く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<花見のはしご> 秋篠川源流~平城宮跡~佐保川

2019年04月08日 | 花の四季

【入江泰吉作品『春の平城宮跡』の桜と対面!】

 桜の季節になるといつも浮かぶ歌がある。竹内まりあ作詞作曲の『人生の扉』の2番目。「♪満開の桜や色づく山の紅葉を この先いったい何度見ることになるだろう ひとつひとつ人生の扉を開けては感じるその重さ……」。奈良市内のソメイヨシノもちょうど満開、天気も幸い花見日和。そこで日曜日の7日、朝から近辺の桜見物に出掛けた。御嶽山大和本宮をスタートし、秋篠川源流の桜並木、次いで平城宮跡、そして市内屈指の桜の名所佐保川へ。4カ所を徒歩ではしごし春爛漫の気分を満喫させてもらった。(下の写真は樹齢170年といわれる〝川路桜〟などが咲き誇る佐保川の桜並木)

 御嶽山大和本宮は奈良県立大渕池公園(西地区)に隣接する。山岳宗教「御嶽教」の里の本部で、大本庁(教団本部)もここに置く。毎春、境内では約300本のソメイヨシノが咲き誇る。恒例の「さくらまつり」は一足早く3月30~31日に開かれたが、1週間後のこの日ほぼ満開となって本格的な見頃を迎えていた。今年も本殿に通じる太鼓橋の朱色と桜の淡いピンク色、そしてバックの青空のコントラストが実に美しかった。(写真㊨は秋篠川源流の桜並木)

 

 秋篠川源流に桜並木ができたのは約20年前、奈良市制100年記念事業に応募した「秋篠川に千本の桜を!」というアイデアが採用されたのがきっかけ。桜の木1本1本に面倒を見る〝里親〟の名前が記され、地元の小学生が川や桜への思いを綴った短冊も飾られている。この日7日は大正琴や和太鼓の演奏などがある「さくら祭り」の最終日。祭り会場を後に進むと、幹が切り落とされた木が数本目に付いた。そばに「桜幹損傷事件について」と題した説明文。それによると、昨年11月、この狭い並木道を宅配トラックが無理に通ろうとして傷つけたもので、業者側は「桜の枯れ死対策を含め対処することを約束した」という。

 

 佐保川への途中、平城宮に寄ったのは対面したい桜の木があったから。それは今年1月奈良市写真美術館の「入江泰吉 古都奈良の文化財~総集編」に出ていた入江作品『春の平城宮跡』(写真㊨)の桜。撮影は1986年で既に30年以上たっており、現存するか少し不安だったが、大極殿の南東に位置する所にそっくりの木があった! 大きな幹の形だけでなく、背後の奈良時代の基壇跡、春日原始林の山並みなどもほぼ一致する。写真では幹の下部で枝が左右に張り出しているが、近づいて確認するとその部分は幹から切断されていた。根元では十数人の団体と年配の男女2人が花見中。その年配の方は40年ほど前、子どもと一緒にこの桜の下で花見をして以来、毎年やって来ているとのことだった。佐保川では江戸末期、奈良奉行だった川路聖謨(かわじとしあきら)が植樹したといわれる「川路桜」が今年も見事に咲き誇っていた。

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<平城宮跡> 大極殿院の南門見学デッキ開放

2019年04月06日 | 考古・歴史

【2022年春の完成目指し復元工事が本格化】

 国の特別史跡、平城宮跡で第一次大極殿院の南門復元工事の見学デッキが4月1日から開放され、一般客が工事の進捗具合や作業風景を見学できるようになった。南門の建設は木曳祭(こびきさい)と工事の安全を祈願する手斧始式(ちょうなはじめしき)が行われた昨年11月にスタート、3年後の2022年春の完成を予定している。(素屋根の南面には原寸大のカラープリント。左手奥は2010年に復原された第一次大極殿)

 南門は奈良時代前半に元日の朝賀の儀や天皇の即位など国家的な重要な儀式が行われた第一次大極殿院(南北約320m、東西約180m)に入る正門。広場を挟んで北側には中枢施設の大極殿(2010年復原)がそびえる。奈良文化財研究所による発掘調査などを基に、南門は礎石建ちの入母屋造りで五間三戸二重門(二重屋根)として復原される。規模は朱雀門(1998年復原)よりやや小ぶりだが、それでも高さは約20m、幅と奥行きはそれぞれ約22.1m、約8.8mもある。

 

 工事現場は巨大な鉄骨造りの素屋根(高さ約30m、幅約50m)で覆われている。その南面には原寸大のカラープリントで完成イメージを表しているが、近づいて見上げると圧倒されるほどの大きさ。見学デッキはカラープリントの初重(下の屋根)より少し下側の右手部分に設置されている。現在は基壇の造成や木材加工などの段階で、年内には初重の組み立てに着手し、来年には二重の組み立てや高欄、瓦工事、そして再来年には塗装、左官工事などを予定している。

 南門の復原に要する木材は約480㎥(部材8000丁)に及ぶ。その多くを紀伊山地から調達、中には樹齢約200年の吉野檜などもある。奈良時代、南門の両脇には二階建ての東西楼があり、饗宴などが行われたという。南門完成後にはその東楼と西楼(高さ16.8m、幅22.9m、奥行き11.5m)や、大極殿院を取り囲む築地回廊なども順次整備していく予定。南門工事現場の西側にある「復原事業情報館」では第一次大極殿院の200分の1模型や大きな柱の加工過程を示すサンプル(上の写真、8角形→16角形→32角形→円形へ)、部材の加工に使う奈良時代と同じ道具の手斧(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)なども展示している。

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<春日大社の鼉太鼓> 4年がかりの大修理終えて初公開

2019年04月02日 | メモ

【源頼朝寄進の伝承もある鎌倉時代初期の作】

 奈良市の春日大社が公益財団法人美術院の協力で2015年度から進めていた「鼉太鼓(だだいこ)」(重要文化財)の本格修理が完了、かつての迫力のある荘厳な姿を取り戻した。その完成を記念し、1日から境内の一角にある「国宝殿」で初公開が始まった。鼉太鼓は「春日若宮おん祭」など屋外の舞楽演奏に用いられる左右一対の巨大な太鼓。復活した鼉太鼓は撮影禁止の2階展示室に飾られているが、1階玄関ホールには複製(下の写真)も展示されており、新旧のものを見比べることができる。

 この鼉太鼓は平重衡による南都焼き討ち後の復興期に慶派仏師らによって製作されたとみられる。寄進者は源頼朝とも伝わる。高さは6.58m、胴の直径は2.12m、重さは約2トン。胴の両側に牛革製の鼓面が張られており、周りを炎の形をした火焔縁で飾る。左右一対で陰陽道の世界観を表現しているそうだ。〝左方〟の上部には太陽を表す金色の日輪が乗り、火焔部分には巨大な龍の彫り物。一方〝右方〟上部には月を表す銀色の月輪が乗って、火焔には鳳凰が彫られている。鼓面の図柄も左方が三つ巴、右方は二つ巴という違いがある。

 現存する鼉太鼓としては法隆寺所蔵のものに次いで古く、高さでは大阪の四天王寺所蔵に次ぐという。内部修理銘によって近年では江戸時代後期の1800年代初めと明治時代の1903~05年に本格的な修理が行われたことが確認されている。この鼉太鼓は1976年のおん祭まで実際に使われていた。しかし、鼓面が破れるなど傷みが激しさを増してきたため、新しい複製品の完成を機に現役を退いた。今回の平成の大修理は約110年ぶりだった。

 国宝殿では修理を終えた鼉太鼓の公開に合わせ、平安時代の蒔絵筝や藤原忠実奉納の蒔絵笙(いずれも国宝)などの雅楽器、平安~江戸時代の舞楽面や舞楽装束なども展示中。また向かいの小展示室では「アート・オブ・ザ・サムライ」展と銘打ち、楠木正成奉納と伝わる甲冑「黒韋威矢筈札胴丸(くろかわおどしやはずざめどうまる)」(国宝)をはじめ、華やかな蒔絵で彩られた馬具や具足、刀剣類なども展示している。会期はいずれも9月1日まで。

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<ナズナ(薺)> 道端などでごく普通に見かける〝ペンペングサ〟

2019年04月01日 | 花の四季

【「春の七草」の一つ、戦国武将の家紋にも!】

 アブラナ科ナズナ属(カプセラ属)の2年草で、全国各地の道端や畦道、休耕田、野原などごく身近な場所でよく見かける植物。地面にへばりつくように放射状に広がる根生葉はビタミンB1やカルシウムなどを多く含んで栄養価が高く、「春の七草」の一つとして正月の「七草粥」の食材にもなっている。花期は3~5月頃。高さ20~40cmほどの花茎を立てアブラナ科特有の十字形の白い小花をたくさん付ける。

 ナズナは「ペンペングサ」の名前で呼ばれることが多い。これは花後にできる小さな実(莢)が平たい倒三角形で、三味線の撥(ばち)に似ていることから。「シャミセングサ」や「バチグサ」などとも呼ばれる。学名(種小名)の「bursa-pastoris(ブルサ・パストリス)」も「羊飼いの財布」を意味し、実の形からの連想による。果穂を振ると中の種がぶつかり合って鳴るため、地方によっては擬音語で「ガラガラ」や「カラカラ」などとも呼ぶ。「ぺんぺん草も生えないような」と形容されるほど、荒廃した場所でもよく育つことからハルジオンとともに「貧乏草」と呼ばれることもある。

 ナズナの語源には諸説。撫でたいほどかわいい菜「撫で菜」からの転訛説や、春に咲き夏には枯れるため「夏無」や「夏なき菜」からの転訛説など。古くから食用のほか解熱、利尿などの民間薬としても利用されてきた。「薺」の文字は平安初期に編纂された漢和辞典『新撰字鏡(しんせんじきょう)』に登場するのが初見という。その力強い生命力に戦国武将たちも着目し、奥州伊達氏をはじめ畠山氏、京極氏、朝倉氏など多くの武将が葉を図案化した「五つ薺」「八つ薺」「雪輪に六つ薺」などナズナ紋を好んで用いた。

 ナズナは日本だけでなく北半球の温帯~亜熱帯地域に広く分布する。ヨーロッパなどでは実が細長い二等辺三角形の変種「ホソミナズナ」のほうが主流という。よく似た別属の帰化植物に、実の形が相撲の軍配に似たヨーロッパ原産の「グンバイナズナ」、北米原産で小型の「マメグンバイナズナ」などがある。また「イヌナズナ」は花が黄色で、葉が食用にならないためナズナより劣るという意味合いで〝イヌ〟と冠された。「黒髪に挿すはしやみせんぐさの花」(横山白虹)

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