(1977年高2、湘南)
高校の時は革ジャンを何着か
持っていたが、愛用していた
のはオートバイ乗りの叔父か
らもらった1950年代製の米国
製ダブルライダースだった。
叔父が二輪乗りの時にずっと
着ていた物だ。
本物のフィフティーズアイテム。
当時、国産物の革ジャンで普
及していたのは、なぜか革が
薄い物が多く、ペラペラ感が
あった。高校生の多くが着て
いたMA-1タイプの革ジャンな
どはそうだった。
同級生の仲間内でツーリング
に行ったら、打ち合わせも何
もしていないのに、8人全員が
MA-1タイプの革ジャンで笑っ
た事があったが、それほど
そのタイプは多く普及していた。
安かったのだ。1976年当時で
1万円程度。今の2~3万位か。
高校生でもバイトや小遣い貯
めとかで工面すれば買える金
額で革ジャンが入手できた。
一方、ルイスやショット等の
輸入物は途方もなく高く、な
かなか高校生たちはその手の
革ジャンは手に入れられなか
った。クールスのような金持
ちの「おじさん」たちが高価
な革ジャンを着ていたが、そ
れらは異例だった。
(クールスはその後私と同い
歳の横山剣さんがボーカルを
やった時には赤い革ジャンが
カッコよかった)
私が着ていたこの画像のライ
ダースは非常に出来が良くて、
国産物とは一味どころかかなり
違っていた。
大学時代も着ていたが、その
後はブカブカながらも私の妻
(当時彼女)が喜んで着て、
それでバイクに乗っていた。
ある夏の日、面白い事があった。
東京から遥か遠く離れた地に私
はいて、高い場所から景色を見
ていた。
すると、直線の向こうからパァー
ンと吹け切ったよい音をさせて
走って来るバイクがいる。
結構速度出してるなぁとか思っ
た。完全に12点加点コース(笑
あれ?あのヘルメットどこかで
見た事あるぞ、と思ってると、
近づいて通り過ぎる時に私の革
ジャンとそっくりな革ジャン
を着ていた。バイクはよく見た
事のあるバイク。
そのバイクはアッと言う間に
走り去っていった。
夏休みが終わり、私も本州に
戻り、妻(当時の彼女)に、
その事を話すと「え?」と言う。
何月何日の何時頃、どこどこを
走っていなかった?と尋ねて。
すると、やはりそれは妻(当時
の彼女)本人だった。
一人でロングツーリングに行っ
たのだと言う。行くのは聞いて
いたが、まさかその道中で出会
うとはね。
どうりで同じヘルメットで見た
事ある革ジャンで、同じバイク
だった筈だよ(笑
あまりの偶然に二人でワハハと
笑い合った。そういう事あるん
だ?みたいに。
嘘みたいな偶然というものは
世の中あるものだ。
東京から一千キロ離れた土地で
たまたま偶然、同じ日の同時刻
にそこで二人が出くわしたのだ
から。向こうは走っていたので
気づかなかったみたいだが。
ほんと嘘みたいな話。
それ以降、私には世にも不思議
な偶然の出会いとかの関係性が
異様な数で巻き起こるのだが、
それらの偶然アルアルの最初は
かみさんとの超遠方での件から
だった。
人は何か目に見えない何者かに
操られているのかもしれない。
あまりにも事例が多すぎると、
そう思わざるを得ない。
異常な程に、実例が多すぎるの
だ。
フィフティーズ。それは永遠の
輝き。
1978年公開のこの映画も1959年
という過去を描いた作品だった。
アメリカが戦争をしていないほん
のひと時の時代。若者たちの青春
は一つの平和な文化となった。
そして、それは不動だ。流行など
ではなく、時代が過ぎようとも
永遠に不朽の光を放っている。
日本で初めてフィフティーズとい
う言葉を使い、概念を普及させた
のはピンクドラゴンを設立した
山崎眞行さんだった。発信は東京
原宿から。