渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

「モトツーリング」最新号 2021年11月号

2021年10月08日 | open

モト ツーリング 2021年11月号 (発売日2021年10月01日)

MOTOツーリングは、編集部が現地まで実走しツーリングに役立つ現地のナマ情報をお届けする、いわばツーリストナビゲーションマガジンであります。...

雑誌/定期購読の予約はFujisan

 

定期購読してる雑誌が届いた。

今回もふろくが楽しい。
「100円キャンプ術
」。
焚火台を作る?ことも100均商品
でこなしている。やる。
「焚火台は作れる。制作ガイド&

性能検証」という特集。
なんというツワモノ向けの特集か(笑

古代史好き者向けの記事も外さない。
「八ヶ岳南麓は原始日本の首都
だった!?」
このバイク誌、他誌と毛色が違って
いて、とても面白いのです。

上掲リンク先ページには試し
読みページもありますので、
ぜひどうぞ。


護衛艦「いずも」に米海兵隊F-35Bが初めて発着艦

2021年10月08日 | open

護衛艦「いずも」に米海兵隊F-35Bが初めて発着艦


いよいよ空母化。




北朝鮮拉致問題

2021年10月08日 | open



終わってねーよ。
人様の国の人間を勝手に人さらい
しておいて、なーにふんぞり返って
るんだか。
社会体制抜きにして、この国の人間
の感覚、人として終わってる。

天ぷら

2021年10月08日 | open

昨夜の晩ご飯のおかず。天ぷら。
母が作った。
うまかった。

野菜+理研塩ドレ。


おひたし。うま。


庭で獲れたシシトウ。
今回、ロシアンルーレット無し。
なかなか美味しい。


白菜キムチ。うまし。

なんだ、野菜ばっかだ。
タンパク質はかき揚げの海老だけだ。
ま、いーか。
美味しゅうございました。

刀屋さん

2021年10月08日 | open


旧友の刀屋さんの記事。



地震

2021年10月08日 | open


海保の友人から連絡あり。
原発は今のところ大丈夫と。
さしあたり、胸をなでおろす。



5時55分

2021年10月08日 | open

夜は明けたが、まだ日は射さない。

朝の瀬戸内海。


市街地西方。


東の空が赤らんで来ています。


JR三原駅では始発の新幹線が待機
してる。
地面が少ないので、お城の真上に
明治の鉄道開通時に駅を作ってし
まいました。全国でここだけ。
城跡まで駅から何分とかでなく、
城跡が駅。


見えている街は全部三原城内です。


城内の武家屋敷は明治9年に全て
召し上げられて、旧武士の広島県
士族の住民たちは強制立ち退き。
武士の屋敷はいわば官舎であって、
百姓家や商家のような私有財産で
はありません。お上の意向次第で、
取り上げられたり、与えられた
します。
その後、お城の御殿も解体されて
建材は競売(けいばい)にかけられ、
石垣の石さえもが売りに出されま
した。
城内の武家屋敷の土地は民間に払
い下れ、よそから人が大量に
移住して来ました。
それが三原の城内、城下、郊外の
実相。
沖を埋め立て工業地帯を作り、大量
の労働者も移住して来ました。
明治中期から人口が爆発的に増えた。
江戸期には城下の人口は武士と町人
で1万人でしたが、その後は10万人
程まで膨れ上がった。
つまり、三原は人口の9割が「外から
来た人」で構成されている。
急激な人口増加のため、三原には
滅多矢鱈と病院と理髪店と飲み屋
が多い。
理髪店は理容店も含めると、町中の
通りの住宅街では数軒ごとにある感
じです。
小病院も旧山陽道沿いでは数軒ごと
にあります。
これ、成人後に初めて街を歩いた時
に驚きました。
びょういんとびよういんだらけだー、
と。

10.8羽田

2021年10月08日 | open
















1967.10.8ジッパチ羽田から54年。
佐藤訪ベト実力阻止闘争だった。
この日、学生は日本の学生運動史
初めてヘルメットを被ったが、それ
対立党派間の小競り合いを予想し
の事だった。
だが、用意したゲバ棒とヘルメット
は機動隊の阻止戦とぶつかる際に
使用された、というのが当時現場に
参加したセクトOBの79年時点での
証言だ。
まだ、セクト毎のヘルメットの色分
けは存在しなかった。

60年安保闘争を牽引した全学連主
流派(反主流派は共産党)の社学同は
安保敗北後に崩壊していた。
それが65年頃から都学連再建を契機
に旧主流派の中の主流派だったマル
戦派セクトナンバー6らを中心に関西
派との合流再建が模索されていた。
そして、1967年にブントは再建され
た。(68年3月にマル戦派がブント
退により再度分裂。首都圏を中心と
するマル戦派と関西派との対立は
解消できなかった)
社学同=ブントは、10.8羽田闘争は
関西の学生が指揮したために首都高
に駆け足で乗ってから方角を間違え
て羽田空港方向と逆走してしまい、
機動隊に挟みうちにされた、とされ
ている。だが、本当はブントだけが
知る別な裏事情がある。
空港目前の羽田の各橋での激突を展
開したのは革共同(中核派と革マル派)
だった。


この日、機動隊との衝突の際、京都
大学1回生の山崎君(18才)が殺された。
私の12才上、一回り上の世代だ。

この時代、ベトナム反戦運動は全世
界的な問題であり、「日本の一部の
学生が騒いだ」とか「左翼が暴れた」
とかの話ではなかった。
最先端の最先鋭の尖ったネジの先端
は全学連の学生だったが、国民、市
民の問題としてベトナム戦争は目の
前に横たわっていた。
戦後民主主義国を標榜する日本の基
地からベトナム人を殺すための軍隊
がどんどん出撃していたからだ。
小学生の私でさえ、毎日のように
横須賀に列車貨物で運ばれる米軍の
兵器等を見ていて、「これ、おかし
くない?」と思っていた。
米軍の陸上戦闘用の車両等は鉄道で
輸送していた。国鉄という日本人の
財産の鉄道を使って。
結局は、先の世界大戦は軍事的領域
の分捕り合いの泥棒合戦であり、そ
れに日本が負けて米軍に日本が占領
されているのだ、と小学生にも強く
感じさせた。日本は米軍の基地なの
だ、と。日本はベトナム戦争に参加
している、と。
民主主義の独立平和国家だなんて、
出鱈目も出鱈目、大嘘じゃないか、
と7才児でさえ気づく日常が神奈川
県に住んでいたら存在したのだった。