『紺屋高尾』
1/3
http://www.youtube.com/watch?v=DOinUWDyNj8
2/3
http://www.youtube.com/watch?v=QmSHzz1zq5c&feature=related
3/3
http://www.youtube.com/watch?v=B2zyjiDeZ9Y&feature=related
全部合わせて30分弱。
是非、どうぞ。
僕は、三回観ました。
昨夜、泣きながら、二回。
今日は、感心しながら。
(きっと今では放送できないような言葉も使われておりますが、・・・では、僕たちの現実社会はどっちに即しているのか考えてみれば、今のメディアで使われる言葉に対する、何でもかんでも自粛&過剰反応の世の中はどうなんでしょうね。)
ほかにも、沢山の動画があります。
落語なんて。
まあまあ、そういわずに。
たった一人で、舞台の上で、立ち上がることもなく、ただ座って喋っているだけで、
こんなにも、情景の浮かぶ娯楽は、他に無いと思います。
ほぼ全てを見せてくれるテレビや映画などとは違って、
想像力を必要とするのは、本を読むのに、ちょっと近いのかもしれないな、と思いもしますが、
比べるならば、やはり話を聞かせてくれる、耳で聞いていればよいので、
楽なのかもしれない、と思うと同時に、
本と違って、ライブであること、特にこの「紺屋高尾」でおわかりになるように、談志師匠のように、“噺”の合間にも、ふと現実の“話”を織り込む・・・
聴き手は、現実に引き戻されるわけですが、しかし、その境界があいまいなまま。これは凄いと思います。分かりやすく言えば、まるで演者の案内で、楽屋裏での素顔を覗かせてくれるような心地よさを伴った、演出、なんだと思います。
こんなことができるのも、落語ならでは。人間が、そこに現実にいてのものならでは。
こういうハプニングこそ、醍醐味であり、スリルであり、快感なんだと思います。
本は本で、こちらは推敲に推敲を重ねられた、ある意味、僕の大好きな映画と双璧を成す、
完璧な娯楽の一つであり、かつ、最も古代からある意思の伝達、保存のメディア。
能動的に目で文字を追い、自分の記憶や知識と照らし合わせて理解し、想像力を働かせ、情景を目に浮かべる、などの脳の力をフル動員することから、
僕は、“本を読むこと”そして、“本を読めること”その価値は計り知れないと思っております。
テレビを見ていると(ほんと見なくなりましたが)、
言葉を話している人がいて、その言葉が聞こえているにもかかわらず、それがテロップという文字として一字一句、
時には、「ここが大切ですよ」と、文字の色が変わったり、大きな文字になってたり、効果音がついて注意喚起してくれてたり。
本を読めない人や子が増えている、というのがもっともだよな・・・と思うのと同時に、
・・・読書人口は、絶対になくならないとも思うのです。
与えられた快感には、いつか慣れてしまう。
やはり、自分から能動的に取りにいくものこそ、本当の満足感を伴うものだと思うからです。
ちょっと本の話になってしまいましたが、
落語は、その本の娯楽感に、ライブ感が加わったものとして、
僕の中では、とても上位に位置する、とっても大好きな、
芸であり、人生の娯楽なのです。
やはり、エネルギーを必要とするものだからこそ、快感も大きいと思うのです。
まあ、映画はまた、色々な意味で、
僕にとっての完全芸術なんですけどね。
そして、音楽は、また、どれとも違う。
そして、僕にとって、もっとも大切なものの一つ。
で、写真がなんでうでんなのか。
・・・は、まあまあ、いいじゃないの、好きなんだから(笑)、ということで。
これも、僕にとって、もっとも大切なものの一つなんですよね(笑)。
ではー。