渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

日本刀を観て、食事をする

2024年12月01日 | open
 

きょうから師走。

東広島美術館での刀剣展示の
最終日。
食事してからゆっくりと刀を
観に行く。




















この店はパッと探して初めて
行ったが、味も店員の応対も
とても良かった。
 
東広島市美術館では大山宗重
の刀剣を受け取りに我が家に
いらした
広島県美術刀剣保存
協会の重職の方、同行され
た若い学
芸員の女性と再会
し懇談した。
長々と拙刀をお預かり頂き、
まことにお世話になりました。
例によって私のアルアルで、
この若い学芸員の方は、私と
の奇縁あり。
今は永青文庫の重職にある
女性がかつて国際基督教大学
に通っていた頃、私の横のデ
スクで秘書のバイトをしてい
た。私がパラリーガルの頃だ。
高橋源一郎氏の娘。
その娘さんが大学を卒業して
文筆活動をしている時、若い
学芸員の人はアルバイトで女
史の仕事を手伝った事がある
のだという。
ちなみに、私が1980年代前半
に使っていたレーシングマシ
ンを運ぶトランスポーターは
源一郎の娘の育ての親の中古
車屋さんから購入した。
高橋源一郎と私の走りの相方
弁護士は横国時代に大親友だ
った。また源一郎と別れたそ
の子の母親も同大学での仲間
だった。彼らは遥か昔の大学
時代、エンプラ後の白いセン
ターコアな学友諸君だった。
偶然だが、後年源一郎は明治
学院大で教鞭を執る事になり、
子である女子もまた明学の先
生となった。これまた奇遇な
り。娘は美術史を教えていた
ようだ。
ハタチ過ぎの頃はとても可愛
い知的な女子大生で、漫画家
になるのが夢だった。
今は細川殿の博物館で職務に
就いている。

細川護熙氏が造った陶芸作品
についての過去記事。
細川護熙さんは、総理大臣な
どやるより、芸術の道に生き
たほうが合っていたようにも
思える。
芸術作品 - 渓流詩人の徒然日記

芸術作品 - 渓流詩人の徒然日記

(最近料亭に行ってないぞ、という話の続きから)料理って、正直でね。値段じゃないのよ。いくら高くても「ふざけるなよ」と思うような味の店は結構ある。砂糖づけでベッタ...

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刀剣を充分に鑑賞堪能したあ
とは備後國三原に帰り、港
に面し
店で夕食会。







おいしいね、ここも。
 
三原港の電飾。


散々ワインを飲んだが、急遽
さらに美味しいワインを飲
に別な店に行く。
食事や飲み歩きは、予め計画
などせずに思いつきで行くの
が良い。
美味なり。
ボトルのワインもとても美味
しゅうございました。

締めはザ・バーだ。
私はサイドカーを飲む。


超ラッキーな事に、ジャズの
生バンドが演奏していた。
次回は12月14日(土)に駅前通
りのカ
フェで夜にライブを
やる予定。

最後の曲は「A列車で行こう」
だった。良い。
 
撤収後。ずらりと棚に並ぶCD
はJAZZのナンバーだ。時々、
頼むと好きな曲をかけてくれ
る。店内には静かにJAZZが流
れる。とても落ち着くバー。
マスターが作るカクテルは全
日本級で、かつてはコンクー
ル上位でならした。マスター
が別店にいた頃からの馴染み
だが、古く伝統あるこの店を
受け継いだ時から、私はかれ
これ20年以上通っている。


マスター笑顔。元俳優。


世の中、奇縁というものはある
ものだ(私の場合はアルアルす
ぎるのだが)。
マスターは私の一学年下だが、
マスターの同級生の親友がかつ
て私の戸建ての家の2Fのアパー
トメントに住んでいて、マスタ
ーも若い頃に何度もうちの家に
来たことがあるという。それは
大昔の話だが、何十年後かにマ
スターと話していてその事を知
った。
二人とも「え~?」みたいな感
じだった。
私の場合、こういう不思議な縁
が多すぎる。かつて接触してい
た人とそれとは知らず、後年に
その縁故が分かる、という事例。
その事例は30数件以上に及ぶ。
一番驚いたのは、四半世紀以上
前にメールで連絡をやり取りし
ていた人だ。私のフライフィッ
シングのバンブーロッドを作っ
てくれた広島市内の職人さん
のお隣に従前お住まいだった。
偶然にも私と同姓同名。
メールのやり取りを続けてい
た。
その20数年後にある方が東京
からうちの菩提寺を訪ねて来
たと坊主が告げる。丁度イト
コの葬儀の日だったので会え
なかった。
その寺は三原城下内の西方に
ある廃寺同様だった寺だった
が、大昔にうちの先祖が坊主
を連れて来て復興させた寺だ。
そのため、その功績により、
私の先祖はそのずっと後年に
附属幼稚園が開園した時代に
はフリーパスで一族の子が
全員入園していた。昭和初期
から。戦前に幼稚園に通う
子どもは存外少ない。形式上
は別家に任せているが、うち
が実質上の第一檀家だ。また、
江戸期の神仏習合の名残か、
城下の古い神社の氏子でもあ
り、血族氏名が境内の碑に刻
まれている。別な神社にも江
戸時代の建立で一族先祖の氏
名(諱でなく苗字と通称)が刻
まれた石碑もある。三原城が
誕生して以降の江戸時代初期
からわが家は浅野本藩の広島
城下ではなく浅野家家老が治
める三原城下に住している。
うちの寺のその坊主曰く、寺
を訪ねていらした方は東京大
学の院で教鞭を執る方との事
だった。私の遥か昔の直系か
ら分かれた血脈の人だった。
齢は私より少し下のあたり。
そうなんだぁ、などと思って
いたが、その東大院の先生の
父上は、実は四半世紀前に私
とメールのやり取りをしてい
た方だった事を最近ネットで
知った。東京の大学を出て広
島に帰った薬草学の人。
つまり、私が四半世紀前に連
絡をたまたま偶然取り合って
いた人は、私と直系血族だっ
たのだ。数代前の江戸末期~
明治初期の先祖が同一人物。
しかも、私とその人は同姓同
名だ(諱ではなく戸籍名)。一
族間での付き合いは百数十年
一切無い。だが、同族血脈が
それと知らずに接触していた
事が後年明らかになったとい
う事例。
そして、血族とはいえ知らな
い親同士が同じ名前を子につ
け、その両名がその血のつな
がりを知らないまま接触して
いた。
なんだ、それ?
私の場合、この手の奇縁奇遇、
数奇な「出会い」が非常に多
い。まるで、目に見えぬ糸で
天から操られているような。
現在確認判明した事例だけで
30数例というのは多すぎるだ
ろう。異様だ。
その当事者本人である私が一
番「なにこれ?」と驚いてい
る。
天の道、天の理。天は確実に
われら人間を見ている。
そして、時々気まぐれにパッ
と人と人とのそのエニシを現
世の人間に天は伝え教える。

日本刀や陶芸などの芸術作品
もそれに似たものがある。
よく日本刀は「縁」といわれ
る。
然るべきところに日本刀は納
まる、と日本刀の世界では巷
間人口に膾炙されている。
私のところに天正八年作の神
奈川県登録の安藝國大山住仁
宗重の一刀がやって来たのも、
なにかの縁だろう。
私は時代物日本刀については、
私物ではなく「歴史の中でほ
んの一時期自分が預っている」
という心構えで日本刀に接し
ている。
天正八年(1580年)は、備後國
三原城が小早川隆景により本
格的に築城された年だ。織田
信長が本能寺で歿する2年前。
その年に安藝國大山で作られ
た刀が400年の時を越えて私
の手元に来た。爾来、私はそ
れを第一差料として時間を過
ごし、真剣刀術の世界で多く
の章典を得た。
人と刀にエニシあり。
だが、その縁(えにし)は、人は
予想ができず、目に見えない。
日本刀史と郷土史の研究の一助
として、この度「東広島市市制
50周年記念」の大山宗重作を中
心とした大規模な郷土刀展が
開催されるに及び、私の差料が
貸与展示でそうした我が国と郷
土の伝統文化、日本刀の歴史を
深め広める一端を末席ながら担
えた事は、私自身とても喜ばし
く思っている。
さらに私が主宰する刀剣会の
東京の会員の差料宗重(保存
刀剣)も私を通じて貸与展示
する事ができた。
現存品が数多くない宗重作の
展示に私が2口(ふり)関与で
きたのも幸いだった。
私の作も刀友の作も、映りが
明瞭に出た上出来の個体だ。
時は戦国時代末期。
慶長以降の新刀とは明らかに
鉄(かね)が異なる。

安藝國大山住宗重派の現存刀
が異様に少ないのは、多分だ
が、磨り上げ等で銘が消され
て近隣の著名作刀群である三
原物もしくは二王に化けた可
能性が極めて高い。
実は私は、私の作とそっくり
な大磨り上げ無銘の一口の所
在を知っている。
どこからどう見ても、大山宗
重の延道彦三郎の作と鑑して
間違いない。
だが、大山宗重は無名である
ので、日刀保に鑑定に出した
ら「三原」と鑑されるかもし
れない。
しかし、今回の刀剣展示会に
は日刀保中央の会長も賛辞を
寄せ、また広島県美術刀剣保
存協会のはたらきかけもあり、
かつては中央集権主義で五か
伝以外を「脇物」として一段
も二段も低く観る意識性が横
行していたその悪弊を払拭す
るが如き「科学的」な視点に
立ち、かつ「先入観」と「偏
見」を介在させない公平な視
点に立つ良質な基調の展示会
となっていた。
私はこれまで1973年から数多
くの刀剣展示を実見して来た
が、今回の東広島での企画は
内実が実に素晴らしい公平性
を期したものだった。
展示会の趣旨自体が素晴らし
いの一言に尽きる展示会だっ
た。学芸員の方々も総動員で
市と県をあげての日本刀展示
会だった。
もしかすると、今後はこうし
た刀剣展示会は二度と開かれ
ないかも知れない。
それほど、行政や新聞社や関
係各方面が協力しての力の入
った日本刀展示会だった事は
確かな実績として感じられた。
極めて良質な企画。
相当な入館者数もあったよう
で、成功裏に企画は終了した
ようだ。
全国組織の私の日本刀探究苑
游雲会からは、先月11月に東
京からと九州からの会員が合
流し、泊りがけで見学に行っ
た。
私は本日2度目の見学鑑賞だ
った。

本日は、アーティストの女性
の方と
朝から深夜までご一緒
しました。
共に日本の歴史と芸術文化と
食文化と音楽に触れられる静
かな一日で、大変、楽しゅう
ございました。
ありがとうございます。

アーティストの方が飲み
ながらゆったりとした時
間の中で描いたという作。
 
 

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