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コジキジゲン

ユウ・ユウァ・ユウ・・・云う・結亜・遊・・・

2015-01-10 23:04:59 | 古事記字源

 ・・・「TV・東京・北海道7チャンネル」、「YOUは何しに日本へ?(再)▽剣術道場へ入門するドイツ人▽しばり術を学びに来たというデンマーク人カップル▽社交ダンス大会に出る14歳ロシア人▽ベトナムからの旋盤・溶接の研修生…などが登場!!!!」・・・「天真正伝香取神道流・大竹先生」に入門、ドイツ人「アルパー」さん、「土方歳三」のファン・・・「血判」して入門・・・「エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」・・・「平松武兵衛(武平)=スネル(Schnell)」・・・「1869年(明治二年), エドワード・スネルがワカマツ・コロニーを建設」・・・シェイク=shake(振る)、ルビを振る・・・フォール(落ちる・落とす・fall・let something fall)・・・keep up・・・文字をフォロー(Follow)・・・hold(ホールド)・・・Hold on・・・Hold up・・・
 「スネル=すねる=拗ねる=素音留」、アレ、コレ・・・「ペコピ?、ピコペ?」・・・「コピペ=コピー&ペースト=Copy and Pasteの略語」・・・
ーーーーー
  ↓
 横浜開港とほぼ同時期に来浜した
 スネル兄弟は 当初から
 山下居留地44番館に 住んでいた。
 横浜が開港された
 安政六年(1859)に来日した。
 そのとき
 兄ヘンリーは十七歳、
 弟エドワルドは十六歳
 といわれる・・・
 慶應三年七月十五日
  ↓
 オランダ人、
 プロイセンの
 シャルジェ・ダフェール公使の
 書記官をしていた
 スネル(Henry Schnell)が侍に襲われる
  ↓
 彼が弟のエドワードと馬車で江戸に戻ってきたところ、突然、侍が一人、馬の前に飛び出してきた。
 スネルは馬首を廻らせて男に触れずに通り過ぎようとしたが、馬車が斜め前に来たところで男は刀を抜き、スネルの隣に座っていたエドワードに一撃を浴びせようとした。だが、素早く放たれた拳銃によって襲撃者は胸に銃弾を受けたという
 (『ポルスブルック日本報告』208p.~209p.)
  ↓
  『維新史料綱要』巻七
 慶應三年七月十五日の項
 このとき、馬の前に飛び出してきた侍は、沼田藩士
 三橋昌で、彼の襲撃を禦ごうとして発射された拳銃の銃弾が、誤って
 下駄商
 幸次郎の雇人
 淺次郎を傷つけた由である。
 翌日、「スネル」兄弟は、この襲撃事件を幕府に訴え、暴行者の逮捕を求めた。
 事件から
 二日後の
 十七日、 沼田藩は、書面をもって、幕府に、三橋昌を拘禁したことを報告している。
  スネルのこの事件について、
 デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは、
 1867年8月22日
 (慶應三年七月二十三日)付け書簡
 (ARA, MIBZ. No.3146, Brief No.80/82)
 によって、例のとおり、
 スフラーヴェンハーゲの外務大臣に報告
ーーーーー
  ↓
 「平松武兵衛(武平?)=エドワルド・スネル?」
 「スネル兄弟は、幕末期の商人。
  兄はジョン・ヘンリー・スネル。
  弟はエドワルド・スネル。
  オランダ出身とされる。
  出身地も没年も不明・・・
  1860年に
  プロシアが日本と通商条約を結ぶと、
  初代領事として
  マックス・フォン・ブラントが赴任する。
  兄・ヘンリーはその下で書記官を務めた」
  ↓
 「ジョン・ヘンリー・スネル
 (John Henry Schnell、1843年?~1871年?)」
 「エドワルド・スネル
 (Edward Schnell、1844年?~没年不詳)」
 ・・・
ーーーーー
  ↓
 明治維新人物伝
http://matome.naver.jp/odai/2130686534339674801/2131359814756096103
 兄弟は
 万延元年(1860年)に
 プロシアが日本と通商条約を結んだ際に、
 日本に赴任した初代領事である
 マックス・フォン・ブラントの下で
 兄「ヘンリー」は書記官を務めた。
 弟「エドワルド」はスイス総領事書記官であった。
   ↓
 書記官務めの後、
 スネル兄弟は
 新潟に移り、
 エドワルドは
 「エドワルド・スネル商会」を設立
 長岡藩の
 河井継之介は、
 スネル兄弟との密接な関係を築き上げ、
 当時最新鋭の
 元込め銃、そして当時日本に
 3台しか無かった
 ガトリング砲を2挺購入し、
 北越戦争で
 長岡藩は官軍を苦しめた
  ↓
 スネル兄弟は
 戊辰戦争において、
 旧幕府軍に対して協力し続け
 兄・ヘンリーは
 会津にて軍事顧問を務め、
 更には
 米沢藩の軍事顧問をも兼ねたことで、
 奥羽越列藩同盟全体の
 軍事顧問としての立場となってゆく。
 会津藩主
 松平容保は
 ヘンリーに
 「平松武兵衛」の名を与え、
 屋敷も提供しその労に報いた。
 戊辰戦争勃発当初は
 外国から武器弾薬を運輸し、
 奥羽越列藩同盟に全て送り込んだ。
 新潟港は後に北越戦争で陥落し使用不能となるが、
 この時
 弟のエドワルドは陸揚げ中であり、
 官軍に捕縛されるが、すぐに釈放。
  ↓
 スネル兄弟が
 戊辰戦争を単なる金儲けとして
 旧幕府軍に
 肩入れしているのではなかった・・・
  ↓
 戊辰戦争が終結し、官軍の勝利に終わった後、
 ヘンリーは
 1869年
 カリフォルニア州に
 会津若松の人々
 約40人と共に移住・・・
 戊辰戦争敗戦後、
 領地を召し上げられ
 窮地に陥った会津藩の人々を
 スネルは救済
 サンフランシスコ
 北東の
 ゴールド・ヒルに移民。
 ヘンリーはここに
 「若松コロニー」という名の
 開拓地を建設、開拓したが
 日本産の
 茶や桑などが気候が合わず育たなかった
 為、その後
 ヘンリーは
 金策の為に日本へと向かった
 が、
 若松コロニーに戻る事はなかった・・・
 若松コロニーは
 初の日系移民入植地
 現在ゴールド・ヒル地区には、
 初の日系女性移民である
 「おけい」の墓が残っている
  ↓
 弟エドワルドは
 新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた
ーーーーー
  ↓
 http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6448.html
 庄内藩や会津藩、米沢藩、長岡藩
 など
 奥羽越列藩同盟と
 取引があった「スネル兄弟」・・・
 「庄内藩」と付き合いがあったのは、
 弟の
 「エドワード・スネル」
 スネルは、米沢藩の記録では、
 「山師的商人で、
  年頃30歳前後、
  眉目清秀、実に美男子」・・・
 庄内藩が
 戊辰戦争(1868~1869年)で、
 近代的装備を揃え・・・
 全戦全勝して降伏・・・
 慶応四年四月
 庄内藩は
 清川口、吹浦口、瀬場、羽黒、大網口に派兵し、
 国境を固め官軍を阻止
 戦いを優位に進めながら
 降伏した・・・
 使用した銃はアメリカ製
 庄内藩を資金面で支援したのは
 酒田・本間家で、
 当主の
 本間光美(こうび)には
 エドワード・スネルとの
 大量の武器取引した記録がある
  ↓
 「約定書」には、
 短シャープ騎兵銃600梃、
 スプリングフィールト銃300梃、
 短エンフィールド銃70梃、
 シャープ騎兵銃弾60万発
 などとある。
 これらの銃は、
 南北戦争
 (American Civil War, 1861~1865年)
 で使われた
 中古銃で、
 当時の日本に大量に輸入され、
 戊辰戦争の主力武器として使われた・・・
 戊辰戦争は
 アメリカの内戦・南北戦争が終結して
 3年後に勃発しているのが、
 双方
 アメメリカの
 お下がりの武器で戦った
 1877年(明治十年)
 「西南の役」当時は、
 世界中から武器弾薬が日本に集まり、
 世界で一番の銃保有国になった・・・
  ↓
 ウィキペディア
  ↓
  兄・ヘンリーは明治維新後、
 1869年に
 カリフォルニア州に
 会津若松の人々約40人と共に移住
 サンフランシスコの北東にある
 ゴールド・ヒルに
 「若松コロニー」という名の開拓地を建設
 持ってきた日本の
 茶や桑などが育たず、
 1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。
 1871年4月、
 ヘンリーは金策をしてくると言い、
 日本へと向かったとされるが、
 その後、
 彼がこの地へ戻ってくることは無かった。
 日本で秘密裏に暗殺された・・・
 弟は新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた。
 1882年頃まで日本国内で活動していたが、
 それ以降の消息は不明・・・
ーーーーー
  ↓
 日米交流
Japan-US Encounters Website
http://www.japanusencounters.net/sub_schnell.html
  ↓↑
 慶応1(1865)年6月17日付けの記述である。
 いわく、
 神奈川奉行、書を外国奉行等に致し、
 瑞西(スイス)国書記官・スネルより
 交趾支那(コーチシナ=ベトナム南部、
      メコン川下流地方)
 サイゴン府の
 米
 百五十萬担を
 本邦へ輸入せんことを勧誘せる旨を報じ、
 その指揮を請う。
  ↓
 更に
 同、慶応3(1867)年7月15日
 付けの記述いわく、
 普国(プロシャ国=プロイセン)
 代理公使館
 書記官ヘンリ・スネル、
 其弟
 エドワード・スネルと倶に馬車に乗じ、
 田町(江戸芝)を過り、
 沼田藩士
 三橋昌のために襲われ、
 之を禦がんとして
 拳銃を以て狙撃し、
 誤て邦人
 (下駄商、幸次郎の雇人、浅次郎)
 を傷く。
 と、
 スネル兄弟が
 江戸の芝・田町で暴漢に襲われ、
 ヘンリー・スネルの撃った拳銃の弾が、
 誤って近くの商店の日本人を傷つけたと云うもの
 (大日本維新史料稿本・続通信全覧)
  ↓
 戊辰戦争の
 新政府軍の
 新潟攻撃で、
 弟の
 エドワード・スネルは
 戦争に巻き込まれ
 多額の財産を失っている。
 明治5(1872)年になって
 エドワード・スネルが
 明治政府に賠償要求を出し
 4万ドルの償金を得ているが、
 その時の文書には
 「和蘭人・スネル」と、
 オランダ人として出て来る
(日本外交文書デジタルアーカイブ
 ・第5巻、第6巻)
  ↓
 兄のヘンリー・スネルが
 会津の移民を引き連れ
 サンフランシスコに上陸した時点で、
 現地の新聞は
 「プロイセン人」と報道
 即ち、
 兄は「プロイセン人」で、
 弟は「オランダ人」・・・
 ・・・弟のエドワード・スネル・・・
 オランダ公使まで巻き込んだ
 日本側の公式な
 賠償請求史料の如く、
 オランダ人・・・
  ↓
 日本とプロイセンの
 修好通商航海条約
 プロイセン使節
 オイレンブルクと
 交渉中に突然割腹自殺をとげた
 外国奉行・故堀利煕(としひろ)に代わり、
 3ヶ月程前にアメリカから帰国した
 外国奉行・村垣範正や、
 同・竹本正雅、
 目付・黒川盛泰との間で
 万延元年十二月十四日
 (1861年1月24日)
 に調印され、
 2年後に
 プロイセン領事・フォン・ブラントが来日
 それ以降、
 プロイセンは
 1866(慶応2)年の
 オーストリア帝国との戦争に勝利し、
 北ドイツ連邦の盟主になった
 一時帰国した
 フォン・ブラントは
 代理公使に昇格して日本に帰任し、
 この経緯と
 新しい北ドイツ連邦の関係を説明する
 1867(慶応3)年4月22日付けの
 文書を幕府に提出している
 (大日本維新史料稿本・続通信全覧)
  ↓
 4月22日付けの文書の原文は
 ドイツ語だったはずだが、
 日本語に翻訳された
 文の末尾には
 「イ・・・・・・?異
  ヘンイ・・・・?変意
  スネル・・・・?拗ねる・素音留
  訳」
 と出てくるから、
 当時
 プロイセン公使館書記官の
 ジョーン・ヘンリー・スネルが
 ドイツ語からオランダ語への翻訳を行い、
 オランダ語訳文と共に
 ドイツ語原文を幕府に提出し、
 日本側で
 オランダ語訳から日本語へ訳された・・・
 横浜開港当時日本と諸外国間での
 公用語はオランダ語だった・・・
 アメリカ公使館でも
 ヒュースケンや
 ポートマン等の
 オランダ系アメリカ人が
 オランダ語を使う書記官として活躍
 オランダ語をよく操った
 スネル兄弟が
 ドイツ語圏の
 プロイセンやスイスの公使館で
 オランダ語を使う書記官を務めたのは、
 自然・・・
  ↓
 明治元(1868)年七月二十七日付けの、
 戊辰戦争で新潟港まで
 進攻した新政府軍の
 摂津丸(摂津艦)と
 丁卯(ていぼう)丸(第一丁卯艦)
 の2艦からの
 報告書にいわく、
  ↓
 当正月より
 会津にまいり居り候
 プロイセン人、
 当時
 平松武兵衛と
 申す者の弟
 スネルと申す者、
 よほど賊のため
 外国の事
 周旋いたし候由。
 (大日本維新史料稿本・
  新潟駐在官軍軍艦報告書)
  ↓
 ここでの「プロイセン人」は、
 文脈からみて
 平松武兵衛を名乗る兄
 「ジョーン・ヘンリー・スネル」の事であり、
 「弟・スネル」を
 プロイセン人とは言っていない・・・
 兄・ジョーン・ヘンリー・スネルは
 明治元(1868)年1月から会津に来ていた
 江戸から会津に帰国した
 前藩主・松平容保は
 四月十日に新政府軍に対抗する
  「会津・庄内同盟」を盟約していた
 月末には
 旧幕府老中
 小笠原長行や
 陸軍奉行
 竹中重固
 等が会津にやって来、暫くして
 旧幕府老中
 板倉勝静も参加
 そんな中で
 ヘンリー・スネルは
 五月に松平容保に会い、
 軍事顧問として
 「平松武兵衛」という日本名を貰い、
 若松城下の
 西に屋敷を与えられた
  ↓
 兄「ヘンリー・スネル=平松武兵衛」は、
 七月下旬に
 新政府軍が新潟に攻め込む数ヶ月前には
 会津から新潟近辺に出て来て、
 会津藩士
 田中茂手木(もてぎ)の
 通訳で
 米沢藩などの軍事相談に乗ったり、
 七月中旬には
 奥羽越列藩同盟の重役と会議を持ち、
 同盟が新潟を開港して
 外国と取引するには
 専門家を駐在させねばならないと建策したり、
 サイゴン辺りから
 3千人程の傭兵を連れて来る
 等のアイデアを出したりしている
 (大日本維新史料稿本)
  ↓
 弟のエドワード・スネルは、
 水運に便利な
 新潟の街中の
 東掘(片原堀)前通りの
 山木商店に拠点を構え、
 武器、弾薬や必需品を
 会庄同盟・奥羽越列藩同盟になる側の
 庄内藩を始め、
 長岡藩、会津藩、米沢藩等に供給していた
  ↓
 兄のヘンリー・スネルについては、
 スネルの兄は近頃
 会津藩に召抱えられたと云って、
 日本服を着用し、
 「丸に葵」の
 紋付羽織に
 袴を穿き
 大小を佩び、
 自ら
 平松武兵衛と改名した・・・
  ↓
 既に会津藩で
 平松武兵衛を名乗り、
 日本装束に
 脇差も差す事を許された程に、
 松平容保や
 会津藩重臣達の信頼を勝ち得てい
 会津藩から、軍事顧問に招かれた・・・
 (横尾東作翁伝)
  ↓
 これは、
 長岡藩家老
 河井継之助が
 江戸呉服橋の藩邸引払いの際に、
 信頼する
 弟のエドワード・スネルに頼み、
 藩邸にあった主家の
 家宝や収集した書画・什器類を
 横浜在留外国人に売却し
 数万両を手に入れ、
 撤退時に最新式の
 大砲や小銃など武器類を
 スネルから購入し、
 スネル所有の
 汽船を借り上げて積み込み、
 藩邸倉庫の米穀をも積込み、
 桑名候(松平定敬)はじめ
 長岡・会津・桑名の
 藩兵300人余りを乗せ、
 江戸から
 横浜・箱館経由新潟に向かっている
 (河井継之助傳)
  ↓
 会津藩は
 河井継之助を通じ
 スネル兄弟を知り、
 武器購入も行った・・・
 新潟には
 スネル兄弟が滞在した時期があった
 1月に兄のヘンリー・スネルは
 新潟から会津に来ていて、
 会津に逃れて来た
 旧幕府方の
 閣老
 板倉伊賀守や
 小笠原壱岐守も出席する場で
 洋式の軍備や戦略を建策
 (大日本維新史料稿本・
  史談会速記録第91輯)
 弟のエドワード・スネルが武器を供給し、
 兄のヘンリー・スネルが軍事顧問
  ↓
 スネル兄弟
 プロイセン西部と
 オランダ東部の
 低地ドイツ語やオランダ語も
 話される地方に生まれ、
 兄のヘンリー・スネルは
 「将軍」とも呼ばれた・・・
 2人は
 ドイツ語とオランダ語の
 出来る書記官として日本で仕事を始めた
  ↓
 兄・ジョーン・ヘンリー・スネルが
 サンフランシスコ上陸時に
 現地新聞に
 「プロイセン人」と名乗ったのは、
 本来の国籍を伝えた筈で、
 日本の当時の記述とも矛盾しない・・・
  ↓
 平松武兵衛こと
 ジョーン・ヘンリー・スネル
ーーーーー
  ↓↑
 以下はボクのHPの小説
「エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/blue/blue1.htm


 

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カンスウ・ƒ・・・箱(函・匣・波来・葉子)館戦争・・・榎本×黒田

2015-01-10 20:41:12 | 古事記字源

・・・函館・・・箱館・・・「榎本 武揚(えのもと たけあき、天保七年八月二十五日(1836年10月5日)~明治四十一年(1908年)10月26日)・幕臣・外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川」。名は「ブヨウ」とも・・・「榎本ブヨウ」・・・
 「函館=箱館」戦争の結果論・・・「y = f(a-x)」とするならば、「y」は「蝦夷共和国の成立」、「(a)」は「投入兵力」、「(x)」は「消耗兵力」・・・
 「北海道共和国(y)」は「a」=「陸海軍の兵力、と指揮官」で戦い、変数「(x)」次第で「成立」すると考える・・・この「論理」にはムリがある・・・
 ・・・ f(x)=y・・・が一定で、これは数学的には定数関数と認識される・・・
 だが、相手の「兵力」も、「兵站力」も「精神力」も、「天候状況」も、「国際関係の外国状況」も考慮されていない・・・しかも、「箱館戦争」は過去的事後の「ifとしての結果論」である・・・「未来」では無い・・・
ーーーーー
 榎本 武揚(釜次郎)・海軍中将・正二位勲一等子爵
 江戸下谷御徒町(東京都台東区御徒町)に生まれた
 父は
 箱田良助
 備後国
 安那郡
 箱田村(広島県福山市神辺町箱田)出身
 榎本武由(武兵衛)の娘
 「みつ」と結婚して、
 婿養子として幕臣
 榎本武規(円兵衛)と改名
 伊能忠敬の弟子・・・
  ↓
 榎本武揚は幼少の頃から
 昌平坂学問所で儒学・漢学、
 ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ
 私塾では箱館戦争を共に戦った
 大鳥圭介と出会った
 19歳
 箱館奉行
 堀利煕の従者として
 蝦夷地
 箱館(函館市)に赴き、
 樺太探検に参加
 安政三年(1856年)
 長崎海軍伝習所に入所
 西洋の学問や
 航海術
 舎密学(化学)などを学ぶ
 文久二年(1862年)9月
 内田恒次郎・赤松則良・澤太郎左衛門、
 「西周助」らと共に長崎を出航してオランダ留学
 文久三年(1863年)4月
 オランダ・ロッテルダムに到着
 元治元年(1864年)2月
 赤松則良とともに
 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
 を観戦武官として経験
 後、エッセンのクルップ本社を訪れ、
 アルフレート・クルップと面会
 幕府が発注し、当時オランダで建造中の
 軍艦
 「開陽」に搭載する大砲を注文
 最終的に
 「開陽」には
 18門のクルップ施条砲が搭載
 オランダで
 国際法や軍事知識、
 造船や船舶に関する知識を学んだ
 慶応三年(1867年)3月
 「開陽」と共に帰国
 慶応三年(1867年)10月14日
 徳川慶喜が大政奉還
 榎本の率いる幕府艦隊は
 兵庫沖に結集し、
 停泊していた薩摩藩ら他藩海軍に圧力をかけていた
 慶応四年(1868年)1月3日
 鳥羽・伏見の戦い
 戊辰戦争が始まった
 幕府艦隊は大阪湾に停泊、
 1月4日
 阿波沖海戦で薩摩藩海軍に勝利
 鳥羽・伏見の戦いで
 旧幕府軍が敗北
 榎本は1月6日午後、
 幕府陸軍と連絡を取るため大坂城へ入城
 徳川慶喜はその夜、大坂城を脱出
 1月7日朝、
 榎本不在の旗艦「開陽」に座乗、
 1月8日朝に江戸へ引き揚げた
 後に残された榎本は
 矢田堀景蔵と共に、
 榎本は大坂城内にあった
 18万両を
 「富士丸」に積み、
 旧幕府軍側の兵士達と共に江戸品川沖へ撤退
 撤退後、徳川家家職の
 海軍副総裁に任ぜられ、和泉守を名乗る
 幕府海軍総裁であった
 矢田堀は、新政府側へ恭順の慶喜に従ったが
 榎本派は徹底抗戦を主張し幕府海軍を抑える
 榎本は小栗忠順などと共に主戦論を主張
 同年四月十一日
 新政府軍は江戸城を無血開城
 幕府海軍艦隊を引渡すことを要求
 榎本は拒否し、悪天候を理由に
 七隻を連れて
 品川沖から
 安房国館山に退去
 勝海舟の説得により
 四隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)だけを
 新政府軍に引渡し、
 「開陽」等主力艦を温存
 五月
 徳川家は
 駿河、遠江
 七十万石に減封
 艦隊は徳川家臣団の
 駿府移封の作業に従事
 徳川家が約八万人の幕臣を養うことは困難となり、
 榎本は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、
 北方の防備と開拓にあたらせようと画策し、
 朝廷に対して
 「蝦夷地殖民認可の嘆願書」を提出
   ↓
 蝦夷地殖民は拒否
 徳川家臣団の駿府移封が完了後
 再び幕府艦隊の引渡しを要求され、
 榎本は8月19日
 抗戦派の旧幕臣とともに
 「開陽、回天、蟠竜、千代田形、
  神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸」の
 八艦から成る
 旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出
 東征軍に抵抗する
 奥羽越列藩同盟の支援に向かった
 若年寄・永井尚志、
 陸軍奉行並・松平太郎
 彰義隊の
 大塚霍之丞・丸毛利恒
 遊撃隊の
 見勝太郎・伊庭八郎
 旧幕府軍事顧問団の一員だった
 ジュール・ブリュネ
 アンドレ・カズヌーヴ
 らフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船
 出港翌日
 暴風に見舞われ艦隊は離散、
 清水沖に流された
 咸臨丸は新政府軍に発見され拿捕
 咸臨丸・美賀保丸の2隻を失う
 九月中旬
 仙台東名浜沖に集結
 榎本は庄内藩支援のために
 千代田形
 と
 陸兵約100名を乗せた
 運送船2隻(長崎丸・太江丸)を派遣
 奥羽越列藩同盟は崩壊し
 米沢藩、仙台藩、会津藩
 が降伏
 庄内藩も援軍が到着する前に降伏
 榎本は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船
 太江丸、鳳凰丸と、
 桑名藩主・松平定敬、
 歩兵奉行・大鳥圭介、
 旧新選組副長・土方歳三
 らと旧幕臣からなる
 伝習隊、衝鋒隊、
 仙台藩を脱藩した
 額兵隊などの兵、約2,500名を吸収して、
 十月十二日
 仙台を出航
 途中、幕府が仙台藩に貸与して
 海賊に奪われていた
 千秋丸を拿捕し、
 さらに宮古湾に寄港し
 旧幕臣の保護を旨とする
 嘆願書を新政府に提出して、
 蝦夷地を目指した。
 十月十九日
 蝦夷地
 箱館北方の
 鷲ノ木に上陸
 十月二十六日
 五稜郭を占領
 十一月一日
 榎本は五稜郭に入城
 十二月
 蝦夷全島平定が宣言
 「蝦夷共和国」を樹立
 十二月十五日
 「入札(選挙)」実施により総裁
 江差攻略作戦で
 「開陽」が座礁事故により喪失
 翌明治二年(1869年)二月
 局外中立の米国は、新政府支持を表明
 幕府が引渡未了だった当時最新鋭の
 装甲艦
 「ストーン・ウォール」は
 「甲鉄」と命名され、新政府へ引き渡される
 榎本は「甲鉄」を
 移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する奇策を実行
 至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し
 至近距離で自国の旗に切り替える
 騙し打ちを計画し
 榎本はこの作戦を
 「回天」、「幡竜」、「高雄」の
 3艦を当て
 「回天」の艦長の
 甲賀源吾を任じた。
 同艦には
 土方歳三も座乗
 暴風に見舞われ、
 「幡竜」は離脱、
 「高雄」も機関が故障
 「回天」1艦のみでの突入
 幕府海軍はガトリング砲の砲火を浴び、
 占拠に失敗、甲賀艦長も戦死
 (宮古湾海戦)
 同年五月十七日
 自軍兵士の逃亡、
 新政府軍工作員による
 弁天台場の火砲破壊、
 箱館湾海戦による全艦喪失
 榎本は降伏
 榎本は、
 オルトラン著
 『万国海律全書』
 (自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を
 蝦夷征討軍海陸軍総参謀
 黒田了介に送った
 黒田は榎本の助命嘆願活動により
 東京丸の内
 辰の口の牢に投獄
 福澤諭吉も助命に尽力
  ↓
 明治五年(1872年)一月六日
 榎本は特赦出獄
 同年三月八日
 黒田清隆(了介)が次官を務める開拓使に
 四等出仕として仕官
 北海道鉱山検査巡回
 明治七年(1874年)一月
 駐露特命全権公使
 同年六月
 サンクトペテルブルクに着任
 翌明治八年(1875年)八月
 樺太・千島交換条約を締結
 マリア・ルス号事件で
 ペルー政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、
 ロシア皇帝アレクサンドル2世が
 調停に乗り出したことから、
 同年六月
 サンクトペテルブルクでの裁判で勝訴
 駐露公使就任にあたって、
 海軍中将に任官
 駐露大使時代は
 サンクトペテルブルク
 地学協会に加盟していた
 明治十一年(1878年)
 シベリア経由で帰国
 シベリアに対し精細な科学的な視察を行い、
 「西伯利亜日記」を記す
 帰国後
 外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清特命全権公使、条約改正取調御用掛等を歴任
 明治十八年(1885年)
 内閣制度の成立後
 6つの内閣で
 逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任
 文相・外相の前後に枢密顧問官就任
 日清戦争の戦時内閣時
 農相在任は三年余
 農商務大臣時代
 足尾鉱毒事件について
 予防工事命令
 現地視察
 国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし
 大隈重信らにその重要性を説諭、
 鉱毒調査委員会を設置し、
 自身は引責辞任
 明治二十三年(1890年)
 子爵
 大日本帝国憲法発布式で
 儀典掛長を務めた
  ↓
 北海道開拓に関与した経験から、
 明治二十四年(1891年)
 徳川育英会育英黌農業科(東京農業大学)を創設
 黌長
 明治十二年(1879年)
 渡辺洪基らと共に
 「東京地学協会」を設立し、副会長
 明治二十一年(1888年)~同四十一年(1908年)まで
 電気学会初代会長
 を務めている。
 明治32年(1899年)4月
 黒田の娘と
 榎本の長男が結婚
 明治四十一年(1908年)
 死去、享年73。
 墓所は東京都
 文京区の
 吉祥寺
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 明治二年(1869年)
 十一月二十二日に
 黒田清隆(了介)は
 十六歳の
 「中山清(せい)」と結婚・・・
 ・・・榎本のために「丸坊主に剃髪」した「黒田の娘」って・・・「梅子」・・・
 子供に恵まれず
 清の妹
 「百子」を養女した
 百子は成人後に
 陸軍軍人の
 黒木為に嫁いだ
 清(せい)は
 二十四歳の若さで
 肺の病により亡くなったとされるが、
 黒田が殺害との風聞・・・
 その後、
 黒田は41歳で
 材木商
 丸山伝右衛門の娘
 「滝子」と再婚
 娘の
 「梅子」
 と
 嗣子の
 黒田清仲・・・・・独身のまま32歳で逝去
 を授かり、
 「梅子」は
 榎本武揚の長男
 榎本武憲と結婚
 黒田清仲には嫡子がなかったため、
 黒木為の三男の
 黒木清を養嗣子とした
ーーーーー
 ・・・


 

コメント
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