渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

古いCM

2021年04月15日 | open


なんかこのおねえさん、20年位前から
ずっと同じCM出てるような気がする。
中国地方のCMでは、財津一郎さんの
「ピアノ売ってちょ〜だい」のCMが
ここ20年程まったく同じ映像がTVで
放送されている。
旬ものではないCMの契約期間とか、
どうなっているのだろう(笑)。

タケモトピアノ CM

シャウエッセン

2021年04月15日 | open
 
1985年、シャウエッセンが登場した時は
あまりの美味さにたまげた。
今でも、量産物では一番の美味しさだと
思う。
これをホットドッグに使うだけで味
が格段
に良くなる。
 

備州三原紀行 その2

2021年04月15日 | open


三原の城下町には、これでもかという程
に寺がある。本当に数が多い。
だが、神社も結構ある。
この旧川西町の東にある大島神社も、
三原城築城前からあるという。
神社のサイトによると以下だ。

「当神社は、小早川隆景公に三原城築城
(永禄十年、1567年)以前、海の中に
あった大島に祀られていた稲荷神社を
築城後、城の守護神として祀られていた
厳島神と合祀して天守閣に奉斎されて
いたものを、福島公の時代にその他の
稲荷神社を習合勧請し、三原の里の安泰、
繁栄の守護神として現在地に遷座奉斎
されました」

三原城は海上の小島を埋め立てて築城
されたのだが、その中の一つに「大島」
と呼ばれた島があったのだろう。そこ
にあった祠の稲荷を勧請したのだろう。

ちなみにこの鳥居は元々は8基だけだ
ったのだが、クラウドファンディング
より昨年2020年に59基が追加設置
され
て、合計67基の赤鳥居が並ぶ神社
なった。
神社境内は猫が多くいる。

参道の最初の鳥居の所は階段となって
いる。


山肌にある大島神社を抜けると、三原城址
とJR三原駅が見える。この三原城址は本丸
天守台(天守は造られず)であり、三原
駅の場所に本丸御殿があった。
城主は小早川隆景→福島正則→浅野家と
変遷した。
豊臣秀吉が宿泊したこともある。


備後安芸を領した毛利一門は、関ヶ原
の戦の後、防州、長州に封じられた。
毛利一門の小早川家が治めた後、福島
正則が入封(にゅうほう)し、備後、
安芸両国を領した。福島氏により三原城
とその後に作られた広島城は完成をみた。
しかし、福島正則は広島城無断改築の
罪を着せられて江戸幕府により改易と
なった。
福島氏の後は、備後は福山藩として分割
され、備後と安芸の堺の三原城は特例と
して一国一城の令の例外となり、三原
を安芸国藩主が治めることとなる。
そして紀州から入封した浅野家が46万
5千石の領主となった。三原城には浅野家
家老が城主として居住し、安芸浅野家
本藩の家士たちが三原に住した。浅野家
は広島、三原、東条、三次を治めた。
広島藩は基本は武士は全員浅野家中で
あるのだが、家老の陪臣としての家臣
たちも各城下に住していた。三原城主は
3万石、本藩上田氏は2万石を超えていた
ので、軍備えでの軍役規定に沿った侍
を抱えていなければならなかったので
ある。結果として、46万5千石ほどの
大藩になると、中間より上の徒歩、足軽
から中士、上士まで含めると、家中の
全武士の総数たる
や膨大な人口となった。
そして、裁量権はある程度認められて
いたが、武士の収入は幕法に準じて四公
六民を基準とした。つまり、武士の扶持
が仮に100石だとすると、実収入は40石
であったのである。
だが、家計が苦しくなると、武家は徴税
率を上げて、武士への実入りを多くし、
生産者たる農民への収奪を強化した。
実際のところ、六公四民どころか、農民
たちは米などは口にできないような状態
が全国的に広がった。
江戸期、白米を食べていたのは、大城下
の町民(商人や職人)と武士と公家、
坊主等のみだ。
だが、現代のようにおかずを食する習慣
が江戸などの大都市には不在であり、
白米ばかりを食したため、江戸では武士
も町人も「江戸病」と称されたカッケに
多くが罹患した。
そのため、薬食として魚だけでなく獣肉
も広く食されたが、それとて、財のある
者たちしか食べられなかった。
全国の農村部での百姓一揆(一揆とは
同盟しての軍事蜂起とその組織を指す)
や町内での打ちこわしなどが起きたの
も当然の帰結だった。
大阪などでは幕府の直参があまりにも
ひどい民衆の実態を見て、決死の覚悟
で蜂起を先導した。それが大塩平八郎
の乱だった。
江戸幕藩体制は、武家政権の矛盾を時が
過ぎれば過ぎる程蓄積していった。
軍事的内戦終結後に、日本総人口の約
一割の「非生産者」たる武装せる人々
を存在させたまま、米本位制による
農民搾取に経済基盤を依拠するという
ことが続くわけがない。奉公人まで
含めると、現代人口に換算すると、
1300万人の非生産者がいる事になる。
自衛隊でさえ30万人しかいない。
江戸期、大名とて、幕府による疲弊
政策で参勤交代や国替えで莫大な費用
を消費させられている。武士は常に
上から下まで大貧乏であり、富める
のは生産と産業と物流を支配していた
商人のみだった。
武家政権によって権力の実効力は武士
階級が掌握していたが、実質的な社会
の支配者は商人たちだったのである。
そして、戊申の東西内戦により幕藩
体制が崩壊して明治となって以降は、
殖産興業が一気に進み、「商人が支配
する社会機構」が構築された。
一般人は選挙権さえ無い時代、金さえ
持っていれば選挙権を与えられる世と
なった。女性は法的に無能力者のまま
であり、犬や猫と同じ扱いだった。
それらの歪んだ明治の新制が完全に
消滅するのは、第二次大戦敗戦後に
なってからである。
昭和20年-1945年の敗戦により、日本は
新時代として本当の西欧型民主主義を
模索するようになった。
明治の法律で定められた旧武士階級と
現行公家貴族階級が法的に消滅するの
は昭和23年-1948年以降の事だった。
特に旧武士階級は華族とは異なり、
一切の法的特権は付与されていない
のに戸籍に「士族」と記載されると
いう法制度としての欠缺(けんけつ)
を残したまま明治初頭から昭和大戦の
敗戦後まで制度が残存した。
これは法的整合性からして非常におか
しいことであり、大正時代に国会で
議論され、全族称欄の戸籍簿記載を
法的に無くそうと模索された。
だが、反対派が多く、大正デモクラシー
で近代国家を目指そうとした論議は
立ち消えになった。


旧堀川町、現本町の河川。
これを濠として築城後は使用していた。
江戸期の城郭地図によると西之川という。


城側の下流。この石垣は城郭の一角だ
ろう。この川は、現在の地図上からは
途中で消滅している。
明治期に街中の河川部分が暗渠となり、
なんとその上に住宅等が建築された。
数年程前、住宅が撤去されこの川の一部
が三原城築城当時の遺構の石垣と共に
現れた。
この川は、西之築出(にしのつきだし)
の北にあった浮世濠の脇を流れていた。
西之築出は旧御作事町、現港町であり、
海に浮かぶ埋め立て城内住宅地だった。
藩校の吾往館や作事所(奉行所)や
脇役所等があり、武芸指南の家々の
武士が住していた。
現在の東京湾にあるお台場のような
石垣の四面護岸の埋め立て地が海の
中にそびえていた三原城の西端の
城郭のエリアだ。
それは城の本丸東側にもあり、そちら
には練兵場や馬場、講武所があった。


三原城下が一望できる山の公園から
三原市東方を望む。遠く左手に見える
山肌のふもとが糸崎である。
今この建造物が見える市街地全域が
戦国時代まではすべて海だった。




向かいに見える山は左手が筆影山、右が
竜王山。あそこは備後ではなく安芸国だ。
手前の市街地には江戸期の開発により、
堤を設けて広大な塩田が広がっていた。
塩田は昭和期まで存在した。


三原市街西部。現在は全域住宅街だが、
昭和55年-1980年頃までは、ほぼこの
西部全域が田んぼと畑だった。幕末
から干拓が続けられた湿地帯であり、
江戸初期から明治初頭まではデルタ
地帯だった。


左右東西に伸びる高架線がJR山陽本線と
JR新幹線。左にカーブしているのがJR
呉線だ。20数年前に山陽本線も呉線も
市街地部分のみ高架線に大工事が成さ
れた。


赤線部分が旧山陽本線の鉄道ルート。
青線は呉線。
山陽本線の敷設されていた直線部は
JRから民間に払い下げられて、すべて
住宅が建築された。
鉄道路線の地面であったので、地盤が
極めてしっかりしており、2001年の
芸予地震では、建物の半壊でブルー
シートだらけの街並みとなったのに、
この元鉄道のあった直線部分のみは
住宅の損傷が極めて少なかった。
元々脆弱な埋め立て地の海抜ゼロ
メートルに近い土地なので、地盤は
緩いエリアだ。
だが、まだ三原全域からしたら良い
ほうで、河川の河口付近の工場地域、
病院施設や大型スーパーがある新規
埋め立てエリアでは、地盤沈下により
一般道路がうねっている。それは
東京の埋め立て地と同じ現象として
現出しており、それゆえ、三原市は
常に道路工事がある町となっている。


(つづく)

備州三原紀行 その1

2021年04月15日 | open

広島県三原市の住宅街である現在の宮浦
地区は、江戸期以前には湾だった。
ここは宮浦町内にある碇島の跡地。
デルタ地帯の潟として干拓された18世紀
には、三原城主の鷹狩休息所とされたと
のことだ。


城下西の外れに西宮八幡宮がある。
ここから西は一帯海であった。
それゆえ、「宮浦」という地名が後年つけ
られた。この神社の場所は現在西宮という
地名だ。創建は古い。




表参道の鳥居の脇に石灯籠がある。
延享元甲子年とある。1744年きのえね
の年だ。幕府将軍は徳川吉宗の時代。
暴れん坊将軍ですね(笑


参道階段の脇に自動車用道路が作られて
ている。勾配かなり急。


西宮八幡宮の境内。


これは表参道の東にある参道。ほぼ廃道。


この東参道から登るとこういう具合。


表参道の階段を見下ろす。


かなり長い参道だ。
三原城下で一番大きな神社であり、毎年
初詣ではかなり賑わう。


階段を上がり切ったところに門がある。
左右には仁王像ではなく、人物像の木彫り
と昭和大改修の際の鬼瓦が左右に収められ
ている。


正殿に続く石畳。


左右の石灯籠がこれまた古い。




元禄ニ己巳年五月吉日 備州三原八幡宮
とある。1689年、幕府将軍は綱吉の時代。
その前の貞享年間の備州の名工に刀鍛冶
水田国重がいる。
江戸期の刀剣書を読むと、大与五国重は
虎徹興里よりも遥かに高値だったりした
書もあり、全く刀の値段などは当時から
いい加減なものだ。
そもそも、刀剣の値段などというのは、
ありゃあおおかた秀吉と本阿弥が勝手に
設えたもんだろうよ。高額刀剣が戦場働
きで能力発揮するかってえと、そんな事
は一切無い。折れず曲がらず良く切れる
を抜きにして武士が持つ刀の存在はあり
得ない。

劇画「子連れ狼」の拝一刀と柳生烈堂
死んだの元禄15年-1702年だが、大五郎
の年から逆算すると、一刀が刺客となった
のはその3年前だから、元禄12年-1699年
という事になる。
この石灯籠が建った10年後だ。


まあ、なんというか、「おのれ、計った
な、やぎゅうぅ〜!(by 一刀)」のずっと
前からこの神社はあった。
広島県内で一番古い神社は三原市糸崎の
糸碕神社だが、この三原八幡宮は三原
を作った毛利一門の小早川隆景が天正
3年-1575年にこの地に移して作ったと
されている。その頃はうちは三原ではなく
遠く離れた別場所にいた。ドンパチチャン
チャンバラバラ、ドテポキグシャの頃。


三原城下、城から西の市民たちの拠り所
となっているのが三原八幡宮だ。


昭和59年甲子(きのえね)-1978年大改修
の際に寄付で協力した人たちの名が刻ま
れている石碑。


西宮は境内から西に降りる道がある。
この先には神聖なる場所、相撲の土俵が
ある。昭和時代の国体では、そこで相撲
が取り組まれた。
三原は古くから武芸の町であり、相撲も
かなり盛んだったが、今は相撲を取る人
はほぼいない。それは、真剣刀術を成す
人がほぼいないのに似ている。剣道は
そこそこ盛んだった。
だが、西日本少年剣道大会という大きな
大会がかつて三原で開催されていたが、
それも今は廃止になった。
毎年、一千人の少年少女が竹刀の音を
かせる活気ある大会だったが、廃止され
てとても残念だ。私は大会副委員長を務
た事がある。


三原八幡宮から城下の現西町、本町を
望む。このメインの通りが旧山陽道、
通称西国海道だ。


八幡宮を下った地点が城下の西の外れと
なり、三原城西の惣門があった。
西国海道を西から東に歩き、三原の城下
府内に入るにはその門で検察を受けなけれ
ば入れなかった。城下町というものは、
出入り自由ではなかったからだ。身分証明
の札が無ければ城下には入れないし、城下
の市民も自由に城下外の農村部には行けな
い。江戸が「入り鉄砲に出女」を厳重に
取り締まったように、各藩においても、
門をいくつも設置して、人の出入りを規制
していた。


八幡宮下から旧山陽道を東に見る。今は
道路が緩やかなカーブとなっているが、
昭和時代までクランク状になっていた。
昔の西町郵便局の真上を今は道路が通っ
ている。


旧山陽道を東に見る。
現在、西野川として川となっているが、
江戸期には無い。人口河川だ。
そのため、市内の沼田川と同じく、この
地点より上流部まで満潮時には海水で満
たされる。


三原城下最西端の通り。この先、真っ直
ぐどんつきが三原城だ。一直線に伸びて
いる。この町は江戸期には職人街だった。
江戸期の史料を見ると、鍛冶屋だけで数
十軒が軒を連ねていた。
多分、いつも鎚音が響く活気のあった町
だった事だろう。お宮下から少し先の
あたりは「かじ新町」と呼ばれていた。


西の惣門の外には山陽道の一理塚があった
ようだ。昭和時代にはすでに地面は平坦に
造成されていた。


三原城西の惣門跡。道路改修により移転
された西町郵便局の前。


これが西宮八幡宮の東側の参道。
現在では、ほぼ廃道。
このお宮さんの表参道の鳥居下には、
とても美味しい水を汲む井戸があった。
昭和戦前、戦後直後まで使われていた
が、今は井戸端のみが遺構のようにある
だけで、井戸水は汲んでいない。
近隣の住民たちは、自宅に井戸や水道が
あっても、西宮八幡宮の水が美味しいの
で、ここまで汲みに来ていたと、この
あたりの古老に聞いた。


これより、城内に参るぞ、大五郎(違

(つづく)