのですが、新しい酒は新しい革袋に入れるほかはないようです。世話人会で相談し、終結の力が残っているうちに会を閉じることにしました。(つづく)
ふと、宮沢賢治の「永訣の朝」の中の「わたくしはまがったてっぽうだまのように/このくらいみぞれのなかにとびだした」という詩句が浮かんできました。
啓介さんたちが再会して言葉を交わし得てから8日目のことだったのですね。
「弘子さん、頑張りましたね。今は安らかにお眠りください」 ご冥福をお祈りいたします。
改憲へと向かう大きな動きの中で、ぼくらは憲法をどう受けとめ、日々の暮らしの中に生かし、子どもたちにどう伝えてきたのかを問い直す議論でした。衝撃的だったのは、戦闘的労働運動のリーダーとして活躍したAさんの一句「俺たちは今、断末魔の時にいるよなあ」でした。その諦めたような口ぶりが引っかかりました。ぼくは、状況認識としてはうなずけるものの、そこで立ち往生しているのではなく、だからこそ何をするか、生きられる道をどう探すかが重要だと言い、自分のささやかな実践について語りました。ぼくら自身が展望や希望を探そうとせずに、どうして若い世代の心に響く言葉を残せるでしょうか。
今朝の啓介さんの文章、わが意を得たりという思いで読みました。特に「助けを求めてきた人たちを受け入れる心と仕組みを作る」という一節に。10年前から「在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」の名前の頭に≪多文化共生をめざす≫とつけ加えて活動してきたことの真価が問われる時代ですね。
昨日(きぞ)妻を葬(はふ)りしひと
朝(あした)の秋の海眺めたり
北朝鮮の民衆が嘗めている辛酸(特にこの日本から祖国に憧れて「帰国」された人びとの苦難)とそれに対する隣人としてとるべき姿勢については、まったく同感です。しかし、残念なことに、私の周りの人々の中でも、この問題を避けて通ろうとする人が大勢で、ひとりひとり説得をすれば、その当座は頷いていても、結局大勢に従ってしまうのです。
むしろ、深浦港岸壁で水と菓子を差し出した人、彼らが乗ってきた漁船を見て、「よくこんな小さな船で…」と呟いた人たちの方が、よほど「普通の感覚」を持ち合わせているように感じています。
北朝鮮人権侵害対処法は、全体としてはとんでもない法律だと思っていますが、脱北者の保護と支援に関する限り、日本政府がこの法律に基づいてそれを推進することに、異論はありません。
96年10月、妻を喪った父が「よりよき半分を失い、本当にさびしい」と挨拶したことを思い出します。65年間を共に生きてきた人の言葉です。Yさんは退職したばかりで、これからいよいよ弘子さんとの生活を楽しむ日々が続くはずでした。弘子さんはどんなにか心待ちにしていたことでしょう。
僕もまたそういうお二人を訪ねるのを楽しみにしていました。さびしい限りです。時がすこしは悲しみを和らげてくれたら、弘子さんの思い出を心ゆくまで語り合いましょう、。
自然に浸りたいと思っても、鳥や虫の鳴き声さえ鬱陶しくなると、人がいないところで無性に風の声を聴きたくなります。もちろん、高山に登れば、いやでも風の声を聴くことになるでしょう。残念ながら、登山歴は高校時代で終り。そこで私は、以前に、伊豆半島の仁科峠に車を止めて、西伊豆(駿河湾)の海を遠望しながら、熊笹の茂みを吹き渡る風の音を寒い中でずっと聴いていたことがあります。あたかも、ボブ・ディランの
> The answer my friend, is blowing in the wind,
> the answer is blowing in the wind.
のように。茂みの中を頂上まで徒歩で登れば、東伊豆(相模湾)の海も見えるのかも知れません。「伊豆」という言葉から一般連想される温暖なイメージとは異なり、冬の厳しい気候が、そして一年中風の激しく吹き付ける気候が、そこにいると想い起こされます。
保養所(H伊豆高原)から大室山荘バス停から西に延びてくる通り(通常のルートの1本北側の併行道路です)に出て左折、すぐにある二股を伊豆高原テニスクラブ方面の右方向へ進み、突き当たったところを右折して道なり、さらにカーブミラーがあるやや広い通りに突き当たったところで右折、道なりに登ると、「池入口」の表示があるところで遠笠山道路に合流します(保養所から車で5分以内)。そこで左折して天城高原ICから伊豆スカイラインに入り(「中伊豆荘まで」と告げて210円?)、いまは日帰り入浴施設になってしまった旧国民宿舎中伊豆荘のところでスカイラインから離れて左折し、中伊豆荘玄関前まで登らずに下り方向の細い道を下ると、つづら折れの後、伊豆市(旧中伊豆町)菅引集落に出ます。道なりに菅引川を橋で渡った直後、左右方向に走る広い道路(県道59号伊東西伊豆線)を左折すると、道なりに原保・地蔵堂(万城の滝=裏見の滝は、岩盤が崩れてしまい、滝の裏側から見物することはできなくなりました)・低い峠を越えて貴僧坊・筏場と旧中伊豆町の集落を経て、国士越えの道に入ります。国士峠を越えると、そこは旧天城湯ヶ島町の中心街です。「しろばんば」の井上靖が通った小学校の脇を左折して国道414号線に合流し、数百メートルで「持越・西伊豆」方面へと信号を右折、また山道です。この道は、旧中伊豆町菅引からずっと県道59号線です。そして、風早峠で県道西天城高原線に合流して稜線に出ます。左折して仁科峠までは、ほんの少しです。全区間舗装路ですが、すれ違いは困難なところが大半です。堂ヶ島まで降りることも可能ですし、風早峠からは宇久須方面に降りられます。稜線を北上して土肥・戸田へ下ることも可能ですし、西伊豆スカイラインへと足を伸ばして、修善寺へと下ってもよし、もう一山越えて西浦方面から内浦湾を助手席から眺めながら、窓をいっぱいに開けて潮の香りを嗅ぐのも可能です。ただ走るだけなのですけれど…。
妻が免許を取ったころは山道ばかりを走りました。ですから今でも大丈夫です。仁科峠には02年の元日、還暦祝いをかねて松山の「兄さん」夫婦などと石廊崎を訪ねたあと、寄るはめになってしまいました。松崎で渋滞に巻き込まれ、仁科川をさかのぼることにしたのです。ご教示の道をちょうど逆にたどってスカイラインにで、日の暮れる頃箱根の宿に着きました。風の強い日でしたがどこからも富士がきれいで松山の夫妻に喜ばれました。仁科峠の記憶は定かではありません。狭いくねくね道を飽きもせず運転する人の気分はどんなものだったでしょうか。客人たちとの会話が弾んで、展望はかすんでしまったのかもしれません。