「182=壱八弐」ダン・・・長いねッ・・・ワケがあるんだろう・・・
「1+8++2」は「11=十一・壱拾壱・壱壱=X+I」で、漢字なら「土・士」で、十二支」は「亥・猪」・・・
「1×8×2=16=十六=一六=壱六=拾六=足陸=X+V+I」は「拾六(亠+八)」、「十二支」は「12+4=16」で「辰・龍」・・・「第十六代は仁徳天皇(大鷦鷯尊)」・・・「壱、足す(+)六は七」、「壱拾陸=ハジメを拾う陸(阜+土+儿+土)」、「淡路島」、だから・・・「数字を踏まえてヨメ」、ッて・・・
・・・「11」はそれ「自身の数」でしか割り切れない「素数」だし、「16」は「2・4・8」でしか割り切れない・・・人間社会での「割り切れないハナシ」はイクラでもアルし・・・割り切れないハナシは「余り」にも多い・・・そして、割り切れない「余りの数字」も「分数」で考えた・・・「余りの分け前」・・・「アマリにもの分け前」・・・
「not see why ・not convinced ・not satisfied ・Be dissatisfied」・・・
「the remnant・the rest・the remainder」・・・
加減乗除の計算が
「addition(加)、 subtraction(減)、multiplication(乗)、division(除)」・・・
答えは
「summation(和)、 difference (差)、product(積)、quotient(商)」・・・
アマリとノコリは「除」にしかないのはアタリマエと言うモンなのか・・・
「数学」を勉強していた江戸時代の「和数学者」は「漢数字」を使用していたけれど「算盤・十露盤(ソロバン)」も利用していた。勿論、「商人(あきんど)」も、「両替商」も・・・儲けは「除」の計算と「商」の答えの「余り」がないと出てこない・・・
そして、あまりにも「同音異字漢字」が多すぎる、である・・・
素数 =2・3・5・7・11・13・17・19・23・29・・・・「1」とそれ自身以外に「約数 =訳数」を持たない「数字=趨字」・・・「既約数 =紀躍数・記趯数・基 約数 →旧約の数」・・・「 因数分解=音数文解」・・・「ある正の整数」に対して、「素因数分解」は「一通り」しか存在しないという「数」にもかかわらず、「無限に存在する数」・・・
「indivisible・unconvincing・incomprehensible・unaccounted for」・・・
割り切れないモノは捨てられるか、「四捨五入→死者悟入(誤入)」されるんだ・・・で、「四捨」は「乞食、ルンペン、ホームレス」、そして「企業家」に・・・いずれも「生きている間は孤立」じゃぁないョ・・・ダレかが「拾って」くれるのが「人間社会」・・・でも、「氷の上」に「捨て子」にはしないでクレッ・・・「拉致、誘拐」しないでクレッ・・・
ーーーーー
枕草子
(一八二段)・・・百八十二段・壱佰八拾弐段・壱八弐段・壱陌捌足仁段
1+8+2=11=十一=一一=壱壱=拾壱=足壱
1×8×2=16=十六=一六=壱六=拾六=足陸
・・・以下の「」の中の「文字」をスベテ同音異字に替えて「ゴジュウ」に「音訓でヨン」でみる・・・面倒くさいから「ボク」はやめた・・・勝手に・・・どうぞ・・・元文の「」もあるので「・・・「XX」・・・」は二重になっているところの外は元々の原文の「」・・・
ーーーーー↓
「宮」に始めて參りたるころ、
物の「恥しき」こと「數知らず」、
涙も落ちぬべければ、
「夜」「々」まゐりて、
「三尺」の「御几帳」の「後」に侍ふに、
「繪」など取り出でて見せさせ給ふだに、
「手」もえさし出す「まじうわり」なし。
これはとあり、
かれは「かかり」「など」の「給は」するに、
「高杯」にまゐりたるおほとの「油」なれば、
「髮」の「すぢ」なども、
「なか」なか「晝」よりは「顯證」に見えて「まばゆ」けれど、
「念じ」て見などす。いと「つめ」「たき」ころなれば、
さし出させ給へる「御手」の「わづか」に見ゆるが、
いみじう「匂ひ」たる「薄紅梅」なるは、
「限」なく「めでたし」と、
見知らぬ「さとび」「心地」には、
いかがはかかる人こそ世におはしましけれど、
「驚か」「る」るまでぞ「まもり」「まゐら」する。
「曉」には「疾く」など「急が」るる。
「葛城の神も暫し」など仰せらるるを、
「いかで」すぢかひても「御覽ぜん」とて「臥し」たれば、
「御格子」もまゐらず。
「女官」まゐりて、
「これはなたせ給へ」といふを、
女房聞きてはなつを、
「待て」など仰せらるれば、
「笑ひ」て「かへり」「ぬ」。
物など問はせ給ひの給はするに、
「久し」うなりぬれば、
「おりま「ほしう」なりぬらん、さ早」とて、
「「よさり」は「疾く」」と仰せらるる。
「ゐざり」「歸る」や「遲き」とあけちらしたるに、
「雪」「ふり」にけり。
今日は「「晝つかた」參れ、
雪にくもりてあらはにもある「まじ」」など、
たびたび召せば、
この「局」「主人」も、
「さのみや「籠」り「居」給ふらんとする。
いとあへなきまで御前許されたるは、
思しめすやうこそ「あらめ」。
思ふに「違ふ」は「にくき」ものぞ」と、
唯いそがしに急がせば、
「我」にもあらぬ心地すれば、
參るもいとぞ「苦しき」。
「火燒屋」のうへに降り「積み」たるも「珍し」う「をかし」。
「御前」「近く」は、
例の「炭櫃」の火こちたくおこして、
それにはわざと人も居ず。
宮は「沈」の「御火桶」の「梨繪」したるに向ひておはします。
「上臈」御まかなひし給ひけるままに近くさぶらふ。
「次」の「間」に「長炭櫃」に間なく居たる人人、
「唐衣」「著」「垂れ」たるほどなり。
「安らか」なるを見るも「羨しく」、
「御文」とりつぎ、
立ち居ふるまふさまなど、
「つつ」「ましげ」ならず、
物いひゑみわらふ。
ーー↓
いつの世にか、
さやうに「交ひ」ならんと思ふさへぞつつましき。
あうよりて、
「三四」「人」「集ひ」て繪など見るもあり。
ーー↓
「暫時」ありて、
さき高うおふ「聲」すれば、
「「殿參」らせ給ふなり」とて、
「散り」たる物ども取りやりなどするに、
「奧」に引き入りて、
さすがに「ゆかしき」「なめり」と、
「御几帳」のほころびより「僅」に見入れたり。
「大納言殿」の參らせ給ふなりけり。
「御直衣」「指貫」の「紫」の「色」、
「雪」に「はえ」てをかし。
柱のもとに居給ひて、
「昨日今日「物忌」にて侍れど、
雪のいたく降りて侍らば、
「おぼつか」なさに」などのたまふ。
「「道」もなしと思ひけるに、
いかでか」とぞ「御答」あなる。
うち笑ひ給ひて、
「あはれともや御覽ずるとて」などの給ふ「御有樣」は、
これよりは「何事」か「まさ」「らん」。
「物語」にいみじう口にまかせて言ひたる事ども、
違はざめりとおぼゆ。
宮は「白き」「御衣」どもに、
「紅」の「唐綾」「二つ」、
白き「唐綾」と奉りたる、
「御髮」の「かからせ」給へるなど、
「繪」に「書き」たるをこそ、
「かかる」ことは見るに、
「現」にはまだ知らぬを、
「夢」の心地ぞする。
女房と物いひ「戲れ」などし給ふを、
答いささか恥しとも思ひたらず聞えかへし、
「空言」などの給ひかくるを、
爭ひ論じなど聞ゆるは、
目も「あや」に、
あさましきまで、
あいあく面ぞ赤むや。
「御菓子」まゐりなどして、
御前にも參らせ給ふ。
「御几帳の後なるは誰ぞ」と問ひ給ふなるべし。
さぞと申すにこそあらめ、
「立ち」ておはするを、
「外」へにやあらんと思ふに、
いと近う居給ひて、
物などの給ふ。
まだ參らざりしとき聞きおき給ひける事などの給ふ。
「「實」にさありし」などの給ふに、
御几帳「隔て」て、
よそに見やり奉るだに恥しかりつるを、
いとあさましう、
さし向ひ聞えたる心地、
「う」「つつ」とも覺えず。
「行」「幸」など見るに、
「車」のかたにいささか見おこせ給ふは、
「下簾」ひきつくろひ、
「透影」もやと「扇」をさし「隱す」。
「猶」いと我心ながらも、
おほけなくいかで立ち出でにしぞと、
「汗」「あえて」いみじきに、
何事をか聞えん。
「かしこき」「かげ」と捧げたる扇をさへ取り給へるに、
「振り」「かく」べき「髮」の「あや」「しさ」さへ思ふに、
すべて「誠」にさる「氣色」やつきてこそ見ゆらめ、
疾く立ち給へなど思へど、
扇を手まさぐりにして、
「繪は誰が書きたるぞ」などの給ひて、
「頓」にも立ち給はねば、
「袖」を「押し」あてて、
「うつ」「ぶし」居たるも、
「唐衣」に「しろい」物うつりて、
「まだら」にならんかし。
久しう居給ひたりつるを、
「論」「なう」苦しと思ふらんと心得させ給へるにや、
「これ見給へ、
これは誰が書きたるぞ」と聞えさせ給ふを、
嬉しと思ふに、
「賜ひて見侍らん」と申し給へば、
「猶ここへ」との給はすれば、
「人をとらへてたて侍らぬなり」との給ふ。
いと「いま」「めかし」う、
身のほど年には合はず、
「かた」「はら」「いたし」。
人の「草」「假」字書きたる「草紙」、
「取り」出でて「御覽」ず。
「誰がにかあらん、
かれに見せさせ給へ。
それぞ世にある人の手は見知りて侍らん」と「怪しき」事どもを、
「唯」答させんとのたまふ。
「一所」だにあるに、
「又」「さき」「うち」おはせて、
同じ直衣の人參らせ給ひて、
これは今少し「花やぎ」、
「猿樂」ことなどうちし、
「譽め」笑ひ興じ、
我も、
なにがしがとある事、
かかる事など、
「殿上」人のうへなど申すを聞けば、
猶いと「變化」の物、
「天人」などのおり來るにやと覺えてしを、
侍ひ「馴れ」、
日ごろ「過ぐ」れば、
いとさしもなきわざにこそありけれ。
かく見る人々も、
家のうち出で初めけん程は、
さこそは覺えけめど、
かく「爲」もて「行く」に、
おのづから「面」「馴れ」ぬべし。
物など仰せられて、
「我をば思ふや」と問はせ給ふ。
御いらへに、
「いかにかは」と啓するに合せて、
「臺盤」「所」の「かた」に、
「鼻」を「たかく」「ひ」たれば、
「あな心う、
「虚言」するなりけり。
よしよし」とていらせ給ひぬ。
いかでか「虚言」にはあらん。
よろしうだに思ひ聞えさすべき事かは。
「鼻」こそは「虚言」しけれとおぼゆ。
さても誰か「かく」「にく」「き」「わざ」しつらんと、
大かた「心」「づき」なしと覺ゆれば、
わが「さる」「折」「も」、
「おし」「ひしぎ」「かへし」てあるを、
ましてにくしと思へど、
「まだう」「ひ」「うひ」しければ、
ともかくも「啓」し「なほ」「さ」「で」、
「明け」「ぬれば」おりたる「すな」「はち」、
「淺緑」なる「薄樣」に、
「艶」なる「文」をもてきたり。
見れば、
ーー↓
いかにして
いかに知らまし
いつはりを
そらに
ただすの
「神」
なかりせば
ーー↓
となん、
御「けし」「き」はとあるに、
めでたくも口をしくも思ひ亂るるに、
なほ「昨夜」の人ぞ「たづね」聞かま「ほしき」。
ーー↓
うすきこそ
それにも
よらね
はなゆゑに
「うき」身の程を
知るぞ
「わび」「し」「き」
ーー↓
猶こればかりは啓しなほさせ給へ、
「職」の神もおのづからいと「畏し」とて、
參らせて後も、
うたて、
「折」「しも」「など」て「さ」「はた」ありけん、
いとをかし。
ーーーーー
意図、可笑し・・・
「1+8++2」は「11=十一・壱拾壱・壱壱=X+I」で、漢字なら「土・士」で、十二支」は「亥・猪」・・・
「1×8×2=16=十六=一六=壱六=拾六=足陸=X+V+I」は「拾六(亠+八)」、「十二支」は「12+4=16」で「辰・龍」・・・「第十六代は仁徳天皇(大鷦鷯尊)」・・・「壱、足す(+)六は七」、「壱拾陸=ハジメを拾う陸(阜+土+儿+土)」、「淡路島」、だから・・・「数字を踏まえてヨメ」、ッて・・・
・・・「11」はそれ「自身の数」でしか割り切れない「素数」だし、「16」は「2・4・8」でしか割り切れない・・・人間社会での「割り切れないハナシ」はイクラでもアルし・・・割り切れないハナシは「余り」にも多い・・・そして、割り切れない「余りの数字」も「分数」で考えた・・・「余りの分け前」・・・「アマリにもの分け前」・・・
「not see why ・not convinced ・not satisfied ・Be dissatisfied」・・・
「the remnant・the rest・the remainder」・・・
加減乗除の計算が
「addition(加)、 subtraction(減)、multiplication(乗)、division(除)」・・・
答えは
「summation(和)、 difference (差)、product(積)、quotient(商)」・・・
アマリとノコリは「除」にしかないのはアタリマエと言うモンなのか・・・
「数学」を勉強していた江戸時代の「和数学者」は「漢数字」を使用していたけれど「算盤・十露盤(ソロバン)」も利用していた。勿論、「商人(あきんど)」も、「両替商」も・・・儲けは「除」の計算と「商」の答えの「余り」がないと出てこない・・・
そして、あまりにも「同音異字漢字」が多すぎる、である・・・
素数 =2・3・5・7・11・13・17・19・23・29・・・・「1」とそれ自身以外に「約数 =訳数」を持たない「数字=趨字」・・・「既約数 =紀躍数・記趯数・基 約数 →旧約の数」・・・「 因数分解=音数文解」・・・「ある正の整数」に対して、「素因数分解」は「一通り」しか存在しないという「数」にもかかわらず、「無限に存在する数」・・・
「indivisible・unconvincing・incomprehensible・unaccounted for」・・・
割り切れないモノは捨てられるか、「四捨五入→死者悟入(誤入)」されるんだ・・・で、「四捨」は「乞食、ルンペン、ホームレス」、そして「企業家」に・・・いずれも「生きている間は孤立」じゃぁないョ・・・ダレかが「拾って」くれるのが「人間社会」・・・でも、「氷の上」に「捨て子」にはしないでクレッ・・・「拉致、誘拐」しないでクレッ・・・
ーーーーー
枕草子
(一八二段)・・・百八十二段・壱佰八拾弐段・壱八弐段・壱陌捌足仁段
1+8+2=11=十一=一一=壱壱=拾壱=足壱
1×8×2=16=十六=一六=壱六=拾六=足陸
・・・以下の「」の中の「文字」をスベテ同音異字に替えて「ゴジュウ」に「音訓でヨン」でみる・・・面倒くさいから「ボク」はやめた・・・勝手に・・・どうぞ・・・元文の「」もあるので「・・・「XX」・・・」は二重になっているところの外は元々の原文の「」・・・
ーーーーー↓
「宮」に始めて參りたるころ、
物の「恥しき」こと「數知らず」、
涙も落ちぬべければ、
「夜」「々」まゐりて、
「三尺」の「御几帳」の「後」に侍ふに、
「繪」など取り出でて見せさせ給ふだに、
「手」もえさし出す「まじうわり」なし。
これはとあり、
かれは「かかり」「など」の「給は」するに、
「高杯」にまゐりたるおほとの「油」なれば、
「髮」の「すぢ」なども、
「なか」なか「晝」よりは「顯證」に見えて「まばゆ」けれど、
「念じ」て見などす。いと「つめ」「たき」ころなれば、
さし出させ給へる「御手」の「わづか」に見ゆるが、
いみじう「匂ひ」たる「薄紅梅」なるは、
「限」なく「めでたし」と、
見知らぬ「さとび」「心地」には、
いかがはかかる人こそ世におはしましけれど、
「驚か」「る」るまでぞ「まもり」「まゐら」する。
「曉」には「疾く」など「急が」るる。
「葛城の神も暫し」など仰せらるるを、
「いかで」すぢかひても「御覽ぜん」とて「臥し」たれば、
「御格子」もまゐらず。
「女官」まゐりて、
「これはなたせ給へ」といふを、
女房聞きてはなつを、
「待て」など仰せらるれば、
「笑ひ」て「かへり」「ぬ」。
物など問はせ給ひの給はするに、
「久し」うなりぬれば、
「おりま「ほしう」なりぬらん、さ早」とて、
「「よさり」は「疾く」」と仰せらるる。
「ゐざり」「歸る」や「遲き」とあけちらしたるに、
「雪」「ふり」にけり。
今日は「「晝つかた」參れ、
雪にくもりてあらはにもある「まじ」」など、
たびたび召せば、
この「局」「主人」も、
「さのみや「籠」り「居」給ふらんとする。
いとあへなきまで御前許されたるは、
思しめすやうこそ「あらめ」。
思ふに「違ふ」は「にくき」ものぞ」と、
唯いそがしに急がせば、
「我」にもあらぬ心地すれば、
參るもいとぞ「苦しき」。
「火燒屋」のうへに降り「積み」たるも「珍し」う「をかし」。
「御前」「近く」は、
例の「炭櫃」の火こちたくおこして、
それにはわざと人も居ず。
宮は「沈」の「御火桶」の「梨繪」したるに向ひておはします。
「上臈」御まかなひし給ひけるままに近くさぶらふ。
「次」の「間」に「長炭櫃」に間なく居たる人人、
「唐衣」「著」「垂れ」たるほどなり。
「安らか」なるを見るも「羨しく」、
「御文」とりつぎ、
立ち居ふるまふさまなど、
「つつ」「ましげ」ならず、
物いひゑみわらふ。
ーー↓
いつの世にか、
さやうに「交ひ」ならんと思ふさへぞつつましき。
あうよりて、
「三四」「人」「集ひ」て繪など見るもあり。
ーー↓
「暫時」ありて、
さき高うおふ「聲」すれば、
「「殿參」らせ給ふなり」とて、
「散り」たる物ども取りやりなどするに、
「奧」に引き入りて、
さすがに「ゆかしき」「なめり」と、
「御几帳」のほころびより「僅」に見入れたり。
「大納言殿」の參らせ給ふなりけり。
「御直衣」「指貫」の「紫」の「色」、
「雪」に「はえ」てをかし。
柱のもとに居給ひて、
「昨日今日「物忌」にて侍れど、
雪のいたく降りて侍らば、
「おぼつか」なさに」などのたまふ。
「「道」もなしと思ひけるに、
いかでか」とぞ「御答」あなる。
うち笑ひ給ひて、
「あはれともや御覽ずるとて」などの給ふ「御有樣」は、
これよりは「何事」か「まさ」「らん」。
「物語」にいみじう口にまかせて言ひたる事ども、
違はざめりとおぼゆ。
宮は「白き」「御衣」どもに、
「紅」の「唐綾」「二つ」、
白き「唐綾」と奉りたる、
「御髮」の「かからせ」給へるなど、
「繪」に「書き」たるをこそ、
「かかる」ことは見るに、
「現」にはまだ知らぬを、
「夢」の心地ぞする。
女房と物いひ「戲れ」などし給ふを、
答いささか恥しとも思ひたらず聞えかへし、
「空言」などの給ひかくるを、
爭ひ論じなど聞ゆるは、
目も「あや」に、
あさましきまで、
あいあく面ぞ赤むや。
「御菓子」まゐりなどして、
御前にも參らせ給ふ。
「御几帳の後なるは誰ぞ」と問ひ給ふなるべし。
さぞと申すにこそあらめ、
「立ち」ておはするを、
「外」へにやあらんと思ふに、
いと近う居給ひて、
物などの給ふ。
まだ參らざりしとき聞きおき給ひける事などの給ふ。
「「實」にさありし」などの給ふに、
御几帳「隔て」て、
よそに見やり奉るだに恥しかりつるを、
いとあさましう、
さし向ひ聞えたる心地、
「う」「つつ」とも覺えず。
「行」「幸」など見るに、
「車」のかたにいささか見おこせ給ふは、
「下簾」ひきつくろひ、
「透影」もやと「扇」をさし「隱す」。
「猶」いと我心ながらも、
おほけなくいかで立ち出でにしぞと、
「汗」「あえて」いみじきに、
何事をか聞えん。
「かしこき」「かげ」と捧げたる扇をさへ取り給へるに、
「振り」「かく」べき「髮」の「あや」「しさ」さへ思ふに、
すべて「誠」にさる「氣色」やつきてこそ見ゆらめ、
疾く立ち給へなど思へど、
扇を手まさぐりにして、
「繪は誰が書きたるぞ」などの給ひて、
「頓」にも立ち給はねば、
「袖」を「押し」あてて、
「うつ」「ぶし」居たるも、
「唐衣」に「しろい」物うつりて、
「まだら」にならんかし。
久しう居給ひたりつるを、
「論」「なう」苦しと思ふらんと心得させ給へるにや、
「これ見給へ、
これは誰が書きたるぞ」と聞えさせ給ふを、
嬉しと思ふに、
「賜ひて見侍らん」と申し給へば、
「猶ここへ」との給はすれば、
「人をとらへてたて侍らぬなり」との給ふ。
いと「いま」「めかし」う、
身のほど年には合はず、
「かた」「はら」「いたし」。
人の「草」「假」字書きたる「草紙」、
「取り」出でて「御覽」ず。
「誰がにかあらん、
かれに見せさせ給へ。
それぞ世にある人の手は見知りて侍らん」と「怪しき」事どもを、
「唯」答させんとのたまふ。
「一所」だにあるに、
「又」「さき」「うち」おはせて、
同じ直衣の人參らせ給ひて、
これは今少し「花やぎ」、
「猿樂」ことなどうちし、
「譽め」笑ひ興じ、
我も、
なにがしがとある事、
かかる事など、
「殿上」人のうへなど申すを聞けば、
猶いと「變化」の物、
「天人」などのおり來るにやと覺えてしを、
侍ひ「馴れ」、
日ごろ「過ぐ」れば、
いとさしもなきわざにこそありけれ。
かく見る人々も、
家のうち出で初めけん程は、
さこそは覺えけめど、
かく「爲」もて「行く」に、
おのづから「面」「馴れ」ぬべし。
物など仰せられて、
「我をば思ふや」と問はせ給ふ。
御いらへに、
「いかにかは」と啓するに合せて、
「臺盤」「所」の「かた」に、
「鼻」を「たかく」「ひ」たれば、
「あな心う、
「虚言」するなりけり。
よしよし」とていらせ給ひぬ。
いかでか「虚言」にはあらん。
よろしうだに思ひ聞えさすべき事かは。
「鼻」こそは「虚言」しけれとおぼゆ。
さても誰か「かく」「にく」「き」「わざ」しつらんと、
大かた「心」「づき」なしと覺ゆれば、
わが「さる」「折」「も」、
「おし」「ひしぎ」「かへし」てあるを、
ましてにくしと思へど、
「まだう」「ひ」「うひ」しければ、
ともかくも「啓」し「なほ」「さ」「で」、
「明け」「ぬれば」おりたる「すな」「はち」、
「淺緑」なる「薄樣」に、
「艶」なる「文」をもてきたり。
見れば、
ーー↓
いかにして
いかに知らまし
いつはりを
そらに
ただすの
「神」
なかりせば
ーー↓
となん、
御「けし」「き」はとあるに、
めでたくも口をしくも思ひ亂るるに、
なほ「昨夜」の人ぞ「たづね」聞かま「ほしき」。
ーー↓
うすきこそ
それにも
よらね
はなゆゑに
「うき」身の程を
知るぞ
「わび」「し」「き」
ーー↓
猶こればかりは啓しなほさせ給へ、
「職」の神もおのづからいと「畏し」とて、
參らせて後も、
うたて、
「折」「しも」「など」て「さ」「はた」ありけん、
いとをかし。
ーーーーー
意図、可笑し・・・