く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<クロユリ(黒百合)> バイモ属、黒紫の花びらに網目模様

2015年06月09日 | 花の四季

【伝説から「恋の花」とも「呪いの花」とも】

 ユリ科の球根植物で、黒紫の花色とユリに似た花姿から「黒百合」の名前をもらった。ただしユリ属の仲間ではなく、バイモ(アミガサユリ)などと同じバイモ属。本州の中部以北の高山帯と北海道に自生する。内側に網目模様の入った径3~4cmほどの鐘形の花をややうつむききかげんに開く。

 北海道の低地で育つものを「エゾ(蝦夷)クロユリ」、本州産を「ミヤマ(深山)クロユリ」と区別して呼ぶことも。ミヤマクロユリは草丈が10~30cmと小さく花数は1茎に1~2個。標高2000m以上の高山で咲くクロユリは登山家たちの人気も高い。白山が分布の西限といわれ、クロユリは石川県の「郷土の花」に選ばれている。一方、エゾクロユリは50cm前後と丈が高く、花数も3~7個と多い。クロユリは北海道帯広市の「市の花」にもなっている。

 花言葉は「恋」「呪い」など。アイヌ民族の伝説によると、女性が思いを寄せる人のそばにクロユリをこっそり置き、その人が手に取れば2人は結ばれる。仲を取り持つ「恋の花」というわけだ。戦後まもない1953年、織井茂子が歌った『黒百合の歌』が大ヒットした。「♪黒百合は恋の花 愛する人に捧げれば 二人はいつかは結びつく あ~あ~……」。映画「君の名は」第2部の主題歌だった。

 戦国武将佐々成政にまつわるクロユリ伝説も有名。そこでは「呪いの花」になっている。成政には早百合という寵愛する侍女がいた。しかし、留守中に密通したという讒言を信じ成政は怒り狂う。早百合は「立山にクロユリが咲いたら、佐々家は滅亡するだろう」と言い残して息絶える。その後、秀吉に降伏した成政は珍花として北政所に献じた立山のクロユリがもとで破滅への道を辿る……。金沢出身の作家泉鏡花はこのクロユリ伝説を参考に小説『黒百合』を書いた。「黒百合を夕星ひかる野に見たり」(阿部彗月)。

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<ヒツジグサ(未草)> 清楚な白い小花、日本に自生する唯一のスイレン

2015年06月06日 | 花の四季

【名前は「未(ひつじ)の刻=午後2時ごろ=に開花」から】

 スイレン属は熱帯から温帯にかけ世界に40~50種分布するが、日本に自生するのはこのヒツジグサ1種だけ。6~8月ごろ、水中の泥の中にある根茎から花茎を伸ばし白い清楚な花を水面に浮かべる。直径は4~5cmほど。スイレンの中では最も小さいという。

 ヒツジグサといっても羊が好きな草というわけではない。そのいわれは未(ひつじ)の刻、今の午後2時ごろに花が咲くためとされる。ただ「開花時間は必ずしも一定ではなく、もっと早いことが多い」(新牧野日本植物図鑑)。花は夕方に閉じる。かつて渡辺淳一の小説『ひとひらの雪』(1983年)の記述「未の刻の午後二時に、花を閉じて睡るからだとききました」を巡って〝ヒツジグサ論争〟が起きた。その時刻に花が開くのか、閉じるのか。当時の辞書や歳時記には「未の刻に花を閉じる」となっていたものもかなりあったそうだ。

 ヒツジグサは根茎を横に伸ばさず種子によって繁殖する。一方、外来の栽培品種のスイレンには地下茎が横走するものも多い。そのため野生化して湖沼の水面を覆い尽くし、ヒツジグサやアサザ、ジュンサイなど在来種を脅かすケースも。加えて水質の悪化、池の埋め立てなどでヒツジグサの生息環境は厳しさを増すばかり。すでに東京、神奈川、埼玉では絶滅したとみられ、20を超える多くの府県でも絶滅危惧種や準絶滅危惧種としてリストアップされている。

 日本にはヒツジグサの変種として北海道から東北地方に分布する「エゾベニ(蝦夷紅)ヒツジグサ」がある。中心部の雌しべの柱頭盤と雄しべの葯が紅紫色になっているのが特徴。この日本固有種のエゾベニヒツジグサ、環境省のレッドリストでは絶滅の危機が増大しているとして絶滅危惧Ⅱ類に分類されている。「那須の野の沼地に咲くを未草と教へ給ひきかの日恋(こほ)しも」。昭和天皇からこの植物について教えを受けた美智子さまは1979年にこう詠まれた。今上天皇と美智子皇后のご長女、紀宮清子内親王(今の黒田清子さん)の皇族時代のお印はヒツジグサだった。

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<BOOK> 『「辺境」の誇り アメリカ先住民と日本人』

2015年06月05日 | BOOK

【鎌田遵著、集英社発行】

 著者鎌田氏は亜細亜大学専任講師、専門はアメリカ先住民研究。高校卒業後に渡米し、23年間にわたって度々アメリカ先住民や非合法移民と寝食を共にしてきた。訪れた先住民居留地は100カ所以上に及ぶ。その体験を基に、先住民はアメリカ発展の陰で長きにわたって「エコサイド」に苦しめられてきたと指摘する。「生態系や環境、そこで生活する人たちの健康や暮らし、文化や伝統までをも根本から破壊する、人間がつくりだした文明の暴力だ」。

      

 2011年の東日本大震災後、被災地や避難所を回って被災者の話に耳を傾けた。そんな中でこのエコサイドという言葉を反芻した。辺境に追われて生きるアメリカ先住民と、放射能によって故郷を追われた福島の人たちが重なり合った。「奪われたのは、先祖から受け継いだ土地で紡いできた文化そのものなのだ」。それは両者に共通する。

 アメリカ西部沿岸部の先住民マカ族。もともと捕鯨が貴重な食糧を得る手段で、宗教儀式にも欠かせない営みだった。しかし鯨資源の回復を機に捕鯨を再開したところ、反捕鯨団体などの圧力によって中止に追い込まれた。一方、和歌山県太地町。「捕鯨は太地町の歴史と文化の根幹をなしている」。だが、イルカの追い込み漁に焦点を当てた映画「ザ・コーヴ」の公開以来、欧米の反捕鯨団体による執拗な妨害が続く。

 アメリカには「White Man Syndrome(白人男性症候群)」と名付けられた病があるそうだ。その主な症状は自分の知識が常に他人より圧倒的に優れていると確信するあまり、人の話を聞けなくなるという。バージニア大学で教鞭を執る白人男性は「ザ・コーヴ」を典型的な白人男性症候群の産物と指摘し、「白人男性がアジアに行き、正義の味方のように振る舞うのを見ていて恥ずかしくなる」と著者に語った。

 紀伊半島の南西端に位置する太地町はかつて原発反対運動で揺れたことがある。一方、マカ族の居留地も半島の突端という辺境に位置し、原発の誘致を打診された。だが「自然との共生」を掲げる部族政府は断固反対を貫いた。太地町はかつて大量のアメリカ移民を送り出した町でもある。2011年に再結成された「在米太地人系クラブ」には約120人が集まったという。

 「ザ・コーヴ」は2010年、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を獲得した。著者は「あまりに一面的で排他的な反捕鯨や反イルカ漁を主張するプロパガンダ映画」にその賞が与えられたのは「残念なこと」と指摘する。ただ太地町の町長は「ピンチはチャンス」「映画は町の宣伝になっている」と前向きにとらえているそうだ。その心意気に救われる。

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<葛城市歴史博物館> 企画展「古代忍海の渡来人を探る」

2015年06月04日 | 考古・歴史

【群集墳「寺口忍海古墳群」の発掘成果を紹介】

 奈良県の葛城市歴史博物館で春季企画展「古代忍海(おしみ)の渡来人を探る―葛城市寺口忍海古墳群」が開かれている。葛城市はおよそ800基の古墳が存在する古墳密集地域。とりわけ1つの古墳群で100基を超える〝群集墳〟がいくつもあるのが大きな特徴だ。その1つで朝鮮半島からの渡来人との関わりが深い寺口忍海古墳群に焦点を当てている。6月28日まで。

 葛城山麓に位置する寺口忍海古墳群には調査対象の60基を含め200基近くの古墳が造られたとみられる。その多くが長さ10~20mほどの比較的小型の古墳。古墳群の名称にも使われている忍海は日本書紀にも登場する。古代豪族葛城氏の祖といわれる葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)が新羅遠征の際、朝鮮半島から連れ帰った人たちを定住させた4地域の1つとして忍海の地名が挙げられている。(写真は㊧供献されていた鍛冶生産で排出される鉄滓、㊨埋葬品のガラス小玉と碧玉製管玉)

 

 古墳群の築造時期は5世紀後半~7世紀半ば。そのほとんどは幸い盗掘を免れ、石室内は埋葬時の状態で残っていた。当初から全期間を通して、朝鮮半島に由来する横穴式石室が採用されているのが特徴。副葬品として鍛冶具や鉄滓、鉄塊、朝鮮半島製の馬具、ミニチュアの炊飯具や農耕具、鉄製武器、装身具などが出土した。これらから古墳群に埋葬されたのは渡来人で、鍛冶集団と関わりの深い群集墳であることが分かった。

 鉄滓や鉄塊が見つかった古墳は6世紀後半以降の古墳8基から。これらを副葬品として供献するのは鍛冶に関わる渡来人たちの、故人を供養するための伝統的な風習だったとみられる。石室の中には追葬が続けられ合計9体が埋葬されたものや、先に埋葬された2体の棺を片付けて新たに4体を埋葬するなど、石室を長期にわたって繰り返し利用したものもあった。(写真㊧男女を合葬したとみられる2つの木棺から見つかった副葬品、㊨再利用された石室内から出土した土器類など)

 

 

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<ルッコラ> アブラナ科に共通の十字状4弁花

2015年06月03日 | 花の四季

【地中海沿岸原産の洋野菜、和名「キバナスズシロ」】

 アブラナ科キバナスズシロ属(エルーカ属)の1年草。若葉をそのまま野菜サラダやサンドイッチに挟んで生食するほか、炒め物、おひたし、ピザ、パスタなどにも使われる。煎りゴマのような風味とクレソンのような辛味があり、カルシウムや鉄分、ビタミンCなどを多く含む。最近は店頭でもよく見かけ家庭菜園で育てる人も増えてきた。

 1年草で秋蒔きなら春に、春蒔きなら夏に花を付ける。アブラナ科共通の特徴でもある十字形の4弁花で、淡いクリーム色に紫色の筋が入る。品のある花姿からヨーロッパでは「貴婦人のスミレ」と呼ばれているとか。花も食べることのできるエディブルフラワー。葉の形は大根に似ており、「キバナスズシロ(黄花清白または黄花蘿蔔)」(スズシロは大根の古名)という和名が付けられている。

 原産地は地中海沿岸地方から西アジアにかけて。イタリヤ、フランス、エジプトなどではサラダに欠かせない生野菜として人気が高い。栽培の歴史は古く、古代ギリシャや古代ローマ時代には既に栽培されていた。媚薬効果がある薬草としても珍重されていたそうだ。絶世の美女といわれるクレオパトラもルッコラを好んだという。

 ルッコラはイタリア名で、「ルーコラ」「ルコラ」とも呼ばれる。イタリア語の「ルケッタ」に由来する。ルッコラの英語名は「ロケット」。学名から「エルーカ」とも呼ばれる。日本ではルッコラのほか「ロケットサラダ」という名称でも知名度が高まっている。(写真は愛知県在住のS・Eさん提供)

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<BOOK> 「生類供養と日本人」

2015年06月02日 | BOOK

【長野浩典著、弦書房発行】

 著者は大分市の私立大分東明高校の教諭で郷土史研究部の顧問。約10年前の2006年、学校のそばの神社に海亀の墓があることを知ったのを機に、生徒たちと大分県内に動物の墓が何種類あるのか調べ始めた。その成果を翌年の全国高等学校総合文化祭で発表し奨励賞を受賞。長野氏はその後も各地の動物の供養塔や墓を訪ね歩き資料収集を続けてきた。本書はその集大成である。

     

 取り上げた〝生類〟は猪、鯨、イナゴ、熊、海亀、魚、牛、カイコ、鶴、馬、鹿、犬の12種類。鯨は確認できただけで全国に80基以上の墓や供養塔があり、うち10基が大分県内にあった。臼杵市大泊集落にある「大鯨魚寶塔」は高さが2.5mもある。建立は明治4年(1871年)。当時の大泊村は港の修築で大きな借金を抱えていたが、港に迷い込んだ鯨を捕獲することで借金を返済することができた。塔はその報恩供養ために建てられた。地元の人たちは今でも「鯨さま」や「お鯨さま」と呼ぶそうだ。

 カイコに関する供養塔なども各地に分布する。天然繊維として最高級の生糸を作り出してくれるカイコも、所によっては「おカイコ様」と呼ばれ神聖視された。同じ臼杵市にある「蚕霊供養塔」(高さ約3m)は佐志生(さしう)村養蚕協同組合が人のために「悲惨タル炮烙ノ最期」(碑文)を遂げるカイコたちの霊を弔うため大正15年(1926年)に建てた。

 生類供養には地域性があるという。熊の供養塔や熊塚は圧倒的に九州に多く、馬は東日本が中心、鯨は太平洋側に多い。一方で虫塚やカイコの供養塔は全国に広く分布する。この地域性は「第一には生業、第二には動物の分布状況に大きく関わっている」。供養塔の多くは江戸時代中期以降になって建立され始め、明治以降、とりわけ戦後の高度経済成長以降、盛んになった。「大量生産と大量消費がさまざまな供養塔を生み出している」。

 動物供養の目的は「その生命を絶っていただくことについての罪悪感を消去することにある。と同時に生類の『タタリ』を恐れ、それを『鎮める』という意味合いも大きかった」。また「輪廻転生という、仏教的観念の精神への浸透も生類供養という習俗を拡散させた」。供養塔には日本人の宗教観や自然観が示されているというわけだ。

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