江戸期の近世山陽道=西国海道を
三原城下から西進する。
江戸期、現在の三原市街地西部の
住宅街(宮浦、皆実、宮沖)は
浅瀬の海のデルタ地帯だったので
道はない。
古代山陽道は山の中だが、近世
五街道の山陽道は三原城下を抜け
て、海に沿う山すそぞいの小さな
峠を抜けて本郷高山城方面に向かい、
真良(しんら)集落で古代山陽道
と合流してから南進する。
三原城下付農村部である現在の
三原市西野の坂を登って行くと
井屋峠という峠にさしかかる。
三原城下から西に進むと最初に
つきあたる山中の峠だ。
三原城築城までは東北西を山に
囲まれた海に面した寒村であり、
殆ど人は住んではいなかった。
谷津である狭い谷沿いにはいく
つかの村民家があったが、数える
ほどだった。ウルトラ僻地で
人が住むような地形の場所では
なかった。
しかし、水軍を引き込むための
海上要塞都市としては最適の地形
であり、そのために毛利一門の
小早川隆景は水軍運用城として
海上に三原城という城郭都市を
戦国時代末期に建設した。
東の尾道からも、北の出雲方面
からも、西の西国方面からも
三原城へ到達するには道なき道
を通って山越えをしなければなら
ない。非常に攻めにくい城だった
事だろう。
三原城が出来た時、まだ広島城
は出現しておらず、現在の広島市
の前身の場所も、いくつもの川
にできた無数の中州の広い島が
点在しているだけのデルタ地帯
だった。人口も三原地方よりも
すこしまし、という程度だった。
日本は、武士が建設した城により
そこに城下町が出来て、人が各地
から集まり、町として人口が増加
して発展した。都以外はそうである。
その方式を日本で初めて実行した
のは織田信長だった。
21世紀の現在、各都道府県の庁舎
所在地は、ほぼすべて等しく地方
自治体の旧国の城下町となっている。
(埼玉県などのような例外もあり)
江戸期幕末でさえ日本人の人口は
3,000万人しかおらず、これは平安
時代からさして変わっていなかった。
日本の人口が爆発的に増えたのは
明治以降のことだ。
日本は城ありて町ができ、人が
集まってきて各地で都市となった
歴史がある。
米を生産する農村地帯が都市とは
ならない。
近世山陽道の三原から初めての西
の峠「井屋峠」は、かつてはつづら
折れの山道だったのだろう。
頂上からの下り西方面を見る。
この峠は、昭和2年(1927年)に
大改修されている。
現在拡幅工事中であるが、神奈川県の
鎌倉のような切通となっているエリア
だ。たぶん、昭和2年時は、切通を
作ったのではなかろうか。
鎌倉の場合は、鎌倉時代に多くの切
遠が作られた。
旧山陽道を西進すると、「沼田(ぬた)」
という集落の交差点に出る。
ここは江戸期から一つの道しるべと
なっている場所だ。
現在の三原市沼田は面白い区割りで、
四方を山に囲まれた狭い十文字の谷津
がその町名エリアになっている。
本谷川というぼさ川に沿って細長く
南北に伸びた区割りだ。
交差点から旧山陽道の西を見る。
この先、もう一つ峠を越えて下れば
古代山陽道の駅家(うまや)があった
真良(しんら)集落に出る。
そこらは古墳群エリアとなる。
交差点から山陽道を東に見る。
この先に井屋峠がある。
交差点から北を見る。数キロ先は車両通行
止めの林道になっている。
私は20年程前に、行けるところまで徒歩
で行ってみたが、コンパスと装備を持って
いなかったため6キロほど歩いてから引き
返した。向こうに見える山の天辺は超えて
いた。
交差点から本谷川沿いに南を見る。
「弘化五戊申春 祈谷中安全」と
掘られた灯篭がある。
道の灯台ともいうべき道標だろう。
弘化5年は西暦1848年にあたる。
幕末動乱時代にハタチ前後だった
人たちが生まれた頃。弘化の前は
天保、国内経済大混乱の時代だ。
弘化の後は嘉永。嘉永は黒船来航
の時代。そこから一気に20年程で
江戸期が終焉に向かう。
173年前の石灯籠。風雨に曝され
ながらも現存している。
東側側面。
「奉燈 金毘羅大権現」と彫られている。
金毘羅権現は修験道と山岳信仰が融合
した神仏習合の神の事。
石灯籠の横に三原市教育委員会による
この地方の奇祭についての歴史説明
看板がある。
教育委員会では「ちんこんかん」は
雨ごい祭りだとする説に拠っている。
しかし、なぜ鬼が出てきて金物を
打ち鳴らすのかについての言及は
無い。昭和34年(1959年)頃には、
古代製鉄研究は日本国内ではかなり
未発達だったし、民俗学も然りだった。
ひどいのは三角寛のサンカ論述発表で、
あのような捏造がまかり通っていた。
この「ちんこんかん」についても、
江戸期の史書などを根拠にするだけ
では何ら歴史の真実には迫れない。
ただ、「ちんこんかん」については、
三原市は江戸期の判断を踏襲して
いるだけであり、齟齬や誤謬とは
いえない。だが、ちんこんかんの発生
原因は何であるかについては、鬼と
の関係性を文献史学だけでなく民俗学
的見地からも説明できない限り、歴史
的な考察としては不十分であるといえ
る事は確かだろう。
旧山陽道を沼田交差点にて左折し、
本谷川に沿って南下する。
このエリアは、沼田荘の地区であり、
現在の沼田川の南に広がる田園地帯
の沼田東、沼田西とはかなり離れる。
沼田にはアキノクニノミヤツコとは
別にヌタノクニノミヤツコがいたと
する説もある。
そうでなくば、この近隣エリアの
古墳群形成を説明できない。
どこのだれだか皆目不明である
在地の豪族勢力、古代の地方の「王」
がいたことは確かであり、国造が
古墳造営主の末裔と密接不可分の
関係にあることを鑑みれば、吉備国
の外れから沼田・安芸の東端のこの
エリアには一体どの王族がいたのか、
という問題が浮上して来る。
ただ、明らかなのは、どこの誰だか
わからぬ勢力の古墳群が大量にこの
エリアに集中して存在していると
いうことが判っているのみなのだ。
鴨が2羽水辺で餌をついばんでいる。
模様が先日別場所で見た2羽のように
見える。
何度も首を水中に突っ込んで何かを
食べている。水生昆虫だろう。
実にのどかで良いところだ。これは休憩の
穴場だ。
下流方面の沼田小学校に向けては、ぼさ
が増え、水量が極端に減っている。
数百メートル下って下流方面を見る。
伏流水にでもなったのかと思えるほど
に水が流れていない。
まるで枯れ川。
しかし、さらに下流に行くと水が現れて
沼田川に合流する。どうなっているのか。
沼田川合流手前の地区。ここまで来ると、
水が流れている。
右側下流、左側上流。
川の右岸は護岸されているが、左岸は
自然の岸辺のままだ。
新倉地区を抜けて国道2号線の側道を
東進すると、なにか一里塚のような
桜の植え込み土手の残存部を発見した。
全農三原支部燃料基地の前のS字コーナー
の地点にある。
これは何だろう。あきらかに土手。
上に登ってみる。
なにか旧道のようだ。
三原バイパスと国道2号線は大幅工事
により、このあたりの地形の造作が
昭和戦後の頃とはまるで異なるので、
この土手が何の土手かは今のところ
不明。
画像左手に見えるのが国道2号線三原
バイパスだ。
このポイントに謎の桜並木5本の土手が
ある。
これについても、後日古地図と照らし
合わせて調べてみたいと思う。
もしかすると、塩田の土手跡かも知れ
ない。