おばちゃん。
新宿の飲み屋「古茶(こちゃ)」の
ママはそう呼ばれていた。
戦後、北海道から東京に出て来た。
苦労して店を持った。
飲み屋だが、飯を食わせる店。
いわば「深夜食堂」のような店だ。
ドラマ『深夜食堂』の「ビール3
本まで」という貼り紙は、あれは
古茶をモデルにしたものだ。
おばちゃんは、いつしか、戦後の
新宿にあって、新宿の顔のような
本当の意味での新宿の母となった。
新宿を愛した人々は彼女を「おば
ちゃん」と呼んで愛した。
古茶には職場の同僚に連れて行か
れた。
ハマった。
毎晩古茶でメシを食うようになっ
た。おばちゃんの卵焼きは絶品だ
った。米は鍋で炊く。おこげもで
きるが最高に美味かった。
いつしか私は「いつでも行けばそこ
にいる」という第一級常連になって
いた。
一度、たわけた女が古茶について
店内で舐めた事を言ったので、嗜
めたら連れの男が文句言うのでど
やしつけた。
その語気が荒すぎるとの事で一度
私は出禁になった。
暫くすると出禁解除で、またいつも
のように一番の常連となって古茶で
私は飯を食って飲んでいた。
おばちゃんには「あなた、早く奥様
をもらいなさい」と言われた。
唐十郎さんも馴染みでよく来ていた。
これはネット上で偶然みつけた古茶
の紹介画像だ。
銀色のスーツを着て、いつものよ
うにシャツの袖のボタンを外して
いる私が写っている。1990年だ。
毎日のように(というかほぼ毎日)
いつもいるのだから、いつ撮影し
ても私は写った事だろう。
カウンター7席だけの狭い店だ。
これは新宿「古茶」のおばちゃん
直伝のたまご焼き。
かみさんが直におばちゃんに習っ
た。
めちゃくちゃ美味い。
これは古茶のおばちゃんの卵焼き
だ。直伝だけある。
冒頭のおばちゃんの写真は、娘さん
が私にくれたものだ。
「この写真は貴方が持っていて」
と。
おばちゃんが亡くなった事を知ら
ず、岡山に転勤後に会議で東京に
出た時、古茶に寄ったら店名が変
っていて、そこには娘さんがいた。
おばちゃんが他界した事をその時
初めて知った。
残念ながら、古茶の店は飯を食わ
せる「深夜食堂」そっくりの古茶
ではなく、スナックになっていた。
それでも、娘さんはおばちゃんの
写真を私にくれた。
古茶のおばちゃんが作ってくれた
卵焼きは、今でも生きている。
それを私は懐かしみながら今も
新宿から遠く離れた地で食べてい
る。