【副題に「自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明」】
鉄条網は19世紀の中頃、米国とフランスでほぼ同時期に開発されたという。米国発明学会の年代別大発明では1860年代の項に、鉄条網は大陸横断電信網、パスツールの殺菌法、ノーベルのダイナマイトなどと並んで挙げられている。筆者・石弘之氏がその鉄条網を初めて意識したのは十数年前のケニアでの出来事。茂みを歩いていたところ、突然、鉄条網が下半身に絡まり身動きが取れなくなったという。
石弘之氏は朝日新聞でNY特派員や編集委員を務めた後、国連環境計画(UNEP)上級顧問、東京大学大学院教授、ザンビア特命全権大使などを歴任。主な著書に「地球環境報告」「森林破壊を追う」「地球クライシス」などがある。鉄条網との〝遭遇〟はケニアの首都ナイロビに本部を置く国連環境計画で、農業地帯を調査していた時の出来事。共著者・紀美子氏は長女で、NHKに勤務後、サラエボの国連機関で戦後復興プロジェクトに従事。現在は米サンフランシスコに在住し、米国最新事情を日本のメディアに連載中という。
鉄条網といえば、何の変哲もないトゲ付きの鉄線が思い浮かぶ。だが、その種類は無数にあるらしい。米国にはいくつもの鉄条網の博物館があるそうだ。鉄条網の当初の目的は農牧場を囲うためだった。しかし〝人間の囲い込み〟にも利用されるようになり、アメリカ先住民(インディアン)は鉄条網で囲まれた居留地に追い出された。石弘之氏はブラジルのアマゾン各地で、先住民インディオが白人に先祖伝来の熱帯林を強奪され、焼き払われて牧場に変わっていく現場に遭遇した。「このときに、はじめて鉄条網のもつ暴力性に気がついた」。
第2次世界大戦中には米国やカナダで多くの日系人が〝敵性人〟として拘束され、鉄条網に囲まれた強制収容所に送り込まれた。米国の収容所10カ所はいずれも辺境の乾燥地帯に造られ、収容者は11万人強に上った。カナダでも6カ所に約1万3000人が閉じ込められた。米政府は中南米にも日系人の抑留を要求し、ペルー、ボリビアなど12カ国の日系人2000人余が米国に移送されたという。
第4章「人間を拘束するフェンス―鉄条網が可能にした強制収容所」ではナチスや旧ソ連の収容所の実態についても詳しく触れる。アウシュビッツでは「鉄条網を巻きつけた棍棒でなぐる、といった拷問は日常的に行われていた」。〝バラの庭園〟と呼ばれる身動きできない鉄条網の檻もあった。第5章「民族対立が生んだ強制収容所」、第6章「世界を分断する境界線」でも南アフリカのアパルトヘイト政策や東西ベルリンの壁、ボスニア戦争などを通して、抑圧する側とされる側、排除する側とされる側を分断した鉄条網の実相を紹介する。される側にとって鉄条網はまさに〝悪魔のロープ〟だった。
鉄条網は戦場でも欠かせないものになっていく。戦争で最初に使われたのはキューバとフィリピンが舞台となった1889年の米国スペイン戦争。日露戦争(1904~05年)でも日本軍はロシアの鉄条網に阻まれ、身動きできなくなったところを機関銃で狙い撃ちされた。「敵の進撃や侵略を阻止する鉄条網の機能は、とくに2度の大戦の塹壕戦と結びついて大きく発達した」。鉄条網は軽いため短時間にどこにでも敷設できる。「発見から140年余も現役をつづける超ローテクの鉄条網は、人の『欲望』がつづくかぎり第一線を退くことはないだろう」。
本書は日本人の多くが普段気にも留めない鉄条網について、世界各地の緻密な取材でまとめ上げた労作。鉄条網の歴史は発明以降1世紀半にわたる人類の〝抑圧の歴史〟でもあった。その点で副題が示すようにまさに〝負の大発明〟だった。文中には西部劇をはじめ映画の中で描かれた鉄条網も多く登場する。「シェーン」「戦場のアリア」「子鹿物語」「折れた矢」「小さな巨人」「サラエボの花」「ベルリンのウサギたち」……。数えたら20ほどあった。