く~にゃん雑記帳

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<高野山霊宝館> 秋期企画展「『真田丸』の時代と高野山」

2016年11月16日 | 考古・歴史

【九度山蟄居中の幸村が知人に宛てた焼酎無心の書状も】

 高野山霊宝館(和歌山県高野町)で秋期企画展「『真田丸』の時代と高野山」が開かれている。関ケ原の戦いで西軍側についた真田昌幸・幸村(信繁)親子は高野山・蓮華定院へ配流され、その後、九度山で蟄居生活を送った。この企画展では高野山に伝わる真田家ゆかりの品や真田家が仕えた戦国武将に関連する文化財などを一堂に展示中。来年1月15日まで(前期~11月23日、後期11月25日~)。

  

 真田父子が流された蓮華定院は高野山の塔頭寺院の一つ。室町時代から長野の豪族と宿坊関係があった縁から真田家の菩提寺にもなっていた。そのため蓮華定院には真田家ゆかりの品々が多く伝わっており、この企画展に出品されている絵画や書跡、工芸品にも蓮華定院所蔵のものが多く含まれる。「真田信綱像[真田幸村(信繁)像]」(上の写真㊧=部分)もその一つ。幸村を描いたものとして伝わる人物像の祖本とみなされるが、旧箱書によると、この像は幸村ではなく父昌幸の兄(幸村の伯父)である真田信綱を描いたものという。

 幸村が所持していたと伝わる「頭形兜(ずなりかぶと)」(上の写真㊨)や「太刀(銘正宗)」も展示されている。「頭形兜」は鉄製で黒漆塗り、「太刀」は全長102cm。蓮華定院には幸村の書状が2つ残っており、そのうち「焼酎の文」(下の写真㊧=部分)といわれる書状は2つの壷に焼酎を入れて送ってほしいとし、そのお礼に湯帷子(ゆかたびら)を差し上げる旨、流麗な筆致でしたためている。九度山での生活は苦しく、家計の足しにするため〝真田紐〟を作ったことは有名な話だが、この書状にもそうした生活の一端が垣間見える。また、この書状には壷の口をよく締めたうえ目張りするよう注文しており、幸村の細かく几帳面な性格をうかがうこともできる。

 

 「武田二十四将図」(上の写真㊨=部分)は武田家菩提寺の成慶院所蔵で、武田信玄と常勝武田軍団を支えた猛将二十四人を描いたもの。真田家では真田幸嗣の3人の息子、信綱・昌輝・昌幸が画面の中央付近に描かれている。信玄の弟で画家としても知られる武田逍遥軒信廉(のぶかど)の作品「十王図」「十二天像」(いずれも前後期で作品入れ替え)も本館紫雲殿に展示している(下の写真㊧は「十王図」のうち閻魔王=部分)。武田家ゆかりのものとして「武田信玄禁制書」(下の写真㊨)や信玄所用とされる「梨地金銀蒔絵采配串」なども展示中。禁制書は持明院蔵で、寺院と寺領の安全を保証するため軍勢の乱入狼藉、竹木の伐採、農作物の刈り取りなどを禁じている。

 

 真田家は武田家の滅亡後、臣従する大名を織田、上杉、北条、徳川、豊臣と次々に変える。蓮華定院蔵の「太閤秀吉像」(下の写真㊧=部分)は左上に「真田安房守昌幸」という署名と花押が入っている。金剛峯寺所蔵の国宝「金銀字一切経」や重要文化財の「法華一品経」「高麗版一切経」(下の写真㊨=部分)も同時に展示している。「法華一品経」(全28巻)は豊臣秀吉が高野山に奉納し、「高麗版一切経」(全6285帖)は石田三成が関ケ原の戦いの前年、奥之院に経蔵を建てて奉納したという。

 

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