く~にゃん雑記帳

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<長田光男氏講演会> 「わがまち郡山の歴史といのち」

2014年10月19日 | メモ

【利休と秀長の2人「〝軍師官兵衛〟以上に秀吉を支えた」!】

 大和郡山市文化財審議会会長、長田(おさだ)光男氏の講演会が18日、同市植槻町の社会福祉会館で開かれた。主催は郡山地区社会福祉協議会。長田氏は「わがまち郡山の歴史といのち―明治以後の移ろいと未来への切符」と題して講演、大和郡山の歴史を辿りながら「町づくりは市民の力にかかっている。夢を持ち『私たちの町』という意識で取り組むことが大切」などと話した。

    

 大和郡山は戦国時代、筒井順慶が拠点とし、順慶亡き後には豊臣秀吉の弟、秀長が郡山城に入った。「郡山はまさに天下を動かす拠点の1つだった」。長田氏はNHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』にも触れ、「ドラマの主役は官兵衛だが、秀長にはもっと登場してほしかった」と話す。「官兵衛以上に秀吉を支えたのは千利休と秀長の2人。秀長は参謀役として秀吉に知恵を授けた。歴史に〝if(イフ)〟は認められないが、秀長が長生きしていたら、秀吉も(無茶な朝鮮出兵などをせずに)もっとしっかり国を治める仕事をしていたかもしれない」。

 

 江戸時代になると、郡山は俳諧や書画など文芸のまちとして名を馳せ、博学多芸で知られる柳里恭(りゅうりきょう)らの文化人を輩出した。歴代藩主が文芸に力を注いだことが大きい。郡山には著名な俳人も多く訪ねてきた。大和郡山城内には蕉門十哲の1人、森川許六(きょりく)の句「菜の花の中に城あり郡山」の石碑も立つ。長田氏は赤膚焼の名匠、青木木兎(もくと)や奥田木白(もくはく)の名を挙げ「郡山の文化の特徴は一般の民衆が開いた文化でもあった」と力説した。(写真は「写真で見る郡山の移ろい」として映し出した約40枚のうちの2枚。㊧昭和35年頃のJR郡山駅の金魚出荷風景、㊨昭和60年の郡山城築城400年祭・親子まつりの修羅引き)

 大和郡山市は昭和29年(1954年)、奈良市、大和高田市に次いで県内3番目の市となる。当時の人口は約4万3千人。現在は約8万8千人で、目標の10万人に届かないばかりか、最近は減少傾向。長田氏は「観光面でも商業の面でも町として中途半端。よそから多くの人が集まって元気なのは全国金魚すくい大会と(古事記を編纂した稗田阿礼にちなむ)記憶力大会の日ぐらい。仮に(誘致運動中の)リニア中央新幹線の中間駅ができても、見てもらえるものが何もない」と厳しい現状を指摘したうえで、「私たちのまち」としてどうしていくのか、市民全体で真剣に考えていく必要性を強調した。長田氏は大和郡山市の都市計画審議会委員や観光協会常任理事も務める。町づくりを役員たちに任せきりにしないで市民も自分たちの問題としてもっと自覚してほしい――。お話の端々にこんな願いが込められているようにも感じた。

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