【(有)京都平安文化財、京都・伏見で現地説明会】
京都市伏見区のマンション建設予定地から大規模な石垣や堀、大量の金箔瓦などが出土、これまで場所が不明で〝幻の城〟ともいわれてきた豊臣秀吉造営の伏見城(指月城)の遺構とみられている。民間の発掘調査会社「有限会社京都平安文化財」などによる現地説明会が20日、伏見区桃山町泰長老の発掘現場で開かれた。場所はJR桃山駅の南西、近鉄桃山御陵前駅の南東に位置する。
指月城は天正20年(1592年)に秀吉の隠居屋敷として建設が始まったが、秀頼誕生後、本格的な城郭に造り替えられたといわれる。ところが文禄5年(1596年)の伏見大地震で倒壊、その直後、木幡山に新たな伏見城(木幡城)が造営された。ただ指月城についてはこれまで遺構や遺物、絵図類などが見つかっていないこともあって、一部の研究者や郷土史家の間で、指月城はもともと存在しなかったのではないかという疑問の声も出ていた。
今回の発掘場所は「ライオンズ伏見桃山」(仮称)の建設予定地。出土した石垣は一辺1mを超える花崗岩や堆積岩を中心とし、南北約36mにわたって伸びていた。残存する石垣は下段の1~2段だが、本来は3段以上だったとみられる。石材の種類、大きさ、組み方などは2012年に出土した秀吉の城郭風邸宅「聚楽第」の石垣と共通する。その石垣の西側には並行して幅5~7mの堀があった。深さは2m超だが、現在の底面はまだ瓦を含む土で埋まっており、本来は3m、あるいは4mを超える深いものだったとみられる。
石垣の周辺や堀の埋土の中からは多数の金箔瓦を含む大量の瓦類が出土した。金箔瓦は軒丸瓦や軒平瓦、飾瓦、鬼瓦などで、秀吉の家紋でもある五七の桐文や菊文など、大坂城跡や聚楽第跡から出土した瓦と同じような文様が含まれていた。石垣の構築年代は16世紀末頃とみられるが、堀が埋没したのも瓦や同時に出土した土器、陶磁器類から同じ16世紀末頃と推定される。
今回見つかった石垣と堀は遺跡台帳の地図などによる指月城推定地内のほぼ中央付近に位置するという。発掘調査を担当した「京都平安文化財」では「推定範囲内での残存地形や遺構の検出位置などから、この石垣と堀は本丸の主要施設があったとみられる中心的エリアの西辺段に沿って設置されたものだろう」と推測している。なお、発掘場所で建設予定のマンションは7月着工、2017年1月竣工の計画という。
【森島康雄氏の論文「それでも指月伏見城はあった」】
伏見城という言葉は指月城と木幡城の総称として使われることが多い。多くの研究者の間でも2つの城が存在していたというのが定説になっている。ただ遺構が未発見だったこともあり、以前から「指月城はもともとなかったのではないか」という声もあった。2006年には郷土史家たちでつくる「伏見城研究会」のメンバーが『器瓦録想其の二 伏見城』を出版、その中で指月城は存在せず伏見城は初めから木幡山に築かれた、との持論を展開した。
これに対し森島康雄氏(京都府立山城郷土資料館主査)が2010年『それでも指月伏見城はあった』と題する論文を発表して反論した。森島氏は徳川家康侍医の覚書『慶弔年中卜斎記』やイエズス会宣教師の『日本西教史』、醍醐寺三宝院の義演著『文禄大地震記』などを基に、実際に指月城が存在したことを改めて立証した。その論文は末尾をこう結んでいた。「今後、立売通沿いで行われる調査で指月伏見城の堀跡が検出される可能性が高い」。今回の発掘場所はまさにその立売通のすぐ南側に位置し、徒歩わずか数分の距離だった。