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コジキジゲン

日没・・・「数字」のない目安・・・

2015-01-30 16:29:46 | 古事記字源

 ・・・「新井白石」・・・「学問=知識の追求」の「目的」とはナンなのか・・・「文字」は「階級社会」の「使用価値」のあるモノとして「利用」されてきたのだ。歴史的時間の経過としての記録された既存の「文字」の「学習」と「習得」は「階級社会の出世」の「道具」である。階級社会の「出世での衣食住の確保」の「手段」であり、「科挙制度」も煎じ詰めれば、身を切った「宦官制度」と同類である。支配体制維持の「官僚」になれるかどうかの「条件」である。
 だが、単に「文字の記憶、諳誦」だけでは出世の保障はない。文字で記録された内容の理解力と、判断力、そして、それを駆使した現実的な人間諸関係の中での「状況分析」と、「実行力」である。
 階級社会での決定権は序列社会の上司である。
 「文武両道」と言うが、階級社会での出世は、「知識教養」、「武術技能」だけではそれを保障しない。
 縁故、血縁など、諸々の関係性の壁の高低が存在する。
 そして、「要領」の「善し悪し」・・・・「ヨウリョウの是非」とは微妙なコトバであるが。
 「人間」は時代的な「階級社会・階層社会」の枠内中で
 「感情的な感性(好き嫌い)」と
 「思想的な理屈(善し悪し)」の
 「選択判断」で蠢いている。
 その人間諸関係での
 「心理」は複雑で単純ではないが、
 ほとんどが
 「思想=信念・信条」では動かない。
 「感情=情念・心情」で動く・・・「喜怒哀楽」
 「自己保身」は「自己存在」の生理的原点で・・・相手に要求しても「原則は自分には当て嵌めない」の「倫理・道徳」は、これにプラスアルファである・・・
 「人間」を観察するには
 「歴史的な身上」と
 「学習した思想」と
 そして、現在的な
 状況、環境での
 「心理的」な
 「価値判断」の傾向性を知る必要があるだろう・・・ 
 「信念・信条」で命を「マットウ」するヒトはゴリッパであるかな・・・
 「武装テロリスト」と云えども同類である。
 しかも、奴等に「選択、決断」の「悪知恵」を提供してりるのは「TV・ラジヲ・新聞」等の彼らの次の「行動」の多様性の可能性を「推理・推断・憶断」して披露している、その「情報提供」の「愚かしさ」である。
 「テロ」にも「戦争」にも打ち勝つためには、これらの「情報」を一般公開の「ビジネス」として「敵対者」にも結果的に提供するのは愚かとしか言いようがない・・・「プチブル意識(出世・儲け)の国家幻想」では「個々人の命」をマモるコトを前提とはしてイナイ・・・「国家」は「国家支配体制=階級維持体制」のみを「国家の意志」としているのである・・・軍事参謀は「敵の状況把握の情報」は必要であれ、「味方の情報漏洩」は望むはずもない・・・この時期、「TV・ラジヲ・新聞」等の「情報統制」を切望するだろう・・・それでも、現在的な「情報」は「インターネット」で拡散されていく・・・「文章、文字の読解・誤解・曲解」もアルが・・・それらは織り込み済みである・・・
 「文字知識」
、文章の内容解読はモチロン、「記録の文章」の「個々の文字自体」の意味する内容の理解度はかなり、怪しいものである・・・「コトバの習得」は「文法の習得」からは始まらない・・・親子、兄弟姉妹、自は分自身の存在を支えてくれる環境とのコミュニケーションから始まり、「コトバの文法」は、その後からの「学習」による・・・
 発明された「抽象化(共通理解・一般理解・相互理解)された文字」で、文字の学習者、既知として知っている者を、その意味内容を「認識対象の本質」として唯一「事実」と理解させ、させしめるモノは
 「アラビア数字(0・1・2・3・4・5・6・7・8・9)」の
 「記号文字」である・・・・
 「象徴的意味」を有する場合もあるが、
 「数字記号」にはそれ自体以外の意味はない・・・・
 「10進法」として加減乗除の「計算としての約束事の結果の数字」も、
 その「数字の本質」を踏まえた共通結果の理解でも、
 答えは「異なった数字」とはならない・・・答えは「唯一」である。
 「1+1」=「2」であるコトは既に「文字・数字・数式」を知っている個々人、萬人の共通理解で、それ以外の「結果理解」はない・・・
 だが、個々の「数字」に「数でない意味」を付与した段階から事情が変化する。そして、「数式」をコトバで説明したら、「1に1を加えたら、答えは11」ともなってしまう可能性がある・・・「11」を「二」、あるいは「十一」と理解するかどうかは個々人の知識理解度のレベルによるが・・・
 「1+1=11」
 となり、これを踏まえた「漢数字」の
 「一+一」=「十一・壱壱・拾壱」、
 あるいは、
 記録された記号の「+」も「漢字」としたら
 「一+一」=「王」ともなる・・・
 ・・・「文字」は「階級社会」の支配階級の「官僚・陪臣」に「記憶の記録」と「利用」されてきたが、この階級社会で、「文字知識」は拡散されるのが必然であった。第一に「数字の本質理解」である。
 その理由は簡単で「階級社会」での「商売・交易・税金徴収」には「数字」と、その「計算結果の数字」には階級を超えた「共通理解・相互理解」が必要だった。
 そして、「建築・土木・河川工事」の「正確」さを保証するのは「数字」を前提とする「技能・技術」である。
 時代は、いずれ「農耕」、「工芸」、「造船」などの「技能・技術」の「共通理解」の正確さにも「数字」は必要とされた・・・当然のこと「戦争技術」にも、「政治技術」にも・・・「占いの数字、吉凶の数字は共同体存亡の知識、技術」であった・・・そして「骰子の数字」は「博奕」である・・・
 「数字」以外の他の対象認識を前提とした「具象文字」も、それらを前提にした観念的感情の「抽象文字」も、その理解度の解釈の巾は広い。そして「曖昧性」は必然である。
ーーーーー
 「三浦(釜山浦・薺浦・塩浦の総称)の乱(1510年)」
 の・・・前哨・・・
  ↓
 以下は例のごとく、参考、参照の原文は「ウイッキペデア」などから・・・
 「倭(やまと・ワ・イ・ヰ)」
  ↓
 「日本書紀」では「夜摩苔」
            夜の摩(高山)の苔
  ↓    遠望した夜の高い山の苔
               摩=广の木木の手
  ↓             苔=艸のムの口
  ↓             艸=くさかんむり
  ↓             ム=よこしま
  ↓             口=くち・くに 
 倭(わ、やまと、ワ、ヰ)である
   ウェイ(中国南方音)・・・
   ゥオー(中国北方音)・・・
 倭(やまと)・・・・・・・・・・人は禾の女
 日本の古名
 声符は委(説文解字)
 声符は委(イ)
 委は
 稲魂(いなだま)を?・・・当今・問う今
                唐献
           禾がナゼ、稲の「魂」?
 被(かぶ)って
 舞う女の形で
           女がナゼ、「舞う」?、
 その姿の
 低く
 しなやかなさまをいう・・・?・・・シナやか
 (字通)
 禾(カ)は
 しなやかに穂をたれた低い
 粟(アワ)の姿
 委(イ)は
 それに女を添え
 女性の
 なよなよした姿を示す
 倭は「人+委」で、
 しなやかで
 たけが低く
 背の曲がった
 小人をあらわす
 (漢字源)
  ↓
 字源
  ↓↑
 すなほ
 「順ふ貌・・・貌=かたち・ボウ(バウ)
            顔だち・容姿
            外貌・顔貌(ガンボウ)・形貌・相貌
            体貌・美貌・風貌・面貌・容貌
            物のすがた
            外観
            概貌・全貌
            おぼろげにつかめたありさま
            「万葉集・山上憶良の歌」に
            「朝皃(あさがお)之花」と表記
             「阿佐我保・阿佐加保」
            「牽牛子」・・・?・・・彦星の子
            「蕣花」
           「皃」は異体字
            人の頭と・・・・・・・「白」が「頭」
                       「人面の形」
            足を・・・・・・・・・・・「儿」が「足」
            象ったもので、
            獣や人の姿かたちを
  倭遲は
  囘りて
  遠き貌」
 やまと
 古、支那人が日本を呼ぶ稱
  ↑
 説文解字
  ↓↑
 「順(したが)ふ
  皃(かお)なり、
  人に従ひ、
  委を聲とす、
  詩に曰く、
  周道倭遅(いち)たり、と」
  ・・・
  「倭への周り道で、遅(遅し・遅れる)」・・・?
   ↓
  「寇(あた・あだ・コウ)」・・・・・・・・・・・・・・・仇・仇討
  㓂は、(五経文字)にある異体字
      「㓂」=「ワ+元+女」・・・倭は元は女
           倭は二の儿(ニン・ジン)のオンナ
  冦は、(増広字学挙隅)や
       漢語大字典・異体字表)にある異体字
  𡨥は、(康煕字典)にある俗字
  宼は、(正字通)にある俗字
      「宼」=「ウ+元+女」・・・鵜(鸕)は元は女
           兎(烏・卯)は二の儿(ニン・ジン)のオンナ
  𡯷は、(字彙補)にある異体字
  𢽉は、(説文長箋)にある異体字
  「寇」の類字は「冠(かんむり・カン)」
   ↓
  外から侵入して害を加える賊
  「外寇・元寇・倭寇」
  外から攻めこむ・あだする
  「侵寇・入寇・来寇」
  盗賊、掠め取る、損なう
  「春秋左氏伝・文公七年」
  に
  「內に亂を爲し、外に寇を爲す」
  とある
  外国から侵入する敵
ーーーーー
 倭寇(わこう・ワコウ)・・・
 13世紀から16世紀にかけて
 朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、
 及び
 東アジア諸地域において活動した
 海賊、私貿易、密貿易を行う
 貿易商人の事である。
 「和寇」、
 「海乱鬼(かいらぎ)」?・・・回覧記
 とも表記される
ーーーーー
  ↓
 前期倭寇と、
 過渡期を経た
 後期倭寇の二つに分けられる
 倭寇の構成員
 前期倭寇では
 主に
 日本人で
 一部が
 高麗人
 後期倭寇は
 中国人が多数派で
 一部に
 日本人をはじめ
 諸民族を含んでいたと
 推測されている・・・
  ↓
 倭寇
 「倭(日本)による侵略」という意味
 中国、朝鮮では
 日本人海賊
 5世紀の
 高句麗広開土王碑の条文
 にも見られるが、
 後世の意味とは異なる・・・?
 『倭、○○(地名)を寇す』
 という表現の漢文表記では
 『倭寇○○』のように
 「倭寇」の2字が連結しており、
 これが後に名詞として独立した・・・?
  ↓
 ・・・「倭が仇す」と、「倭を仇す」では
      「寇」の主語が異なる・・・
  ↓
 16世紀の豊臣秀吉の
 文禄・慶長の役
 日中戦争における日本軍も
 「倭寇」と呼ばれる
 朝鮮半島や中国において
 排日感情の表現として使用される
 侮蔑するときに用いており、
 「野蛮人」の意味・・・
ーーーーー
  ↓
 前期倭寇
 14世紀
 日本の南北朝時代から室町時代初期
 朝鮮の高麗から朝鮮王朝の初期
 北朝を奉じて
 室町幕府を開いた足利氏と、
 吉野へ逃れた
 南朝が全国規模で争っていた時代
  ↓↑
 前期倭寇と高麗
 『高麗史』によれば
 1350(庚寅)年2月
 「倭寇の侵すは此より始まる」という記事
 庚寅年以前にも多数の記事がある・・・
 最も古いのは
 『高麗史』の
 高宗10年(1223年)5月条
 「倭寇金州」とあるのが初出
 「高麗史」によれば、
 1375年の
 藤経光
 誘殺未遂によって
 倭寇が激怒し、
 高麗住民を無差別殺戮
 1370年代の
 前期倭寇の行動範囲
 朝鮮北部沿岸にも及び
 南部では内陸深くまで侵入
 高麗では
 1376年には
 崔瑩が
 鴻山で、
 1380年には
 李成桂が
 荒山、
 崔茂宣と
 羅世が
 鎮浦で
 1383年には
 鄭地らが
 南海島
 観音浦で、
 倭寇軍に大打撃を与え、
 1389年の
 朴葳による
 対馬国侵攻では、
 倭寇船300余隻を撃破し、
 捕虜を救出し、
 町を焼き討ちして帰還
  ↓
 『高麗史』によれば、
 高麗は宗主国である
 元国や明国に上奏し、
 元寇以降も
 さかんに軍艦を建造
 日本侵攻を繰り返す
 これは、
 対馬を拠点とする
 倭寇討伐や
 日本侵略を口実に
 元国や明国の大軍が
 再び自国に長期駐留して
 横暴を極めることをおそれた
 あまりの
 「先走り=軍艦建造」・・・
 倭寇討伐した
 李成桂は、
 1392年に
 高麗王朝を倒して
 李氏朝鮮を建国
  ↓
 高麗史にでてくる
 「倭国」を
 南朝(征西府)だと推定・・・
 ほかにも
 倭寇の首領が
 日本の精鋭部隊と同じ装備で、
 南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて
 日本の
 正規の精鋭部隊が物資の略奪に参加した・・・
 南朝方の
 菊池氏や
 肥前の
 松浦党(松浦氏)が
 北朝との戦いのための
 物資獲得を目的に行った・・・
  ↓
 中国
 1368年に
 朱元璋が
 明王朝を建国
 倭寇討伐の
 要請をするために
 (日本)に使者を派遣
 九州では
 南朝の
 後醍醐天皇の皇子で
 征西将軍
 宮懐良親王が活動
 使者を迎えた
 懐良は
 九州制圧のための権威として
 明王朝から冊封を受け、
 「日本国王」と称した。
 その後幕府から派遣された
 今川貞世により
 九州の南朝勢力が駆逐、
 室町幕府将軍の
 足利義満が
 1392年に
 南北朝合一
 明国との貿易を望んだ
 義満は、
 明国に要請されて
 倭寇を鎮圧
 義満は明朝より新たに
 「日本国王」として
 冊封され、
 1404年
 (応永十一年)から
 勘合貿易の開始
  ↓
 「応永の外寇」
 1419年、
 朝鮮王朝の
 太宗は
 倭寇撃退を名目にした
 対馬侵攻を決定
 対馬の有力者が
 明などに渡航し不在である時期を狙って、
 同年6月、
 李従茂率いる
 227隻、17,285名の軍勢を
 対馬に侵攻
 朝鮮軍は敗退
 対馬や北九州の
 諸大名の取締りが厳しくなり、
 倭寇の帰化などの
 懐柔策を行った
 同1419年
 遼東半島の
 望海堝で
 倭寇は明軍に敗れた
 前期倭寇は、
 室町幕府や
 北九州の守護大名の
 日明貿易、
 対馬と朝鮮の間の交易再開
  ↓
 『世宗実録(世宗二十八(1446年)十月壬戌条)』の記述には
 「倭人、不過一二、而本国之民、仮著倭服、成党作乱」
    ↓↑
 「倭人は1、2割(1、2件)に過ぎず、
  本国(朝鮮)の民が、
  仮に
  倭服を着して党を成し乱を作す」 
  ↓
 後期倭寇
 日本では
 1523年に勘合を巡って
 細川氏と
 大内氏が
 それぞれ派遣した
 朝貢使節が
 浙江省寧波で争う
 「寧波の乱(寧波争貢事件)」
 が起り、
 勘合貿易が途絶すると
 倭寇を通じた密貿易が盛んになり、
 中央で起こった
 応仁の乱の為、再び倭寇の活動が活発化
 後期倭寇の
 中心は
 私貿易を行う
 中国人であったとされ、
 『明史』日本伝にも
 「真倭(本当の日本人)」は
 「10のうち3である」とも記述
 明王朝は海禁政策により私貿易を制限
 これに反対する
 中国(一説には朝鮮も)の商人たちは
 日本人の格好を真似て(偽倭)、
 浙江省の
 双嶼や
 福建省南部の
 月港を拠点とした
  ↓↑
 後期倭寇は沿岸部の
 有力な
 「郷紳」と・・・郷紳(きょうしん)
  ↓      1911年までの君主制下の
         中国の地方社会で、
         社会的・文化的地位を有する人を指す
         「紳士・士紳・縉紳」ともいう
         「一般的に
          科挙で得られる肩書き(生員以上)
  ↓       を持っている人」を指す
 結託し、
 後期には
 ポルトガルや
 イスパニア(スペイン)
 などのヨーロッパ人や、
 日本の
 博多商人とも
 密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)
 後期倭寇の
 頭目には、
 中国人の
 王直
 徐海
 李光頭
 許棟
 などがおり、
 王直は
 日本の
 五島列島などを拠点に
 種子島への
 鉄砲伝来にも関係
 鉄砲伝来後、
 日本では鉄砲が普及し、
 貿易記録の研究から、
 当時、
 世界一の銃の保有量を誇る・・・
  ↓
 1547年
 明の将軍である
 朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗
 1553年
 嘉靖大倭寇
 と呼ばれる倭寇の大規模な活動
 明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和
 胡宗憲が
 王直を懐柔するものの、中央の命により処刑
 戚継光が
 倭寇討伐に成功
 以後、
 明王朝はこの海禁を緩和する宥和策
 東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認める
 日本に対してのみ
 倭寇への不信感から
 貿易を認めない態度を継続
 倭寇は
 1588年
 豊臣秀吉が
 倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた
  ↓
 倭寇の構成員
 初期~最盛期の前期倭寇の構成員は、
 「高麗史」に見える
 高麗末500回前後の倭寇関連記事の内、
 高麗人が加わっていたと
 明記されているのは3件
 一方、
 朝鮮王朝実録『世宗実録』によれば、
 1446年の記事として、
 「(この記事の当時から30年近く前の、太宗時代の末期に)
  真倭(倭人)は一割、二割にすぎず、
  残りは我が国の民である」と記述
 倭寇の本質は
 国籍や民族を超えた人間集団・・・海賊
 倭寇は、
 中国人が中心であり、
 『明史』には、
 日本人の倭寇は
 10人の内3人であり、
 残り7人は倭に従ったものである
 (「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている
 中国人倭寇が多かったために
 日本人倭寇と
 偽って成敗した将軍を
 朝鮮の
 明宗王は処罰
 朝鮮王朝による
 対馬侵攻(応永の外寇)も、
 倭寇根拠地の征伐が大義名分
  ↓↑
 倭寇の根拠地
 日本の
 対馬や壱岐・五島列島
 朝鮮の
 済州島
 中国の
 沿海諸島部
 台湾島や
 海南島
 に存在
 豊臣秀吉の海賊停止令
 東アジアの海上世界では
 林道乾
 林鳳(リマホン)、
 明国を奉じて
 清国に抵抗した
 鄭芝竜、
 鄭成功
 の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、
 倭寇ではないが同時代の海上勢力
 後期倭寇に多く見られた
 中国南部(広東・福建・浙江・台湾など)出身者は
 日本(横浜・神戸・長崎の三大中華街)や
 東南アジアに多数渡り、
 現地で
 華僑を形成
  ↓
 八幡船
 日本の室町時代から江戸時代にかけての
 海賊船は
 通称して
 「八幡(やわた)船」と呼ばれた
 倭寇が
 「八幡(はちまん)大菩薩」の
 幟を好んで用いたのが語源・・・?野蛮だろう・・・
 「ばはん」には・・・・・・・・・場犯かも・・・
 海賊行為一般を指す・・・
ーーーーー
 以下、参照、参考の原文は「ウイッキペデア」
ーーーーー
 三浦の乱
  ↓
 1510年
 三浦の乱(サンポのらん・庚午三浦倭乱)
 1510年(中宗四年)
 朝鮮国慶尚道で起きた、
 対馬守護宗氏と
 恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱
 朝鮮に鎮圧
 15世紀、
 朝鮮半島南部に
 三浦と呼ばれる日本人居留地が存在
 宗氏を始めとする
 西日本諸勢力は
 三浦を拠点に朝鮮に通交
 朝鮮はこの通交に制限を加えていった
 それに対し
 宗氏と朝鮮両者の間に確執
 また
 三浦居住の
 恒居倭の
 増加に伴い様々な問題が生じ、
 朝鮮は
 恒居倭に対し強硬姿勢でのぞみ
 三浦の乱が勃発
 結果、
 三浦居留地の廃止
 通交も大幅制限
  ↓
 前期倭寇
 朝鮮は討伐・懐柔
 室町幕府への鎮圧要請
 倭寇沈静化を図り、
 通交権をもって
 西日本諸勢力から
 倭寇禁圧の協力を取りつけ、
 また
 倭寇自体を
 平和的通交者へと懐柔し
 対馬は
 倭寇の一大拠点
 対馬守護であった
 宗氏にも協力要請
 李氏朝鮮建国当初
 入港場に制限はなく、
 通交者は
 随意の浦々に
 入港することが可能であった
 各地の防備の状況が
 倭寇に漏れるのを恐れ、
 交易統制のためもあり、
 1407年、
 朝鮮は
 興利倭船
 (米、魚、塩など日常品の交易をする船)
 の入港場を
 釜山浦
 薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)
 に制限
 1410年には
 使送船(使節による通交船)
 についても同様の措置
 1426年、
 対馬の有力者
 早田氏が
 慶尚道全域で
 任意に交易できるよう要求
 これを拒絶する代償として
 塩浦(蔚山広域市)を
 入港場に追加
  ↓
 釜山浦・薺浦・塩浦
 を総称して
 「三浦」と呼ぶ
  ↓
 中世の日朝交易
 通交使節による
 進上と回賜、
 朝鮮国による
 公貿易、
 日朝双方の商人による
 私貿易の
 三つの形態が組み合わさったもの
 朝鮮にとって
 公貿易は
 利益を産み出すものではなく
 国庫を圧迫する要因
 朝鮮国内における
 通交者の滞在費・交易品の輸送も
 朝鮮側が負担
 対馬は山がちで耕地が少なく
 土地を通じた
 領国支配は困難で
 宗氏は通交権益の
 知行化を通じて
 有力庶家の掌握や地侍の被官化を行い、
 領国支配を推し進めていた
 また主家である
 少弐氏の敗勢により
 九州北部の所領を喪失
 家臣に代替として
 通交権益を宛がう必要があり、
 通交の拡大を望んだ
 宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り、
 朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになった。
 1443年
 嘉吉条約
 朝鮮は対馬から通交する
 歳遣船(毎年の使送船)の上限を
 年間50隻に定めた
 それに対し
 宗氏は
 特送船(緊急の用事で送る使送船)
 を歳遣船の
 定数外とし、
 島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)
 とは別に
 有力庶家名義の歳遣船を定約し、
 また島主歳遣船の
 上限を引き上げるよう要求したが、
 これは朝鮮から拒絶された。
 宗氏は対馬島外の
 勢力や実在しない
 勢力名を騙った新たな通交者の
 偽使を仕立て上げ、通交の拡大を図った。
 当時の日朝貿易における
 日本側の輸出品は
 胡椒・丹木・朱紅・銅・金等
 朝鮮側の輸出品は
 綿布
 朝鮮は
 綿布の
 国庫備蓄が底をつくことを恐れ、
 1488年に綿布の交換レートの引き上げを行い、
 1494年には金・朱紅の公貿易禁止、
 1498年には銅の公貿易も禁止
 それに対し宗氏は、
 特送船を使って、
 銅の輸出を図った。
 1500年に
 朝鮮に訪れた
 宗氏の使者は、
 11万5千斤の銅を持ち込むが、
 朝鮮は
 3分の1を買い取り、
 残りは持ち帰らせた。
 2年後、
 再度訪れた使者は
 残余の買い取りを迫ったが、
 朝鮮は
 綿布の交換レートを引き上げた上での
 3分の1の買い取りを提示し、
 交渉は物別れに終わった。
 翌々年、三度交渉するが不調
 1508年にもまた同様の交渉
 こうした大量の銅は、
 宗氏が新たに入手したものではなく、
 朝鮮が交易の制限を強化していく中、
 対馬・博多において
 大量に
 過剰在庫のモノ(銅)
 こうした
 交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、
 宗氏は不満を募らせ、
 三浦の乱の一因となった
  ↓
 恒居倭の増加
  ↓
 交易従事者のみならず
 三浦に定住する
 日本人(恒居倭)
 は
 倭館の関限を超えて
 居住し、
 田地を購入して耕作
 朝鮮半島沿岸での
 漁業、密貿易など様々な活動
 朝鮮は、
 恒居倭の
 倭寇化を恐れ、
 検断権(警察・司法権)
 徴税権といった
 行政権を行使できず、
 日本人有力者による
 自治に任せるままであった
 朝鮮は恒居倭の増加を危惧し、
 宗氏に恒居倭を送還するよう度々要請
 宗氏は
 当初
 恒居倭を掌握しておらず、
 自身の支配下にある
 対馬へ送還
 1436年の送還により
 宗氏の支配下に
 ない者達が一掃され、・・・恒居倭?
 以降
 三浦は宗氏の派遣する
 三浦代官の支配するところとなった
 その結果、
 宗氏は送還に消極的になり、
 三浦人口は
 1436年の206人
 1466年には1650余人
 1494年には3105人まで急増
 恒居倭による
 漁場の占拠
 倭寇化
 密貿易の恒常化
 恒居倭と朝鮮人の癒着
 三浦周辺朝鮮人の納税回避
 朝鮮人水賊の活発化
 15世紀末
 朝鮮国は、
 恒居倭に対して
 辺将による納税の論告
 海賊行為者の逮捕と処刑
 検断権・徴税権行使
 1510年
 釣りに向かう薺浦の
 恒居倭人4名を、
 海賊と誤認した
 朝鮮役人が斬殺
 恒居倭人は
 この事態に憤慨し反撃
 4月4日
 対馬から
 宗盛順が率いる援軍
 約4500の兵力をもって
 三浦の乱
 を起こした
 倭軍は、
 釜山浦・薺浦の
 僉使営を陥落させ
 釜山浦では
 辺将を討取り、
 薺浦では生け捕りにした。
 さらに
 釜山浦から
 東萊城、
 薺浦から
 熊川城へ攻め進むが
 反撃に会い攻撃は頓挫
 4月9日頃
 倭軍は兵の一部を対馬へ撤退
 盛親は残りを薺浦へ集結させ
 講和交渉に臨もうとしたが、
 朝鮮は講和に応じず、
 4月19日
 朝鮮軍は薺浦へ攻撃
 薺浦は陥落
 倭軍は対馬へ撤退
 6月末
 倭軍は
 再度来攻するも
 撃退された
 日朝の国交は
 断絶状態
 宗氏以外の全ての
 受職人(朝鮮から官位を貰っている者)
 受図書人(通交許可を受けている者)
 に対しても同様
 1512年
 壬申約条により和解
 交易は再開され倭館も再び開かれた
 入港地は薺浦のみに制限
 歳遣船は半減、
 特送船の廃止、
 日本人の駐留の禁止、
 受職人・受図書人も再審査を受け
 通交は以前より制限
 その後、
 釜山浦も再び開港
 1544年
 蛇梁倭変が起こり、
 再び国交は断絶
 1547年
 丁未約条で
 交易が再開
 入港地は
 釜山浦一港に制限
 朝鮮と
 同格である
 日本国王(室町幕府)の
 使節の通交を
 制限するものではなかった
 宗氏は、
 日本国王使の
 偽使を仕立て上げ通交を行おうとした
 三浦の乱をきっかけに本格化することになった。
 偽の日本国王使派遣
 三浦の乱後の
 1511~1581年まで
 日本国王使は
 22回通交することになるが、
 本物の日本国王使は
 2回に過ぎず、
 20回は
 宗氏の仕立て上げた偽使であった
 日本国王使の派遣には
 朝鮮が室町幕府に発行する
 象牙符が必要であった。
 象牙符は
 大友氏と
 大内氏が所持するものであり、
 宗氏は
 両氏との関係の緊密化に腐心
 三浦の乱以前
 九州・中国地方の諸勢力も
 朝鮮から
 図書を受け通交
 三浦の乱を境に
 通交権は宗氏に集中
 日朝交易から締め出された勢力の一部は
 明人海商と結びつき、
 後期倭寇の一翼を担うようになる
 後期倭寇
 明国沿岸部で活動
 朝鮮半島沿岸部も活発に襲撃
 1588年
 豊臣秀吉の
 海賊停止令により
 倭寇が終息
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 ・・・階級社会の「国家エゴ・組織エゴ」は・・・つまり、「個人エゴ」・・・
 国家と「暴力団」の違い、国家と「テロ集団」の違いはナニか?・・・

コメント
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