2011年シルバー川柳入選作に「まだ生きる つもりで並ぶ 宝くじ」、あの世に持っていけないのにと言うことらしい、普段は見向きもしないが、年に一度だけお遊び気分で買う50枚の年末宝くじ、20年以上は続いている。<o:p></o:p>
国鉄時代の汽車の側面には、一等車は白色の帯状の線が、二等車は青い線が、三等車は赤い線が塗装されており、おぼろげだが、汽車賃は三等車の2倍が二等車、3倍が一等車だったかと記憶している。<o:p></o:p>
一等車に覚えがないが、子供心に、汽車に乗るたび、二等車の車内を覗いたもの、身なりの良い方たちが、お行儀よく腰かけている様子が思い浮かぶ、親から、ここは、お金持ちの人が乗る所だと、言い聞かされながら三等車へ。<o:p></o:p>
父が国鉄職員だったことで汽車賃は無料、汽車に乗る機会も多かったが、当時の田舎の子供達が汽車に乗るのは、小学校の修学旅行で初めて体験する生徒が殆どだったかと、旅行前日には、汽車の利用にあたっての丹念なリハーサルが。<o:p></o:p>
独身時代、仲間と隣の駅まで20円前後の汽車賃を払って海水浴に出かけたもの、行く時は三等車だが、帰りは時々2倍の汽車賃をおごって、ささやかな二等車の気分を味わったりしたことも。<o:p></o:p>
昭和元年から昭和9年まで8年と7日間に生まれた昭和ひとけた組、前期は少年兵か学徒動員、後期は学童疎開か軍事教練の体験者で爺もその一人だが、年齢的には、病院や介護施設で療養中の方が多い世代でも。<o:p></o:p>
戦後の食糧難の中で、悪戦苦闘しながら食料確保に奔走する親たち、列車内でヤミ米を摘発する警官との間に飛び交う怒号、少年期に見た情景、今も脳裏に保存されている、昭和ひとけた組なら思い当たる方も。<o:p></o:p>
大きなリックを背負っていると、警官から職務質問されたようで、親父からの聞き覚えだが、父と同じ職場の事務員でユニークな方だったのであろう、事務用品をリックで運ぶ途中で職務質問されるや事務所まで走り続け、着いてから追ってきた警官に中身を見せたと言う笑い話のような本当の話しも。<o:p></o:p>
警官による職務質問や摘発の度に、怒号の中から必ず聞こえてくる言葉は「警官は何を食っているのか」。<o:p></o:p>
一つは平成3年、定年前の58歳で早めの退職を勧められる、後進に道を譲るようにと次の職場にご案内される仕組みだが、爺もその一人で社団法人の事務局へと送り込まれて9年間を過ごすことに。<o:p></o:p>
先輩から、3年辛抱しろと言われながら、消極的に業務を真面目にこなしていたと言うところだろうか、2年毎に総会の承認人事で最後は任期1年を残して送り込まれてきた後輩に。<o:p></o:p>
もう一つは58歳で、長年吸い続けたタバコとの別れ、過去に幾度となく渋いお茶やガムや人丹などに頼りながら禁煙との厳しい戦いも周囲から意志薄弱と言われながら何時も敗戦、負ける度に吸う一服の旨かったこと。<o:p></o:p>
禁煙後の食事量が増えたことで中細の爺も徐々に体重が自然増、衣類は仕立て直し、経験したことの無い膝と腰の痛み、お医者様の診断は骨組みが固定する20代の体重まで戻せと言われ、苦闘の末に中細に見合った体重に、最近は身長も2センチ低くなり。<o:p></o:p>
普段は、何気なく手を合わせてお参りする神社仏閣も、苦しい時の神頼み、人はみんな神様におすがりする、何時だったかS市内の観音様で願いが叶ったお礼参りに遠く広島から来られた家族に出合ったことも。<o:p></o:p>