宣長先生は“吉野河”について
“吉野は延斯怒<エシヌ>と訓べし”
と、万葉集の家持の歌を例に「べし」と強く断定的に説明しておりますが、どうでしょうかね???
その歌は4099~4100の歌ですが、それには「吉野」について
“余思怒”
“与之怒”
とあり、何処にも宣長先生の言う“延斯怒”は有りません。また、ある古事記の訳者はこれを<エシノ>と読ましておりますが、素直に、<ヨシノ>でいいのではありませんかね。これはごく浅はかな素人の考えですが・・・・・。
なお、万葉集「巻十八の4098」には次のように書かれてありますが、どうでしょうかね
天平感寶元年五月十二日於越中國守舘大伴宿祢家持作之
為幸行芳野離宮之時、儲作謌一首并短謌
これも、例によって、どうでもいいことですが??????????
“吉野は延斯怒<エシヌ>と訓べし”
と、万葉集の家持の歌を例に「べし」と強く断定的に説明しておりますが、どうでしょうかね???
その歌は4099~4100の歌ですが、それには「吉野」について
“余思怒”
“与之怒”
とあり、何処にも宣長先生の言う“延斯怒”は有りません。また、ある古事記の訳者はこれを<エシノ>と読ましておりますが、素直に、<ヨシノ>でいいのではありませんかね。これはごく浅はかな素人の考えですが・・・・・。
なお、万葉集「巻十八の4098」には次のように書かれてありますが、どうでしょうかね
天平感寶元年五月十二日於越中國守舘大伴宿祢家持作之
為幸行芳野離宮之時、儲作謌一首并短謌
これも、例によって、どうでもいいことですが??????????