吉備における「遠延<ヲエ>」のもう一つの例として、「仁徳天皇」の時代のお話として書紀に取り上げています。
余残事ですが、この天皇の父が応神天皇ですから、この人も吉備の血筋が入っっています。
さて、仁徳天皇の六十八年です。
“この歳、吉備の中<ナカミチ>の国の川島河(高梁川)の派<カハマタ>(高梁川と小 田川の合流付近にある川辺橋あたりか??)に大きなる虬<ミツチ>ありて、人を苦し ましめき。其処に触りて行けば、かならずその毒<アシケキ>を被<カガブ>りて多< サワ>に死亡<シ>にき。・・・”
と書かれてあり、ここでも何か得体の知れない毒気を放つ虬によって人々が苦しめられているという例が見えます。
この事象を、つくづくと考えますと、昨年、七月の豪雨による真備町の大災害を「虬」にこと寄せて言い伝えられたのが歴史として取り扱われたのではないかと考えられますが・・・どうでしょうかね???
余残事ですが、この天皇の父が応神天皇ですから、この人も吉備の血筋が入っっています。
さて、仁徳天皇の六十八年です。
“この歳、吉備の中<ナカミチ>の国の川島河(高梁川)の派<カハマタ>(高梁川と小 田川の合流付近にある川辺橋あたりか??)に大きなる虬<ミツチ>ありて、人を苦し ましめき。其処に触りて行けば、かならずその毒<アシケキ>を被<カガブ>りて多< サワ>に死亡<シ>にき。・・・”
と書かれてあり、ここでも何か得体の知れない毒気を放つ虬によって人々が苦しめられているという例が見えます。
この事象を、つくづくと考えますと、昨年、七月の豪雨による真備町の大災害を「虬」にこと寄せて言い伝えられたのが歴史として取り扱われたのではないかと考えられますが・・・どうでしょうかね???