愛馬を労わりながら共にどこまでも。
それがいい。
まるでイサムとサンダーボルトの
ように。
広島県三原市は市内の中に備後国と
安芸国の国境がある。備州(備前・備中・
備後の吉備国)と芸州の国境だ。
城下町三原市市街地は吉備の国にある。
三原市街西部の外れに古治山という低い
山があり、そこが国境だ。
現在はその山の上に広島県立大学三原
キャンパスがある。
その県立大学の正門の坂の下になだら
かな仏ヶ峠という峠があり、その峠の
途中が備後と安芸の国境だ。
その地点には古い道標が建てられている。
従是東 備後
従是西 安藝
とある。建立年代不明。
古代山陽道は三原市北部を通り、
大名行列が通った近世山陽道で
ある西国海道は三原市城下を東西
に貫通して古代山陽道に繋がる。
さらに南部に裏街道があった。
その南部の道を西進してみる。
京覧カントリークラブの山の南側
の尾根に沿った道だ。
途中山頂に折れる道があったので登って
行くと神社があった。御鉢山の山頂にある。
長谷(ながたに)神社という。
旧長谷村内の小坂(おさか)、沼田、長谷、
新倉という安芸国最東部国境地区の氏神と
なっていた。1491年建立。宇佐八幡宮から
勧請とのことだ。
表参道からは車両では到達できない。
表参道。
裏道の峠道をかなり下る。
遠くに人里が見えて来た。小坂集落だ。
農村部の集落の山の下に表参道の入り口。
この小坂エリアから少し西に進んでから
北上し、古代山陽道を辿ってみる。
左手奥に見えるのが新道。目の前の道が
律令制の頃に作られた古代山陽道。
大和言葉では「かげとものみち」と読んだ。
残念。工事中にて通行不能。
脇道から昭和新道に合流することにする。
古代山陽道はこのような道である。
佛通寺(ぶっつうじ)という臨済宗
の寺の前を通る。
佛通寺は足利将軍家の奉公衆であった
小早川春平が1397年(応永4年)に
開いた。
日本刀界では「応永以後に刀無し」と
呼ばれた時代で、この頃以降の刀剣を
「末古刀」と呼ぶ。戦国時代の膨大な
刀剣需要に応えて、鋼の中に芯鉄を
噛ませて増量させ鋼を節約する量産
組み合わせ工法が登場して普及した頃
だ。
無論、古代山陽道が開かれた律令時代
には佛通寺などはない。
獣道のような道路が山中に開かれていた
だけである。
そして、朝廷の命令により、約16kmごと
に「駅家(うまや)」という駅が置かれ、
全国各地からの徴税の為の馬が規定数
そこで飼育されていた。主として伝令馬
であり、荷駄は近隣の農民たちに引かせ
た。
また、大和朝廷の課税である租庸調の
うちの庸についての労役には、国民全員
を徒歩にて都に集めた。軍事装備は朝廷
の支給であるが、軍役刀の刃付けの為に
各自砥石を持参するのが必須命令だった。
大和朝廷は、都の貴族以外は人間では
ないと考えているので、人民に対して
行使する権力は全て強制的な武力を以て
為した。抗えば即死刑や極刑だ。
明治新政府は、それを復活させようと
していた。天皇中心主義とはそれである。
立憲君主制などは当初勘案していなかった
明治政府が、世界の情勢を見てこれでは
やばいと焦り出し、西欧に人を多く派遣
して学んで、国会という議会制度が開催
できたのは、明治三十年代になって
ようやくの事だった。
それまではすべて「太政官布告」という
一方的な思い付きの権力行使をしていた。
日本の法学史を見ると、明治初頭には
朝令暮改の混乱した太政官布告が多く
為されていた事が判明する。法的にも
矛盾に満ちた布告を繰り返しており、
明治新政府が如何に「法律意識」に
疎く、未開人であったかがよく判る。
「お上の言う事は何でも絶対」という
絶対主義であるので、紀元前のギリシャ
のポリスの都市人よりも未開人が権力
を握っていたともいえるのが日本の明治
政府だった。
その果てしない未発達性は歪んだ歴史
を刻み、現代に続いている。
欧米に比べて、日本人に法治意識が
未だに健全に育たないのは、あえて
そのような国民意識に国家がしている
為だ。日本人は日常生活での人間社会
行動においても、未開の土着意識を
今でも強く残存させている。
古代山陽道の脇に作られた昭和の新道
に出た。このあたり、クマが棲息して
いる。近年目撃例あり。
昨年閉鎖されたツーリングライダーにも
人気の無料キャンプ場だった国民休暇村
の脇を抜けて、超林道を下って佛通寺の
古代山陽道に再度合流しさらに下る。
佛通寺川の下流の里川に野生の鴨が
二羽泳いでいた。
飛び立つ瞬間を捉えた。
さらに古代街道を下り、真良(しんら)
という地区に出た。
ここは古代山陽道の駅家があった眞良
の場所だ。
田園が広がる農村地帯。
古代にあっては、田園と牧草地帯だった
ことだろう。駅家には馬が16乃至20疋
飼育されていた。
駅家にて宿泊できるのは朝廷の役人だけ
であり、一般国民はすべて野宿で都まで
上らされた。飲食費は自弁である。
朝廷からは何の施しもない。すべてむしり
獲られる搾取しか存在していなかった。
それが天皇親政の世の中だった。
その体制をぶっ潰して、一所懸命で家族
一族同胞を武力で防衛することをはじめ
たのが武士だった。
武士の登場は、それまでの中央集権的な
律令体制を根底から引っ繰り返した。
武士の発生は貴種降誕もあるが、律令制
の中で全国に派遣された役人と在地豪族
が合流して朝廷の意に沿わない地方独立
自治権のようなものを形成した事にはじ
まる。狩りに長けた在地民の技術と古代
ヤマトに徴兵された人民の武闘技術が
結合して、「武」を専門として行なえる
技術職が発達し、それが在地治世と
結合して武士団が形成された。
やがて大和朝廷に暴力装置として雇用
されていた貴族から見たら身分の低い
賤たる階級だった武士は、天皇と貴族
たちから実効支配権を奪取する。
そして鎌倉に日本の歴史の中で初めて
武家政権を樹立した。
だが、天皇朝廷をありがたがる領民の
旧公民たちを懐柔させるために、武家
は一応朝廷の顔を立てて、武家は朝廷
からの勅使であることを常に手法として
使用した。
但し、絶対権力たる支配権は、江戸幕末
になるまでの約700年間、武士が国内の
実権を掌握していた。
蹴鞠や和歌や貝合わせに興じる種族では
なく、軍事を以て国を治める武門による
武断の体制が日本国では平安末期以降約
700年続いた。
だが、武士がいたからこそ、日本はアジア
や南米やアフリカのようにスペインや
西欧大国の侵略植民地とはならなかった。
これは確かな世界史の一面として存在
する。
日本という国は武士が守ったのである。
都の歌詠みたちが守ったのではない。
真良(しんら)の里。
古代山陽道沿いの新道県道50号線と
近世山陽道西国海道がぶつかる丁字路
になる地点が律令制の街道駅である
駅家(うまや)があった地区。
現在日本固有の陸上競技の駅伝は、この
律令制のウマヤを繋ぐ伝令の名残だ。
ある意味、古代マラソンの起源と非常
に似ている。
近世山陽道西国街道を東に見る。
なだらかな峠を越えたこの先が三原
市街地になる。
江戸期、大名行列が通った山陽道は
この道。
東進すれば三原城下に戻る。
ルート。
四輪車での本行程の全行程踏破は無理
である。オフロードバイクもしくは
ミニバイク以外での走破は困難。
クリックで拡大(PCで閲覧の方向け)
最近、教習所での波状路走破はこういう
呼吸をするのが見られる。