枕草子
(二二三段)・・・「二百二十三・弐佰弐拾参・貮貳参・貮陌仁足参・弐百弐拾参・弐百念参」段
2+2+3=7=七=漆
2×2×3=12=十二=壱拾弐=壱足仁
むまや(駅)は・・・「むやま」は
「馬屋・厩」であろう
「駅」=馬(バ)+尺(シャク)
馬借(バシャク)
馬で荷物を運搬する輸送業者
11世紀、
平安時代から戦国時代の職種
近江の大津・坂本、山城の木津などが有名
土一揆の主体
「馬借一揆」の略
福岡県北九州市
小倉北区馬借の地名
「駅」は音訓読は
「うまや・エキ・ヤク」である
宇摩家 易 訳
「馬」の発音が訛って「ムマ」なった・・・?
「馬郎婦観音 (めろうふかんのん)」
「馬婦(みょうぶ)」
「命婦(みょうぶ)」
「乳母(うば、めのと)」
↓
「馬王堆・長沙夫人」
中国 湖南省
長沙市の東
「馬王堆(マオウタイ)」遺跡
1号墓
被葬者は
利蒼の妻、辛追
遺体は二枚の肌着を含む
十八枚の絹や麻の経帷子を着、
九本の帯で縛リ
二枚の真綿の衾被がかけられ、
合計
二十枚の衣類に包まれていた
顔には濃い小豆色の錦のハンカチがかけられ、
両腕と両足は絹の帯で縛られ、
青絹の靴を履いていた
棺は四重
梓の板
棺槨と同様に
掛け継ぎ、
ほぞとほぞ穴、ほぞ釘などの接合方法
四棺とも内壁は朱漆が塗られ
外棺は黒漆塗りで、無地だった
第二棺は黒漆塗の上に
雲気紋と
怪神・禽獣の彩色画が描かれている
第三棺は朱漆塗の上に
龍・虎・朱雀・仙人などを彩色、配した
瑞祥図が描かれていた
ーー↓ーーーーー↓
帛書
十三号墓から発見された
戦国時代から前漢初期までの
政治・軍事・思想・文化・科学など、
また多くの
佚書・未知の系統のモノが発見された
字体は篆書と隷書
篆書の写本は
前196年(高祖十一年)頃、
隷書の写本は
前180年(文帝初年)頃
内容は
十二万字余にのぼる
おおよそ二十八篇が含まれている
分類
六芸・・・「周易・喪服図・春秋事語・戦国縦横家書」
諸子・・・「老子(甲本)・九主図・黄帝書・老子(乙本)」
兵書・・・「刑徳(甲本)・刑徳(乙本)・刑徳(丙本)」
数術・・・「五星占・天文気象雑占・式法・隷書陰陽五行
木人占・符籙・神図・築城図・園寝図・相馬経」
方術・・・「五十二病方・胎産図・養生図・雑療方・導引図」
地図・・・「長沙国南部図・駐軍図」
ーー↓
梨原。
ひくれの驛。
望月の驛。
野口の驛。
やまの驛、
あは
れ
なる
事を
聞き
置き
たり
し
に、
又
あはれなる事の
あり
しかば、
なほ
取り
あつめて
あはれなり。
ーーーーー
(二二四段)・・・「二百二十四・弐佰弐拾四・貮貳四・貮陌仁足肆・弐百弐拾肆・弐百念肆」段
2+2+4=8=八=捌
2×2×4=16=十六=壱拾六=壱足陸
岡は
船岡。
片岡。
靹岡
は
笹の
生ひ
たる
が
をか・・・・岡・丘・陸
尾化・緒掛・於加・嗚蚊
↓
尾張・伊都(九州)・岡山(吉備)・常陸
しき・・・・詞記
史記・史紀・始期・死期
若き・如き・識
なり。
かたらひの岡。・・・片 等比 之於掛
化・盥(たらひ)之汚化
↓
たらい(桶・Washbasin・Washtub)
平たい桶
洗濯や行水などに用いる洗面器より大きいもの
和名抄→澡手、多良比、手洗の二字
洗顔、手水(ちようず)、洗濯などに用いる容器
水や湯を入れる容器
古くは鉄漿(かね)つけにも用いた
「たらい」=「手洗い」が訛った言葉
洗濯や水浴用の大型の桶
「盥漱(カンソウ)」
手を洗い、口をすすぐこと
身を清めること
「盥沐(カンモク)」
手や髪を洗い清めること
風呂にはいること
湯あみ→ 「入浴・沐浴」
「盥回し(たらいまわし)」→足の曲芸
「盥船(たらいぶね)」→一寸法師の櫂の舟
御椀の舟
海幸彦の舟
沐浴=「氵+木」+「氵+谷」
「尨(むくいぬ)」ではないだろう・・・
山水(散水=雨露)が「木、枝葉」を
洗うのサッ「木=髪」ではなく、
「木」は「神木」の「カミのキ」・・・
コレをニホンジンは
纂隋の「木(紀)=十+八→壱拾八」と
考えた・・・?
モチロン、
「谷=たに・や・やつ・がや・がい・コク」で
「谷=八+人+口」である。
「小谷」は
「こたに」、「おわせ」とも訓んでいる・・・
「湯浴み」、
「湯沐(トウモク)」
日本
湯沐
古代、皇太子、中宮に対する養育、資養のために
諸国におかれた
壬申の乱
大海人皇子は
六月二十二日に使者を出し、
安八磨郡(安八郡)の
湯沐令(ゆのうながし)の
多品治に兵を挙げて
不破道を塞ぐよう命じた・・・
臣下に対する封戸(ふこ・土地)、食封
↓
中国
諸侯の湯沐のための邑(くに・ユウ)
「礼記・王制篇」
湯沐邑は周の制度として始まった
文献初見は
「春秋
公羊伝・
隠公・
三年三月条」
「邴(ヘイ)」は
↓
春秋時、晉大夫「邴豫」、食邑於「邴」、因以為氏
↓
「鄭(テイ)」の「湯沐邑」
↓
鄭(紀元前806年~紀元前375年)
中国の西周時代から春秋戦国時代まで存在した国
姓は
姫、
爵位は
伯爵
河南省に位置
周の
宣王の同母弟、
姫友(桓公)が
鄭(陝西省華県東部)に封じられ
幽王の時、
桓公は西周滅亡の混乱を避け、
国民とともに
東虢(トウカク)と
鄶(カイ)の間に遷(うつ)った
↓
湯沐邑
天子が
泰山を祭るとき、諸侯も泰山の下に従うとき
諸侯はみな「湯沐」の「邑」を持つ
湯沐の邑・斎戒沐浴を名目とし、
諸侯と従者、使者の滞在に必要なものを、
現地で満たすために与えた土地
湯沐邑を与えられたのは、
皇太子、皇后、皇太后、
廃王、廃王女、公主、王女、皇后の生母で
湯沐邑の主は
統治権を持たず、
税収のみ手に入れた
ーー↓
人見の岡。・・・ヒト、ミ、之、オカ
ヒトを見れ
ヒトを見る
ヒトミのオカ・・・眼科医?
ーーーーー
(二二五段)・・・「二百二十五・弐佰弐拾五・貮貳五・貮陌仁足伍・弐百弐拾伍・弐百念伍」段
2+2+5=9=九=玖
2×2×5=20=二十=弐拾=念
社(やしろ)は・・やしろ・八代・矢代・屋代・八城・家城
八白
社→杜撰
布留の社。・・・・フルのヤシロ
活田の社。・・・・イキタのヤシロ
龍田の社。・・・・龍田神社・・・日本書記←持統天皇
はなふちの社。・・葉名譜知のシャ(写)
美久理の社。・・・備句理・尾句理
杉の御社、・・・・「すぎ・サン」の「オンシャ(音写)」
しるし・・・・・・記
あ・・・・・・・・亜・阿・蛙・唖・雅
らんと・・・・・・蘭徒・乱賭
をかし。
任事の・・・・「認字・仁字・仁治」之
明神
いと
たのもし。
さ
のみ
聞き
けん
とや
いはれ
給はんと
思ふ
ぞ
いと
をか
しき。
蟻通の明神、・・・・義通の名訊
貫之が・・・・・・・・「紀貫之」臥・・・・・「日本書記」を貫く、之
馬の・・・・・・・・・・「司馬遷」
わづらひけるに、 ・・・和面比化留似
話通等比懸留爾
この明神の
やませ・・・・・・・・三陸沿岸に吹き寄せる低温の風
「止ませ」
給ふ
とて、
歌よみて
奉り
けんに、
やめ・・・・・・・・止め・八女・埜目
給ひ
けん、
いと
をかし。
この
蟻通と・・・「魏の李通」賭・・・魏の武将で義侠の男。
官渡の戦いで袁紹は李通に寝返るようにと使者を送った。
袁紹優勢の中
臣下や妻子達は李通に降伏を説得したが、
李通は「殿に対する義は死んでも裏切らん」と、
使者を斬り殺し、己の信念を貫き通した・・・?義
「魏」は「委ねる鬼」であるのだが・・・
つけたる意は、
まことにやあらん、
ーー↓ーーーーーーーーーーーーー↓
昔おはしましける帝の、
唯
若き人をのみ思しめして、
四十に
なり
ぬる
をば、
失はせ
給ひければ、
↓
他の國の
遠きに往き
かくれなどして、
↓
更に都のうちに
さる者
なかりけるに、
↓
中將なりける人の、
いみじき時の人にて、
心なども賢かりけるが、
↓
七十ちかき
親ふたりを
もたりけるが、
↓
かう
四十を
だに
制あるに、
↓
まして
いと
おそろしと
懼ぢ騒ぐを、
↓
いみじう
孝
ある人にて
↓
遠き所には更に住ませじ、
一日に一度
見では
え
あるまじとて、
密に
よるよる家の内の土を掘りて、
その内に屋を建てて、
それに籠めすゑて、
往きつつ見る。
おほやけにも人にも、
うせ隱れたる
よしを
知らせてあり。
などてか、
家に
いり居たらん人
をば、
知らでも
おはせかし、
ーー↓ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓
帝は、若者を好み老人を嫌い
四十を過ぎ人を(失す)追い出し
遠い国で隠れ過ごしていた
都には出て行く老人はいなくなった
中将の位にある、評判の賢い人がいたが
七十に近い両親をがいた
このように四十歳制度で
両親は懼れ、騒いでいた
大変に親孝行であったので
遠きところには、住まわせるなどとはしない
一日に一度は必ず遭わずにはおられない、と
密かに
夜々、家の敷地の土を掘って
その中に住居を造り
其の中に住まわせて、遭っていた
公にも、世間の人にも、両親を都から移住させたと、
そのコト知らせていた
家に入り来る人も隠し通してい
↓
うたて・・古語
がっかりする・いやだ
情けない・気にくわない
なげかわしい
ますます・はなはだし
いっそうひどく
異様だ・あやしい・・・
?・・・真面目に古語文として読んで観ても・・・ボクとしては、主観的に「うたて」が次の「親」に続かないのだが・・・「怪しい親」としておこう・・・
ーー↓ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓
昔、帝がいた
帝は、若者を好み老人を嫌い
四十を過ぎ人を(失す)追い出し
遠い国で隠れ過ごしていた
都には出て行く老人はいなくなった
中将の位にある、評判の賢い人がいたが
七十に近い両親をがいた
このように四十歳制度で
両親は懼れ、騒いでいた
大変に親孝行であったので
遠きところには、住まわせるなどとはしない
一日に一度は必ず遭わずにはおられない、と
密かに
夜々、家の敷地の土を掘って
その中に住居を造り
其の中に住まわせて、遭っていた
公にも、世間の人にも、両親を都から移住させたと、
そのコト知らせていた
家に入り来る人も隠し通していた
ーー↓うたてーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓
親は
上達部など
にや
ありけん、
中將など
子にて
もたりけんは。
ーー↓ーーー↓
・・・「にや、ありけん」・・・推量、推定で「賢い中将」はナゼ「上達部(カンダチメ)の子供」なんだろう・・・?「上達の部」
↓
いと心かしこく、
萬の事・・・・・・・太安万侶
知りたりければ、
この
中・・・・・ナカ
將・・・・・まさに・・・
若けれど、・・・ワカけれど
才あり、・・・サイあり
いたり
賢くして・・・カシコクして
時の人に思すなりけり。
ーー↓
唐土の帝、・・・・・・唐王朝の「李治=高宗」は第三代皇帝・太宗の第九子・母は長孫皇后
「天皇大聖大弘孝皇帝」
「則天武后」の夫
隋王朝の「楊広=煬帝」は第二代皇帝で次子
この國の帝を、
いかで謀りて、
この國
うち取らむとて、
常にこころみ、
爭事を
して
おくり給ひけるに、
つやつやと、
まろに、
美しげに削りたる
木の
二尺
ばかりあるを、
「これが
本末いづかたぞ」・・・・・本末転倒
と問ひ奉りたるに、
すべて知るべきやう
なければ、
帝
思しめし煩ひたるに、
いと
ほしくて、
(中将が)親の許に行きて、・・・・
かうかうの事
なんあるといへば、
「只
はやからん
川に立ちながら、
横ざまに ・・・・・・・・・・ヨコシマざまに
投げ入れ
見んに、
かへりて
流れん方を、
末と
記して
つかはせ」
と教ふ。
ーー↓
參りて
我
しり顏にして、
「こころみ侍らん」とて、
人々具して投げ入れたるに、
さきにして
行くかたに
印をつけて遣したれば、
實に
さ
なり
けり。
ーー↓
又
二尺ばかりなる
蛇の同じやうなるを、
「これはいづれか雄雌」・・・雌雄(シユウ)→牝牡→女男(おんな・おとこ)
とて奉れり。又更に人え知らず。
例の中將(が親の所へ)行きて
問へば、
「二つをならべて、
尾のかたに・・・・尾張名古屋→本居宣長→古事記
細き・・・・・・・・・補素記
すばえを・・・・・・素葉重緒
さしよせんに、 ・差史代選爾
尾はたらかさんを ・・・・尾張名古屋「大須本・古事記」
雌と知れ」・・・・・・メス=女=おんな
といひければ、
やがてそれを
内裏の・・・・・・・・・名意理之
うちにて
さ
爲ければ、
實に一つは動さず、
一つは動しけるに、
又しるしつけて遣しけり。
ーー↓
ほど久しうて、
七曲にわだかまりたる玉の中通りて、左右に口あきたるが小さきを奉りて、
「これに
緒通してたまはらん、この國に皆し侍ることなり」とて奉りたるに、
いみじからん物の上手不用ならん。そこらの上達部より始めて、
ありとある人知らずといふに、又(親の所ヘ)いきて、かくなんといへば、
「大きなる蟻を
二つ捕へて、
腰に細き糸をつけ、・・・・腰=月+要
又それに
今少し
ふときをつけて、 ・・・・・太き=太安万侶
あなたの口に
蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して、
蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、
實にいと疾う穴のあなた口に出でにけり。
ーー↓
さてその糸の貫かれたるを遣したりける後になん、
なほ
日本は
かしこ
かり
けりとて、
後々はさる事もせざりけり。
この中將を
いみじき人に思しめして、
「何事をし、いかなる位をか賜はるべき」と仰せられければ、
「更に官位をも賜はらじ、
唯
老いたる
父母の隱れうせて侍るを・・・・フボ=付簿
尋ねて、
都に・・・・「糊塗・言・異・事」爾
すまする
ことを
許させ給へ」
と申しければ、
「いみじうやすき事」とて許されにければ、
よろづの人の親これを聞きて、・・・・・・よろず=萬・万
よろこぶ事いみじかりけり。
中將は
大臣までになさせ給ひて
なん
あり
ける。
ーー↓
さて
その人の
神に
なり
たる
にやあらん、
この明神の許へ詣でたりける人に、
夜現れてのたまひける。
七曲に
まがれる
玉の
緒を
ぬきて
あり
とほし
とも
知らずや
ある
らん
と
のたまひ
けると、
人の
かたりし。
ーーーーー
・・・蟻・在り・有り・・・アレ、ッ・・・