蘇るヒーロー 片山敬済
(1984年8月25日劇場公開作品)
このドキュメンタリー映画の
中で、片山さんが世界チャン
ピオンフレディ・スペンサー
はじめグランプリライダーた
ちと話をしているシーンが好
きだ。
ホンダワークスのチームメイト
と。片山さん、ロン・ハスラム、
フレディ・スペンサー。
片山さんが怪我をして、新開発
の背骨プロテクターについて
フレディに尋ねたら、フレディ
は予備があるからいつまでも使
ってくれと言う。
フレディは普段から早口でまく
したてるような喋り方はしない
が、このシーンを観て、彼があ
えてさらにゆっくりとはっきり
と話して意思疎通をしようとし
ているのが判る。フレディにこ
んな気遣うところがあったとは
驚いたが、GPライダーがみんな
「相手に分かるように話す」と
いう特徴があることがこの後の
シーンで判明する。
マシンとコミュニケーションで
きる能力がある人は人に対して
も「対話」ができなければなら
ないという基本中の基本を彼ら
世界のトップライダーたちに見
ることができる。
一方的に早口で自分の言いたい
ことだけをまくしたててコミュ
ニケーションを成立させないよ
うな人間はグランプリシーンに
はいない。
これは、かつて世界チャンピオ
ンを何度も取った、イギリスの
バリー・シーンだ。サーの愛称
を持つ。
ここでもバリーは片山の怪我の
具合などを気遣っている。
そして、ゆっくりと穏やかに話
している。
若くして病気で亡くなってしま
ったのが悔やまれる。
ドナルドダックが大好きで、ヘ
ルメットのデザインはドナルド
の絵が描かれていた。チャンピ
オンになってもゼッケンは7を
使い続けた。成績を無視して自
分のナンバー7を使ったのは彼
が初めてで、現在MOTO GPでは
ケビン・シュワンツの34番と共
に永久欠番となっている。私も
大好きなライダーだった。タバ
コはヘビー・スモーカー。
1977年350クラス世界チャンピ
オンの片山さんは現役500GP
ワークスライダーながらも、カ
メラを自分で持って、どんどん
パドックのレーシングライダー
を取材する。
アメリカのランディ・マモラ。
日本でもファンの多い人だ。
すんでのところで毎年チャンピ
オンになれず、無冠の帝王との
異名がある。アグレッシブな走
りの彼は、GPの中で一番陽気な
人だった。日本4社、イタリア1
社というGPワークスすべてに乗
ったのは世界広しといえども彼
だけだ。
片山さんとのやりとりも陽気だ。
誰もがフレンドリーである。
国を超えて、国境を越えて正々
堂々と戦う彼らは、たとえ対戦
者であっても、レースを終えた
パドックにおいては家族のよう
なものだった。スポーツマンの
心をごく自然に有している人た
ちの姿がそこにある。
それは、世界グランプリが「コ
ンチネンタル・サーカス」と呼
ばれたように、モーターホーム
やテントでサーキット内で集団
生活しながら世界各国を転戦し
ていたからだろう。
だが、1990年前後から「コンチ
ネンタル・サーカス」は消滅し
ていった。
サーキットに寝泊まりせず、ホ
テルに宿泊したり、他の者とか
つての人たちのように交流をし
ようとしないライダーが増えて
いった。
人の意識も生活様式も移り変わ
っていったのだった。
F1にしてもオートバイの世界GP
にしても、コースの安全性など
について、ドライバーやライダー
は真剣に討議して主催者に交渉
したりしていた。
ところが、だんだんと抜け駆け
で和を乱すような選手も出てき
た。
豪雨で危険なためボイコットを
呼びかけたのに、ポイントがほ
しいがために和を乱して参加し
たり、あるいはレース場面でも、
ライバルのポイントを潰すため
にわざと突っ込んで転倒させた
りとかするライダーも出てきた。
それまでもラフファイトはあっ
たが、それは互いの正々堂々と
した競技の駆け引きの中で行な
われていたのだ。
だが、やがてそれらも消滅し、
安全性も放棄して、己のことだ
けを考えるGPライダーも出てき
たのである。『バリバリ伝説』
のタコ根沢のようなのが現実に
出てきたのだった。
時は流れた。遠い彼方へ。
コンチネンタル・サーカス-
それは、遠い昔の熱く温かく、
そして冷徹な勝負の世界に生き
る者たちが帰って行く故郷のよ
うなものだった。
今は、もうない。
この映画は、かつて40年前に
は存在した、現在は失われた
ひとつの「空気」を今に伝え
る貴重なドキュメンタリー作
品だ。