渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

山梨県警

2021年10月07日 | open



粘着ネラーがキモい。
異常者。

今が標準であり全てと思うなかれ

2021年10月07日 | open


石畳以外、地球上の全ての道がオフ
ロードだった頃のスモール・ディス
プレイスメント・モーターサイクル。
モーターサイクルは和製造語では
オートバイと呼ぶ。
この画像のオートバイが登場した頃
にこの世に生を受けた人たちは、ま
だ多く生きている。

今の今が世の中の全ての基準であり、
標準であり、当たり前だなどと思っ
てはならない。
今には過去の歴史があり、また、今
も1秒後にはすでに過去だ。
今しか見えないのは、それは過去を
知らず、また未来も展望できない、
という事なのだ。

とりわけ、物作りにおいては、最新
物が全て最良であるとは限らない。
これは人間の人的質性などもそうで、
時代と共にどんどん質が劣化して行く
現象も人間社会には見られる。
何が良くて、何が良くないのか、捨象
すべき悪しき点は何なのかを洞察す
るには、過去の歴史を冷静に客観的
に精査して未来の道筋を人間自身が
作って行くしかない。
愚者は目の前の浅く視野が狭い経験
からしか学べず、賢者は歴史から学
ぶ。
この定理に時間軸は関係ない。
いつの時代でもその定理は生きてい
る。

広島県三原市今昔

2021年10月07日 | open

今の三原市の住宅街(宮浦地区)。

1960年代。


三原市というのは、江戸期からの
城下数町を除いて、私が大学の頃
の1980年代初期でもこんな感じだ
った。畑・田んぼの中に国鉄山陽
本線と呉線が走り、遥か先まで見
渡せた。


同地点からの現在。


元々は浅瀬の海だ。
元禄時代に一部干拓新田開発がされ
たが、潮が押し寄せるので耕作地と
しては不適当で、沖の浜を中心に塩
田が作られた。



宮浦という地名は、三原西宮八幡宮
の下にある浦=海という意味だ。
現在、田畑はすべて住宅地となった。


これは1980年代末期に農地が全部
住宅になったのである。
よその土地から多くの人たちが三原
に移り住んで来た。
うちのように数百年も城内、城下に
住んでいる家は珍しいのではなかろ
うか。城下では作り酒屋や御殿医の
家などがそうだろうが、総人口から
いったらほんの数える程のごく僅か
だ。
「よそから来た人」たちが三原の
人的質性と土地柄を形成している。
この土地の地方地区なりの人柄は
そうした人たちが構成している。
数代前にはどこにおったか分からん
ような連中があとから三原にやって
来て、わしら三原ぢゃ三原ぢゃ言う
て地元ぶって大きな顔しとる。
そういうとこ。
それに苦言を呈すると「なんじゃ、
おんどりゃ。しごうしたるど(ぶっ
殺してバラバラにしてやるぞ)」て
なもんで。いや、まじでそういうの
で来る。それがフツーかのように。
ま、そんなとこ。
同じ新興都市でも、横浜の住宅街と
はまるで質性が異なる。
広島の友人が自分が愛する広島市を
冷徹に俯瞰して、似たような事を言
って嘆息していたが、広島市、三原
市、福山市というのは、似た歴史的
な変遷による人的性格形成の同一性
傾向があるのではなかろうか。

広島県の人に物言いしたらダメすよ。
たとえどんなに全国区の「日本の常
識」や日本の法律や社会規範で物を
言っても、「ここでやりたいのなら
黙れ」「ここにおるつもりなんか」
「出て行け」だから。
不正受験を糺そうとしたら、黙れ。
悪い事を直そうと啓蒙啓発をしたら
出て行け。
そういう土地です。
特殊なの。
日本の全国版社会規範と意識と民主
主義精神や制度は一切通用しません。
だからこそ、河井夫婦は広島県の行
政長各人に金ばら撒いた。
そして、受け取っていながら、河井
夫婦を裏切った。河井の上を行く
外道ぶり。
そういうのが起きる土地柄、人柄、
お国柄。お里が知れるというやつ。
隔離された(自分たちで隔離させて
いる)土地なのです。
なんでそういう事するかなあ、てな
ことが日常。それが日常。
変わった場所です。
元々は違ったのでしょうね。

とにかく、「私的集団性」での「強制」
「威圧」「強圧」「恫喝」「嫌がらせ」
「裏切り」「恩を仇で返す」「後ろ足
で砂かけ」が異様に多い土地です。
端的に言うと「仁、義、礼、智、信」
の五常は一切存在しない。仁義無き
土地柄、人柄なんです。
なにもそれはヤクザの話ではなくて、
一般人もまったくヤクザと同じで、
まるで徳が無い。そして、のぅのぅ
けぇけぇ言って威張ってます。
これ、山間部や島しょに行くとまるで
人が違う。牧歌的で人柄も温厚。
そのコントラストが物凄くあるので、
まあ、変わった場所です。
「地方」というのはどこもそうした
傾向あるのかも?
私は東京都、神奈川県、埼玉県、千葉
県しか知りませんが、その4都県では
経験ない事ばかりに出くわします。
「異国」なんですよ。まるで。
20年前に東京から転住して来て、商工
会でもいじめ抜かれていたラーメン屋
店主が私と初めて話をしたら私に言い
ました。
「三原に引っ越して来て20年以上。
外国の異国で初めて日本人に会った
感じが今しています」と。
これ、よく分かります。

よくないよ。
よくない事は、日本全国どこでもよ
ない。
自分たちのエリアだけの俺様ルール
や新興の土着感覚だけで社会的規範
を無視したり、その意識に基づいて
人を虐げてよしとする気風は絶対に
良くない。
日本の道徳教育からやり直したほう
いい。

阿蘇 8/8

2021年10月07日 | open






2021年8月8日。
倶楽部同志会創立記念日の阿蘇の朝。
君よ、凌雲の志の人士たれ。
(『漢書』揚雄伝)

帝人通り 〜広島県三原市〜

2021年10月07日 | open

帝人通り。

大正時代から昭和40年頃までは大変
賑わいを見せた三原市内一の商店街
でした。
今はゴーストタウンのストリートの
よう。


閉店店舗も多く、シャッター通り
ようになっています。
旧三原城内の武家住宅街と作事奉
所があった出島のような埋立地
西築出(にしのつきだし)横の堀
からズドンと真っ直ぐ海まで南に
伸びている道路です。


閉店店舗も多い。


帝人プラザビル。


飲み屋街です。




1階には台湾料理屋さん。


凄いですよー。
真昼間のお昼の時間にスナックで
カラオケ歌いまくってるおっちゃ
んの声が聞こえます。


帝人通りから港側を見る。
この駐車場には元々建物が並んで
いて、ビリヤード台が3台ある喫茶
店がありました。夜逃げで消えた。


右側の建物がカネショウ。
昭和初期からある青果商でしたが、
カネショウというパブ&カフェに
してから大流行しました。
今はメインの角地店舗は別店に貸し、
カネショウは横で小さな喫茶店をや
っています。


港から見たサカナザ(旧カネショウ)。


カネショウ横は海運回送業の老舗
です。長屋形式の建物。
江戸期、ここは海でしたが、明治
以降も江戸時代の城下町と同じく、
長屋形式の商家が多く建てられま
した。

三原港。
フェリー乗り場があります。










帝人通りを帝人跡地(帝国人絹→テイ
ン、三原から全撤退)を左横に見て
真っぐに沼田川(江戸期は海)に向
かって進みます。


この埋立地には様々な市の施設や
ショッピングモール、飲食店等の
街区となっています。
この並木通りは結構好きだな。
通りの遥か前方には竜王山が見え
ます。


なんだあの煙幕は?と思い、望遠に
したら、ホンダの2ストミニバイク
が強烈な見た事ないような白煙を
吐いて走っていました。道路全体、
空まで真っ白。エンジン焼き付かな
いのかなあ。


三原の新道

2021年10月07日 | open

西側から見た画像。

完成まで何年かかったのだろう。
呉線のアンダーパスが完成した。
これで三原警察署エリアと宮沖の
ショッピングモールや総合病院等
の間の通行がスムーズになった。

東側から見た画像。
右の植え込みは宮沖の塩田の
土手跡。