く~にゃん雑記帳

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<BOOK> 『平城京の住宅事情 貴族はどこに住んだのか』

2015年06月24日 | BOOK

【近江俊秀著、吉川弘文館発行「歴史文化ライブラリー396」】

 著者近江氏は1988年、奈良大学文学部文化財学科卒。奈良県立橿原考古学研究所主任研究員を経て、現在、文化庁文化財部記念物課埋蔵文化財部門に籍を置く。著書に『古代道路の謎―奈良時代の巨大国家プロジェクト』『道が語る日本古代史』『古代都城の造営と都市計画』など。

       

 藤原京から平城京への遷都に伴って、役人には身分の高い順に宮に近い一等地を与えられ、低くなるほど宮から離れた小さな場所を割り当てられた――これが従来の通説。これに対し、著者は宮との距離という単純な理由だけでなく、もっと様々な事情が考慮されたのではないかという疑問から、多くの史料や発掘調査結果を詳細に分析、検討を重ねてきた。

 冒頭のプロローグ「平城京の住人」で早々と結論を示す。「血縁や地縁などによって結びついていた伝統的な氏族社会が次第に解体され、律令制度に基づく官僚制へと脱却していくようすが見えるとともに、相対的に高まっていく天皇の権威が見える」。平城京の宅地は「次第に変化していく当時の社会情勢そのものを反映している」というわけだ。

 まず長屋王邸をはじめ舎人親王の邸宅、藤原氏や大伴氏の邸宅などを取り上げながら、宅地の位置や規模、相続の有無、大規模宅地と水路の関係などを紹介する。その結果、遷都時の位階が高いほど平城宮に近い宅地を与えられたとは限らず、基幹水路の整備をはじめとするインフラの整備状況などが宅地の班給(はんきゅう)の際にも考慮されたとみる。

 新田部親王邸と推定舎人親王邸は宮と少し距離が離れていたが、秋篠川・佐保川・東堀河といった基幹水路に面していた。長屋王邸をはじめ宮南面の大規模宅地の集中地点も水運に利用された東一坊大路西側溝といった基幹水路があった。遷都時に河川改修が行われた範囲は大規模宅地の分布範囲と合致するという。

 平城京では国が宮の範囲だけでなく、その外側の土地の一部も買い上げていた可能性があり、その範囲と目される場所では宅地の状況がめまぐるしく変化するという傾向があった。それらの宅地は職務に応じて貸し与えられた〝公邸〟だったとみられる。平城京では個人の宅地は基本的に子孫に相続され自由に売買もできた。だが〝公邸〟は売買できず没収されることもあった。

 長屋王邸や藤原不比等邸などは長屋王事件や藤原仲麻呂の乱などの後、官衙や寺など他の施設に姿を変えていく。不比等邸は法華寺に、新田部親王邸は唐招提寺になった。「それは、天皇の宮と諸臣との距離を段階的に隔絶させていった結果と見ることもでき、次第に天皇の地位が向上していくさまを読み取ることができる」。

 著者は藤原京と平城京での高位人物の宅地の場所の共通点にも着目する。藤原京の高市皇子(長屋王の父)の邸宅は宮の南東にあったとみられ、平城京の長屋王邸の位置関係と類似する。また藤原不比等邸も藤原京と平城京の場所が似ているという。こうしたことから「藤原京の宅地を調べることは、平城京の宅地に関してもなんらかの情報を与えてくれる可能性があり、今後はふたつの都を比較しながら、居住者の検討を行う必要がある」と指摘する。

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