【加藤登紀子著、東京ニュース通信社発行】
今年はフランスの国民的歌手、エディット・ピアフの生誕100年に当たる(正確には2015年12月19日からの1年)。パリの路上で生まれたピアフは売春宿を経営していた父方の祖母に引き取られ、赤貧の中、10代半ばで街頭で歌い始める。その境遇は同じ年の1915年に生まれた米国のジャズシンガー、ビリー・ホリディと重なる。薬物中毒、結婚・離婚の繰り返し、4度の自動車事故、ナチスドイツのパリ侵攻……。ピアフは数々の苦しみを乗り越えて力強い魂の歌声を残し、1963年10月11日短い生涯を閉じた。享年47。
そのピアフを加藤登紀子心から敬愛する。1965年に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝。以来、歌手活動は半世紀にわたるが「ピアフに魅せられた50年」と振り返る。ピアフは加藤が20歳になる直前に亡くなった。「繰り返し流れたピアフの『愛の讃歌』、ステージ上で倒れながらも歌う姿…。刺激された私は大あわてで恋をし、一気にその恋にのめりこんだ」と激白する。今年はピアフ生誕100年の記念公演「ピアフ物語」を6~7月に山形、大阪、高崎、東京で開催、さらについ最近11月3日にはパリでも21年ぶりに公演を行った。加藤自ら脚本、演出、日本語訳の全てを手掛け、ピアフに捧げるオリジナル曲『名前を知らないあの人へ』なども披露。パリ公演では『私は後悔しない』などピアフの代表曲を作ったシャルル・デュモンも駆け付けたそうだ。
本書は「ピアフの誕生」「ヒトラーの時代」「戦後のピアフ」など5章構成で、ピアフの激動の生涯を辿る。読み進む中で、ピアフがいかに多くの名高い音楽家を掘り起こし世に送り出したかを知った。イブ・モンタン、シャルル・アズナブール、ジョルジュ・ムスタキ、ジルベール・ベコー…。加藤はそこに「不思議な共通点」があると指摘する。その共通点とは「みんな異国の人、移民の子供」ということ。「彼らのシャンソンはその異民族の血の素晴らしい開花と言えます」。ピアフ自身の中にもベルベル族の血が8分の1入っていたという。
ピアフの代表曲として有名なのが『愛の讃歌』や『バラ色の人生』。これらの名曲が生まれたときの秘話も興味深い。『愛の讃歌』(作詞ピアフ、作曲マルグリット・モノー)は最初イヴェット・ジローに進呈していた。だが当時の恋人でボクサーのマルセル・セルダン(元世界ミドル級王者)が飛行機事故で突然亡くなった後、自らレコーディングすることを決めイヴェットに発売の延期を求めたという。ピアフ作詞・作曲の『バラ色の人生』はイブ・モンタンとの恋を歌ったものといわれるが、レコーディングしたのはモンタンと別れた後だった。この歌も周りからピアフが歌うには平凡で陳腐と言われ、最初は別の女性歌手にあげてしまっていたそうだ。
ピアフが亡くなったとき、200万人もの人たちが霊柩車を見送ろうとパリの沿道を埋め尽くしたという。最も棺の近くにいたのがハリウッドスターのマレーネ・デートリヒ。14歳年下のピアフと、ヒトラーの帰国命令を拒否し連合軍の兵士としてナチスに立ち向かったマレーネは生涯深い友情で結ばれていた。「戦争と破壊の20世紀を果敢に生き抜いた二人の人生と歌。マレーネの生き方が、ピアフの歌が、人々をどれだけ励まし、力づけてきたのか」。
ピアフが亡くなった1963年の秋には米国公演が控え、ホワイトハウスでJ.F.ケネディの前でも歌う予定だったという。そのケネディもピアフの死から約1カ月に暗殺されてしまう。加藤は「ピアフの人生を歌うことは、悲しみの中から生きる気力が燃え上がる、その炎を体の中に感じること」という。(わが家唯一のピアフのCDは「EDITH PIAF SPECIAL COLLECTION」。ヒット曲14曲入りで、1曲目が『愛の讃歌』、最後の14曲目が『バラ色の人生』。そのCDを聴きながら)