新井白石と「正徳の治」の時代
↓
第六代将軍・徳川家宣
↓
徳川 家継
第七代将軍
(宝永六年七月三日・1709年8月8日)
~
正徳六年四月三十日・1716年6月19日)
(在任:1713年~1716年)
徳川家宣の四男
母は側室で
浅草
唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)
一時期、
徳川家の旧苗字「世良田」を用いて
世良田 鍋松(せらた なべまつ)
と呼ばれていた
↓
第六代将軍・徳川家宣の子
宝永六年(1709年)7月3日
正室・近衛熙子(天英院)との間に生まれた
豊姫は天和元年(1681年)に早世
宝永四年(1707年)
側室・おこうの方との間に生まれた
家千代も2ヶ月で早世し
宝永五年(1708年)に生まれた
大五郎も
宝永七年(1710年)八月に早世
正徳元年(1711年)に
お須免の方との間に生まれた
虎吉も早世し、
家継(鍋松)だけが生き残った
↓
正徳2年(1712年)九月二十三日
家宣が病に倒れ
家宣は
新井白石と
間部詮房(まなべ あきふさ)・・・?
「マベ」ではなく「マナベ」
間部 眞鍋
真部 眞鍋
間辺 学べ
馬部 まナベ
を呼び寄せて、 南部
「次期将軍は 奈辺
尾張の 名部
徳川吉通にせよ。 ↓
鍋松・・・・・・・「鍋松(ナベマツ)」
の処遇は
吉通に任せよ」
と
「鍋松を将軍にして、
吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」
の二案を遺言したと
『折たく柴の記』に記録・・・?
家宣が死去すると
白石は
「吉通公を将軍に迎えたら、
尾張からやって来る家臣と
幕臣との間で争いが起こり、
諸大名を巻き込んでの
天下騒乱になりかねぬ。
鍋松君を将軍として
我らが後見すれば・・・・・?、
少なくとも
争いが起こることはない」
として、鍋松の擁立を推進した。
これに対して、幕閣の間では
「鍋松君は幼少であり、
もし
継嗣(世継ぎ)が無く
亡くなられたらどうするおつもりか」
という反対意見もあったが、
白石は
「そのときは、それこそ
御三家の吉通公を迎えればよい」
と説得
また一説に家宣が、
「鍋松の成長が見込めなかった場合は、
吉通の子・五郎太か
徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、
吉通か吉宗に後見させよ」
と遺言
家宣没後
↓↑
正徳三年(1713年)四月二日
鍋松は
家継と改名し、
将軍宣下を受けて
第七代将軍に就任
家継は
詮房や白石とともに、
家宣の遺志を継ぎ、
正徳の改革
を続行した。
この間、
幼少の
家継に代わって
生母の
月光院や
側用人の
間部詮房、
顧問格だった
新井白石らが主導
↓
未亡人だった
月光院と
独身の
間部詮房の間には醜聞風評
正徳四年(1714年)
江島生島事件が起こった
↓
家継自身は
白石より、
利発で聞き訳が良いと認められていたが
正徳六年(1716年)四月三十日に死去
享年八歳
↓
尾張藩主で家継から
「継」の字の授与を受けていた
徳川継友が
間部詮房や
新井白石らに支持され
第八代将軍の最有力候補であったが、
結果として
大奥の
家宣の正室・天英院や
家継生母・月光院など、
反詮房、
反白石の
幕臣達の支持を得た
紀州藩主の
徳川吉宗(三十三歳)が
第八代将軍に迎えられた
ーーーーー
以下は
「新井白石」に対する歴史的、かつ、評価の論文だが・・・この記述者は、よく「勉強」しているなぁ~、と思うので、勝手に部分抜粋して、ボクの「?」も加え、注目文字を改行の「頭出し」として、少々改作添付・・・
↓
第3章 新井白石と正徳の治
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/03edo.htm
↓
・・・
間部(まなべ)詮房(あきふさ)
・・・元は能楽者・・・
西田清貞の子
猿楽師の
喜多七太夫の弟子
相模厚木藩主、
上野高崎藩主、
越後村上藩
間部氏初代藩主
側用人、老中格
1666~1720年
第六代将軍家宣
第七代将軍家継
の側用人
↓
間部詮房は
(徳川)家宣存命中はもちろん、
その死後も、問題にぶつかる度に
白石の意見を求めるようになります。
その家宣が将軍になるにしたがい、
白石も幕臣となりました。
が、彼はあくまでも
儒者という地位に・・・「非儒者・乱学者?」
とどまりましたから、
間部と異なり、
1709年に500石を賜り、
1711年になって1000石
に加増されているに過ぎません。
身分的にも
本丸寄合(よりあい)・・・ホンガン・本願・本貫
↓ 本丸=本陣
城の中心となる
曲輪(くるわ)で指令部
「○○丸」と呼ばれる
曲輪は織田、豊臣、
↓ 織豊系城郭の系統の城
すなわち無役のままで、
最後まで通しています。
↓
一介の寄合に過ぎなかった者が
幕政を完全に
左右していたのですから、
地位と実際に
行使した権力との
落差に驚かされます。
今の感覚でいうと、
総理大臣の
秘書官と家庭教師が、
舞台裏から完全に
国政を牛耳っている状態でも
想像すれば
よいのでしょうか。・・・「是」
・・・「階級社会維持意識」
結果は手段を・・・?
・・・「結果論は」
正当化するとはいえ、
かなり
不健全な状況・・・?
・・・「非不健全」
といえるでしょう。
しかし、
この二人の誠実さ、・・・?
・・・「主人に誠実」
言葉を換えれば、
無私の心だけは・・・?
・・・「無心=物欲が無い」
・・・「権力欲はある」
否定することができません。
いくらでもお手盛りで
自分に対する
報酬を増やせる状況にありながら、
そうした動きは全く見せていなかったからです。
↓↑
・・・ナゼ、そうはしなかったのか?・・・
・・・権力欲は物欲に勝る・・・権力>物欲
↓↑
白石は、
儒者・・・?・・「非儒者」
としては、
様々の点においてきわめて
例外的な・・・・・「非例外」
人物ですが、
この時代の
財政家としての
最大の特徴は、
数字に
明るいということです。
これまでも度々
「白石の調査数字」
を引用してきましたが、
あらゆる問題に、実に周到に
「統計調査」
を行い、それに基づいて、
合理的な思考で・・・?
「君臣の階級枠で」
問題を解決していく点に、
白石という人の優れた特徴が存在します。
↓↑
A 荻原重秀と宝永の改鋳
前章に詳述したとおり、
荻原は金貨の改鋳により、
元禄期の
幕府の
財政危機を救いました。
が、この頃になると、
経済規模に比べて・・・「非デフレ」
通貨供給量が
多くなりすぎたことから、
インフレ傾向へと
経済基調が変化していました。
しかし、
当時の普通の人々には、
そのような
通貨常識はありませんでした。
そこで、
物価上昇の原因は、
品位の低い通貨に改鋳したことにある、
ときわめて単純な論理で荻原を非難しました。
↓
(A) 金貨の改鋳
そこで、荻原は、
1710年に、きわめて皮肉な方法で反撃にでます。
宝永小判の発行です
(「乾」・・・いぬい=戌亥=犬猪=狗獅=犬鹿
の
字の刻印
があるところから
「乾字金」とも呼ばれます)。
これは、金純度が慶長小判が86.79%であったのに対して、84.29%とほぼ同一の小判です(まだ技術が低かった時代なので、個々の小判における成分比のぶれに過ぎないようです)。
しかし、その重量は2.5匁で、慶長小判の4.76匁に比べると約半分です。
だから、含有される純金だけを取り出して重量を比べると、慶長小判の51%に過ぎず、悪名高い元禄小判よりもなお少ない、という小判です。
つまり
十分に高品位でありながら、
改鋳により
幕府として
出目が・・・・・・・・・出目=骰子の目数
突き出た眼球
再検地などによる
石高の増加分
貨幣改悪鋳造によって
生じた益金。出目高
「出目米」の略
「出目金」の略
得られるという手法です。
品位の低さだけを取り上げて
非難していた人が、
非難の論理を失って当惑している顔が、
目に見えるような気がしませんか?
同様に、やはり
慶長一分金の
ほぼ半分の重量で、
ほぼ同一品位の
宝永一分金も発行します。
両者合わせて1151万5500両と、
ほぼ
元禄金銀の発行量に
匹敵する大量発行を敢行します。
↓↑
荻原重秀・・・「商品流通・物流」の「社会」では卓越な発想・・・かも、だが・・・「無生産者、消費階級の武士社会の幕府の金庫」を潤すコトが基本目的である・・・そして、未だ「ブルジワ」が成熟していた階級社会ではなかった。「流通経済社会」は浸透しつつあったが、未だ「私有社会の階級社会」でもなかった・・・
↓↑
以下は「ウイッキペデア」が原文
唐代
飛銭と呼ばれる
役所発行の手形が用いられていた
北宋
商人によって
交子・会子と呼ばれる手形が使われた
全国一律で同じ価値を持つ
交子は
他地域との
交易には欠かせないものとなっ
交子は仁宗の頃
会子は南宋になってから
政府によって発行(世界で最初の紙幣)
後に大量発行されて
インフレーションが発生
↓
銅銭・銀との兌換が前提だった紙幣は
不換紙幣へと変化
南宋末期の1246年に
増発され
北宋末と比較して
物価水準は約2倍、
紙幣の価値は
銅銭の1/3~1/4まで低下
↓
専売品との引き換えに
茶引・塩引と呼ばれる
手形も紙幣の代用品として用いられた
金国は、北宋・遼の銭貨を用いていたが、
海陵王の治世で、
交鈔と呼ばれる紙幣が発行
大量発行されて
インフレーションが発生
これらの紙幣は
使用できる年限が定まっており、
期限を過ぎるとただの紙切れ
期限前に
役所に対して手数料を払う事で、
新しい紙幣との交換は可能
1260年
元国のクビライが即位の
中統元宝交鈔(通称・中統鈔)という
有効期限の無い
交鈔が発行
交鈔は補助貨幣ではなく、
基本貨幣(紙幣)で
金銀との交換できる
兌換通貨
大量発行されて
インフレーションが発生
ーーーーー
・・・ほとんどの「貨幣・紙幣」の増幣、増刷は「官僚への給料支払いのタメ」だった・・・
・・・「支配の論理」=「支配数<被支配数」=「官僚の論理」、「組織の論理」・・・「搾取する数>搾取される数」・・・「生産=消費」、「生産>消費」、「生産<消費」・・・「需要=供給」・・・「需要>供給」、「需要<供給」・・・「市場=交換価格」・・・「使用価値」・・・
NHK・ETV「三島由紀夫(1925年1月14日~1970年11月25日)戦後史証言プロジェクト」・・・
「ナニか」を手に入れればヒトは変わる。しかも与えられた「ナニか」ではなく、自分が自分自身の「能力」で得たと思い込んでしまう「ナニか」である。
そして、それは自分にとって
「これからも自由にコントロールできる」
と思い込んでしまう切っ掛けとしての
「ナニモノのか」である。
「ナニモノ」とは「これからも自分自身で出来るモノ、出来るコト」で・・・「自我でコントロール出来るモノ」と思い込んでいる「自我意識」・・・
「三島由紀夫」の後、
「日本人論(NHK・ETV・100分de名著)」・・・に欠けているモノは「日本人(の傾向性)」ではなく、「人間の自我としての階級意識の発端、切っ掛け」と、その「階級意識の分岐」である・・・「分岐」とは「支配するもの(能動的に従わせるもの)・支配されるもの(受動的に従わされるもの)」・・・階級社会枠内での個々人の「エゴ意識の覚醒」である・・・覚醒したらどうなるんだか?・・・いずれも「大地でプチブル意識の枠内」で地位の上昇、転落、儲けの多寡の妄想で葛藤するのカモかも・・・
↓
九鬼 周造
(1888年・明治二十一年2月15日
~
1941年・昭和十六年5月6日)
「「いき」の構造」
「偶然性の問題」
「人間と実存(哲学私見)」
↓
河合 隼雄
(1928年・昭和3年6月23日
~2007年・平成19年7月19日)
日本の心理学者
京都大学名誉教授、
国際日本文化研究センター名誉教授
文化功労者。元文化庁長官
専門は分析心理学、臨床心理学、日本文化
兵庫県多紀郡篠山町(篠山市)出身
ユング派分析家
日本における分析心理学の普及・実践に貢献
箱庭療法を日本へ初めて導入
著作
「母性社会日本の病理」
「中空構造日本の深層」
「日本人の心のゆくえ」
「日本人という病」
「日本文化のゆくえ」
↓
鈴木 大拙(だいせつ)
本名は太郎(ていたろう)
(1870年11月11日・明治三年10月18日
~
1966年・昭和41年7月12日)
日本の禅文化を海外に紹介
仏教学者(文学博士)
「日本的霊性」
大拙は仏教の核心に、
「霊性の自覚」を見出した
仏教の霊性的自覚というのは
「即非の論理の体得」
「日本的霊性」
霊性
大知性・莫妄性・無分別智
・・・ボクとしては「中空構造日本の深層」が面白かったけれど・・・高天原に成った神の名は、
↓
天地初發之時、於高天原成名、
天之御中主
(訓高下天、云阿麻。下效此)、
次
高御產巢日、
次
產巢日。
此三柱者、
並
獨
成坐而、
隱身也。
↓
「天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」
の
「天之御中主神」の役柄、役職が不明で
「天照大御神・須佐之男・月読命」
の、
「月読命」の役柄、役職が不明であるコトが
「中空(曖昧・無責任・灰色・中間・媒介空間・うつぼ)構造」と説明され、「中空」は「無責任・妥協・取り込む」日本人の傾向性と・・・論議?されていた。
だが、
「天之御中主神(テンシオンチュウシュウシン)」
も
「月読命(ゲツドクメイ)」
も、「漢字(真名仮名)」の「意味」であり、「音」であるコトには変わりがない。
そして「天之御中主神」は
「獨成坐而、隱身也」
で三神一括の「神」として説明され、
「月読命」も「夜之食國」、あるいは「大氣津比賣神・大宜津比賣」と同じ神らしく、「爲穢汚而奉進」=「汚きモノを吐き出した神」として「須佐之男に殺された」と説明され、その後、「故是・產巢日御祖命」ている。これは「御祖(ゴソ)」の字が抜けた「產巢日」である・・・
・・・「新井白石」は漢字を「ニホン語の音(音写)」で採れ、と解釈しているらしいが、「古事記」を記録した人物は「漢字の意味も音」も学習した後に「ニホン語の音も、漢字の意味も採って重ねた」のである・・・