父の日記のつづき。新米教師の授業など子どもたちとの日々。
4月27日(金) 晴
春季遠足。朝から子供が問ひに来るので校長に相談に行く。校長宅にも蝟集せり。西浜の漁師の処へ日和を聞きに行く。遠方の児童は既にかまえて来だしたので日和はあまり面白からざるも出向と決定。八時半出発す。
加領郷に行きしに、鯨取れしとの事。半時間位待ちて見に行く。児童珍しかる事、切。
其れより、田野川原迄行き、昼食。福田寺を見て帰途に就く。途中、道草を食ふ児童多く実によはる。五時半、羽根崎にて解散。砂上に座して子供相手に又しゃべくる。安岡兄サイダーを持ち来る。石にて抜いてラッパを吹く。うまい。帰りて校長宅にて鶏の御馳走。
4月30日(月) 晴
(略)月末計算。常欠の者はスッカリ特別へ入れた。百分数 九十四・七
割合に良い方である。
5月1日(火) 雨
自習の時間、児童があまりに解らぬので遂に鬱積を爆発させた。白墨入れのふたがこはい事 割れよった。読方を三時間やり、更に昼食にも帰さず、ぎっしきやる。雨天の為六年に体育に関する話をなす。(略)
5月2日(水) 晴
昨日の爆発がこたへたと見えて今日は学習振りが余程宜しい。始めて気持ちよく勉強した。午後合同体操。六高は安芸先生がやられる。体操もきちんと予定を立ててやれば存外面白い。(略)
5月3日(木) 晴
午後より螟虫取り。暑い中をあっちこっちと監督して廻るのも楽で無い。途中で安芸先生と八幡神社の境内に至り、ビハの御馳走になり、枡嵜神官の話を聞く。四時帰校。(略)
5月4日(金)
今朝、川へ顔を洗ひに行く。実に気持ちが良かった。今日は算術 読方共に割合面白く行った。昼は餅を焼いて食ふ。
午後は又虫取り。ブラブラと監督(西の方面)。(略)
5月11日(金) 雨
四年実地研究。児童の活動頗る緩慢。枡嵜先生、遂に途中にて放拠す。
菓子を食ひ乍、批評会。終わりて(略)安芸先生と読方教授に就きて議論を戦わす。自分もどうもしっかりと解って居らない。(略)
漁師に天気予報を聞きに行ったり、遠足の日の様子が想像されて楽しい。このころまだ鯨が取れていたのか。父の父は若い頃鯨捕りの花形だ。
5月に入ると連日、田圃の害虫取り。7日の日記には「虫取り…五年は本日六円余りもとった」とある。農業組合などが買い取ったのだろうか。村では子どもたちが欠かせない労働力であったことが解る。僕の子供時代(1950年代の始め)にもまだ農繁休というものがあり、米やサツマイモの収穫を手伝った。
「月末計算」とはなんだろう?子供の出席率か?長欠の者を除外して計算するのか?
授業で悪戦苦闘する姿は今も昔も変わらない?うまくいかないクラスや生徒のことを考えると病気になりそうだ。僕は妻などに語って慰めて貰ったが、父の小学校では、僕にはほとんど体験のない研究授業が沢山あり、授業を廻って同僚が批評し合う事が多かったことが解る。
4月27日(金) 晴
春季遠足。朝から子供が問ひに来るので校長に相談に行く。校長宅にも蝟集せり。西浜の漁師の処へ日和を聞きに行く。遠方の児童は既にかまえて来だしたので日和はあまり面白からざるも出向と決定。八時半出発す。
加領郷に行きしに、鯨取れしとの事。半時間位待ちて見に行く。児童珍しかる事、切。
其れより、田野川原迄行き、昼食。福田寺を見て帰途に就く。途中、道草を食ふ児童多く実によはる。五時半、羽根崎にて解散。砂上に座して子供相手に又しゃべくる。安岡兄サイダーを持ち来る。石にて抜いてラッパを吹く。うまい。帰りて校長宅にて鶏の御馳走。
4月30日(月) 晴
(略)月末計算。常欠の者はスッカリ特別へ入れた。百分数 九十四・七
割合に良い方である。
5月1日(火) 雨
自習の時間、児童があまりに解らぬので遂に鬱積を爆発させた。白墨入れのふたがこはい事 割れよった。読方を三時間やり、更に昼食にも帰さず、ぎっしきやる。雨天の為六年に体育に関する話をなす。(略)
5月2日(水) 晴
昨日の爆発がこたへたと見えて今日は学習振りが余程宜しい。始めて気持ちよく勉強した。午後合同体操。六高は安芸先生がやられる。体操もきちんと予定を立ててやれば存外面白い。(略)
5月3日(木) 晴
午後より螟虫取り。暑い中をあっちこっちと監督して廻るのも楽で無い。途中で安芸先生と八幡神社の境内に至り、ビハの御馳走になり、枡嵜神官の話を聞く。四時帰校。(略)
5月4日(金)
今朝、川へ顔を洗ひに行く。実に気持ちが良かった。今日は算術 読方共に割合面白く行った。昼は餅を焼いて食ふ。
午後は又虫取り。ブラブラと監督(西の方面)。(略)
5月11日(金) 雨
四年実地研究。児童の活動頗る緩慢。枡嵜先生、遂に途中にて放拠す。
菓子を食ひ乍、批評会。終わりて(略)安芸先生と読方教授に就きて議論を戦わす。自分もどうもしっかりと解って居らない。(略)
漁師に天気予報を聞きに行ったり、遠足の日の様子が想像されて楽しい。このころまだ鯨が取れていたのか。父の父は若い頃鯨捕りの花形だ。
5月に入ると連日、田圃の害虫取り。7日の日記には「虫取り…五年は本日六円余りもとった」とある。農業組合などが買い取ったのだろうか。村では子どもたちが欠かせない労働力であったことが解る。僕の子供時代(1950年代の始め)にもまだ農繁休というものがあり、米やサツマイモの収穫を手伝った。
「月末計算」とはなんだろう?子供の出席率か?長欠の者を除外して計算するのか?
授業で悪戦苦闘する姿は今も昔も変わらない?うまくいかないクラスや生徒のことを考えると病気になりそうだ。僕は妻などに語って慰めて貰ったが、父の小学校では、僕にはほとんど体験のない研究授業が沢山あり、授業を廻って同僚が批評し合う事が多かったことが解る。
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