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新井白石の知識の渇望・・・乱学の後・・・

2015-01-27 21:31:43 | 古事記字源

 「直接生産物」を生産する原材料費に付随する「間接的、媒介的」な「諸費用?」・・・「諸経費」・・・「諸経費」には「現場経費」・・・ 「現場の運営に必要な費用 人件費 、交通費、通信費、事務用品費、福利厚生費、労務管理費、雑用費、租税公課((契約書の印紙代や各申請手続き費など)や保険料(建築工事保険や賠償責任. 保険など、 労災保険料、建設工事保険 」など。「一般管理費」・・・会社の運営に必要な費用。「経営者や内勤者及び営業マンなどに係る費用、会社の社屋や備品、機械器具などの費用他」・・・「経費(事務所費用、減価償却費、調査研究費、宣伝、広告費など)」・・・「諸経費」は、通常、工事費の6~10%程度が多いらしいが、「本体工事費」、「本体生産費」でもない、「外交(公事?)」、その「+α」の「朝鮮通信使」に掛かった「諸経費」とは・・・「国家外交」には膨大な「経費」が掛かるが、その「目的成果」の是非は「不確実」で、結果は闇である・・・
 ・・・、「外交(公事?)」、その「+α」の「朝鮮通信使」に掛かった「諸経費」以前に当時の白石の「海外貿易」では「幕府のモウケ」がなかった・・・「貿易収支」は「赤字」だったのだ。
 当然である「鎖国」とは本質的に「自給自足の階級社会」である。海外貿易で「幕府財政の黒字」を望んでいないのである。だが、幕府の「大奥=女階級社会」は「海外ブランド」を望んだのである。いずれは掘削で枯渇する「金銀銅」が「海外貿易」での「支出の決済」である。「米」ではなかった。だが、「日本国内の国勢生産と流通の実質的な需給バランの目安」は「米高=石」である。
 白石は「米の封建社会」の常識から抜け出せなかった。当然である。「幕府財政の黒字」は「年貢米の生産量の増加と徴収」であった・・・基本的には「幕藩体制枠内での自給自足の農本主義者」であったのだ。
 日本の世界の窓口は「長崎・出島」であったが・・・当時の白石にあっては「鎖国体制維持枠の知識の範囲での政策」である・・・
 そして、新井白石が渇望、切望したの「書籍」と、それから得られる「知識」であった・・・しかも、「朝鮮通信使」からの・・・戦国時代は終わり、最大の武器である「鉄砲」、「大砲」に必要な「硝石」の輸入も必要とぜず、「兵農分離」も既に確立し、大型の帆船の軍艦も必要とせず、「吉利支丹(切支丹)」も、もはや存在していない「隠れキリシタン」の時代である。
 白石(1657年3月24日~1725年6月29日)にとって、「『読史余論三巻・天下九変五変」』上 または『公武治乱考』.」を将軍に侍講した知識はあれ、この時代的な制約はあれ、伊太利亜人のシドッチに遭遇するまでは「西洋の知識」には疎かった・・・彼の生きた時代は1600年の「関ヶ原」は遥か彼方の過去である・・・
 それにしても、不思議なことに白石には「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の言及が見当たらない・・・あんなにも「知識」を追求し、「歴史」を追求していたのに「相模の國の幕臣」になった「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の姿がみえない・・・白石の著述の何処かに彼、「三浦按針」の記述があるのかも・・・?・・・「三浦の乱」・・・は、日本での「西洋諸国(葡萄牙・西班牙・英吉利・阿蘭陀)」利権確執が重なる・・・?
ーーーーー
 以下は「新井白石」の続き
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
  ↓↑
 「新井白石」の
  ↓↑
  E 琉球貿易
 この機会に、
 鎖国時代の今一つの貿易ルートであった
 薩摩藩による琉球貿易
 についても説明しておきましょう。
 鎖国というのは、わが国の場合、
 国交を持つ相手を制限する、
 ということであって、
 貿易量そのものを
 制限するものでなかったことは、
 第2章で説明しました。
 このため、
 薩摩藩による
 琉球貿易も、
 制限外として認められていました。
 琉球貿易は、
 琉球が
 独立国という建前の下に、
 中国などと貿易をし、他方、
 薩摩藩に対して
 琉球が
 朝貢貿易の形で
 船を派遣するという形で行われていました。
 銀貨が貿易の決済手段だったことは
 日朝貿易の場合と同じです。
 1715年に、
 白石は、従来認められていた
 銀1206貫の限度額を906貫に抑制しています。
 薩摩の方が対馬よりも制限が厳しいのは、
 小藩である対馬に対しては、
 外交費用相当の援助という要素があるためです。
 琉球貿易の詳細については、
 薩摩藩ははっきりした資料を今日に伝えていないので、
 確かなことは判りませんが、
 薩摩藩は、
 この禁令は余り守らなかったようです。
   ↓
 (3) 年貢増徴策
 貨幣の改鋳や長崎新令は、いずれも大事なものですが、これらは
 幕府財政を豊かにしてくれる力は持っていません。
 通貨改鋳策に至っては、
 経費分だけ
 幕府財政を締め付けることになるはずです。
 そこで、
 歳入の増加策が必要となるのですが、ここまできますと、
 天才白石といえども、
 封建社会の常識から
 抜け出すことはできませんでした。
 すなわち、
 年貢米をいかに増加させるか、
 という点を考えるしか、能がないのです。
 ここでも、白石のきわめて
 数理的な頭脳は、
 統計解析によって
 問題の所在を突き止めようとします。
 彼によると、
 幕府直轄領の
 税率は
 4公6民・・・・・・・・・・生産米の「四割」が収奪
 すなわち
 税率40%のはずです。
 それなのに、
 実際には
 28~29%程度で、
 30%を切っているといいます。
 その租税徴収率の低さが、
 幕府財政が苦しい原因だ、というのです。
 そこまでは正しい計算なのですが、
 白石は、江戸生まれの江戸育ちで、
 農村の生活に
 理解がありません。・・・?・・・「有理解」
 そこで、このように
 年貢徴収率が低いのは、
 幕府の
 代官やその手代が
 地元と結託して、
 賄賂を取るかわりに
 税率を下げる等の
 便宜を図っている
 に違いないという
 結論になります。
 これは当時の
 幕府の公式見解そのもので、
 御触書にも
 「近年は村々からの
  年貢収納量が段々と減少してきて、
  昔の半分ほどになっているのに
  村々は少しも豊かになっていない。
  それは
  村々が年貢を
  負けて貰うために
  代官諸役人に
  賄賂を贈っているからで、
  年貢量は減少するが、
  村々が支出する総領は、
  賄賂分を合わせると
  結局
  昔と同じになるからだ」
 ということが
 明記されていました
 (御触書寛保集成)。
 この当時の年貢の徴収は、
 検見取(けみどり)法というやり方でした。
 すなわち、
 代官以下の
 地方(じかた)役人が
 個々の村を回って、
 米の出来具合を個別に確認しては、
 村ごとの年貢総量を決定する、という方法です。
 そして、確かに、
 収穫高の査定に当たる地方役人が、
 村側の饗応の多少によって
 査定に手心を加えるということは
 かなり横行していたようです。
 余り接待しすぎたために、
 役人の方がつけあがって、
 家族親戚まで連れてきて
 饗応を楽しんだ、
 という話まで残っているほどです。
 白石は、先に
 荻原重秀が廃止した
 勘定吟味役を
 1712年に再度設置して
 勘定所自体の綱紀を引き締めるとともに、
 勘定所に命じて、
 綱吉時代にもまして
 厳しい地方検査を開始します。
 具体的には、
 全国を十の地域に分け、
 それぞれに
 3名で構成される
 巡察使を派遣して虱潰しに査察を実施したのです。
 3名の中には、彼として信頼できる
 甲府藩からの
 転籍者を必ず1名は入れていたといいます。
 この結果、彼が事実上の権力を握っていたわずかの期間に、
 処罰された
 代官は10名に達します。
 期間当たりの処罰数としては空前のもので、
 綱吉の
 元禄期以上に
 代官が厳しく取り締まられた時期ということができます。
 しかも実際には、
 事務処理が遅れて、
 処罰が
 享保以降にずれ込んだ例もかなりあるようですから、
 実質的処罰件数ははるかに多いと見るべきです。
 そして空席になった代官のポストに送り込むのもまた、
 甲府藩からの転籍組です。
 こうした締め付けの甲斐あって、
 1713年の
 年貢米徴収量は、
 前年に比べて
 43万3400俵も増加したと
 白石は自画自賛しています。
 この年、年貢米の量は、
 石数でいうと
 411万石あまりです。
 増加はその後も続いて、
 14年、15年といずれも
 412万石を突破しています。
 代官締め付け策は一応の効果はあったというべきなのでしょう。
 しかし、
 白石が
 見落としていた重大な点があります。
 それは、
 幕府代官
 諸経費に関する
 構造的な要因から、
 まともに代官が仕事をしていたら、
 必ず
 赤字になってしまうという点です。・・・???・・・根拠は?
 年貢の
 未収分の相当部分は、
 そうした
 代官の
 赤字補填のために
 流用されていたものだったのです。
 締め付けると、
 そうした分が増加するのです。
 しかし、
 現場の声が彼のところまでは上がってこなかったために、
 そこまではこの天才でも、
 洞察することはできなかったのです。
 したがって、この問題の真の解決は、
 享保の改革に譲られることになります。
   ↓
 (4) 朝鮮通信使待遇改訂
 白石の事績を紹介して、
 朝鮮通信使の
 待遇改訂問題を
 避けてとおるわけには行かないでしょう。
 ご存じのとおり、
 日朝関係は、
 秀吉の朝鮮出兵によって
 決定的に破壊されます。
 自家存立の必須の条件として
 日朝友好を熱望していた
 対馬の
 宗家は、
 徳川家康が
 日朝関係の復旧に意欲があるのを幸いに、
 日朝間にあって、懸命の工作を行いました。
 その結果、
 1607年に
 初めて朝鮮から使節がわが国を訪れ、
 1609年に、
 対馬と朝鮮の間で
 己酉条約が成立して、ようやく両国間に講和が成立しました。
 その後、
 1617年に
 朝鮮政府は、
 徳川幕府による
 日本統一の賀使を、
 1624年には
 家光の将軍位襲職の
 賀使をそれぞれ派遣してきたので、
 ようやく日朝修好の実が備わるようになってきます。
 そして、
 1636年に、
 通信使という名の使節の最初の者が送られてきます。
 以後、将軍の代替わりの都度、通信使が訪日することになります。
 通信使という名称を使うか否かは問題ではありませんから、以下、
 1607年以降のすべての訪日を、
 朝鮮からの使節として一律に論ずることにします。
 これら使節の訪日の趣旨そのものは、
 日朝友好ということで、全く結構なことです。しかし、これが
 幕府財政上の
 大問題に
 ならざるを得ないのは、
 ひとえに
 その規模のためです。
 1607年の第1回の来日の際には、
 秀吉の朝鮮出兵の後遺症が双方に色濃く残っているときでしたから、
 朝鮮側としては
 各分野のトップクラスの人間を多数送り込んで、
 徹底的に
 日本側の情報を収集することを目指したのだと思います。
 その結果、
 この時の使節団の総数は467人に達しました。
 この規模が、規模に関する先例を作ってしまったのです。
 江戸まで使節が来たことは全部で
 11回ありますが、それを見ると、
 1624年の
 第3回が300人と少ないのを例外にすれば、
 正使以下の一行の人数は、
 最大500人
 (これが実は新井白石の改革の時です。)、
 最小でも428人(第2回)、
 平均470人程度となっています。
 使節団は3艘の船に分乗し、
 これに3艘の副船が献上品その他の荷物を載せて従います。
 これが
 釜山から
 対馬、壱岐経由で下関に入り、
 瀬戸内海を抜けて
 大阪に上陸します。
 その後、
 船を管理する人間を100名程度残して、
 残り全員が陸路、江戸に入ります。
 だから使節団だけで
 3百数十名という規模です。
 これに、
 対馬藩から、
 使節側1名当たり、
 2名程度の割合で随行者がつきます。
 すなわち
 約700名です。したがって、
 行列の本体規模が
 大体1000人に達することになります。
 建前として、
 日朝双方は対等ということになっていますが、
 江戸幕府としては、
 朝鮮は入貢してきている
 というポーズを国内的に取っています。
 そこで、
 この入貢国を厚遇することにより、
 ひいては幕府の権威を高揚することができると考えているのですから、
 この大人数の、
 日本国内に入ってからの経費は
 すべて日本側の負担です。
 滞在期間は、建前としては半年ですが、
 悪天候その他の事情から行程はどうしても遅れがちになり、
 普通は
 大体1年近い期間が必要になります。
 海上にある間は、それでも大して手間も費用もかかりません。
 しかし、大阪に上陸して陸路を進み始めると、
 当然この1000人という
 大行列の荷物を運ぶ人足が必要となります。
 旅行用の荷物に加えて、
 進貢用の荷物、それに
 貿易用の物資ですから、
 決して少ない量ではありません。
 さらに、道案内として諸国の大名から人数がつきます。
 それやこれやで、
 行列は
 大体3000人くらいの規模に膨れ上がります。
 これが半年がかりでしずしずと進んでいく訳です。
 一行の威儀の盛大さ、道中における饗応、接待の手厚さは
 まさに人の目を驚かせるものがあったのです。
 しかも、
 娯楽の少ない時代のことですから、
 見物や交流のため、多くの人々がその道筋にやってきます。
 当時の街道は、東海道にしても中山道にしてもささやかなものですから、
 これほどの規模の行列にゆっくりと進まれては、
 機能が麻痺してしまいます。
 そのためと思うのですが、
 通信使が来る度に、
 幕府では
 「吉道」
 と呼ばれる特別の道を、通常の街道とは別に整備します。
 このように見てくると、
 通信使の応接に巨額の費用がかかり、
 そのため、幕府財政が傾く恐れがある、
 ということが判っていただけると思います。
 家宣が将軍に就いた時には、それを祝って
 1711年に
 第8回目の通信使が来ています。先に述べたとおり、
 空前絶後の規模の通信使です。
 その際に、
 新井白石は、
 末代までの語りぐさになるほどの努力を払って、
 極力この経費を切りつめました。
 しかし、
 記録に残っているのは、
 従来
 朝鮮側の国書の宛先を
 「大君」としていたのを、
 朝鮮と対等に
 「国王」に直したとか、
 使節が将軍に拝謁する際に
 御三家が同席していたのをしないことにした、
 というような形式面の話ばかりが多く、
 具体的にどこで
 どのような経費を削減したのかはよく判りません。
 朝鮮は、
 朱子学の大義名分論を大事にするので、
 大きな論争点になるのは、
 実質的な待遇の良し悪しよりも
 形式的な面に集中するためです。
 しかし、
 白石の方では、
 本当の狙いは
 幕府の
 財政難の救済にあったはずですから、
 できる節減は全部やったはずだ、
 ということだけは確かです。
 それでも、
 陸路に当たる
 兵庫=江戸間の、京、大阪を始めとする
 各地の道普請
 あるいは
 修復、人馬割り等々の入用は、
 総額
 金19万2301両、
 米5385石に達しています。
 また、この道中のために使用された人馬の数は、
 行きの場合には、
 通しで使った人足が310人、
 寄せ人足1万0691人、
 馬9754匹です。
 帰りの場合には、
 通しで使った人足は同じく310人ですが、
 寄せ人足は1万2707人、
 馬8161匹
 という膨大な数字に達しています。
 帰りの人足が若干多いのは、贈り物や土産で荷物が増えたためでしょうか。
 したがって、
 諸大名が負担した分も含めた
 全体の経費がどのくらいに達したのかは判りません。
 が、想像するだけでぞっとするような金額になるはずです。
 この数字が、
 その前回や、
 再び元に戻した次回に比べて
 どの程度の節減になっているのかはよく判りません。
 いつものことながら、
 幕府記録の喪失のためです。
 白石だけが
 こうした記録を
 後世に残してくれたわけです。
ーーーーー
 ・・・「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の姿がみえない・・・白石の著述の何処かに彼、「三浦按針」の記述があるのかも・・・?・・・
 

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