古代史戲疑・・・
ーーーーー
藤貞幹・・・・当定款・等定款・当帝冠・当諦観・等諦観・当帝鑑・当邸館
唐錠煥・・・???・・・到底感・・・
以下
by ウィキペディア(Wikipedia)
↓↑
藤 貞幹(とう ていかん)
享保十七年六月二十三日(1732年8月13日)
~
寛政九年八月十九日(1797年10月8日)
江戸時代中期の有職故実研究家
諱は藤原 貞幹(ふじわら さだもと)
字は子冬
通称・叔蔵
号は無仏斎・蒙斎・瑞祥斎・好古
京都の佛光寺・久遠院院主
玄煕(権律師、日野家出身)の子
文献学・目録学の祖
十一歳で得度・・・・拾壱(壹)
十八歳で還俗・・・・拾八(捌)
日野家の
本姓である藤原を名乗った
宗家の
日野資枝から和歌
高橋宗直から有職故実
持明院宗時から書道
後藤柴山・柴野栗山から儒学
高芙蓉から篆刻
を学んだ
雅楽・篆書・草書・金石文などに精通
韓天寿・・・江戸中期の書画家。伊勢松坂生
↓↑ 通称は中川長四郎
本姓は青木氏
天寿は名
字を大年・・・大(一人)の年?・・・壱與の歳=十三歳
号は酔晋斎
松下烏石に文徴明風の書を学び
王羲之・王献之の書を研究
池大雅・高芙蓉と親しく交遊
篆刻にも優れ双鈎(ソウコウ・模写)に巧みだった
↓↑ 自ら韓国、百済の
↓↑ 「余璋王」・・・余(あまり・𠆢二亅八)の
↓↑ 璋(たま・ひしゃく・王章)の
王(オウ・三丨・一十一)
璋=王+章
王+立+早
王+立+日+十
章=立+早
あや・ショウ
しるし・ふみ
模様・美しい模様
はん・はんこ(判子・印章)
明らか・明らかにする
形にして明らかにする
のり・規律・規則・法律
ふみ・文書・文章・詩文
音楽や詩文などの一区切り・一節
文体のひとつ・上奏文
↓↑ ↓↑
「上を剡りたるを圭と爲し
半圭を璋と爲す(説文解字・巻一)」?
↓↑ ↓↑
前11世紀
周王朝
戈をかたどった玉器
瑞玉をかたどった玉片に
一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し
犠牲の家畜と共に地中に埋めた
この形の玉器は
前千年紀末の古典中で璋と呼ばれ
前10~前9世紀
西周中期
瑞玉として
勺の柄に取り付ける玉がある・・・
↓↑ ↓↑
「六幣。圭は馬を以ってす
璋は皮を以ってす・・・璋は皮?
璧は帛を以ってす
琮は錦を以ってす
琥は繡を以ってす
璜は黼を以ってす(周礼)」?
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
玉・王(たま・たまへん・おう・おうへん)
たま・・・多磨・球・球磨=熊・隈・久万
ひしゃく=柄杓・杓子・・・百史=百済史
玉製の笏(しゃく)
圭(ケイ)を縦に半分に割ったもの
圭=土+土=十+一+十+一・・・二十二=弐拾弐
土(つち・つちへん・どへん)
たま・ケイ
天子が諸侯に
領土を与えたしるしとして授けた角のある玉
かど・かどだつ・かどがある
容量・容積の単位・一升の十万分の一
圭角が取れる=角が取れて人柄が円満になること
「圭角」=玉の尖ったところ
角が取れるという意
↓↑ 弄璋之喜=男の子が生まれること・生まれた喜び
↓↑ の子孫と称して
↓↑ 韓氏を名のった・・・韓の氏・・・韓史・韓詞
扶余豊璋
扶余 豊璋(フヨ ホウショウ)
扶余豐璋
百済最後の王
義慈王(在位:641年~660年)の王子
『日本書紀』は
「扶余豊璋=徐豊璋」
『三国史記』では
「余豊璋=徐豊璋」
『旧唐書』では
「余豊=徐豊」
・・・万葉集記載の
「軍王(こにきしのおおきみ)」=豊璋?
である・・・「翹岐=豊璋」も同一人物?
豊璋は帰国後
百済王に推戴され
実権を握る
鬼室福信・・・義慈王の父、第三十代・武王(余璋)の甥?
と確執・・・
663年6月
豊璋は
鬼室福信(扶余福信)を殺害・・「首を塩漬け」にした・・?
↓↑ ↓↑ 高橋景保も「身体を塩漬け」にされた・・
鬼室 集斯(シュウシ)は
鬼室福信の子?
白村江戦後に百済の男女400余人と渡来帰化?
天智天皇十年一月(671年)
学職頭(後の大学頭)に就任
肥後国の豪族菊池氏は「集斯の後裔」?
菊池氏=九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を
本拠としていた一族
「魏志倭人伝」
狗奴国の官
狗古智卑狗(くこちひく)=「菊池彦」?
鞠智足人⇔「久々知」⇔「菊池」・・・?
菊池氏
1019年(寛仁三年)
「刀伊の入寇」に戦功のあった
大宰権帥
藤原隆家の孫
藤原則隆が肥後国に下向して土着・・・???
・・・明治時代の故事付け改竄・・・?
↓↑ ↓↑
・・・668年百済滅亡後
唐の都に連行され
豊璋は嶺南に流刑
弟の百済王(くだらのこにきし)
「善光=徐禪廣」は日本に残留帰化・・・
・・・山東省臨沂刑務所で夫
「王全璋」弁護士との面会を求める
妻・李文足氏(李文足氏提供)・・???
↓↑
上田秋成・・・国学者・読本作家・大坂生
↓↑ 幼名は仙次郎
通称は東作
別号に鶉居・漁焉等
俳諧を高井几董に
漢・医学を都賀庭鐘に
国学・和歌を加藤宇万伎に
学ぶ
「雨月物語」・・・雨月=名月が雨で見られないこと
↓↑ 雨名月・・・アメ(☂::)の名の解通
雨の月・・・アメ(☂::)のゲツ
陰暦五月の異称
皐月(さつき)
白+夲(トウ・すすむ・もと)
「丰==+十+=」=「夲」
「夲(もと)=一+人+十」
白い光が放出(丰)するさま
↓↑ ↓↑ しろい意
「皞(カウ)」の原字
魂呼(たまよ)びの声の意
皐魚の泣(コウギョのキュウ
親の死を嘆き悲しんで泣く)
「皐魚不孝者の名・『韓詩外伝』」
早苗月(さなへつき)
梅雨・五月雨・菖蒲月(あやめづき)
皐月躑躅(さつきつつじ)
映山紅(エイサンコウ)・・・英参考?
12か月=「陬如寎余皋且相壯玄陽辜涂」
1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112
「皋=白+一+人+十」は
「皐=白+=+十+=」の本字
皐=コウ(カウ)・さわ・岸辺・水辺
「九皐=幾重にも曲がりくねった奥深い沢」
「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ」
↓↑ 瑞皐=高野長英
を著作
本居宣長(古事記伝の作者)とは
↓↑ 古代音韻、皇国主義をめぐって論争
と親交
後に
水戸藩彰考館に招かれ
『大日本史』編纂にも関与
日野資枝の実弟で
宝暦事件・・・宝暦八~九年(1758~1759)
江戸幕府が尊王論者の
竹内式部らを処罰した事件・・・竹内宿禰?
で逼塞していた
裏松固禅・・・裏松 光世(うらまつ みつよ)
↓↑ 元文元年(1736)十一月十一 日
~
文化元年(1804)七月二十六日
公家・有職故実家
『大内裏図考證』を著作
内大臣・烏丸光栄の五男
裏松益光の養子
法名は固禅
↓↑ 裏松家5代当主
と意気投合し
その家臣となり
『大内裏図考証』の執筆を助けた
一方で発掘された
出土品などを吟味して
厳密な考証の必要を唱えて
記紀の記述と言えども
無条件でこれを支持すべきではないと主張
神武天皇の在位を600年繰り下げ
神代文字の存在を否定した『衝口発』を著す
神武天皇
素戔嗚尊(正体は新羅国王であるとした)
の問題については
本居宣長が
『鉗狂人』を著して
貞幹の考証が杜撰であると主張
逆に上田秋成が貞幹を擁護し
宣長の姿勢を非難するなど
「日の神論争」等の論争を招いた
他に
『百官』・『国朝書目』・『逸号年号』
『伊勢両大神宮儀式帳考註』・『古瓦譜』
など自著多数・・・
ーーーーー
・・・???・・・「烏の丸の光栄」の御難・・・
↓↑
璋=王+章
異体字「𤨼」
声符「章・商・漳・障・彰・蔁
墇・鱆・樟・鄣・嶂・瘴・麞」
樟脳=虫除け
璋=王+章
王+立+早
王+立+日+十
玉・王(たま・たまへん・おう・おうへん)
たま・ひしゃく
ひしゃく=柄杓・杓子
圭(ケイ)を縦に半分に割ったもの
圭=土+土=十+一+十+一・・・二十二=弐拾弐
土(つち・つちへん・どへん)
たま・ケイ
天子が諸侯に
領土を与えたしるしとして授けた角のある玉
かど・かどだつ・かどがある
容量・容積の単位・一升の十万分の一
圭角が取れる=角が取れて人柄が円満になること
「圭角」=玉の尖ったところ
角が取れるという意
弄璋之喜=男の子が生まれること・生まれた喜び
↓↑
前11世紀
周王朝
戈をかたどった玉器
瑞玉をかたどった玉片に
一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し
犠牲の家畜と共に地中に埋めた
この形の玉器は
前1千年紀末の古典中で璋と呼ばれ
前10~前9世紀
西周中期
瑞玉として
勺(ひしゃく・柄杓)の柄に取り付ける玉がある・・・
↓↑
「上を剡りたるを圭と爲し
半圭を璋と爲す(説文解字・巻一)」
「六幣。・・・幣=敝+巾
↓↑ 㡀+攵+巾
八+巾+八+攵+巾
巾(はば・はばへん・きんべん)
ぜに
ぬさ
みてぐら・ヘイ
神前に供える絹
贈り物・貢ぎ物
宝物・価値の高い物品
↓↑ 銭・お金・通貨
圭は馬を以ってす
璋は皮を以ってす
璧は帛(木綿)を以ってす
琮は錦(にしき)を以ってす
琥は繡(ぬいとり・刺繍)を以ってす
璜は黼(あや・ぬいとり・礼服の模様
斧の形を黒と白の糸で刺繍)を以ってす(周礼)」・・・?
↓↑
六言六蔽(リクゲンリクヘイ)
努力をして学問や教養を積めば
人には六つの徳が備わるが
怠ると六つの弊害がでてくる
『論語』陽貨篇
↓↑
子曰く
由(ユウ)よ
女(なんじ)六言(リクゲン)の
六蔽(リクヘイ)を聞けるか
↓↑
子路(シロ)よ
対(こた)えて曰く未(いま)だし
居(お)れ吾(われ)女に語(つ)げん
↓↑
仁を好みて学を好まざれば其の蔽や愚
↓↑
知を好みて学を好まざれば其の蔽や蕩(とう)
知識を好んでも学問を好まないとただの雑学になる
↓↑
信を好みて学を好まざれば其の蔽や賊(ぞく)
誠実を好んでも学問を好まないと盲信してしまう事になる
↓↑
直を好みて学を好まざれば其の蔽や絞(こ う)
正直さを好んでも学問を好まないと偏屈になる
↓↑
勇を好みて学を好まざれば其の蔽や乱
勇気を好んでも学問を好まないと乱暴者になる
↓↑
剛を好みて学を好まざれば其の蔽や狂
剛毅を好んでも学問を好まないと狂乱に陥ってしまう
↓↑
子路よとにかく一にも二にも学問を好むことだ
『論語』陽貨篇
↓↑
樟脳・・・タンスにゴン?
↓↑
潘 璋(ハンショウ・?~234年)
後漢末期から三国時代の呉の武将
字は文珪
兗州東郡発干県の人
子は潘平
15歳の孫権が
陽羨県長だったときに目通りを求め仕えた
↓↑
扶余豊璋
扶余 豊璋(フヨ ホウショウ)
扶余豐璋
百済最後の王
義慈王(在位:641年~660年)の王子
『日本書紀』は
「扶余豊璋=徐豊璋」
『三国史記』では
「余豊璋=徐豊璋」
『旧唐書』では
「余豊=徐豊」
である
↓↑
肥後国の豪族菊池氏を集斯の後裔
「魏志倭人伝」の
狗奴国の官・狗古智卑狗(くこちひく)
その名前より「菊池彦」・・・?
↓↑
菊池氏
1019年(寛仁三年)
「刀伊の入寇」に戦功のあった
大宰権帥
藤原隆家の孫
藤原則隆が肥後国に下向して土着・・・
↓↑
圭
中国古代の玉器の一種
上方がとがった短冊形を呈し
半圭のものを璋と呼んでいる
圭の形は先史時代の
有孔石斧から発達したといわれる・・・
↓↑
圭
古代中国で儀礼に用いた玉
重要な儀礼では
天子諸侯が手に持って儀礼を執り行った
↓↑
圭=古代中国の重量の単位。10圭が1合、10粟が1圭
圭=古代中国の容積の単位。64黍が1圭
圭=江戸時代の数学・和算で、二等辺三角形を指す
圭形とも
圭=代数学的な構造の一つ
カンドルやラックのうちの特殊なもの
↓↑
儀礼に用いた玉製の道具
日影を測量する玉器
香り酒(鬯酒)を酌むのに用いる玉器
閨と通じて門
↓↑
説文解字・巻十三
「瑞玉なり」
「上圜下方・公は桓圭を執る・九寸
矦は信圭を執り、伯は躬圭を執る、皆な七寸
子は穀璧を執り、男は蒲璧を執る、皆な五寸
以って諸矦を封ず」
諸侯を封ずるときに用いた玉器
上は円形で下は方形
諸侯の格によって大きさが異なる
↓↑
「玉圭」字形
珪
玉の象形
土を上下重ねたような字
土+土(説文)の会意
金文では土の字形と異なる・・・
帝王が諸侯に与える先端の尖った玉の板
↓↑
蛙(かえる)・卦(ヶ)・珪砂(silica sand・石英硅砂)・白色粗粒の砂
藤 圭子
桂小五郎(木戸孝允)
天保四年六月二十六日(1833年8月11日)~明治十年(1877年)5 月26日
癸巳(戊庚丙)偏印 正財沐浴⇔丁丑
庚申(戊壬庚)正官 正財 胎⇔乙巳
乙丑(癸辛己) 偏印 衰⇔己亥
戌亥空亡
↓↑
圭角
圭冠(はしはこうぶり)
漆塗りの布帛(ふはく)製
上は円くとがり、下が方形をしたもの
卦算・圭算=文鎮(ぶんちん)
圭復=「論語」先進の故事
人から来た手紙を繰り返して読むこと
↓↑
金沙遺跡(きんさいせき)
中国
四川省
成都市
青羊区
金沙街道
にある殷周時代の遺跡
本遺跡は
BC1700~1200年(夏晩期~商後期)
の三星堆文化の後
BC1200~500年(商後期~春秋)
の十二橋文化(十二橋・金沙文化と改称)
の代表遺跡と解明・・・
↓↑
「璋」
古人が天を祭り、太陽を拝み
豊作を祈る時に使われた礼器
権力と地位の象徴
「双獣首闌玉璋」
金沙から出土した200点に及ぶ玉璋の一
↓↑
「璧」
金沙から出土
「有領玉牙璧」
↓↑
2001年2月
四川省の省都・成都市の金沙村で
3000年前の
金器、銅器、玉器、石器、漆塗り木器、象牙が出土
↓↑
金沙遺跡はおおよそ3000年前
魚鳧王が創建した
三星堆の都は廃棄され
杜宇王が創立した
金沙王国は繁栄
↓↑
両方とも古代
蜀人が創建した古代蜀国
住民は骨組みが木か竹で土壁の家
稲や桑の栽培
牧畜、漁労、狩猟で生計
鋳物、陶器、玉器、木器の工芸技術
太陽、鳥、虎、蛇、亀、蝉、目
を崇拝
金器、銅器、玉器、石器、陶器は
三星堆のとほぼ同じ芸術的特徴
金製の仮面と冠帯
青銅製の人物彫像
有領(襟に似た突起)
玉璧
玉璋
目の形をした什器
図案や紋様が
三星堆と金沙が同じ
↓↑
金沙では現在2000点に達する玉器が出土
圭(板状の直方体で先端が尖った玉)
璋(圭を縦に二分した玉)
琮(内円外方の柱形をした玉)
璧(薄くドーナツ状の玉)
玦(帯に付けた装飾用の玉)
など二十数種
出土した1200点の石器
形や造りが小さく、精巧
日用品ではなく祭事に用いられた・・・
陶器
尖底盞(ちょこ)
尖底杯
いずれも底が尖った器
↓↑
金沙と三星堆の
古蜀人は
虎をトーテムとして崇拝していた
川西(四川省西部)高原に住む
羌氐民族の後裔
金沙から出土した十数点の
石虎
↓↑
以上
by ウィキペディア(Wikipedia)、etc・・・
ーーーーー
・・・???・・・tama・たま・タマ・・・
ーーーーー
藤貞幹・・・・当定款・等定款・当帝冠・当諦観・等諦観・当帝鑑・当邸館
唐錠煥・・・???・・・到底感・・・
以下
by ウィキペディア(Wikipedia)
↓↑
藤 貞幹(とう ていかん)
享保十七年六月二十三日(1732年8月13日)
~
寛政九年八月十九日(1797年10月8日)
江戸時代中期の有職故実研究家
諱は藤原 貞幹(ふじわら さだもと)
字は子冬
通称・叔蔵
号は無仏斎・蒙斎・瑞祥斎・好古
京都の佛光寺・久遠院院主
玄煕(権律師、日野家出身)の子
文献学・目録学の祖
十一歳で得度・・・・拾壱(壹)
十八歳で還俗・・・・拾八(捌)
日野家の
本姓である藤原を名乗った
宗家の
日野資枝から和歌
高橋宗直から有職故実
持明院宗時から書道
後藤柴山・柴野栗山から儒学
高芙蓉から篆刻
を学んだ
雅楽・篆書・草書・金石文などに精通
韓天寿・・・江戸中期の書画家。伊勢松坂生
↓↑ 通称は中川長四郎
本姓は青木氏
天寿は名
字を大年・・・大(一人)の年?・・・壱與の歳=十三歳
号は酔晋斎
松下烏石に文徴明風の書を学び
王羲之・王献之の書を研究
池大雅・高芙蓉と親しく交遊
篆刻にも優れ双鈎(ソウコウ・模写)に巧みだった
↓↑ 自ら韓国、百済の
↓↑ 「余璋王」・・・余(あまり・𠆢二亅八)の
↓↑ 璋(たま・ひしゃく・王章)の
王(オウ・三丨・一十一)
璋=王+章
王+立+早
王+立+日+十
章=立+早
あや・ショウ
しるし・ふみ
模様・美しい模様
はん・はんこ(判子・印章)
明らか・明らかにする
形にして明らかにする
のり・規律・規則・法律
ふみ・文書・文章・詩文
音楽や詩文などの一区切り・一節
文体のひとつ・上奏文
↓↑ ↓↑
「上を剡りたるを圭と爲し
半圭を璋と爲す(説文解字・巻一)」?
↓↑ ↓↑
前11世紀
周王朝
戈をかたどった玉器
瑞玉をかたどった玉片に
一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し
犠牲の家畜と共に地中に埋めた
この形の玉器は
前千年紀末の古典中で璋と呼ばれ
前10~前9世紀
西周中期
瑞玉として
勺の柄に取り付ける玉がある・・・
↓↑ ↓↑
「六幣。圭は馬を以ってす
璋は皮を以ってす・・・璋は皮?
璧は帛を以ってす
琮は錦を以ってす
琥は繡を以ってす
璜は黼を以ってす(周礼)」?
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
玉・王(たま・たまへん・おう・おうへん)
たま・・・多磨・球・球磨=熊・隈・久万
ひしゃく=柄杓・杓子・・・百史=百済史
玉製の笏(しゃく)
圭(ケイ)を縦に半分に割ったもの
圭=土+土=十+一+十+一・・・二十二=弐拾弐
土(つち・つちへん・どへん)
たま・ケイ
天子が諸侯に
領土を与えたしるしとして授けた角のある玉
かど・かどだつ・かどがある
容量・容積の単位・一升の十万分の一
圭角が取れる=角が取れて人柄が円満になること
「圭角」=玉の尖ったところ
角が取れるという意
↓↑ 弄璋之喜=男の子が生まれること・生まれた喜び
↓↑ の子孫と称して
↓↑ 韓氏を名のった・・・韓の氏・・・韓史・韓詞
扶余豊璋
扶余 豊璋(フヨ ホウショウ)
扶余豐璋
百済最後の王
義慈王(在位:641年~660年)の王子
『日本書紀』は
「扶余豊璋=徐豊璋」
『三国史記』では
「余豊璋=徐豊璋」
『旧唐書』では
「余豊=徐豊」
・・・万葉集記載の
「軍王(こにきしのおおきみ)」=豊璋?
である・・・「翹岐=豊璋」も同一人物?
豊璋は帰国後
百済王に推戴され
実権を握る
鬼室福信・・・義慈王の父、第三十代・武王(余璋)の甥?
と確執・・・
663年6月
豊璋は
鬼室福信(扶余福信)を殺害・・「首を塩漬け」にした・・?
↓↑ ↓↑ 高橋景保も「身体を塩漬け」にされた・・
鬼室 集斯(シュウシ)は
鬼室福信の子?
白村江戦後に百済の男女400余人と渡来帰化?
天智天皇十年一月(671年)
学職頭(後の大学頭)に就任
肥後国の豪族菊池氏は「集斯の後裔」?
菊池氏=九州の肥後国菊池郡(熊本県菊池市)を
本拠としていた一族
「魏志倭人伝」
狗奴国の官
狗古智卑狗(くこちひく)=「菊池彦」?
鞠智足人⇔「久々知」⇔「菊池」・・・?
菊池氏
1019年(寛仁三年)
「刀伊の入寇」に戦功のあった
大宰権帥
藤原隆家の孫
藤原則隆が肥後国に下向して土着・・・???
・・・明治時代の故事付け改竄・・・?
↓↑ ↓↑
・・・668年百済滅亡後
唐の都に連行され
豊璋は嶺南に流刑
弟の百済王(くだらのこにきし)
「善光=徐禪廣」は日本に残留帰化・・・
・・・山東省臨沂刑務所で夫
「王全璋」弁護士との面会を求める
妻・李文足氏(李文足氏提供)・・???
↓↑
上田秋成・・・国学者・読本作家・大坂生
↓↑ 幼名は仙次郎
通称は東作
別号に鶉居・漁焉等
俳諧を高井几董に
漢・医学を都賀庭鐘に
国学・和歌を加藤宇万伎に
学ぶ
「雨月物語」・・・雨月=名月が雨で見られないこと
↓↑ 雨名月・・・アメ(☂::)の名の解通
雨の月・・・アメ(☂::)のゲツ
陰暦五月の異称
皐月(さつき)
白+夲(トウ・すすむ・もと)
「丰==+十+=」=「夲」
「夲(もと)=一+人+十」
白い光が放出(丰)するさま
↓↑ ↓↑ しろい意
「皞(カウ)」の原字
魂呼(たまよ)びの声の意
皐魚の泣(コウギョのキュウ
親の死を嘆き悲しんで泣く)
「皐魚不孝者の名・『韓詩外伝』」
早苗月(さなへつき)
梅雨・五月雨・菖蒲月(あやめづき)
皐月躑躅(さつきつつじ)
映山紅(エイサンコウ)・・・英参考?
12か月=「陬如寎余皋且相壯玄陽辜涂」
1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112
「皋=白+一+人+十」は
「皐=白+=+十+=」の本字
皐=コウ(カウ)・さわ・岸辺・水辺
「九皐=幾重にも曲がりくねった奥深い沢」
「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ」
↓↑ 瑞皐=高野長英
を著作
本居宣長(古事記伝の作者)とは
↓↑ 古代音韻、皇国主義をめぐって論争
と親交
後に
水戸藩彰考館に招かれ
『大日本史』編纂にも関与
日野資枝の実弟で
宝暦事件・・・宝暦八~九年(1758~1759)
江戸幕府が尊王論者の
竹内式部らを処罰した事件・・・竹内宿禰?
で逼塞していた
裏松固禅・・・裏松 光世(うらまつ みつよ)
↓↑ 元文元年(1736)十一月十一 日
~
文化元年(1804)七月二十六日
公家・有職故実家
『大内裏図考證』を著作
内大臣・烏丸光栄の五男
裏松益光の養子
法名は固禅
↓↑ 裏松家5代当主
と意気投合し
その家臣となり
『大内裏図考証』の執筆を助けた
一方で発掘された
出土品などを吟味して
厳密な考証の必要を唱えて
記紀の記述と言えども
無条件でこれを支持すべきではないと主張
神武天皇の在位を600年繰り下げ
神代文字の存在を否定した『衝口発』を著す
神武天皇
素戔嗚尊(正体は新羅国王であるとした)
の問題については
本居宣長が
『鉗狂人』を著して
貞幹の考証が杜撰であると主張
逆に上田秋成が貞幹を擁護し
宣長の姿勢を非難するなど
「日の神論争」等の論争を招いた
他に
『百官』・『国朝書目』・『逸号年号』
『伊勢両大神宮儀式帳考註』・『古瓦譜』
など自著多数・・・
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・・・???・・・「烏の丸の光栄」の御難・・・
↓↑
璋=王+章
異体字「𤨼」
声符「章・商・漳・障・彰・蔁
墇・鱆・樟・鄣・嶂・瘴・麞」
樟脳=虫除け
璋=王+章
王+立+早
王+立+日+十
玉・王(たま・たまへん・おう・おうへん)
たま・ひしゃく
ひしゃく=柄杓・杓子
圭(ケイ)を縦に半分に割ったもの
圭=土+土=十+一+十+一・・・二十二=弐拾弐
土(つち・つちへん・どへん)
たま・ケイ
天子が諸侯に
領土を与えたしるしとして授けた角のある玉
かど・かどだつ・かどがある
容量・容積の単位・一升の十万分の一
圭角が取れる=角が取れて人柄が円満になること
「圭角」=玉の尖ったところ
角が取れるという意
弄璋之喜=男の子が生まれること・生まれた喜び
↓↑
前11世紀
周王朝
戈をかたどった玉器
瑞玉をかたどった玉片に
一族郎党で行った盟(ちか)いの文句を朱書し
犠牲の家畜と共に地中に埋めた
この形の玉器は
前1千年紀末の古典中で璋と呼ばれ
前10~前9世紀
西周中期
瑞玉として
勺(ひしゃく・柄杓)の柄に取り付ける玉がある・・・
↓↑
「上を剡りたるを圭と爲し
半圭を璋と爲す(説文解字・巻一)」
「六幣。・・・幣=敝+巾
↓↑ 㡀+攵+巾
八+巾+八+攵+巾
巾(はば・はばへん・きんべん)
ぜに
ぬさ
みてぐら・ヘイ
神前に供える絹
贈り物・貢ぎ物
宝物・価値の高い物品
↓↑ 銭・お金・通貨
圭は馬を以ってす
璋は皮を以ってす
璧は帛(木綿)を以ってす
琮は錦(にしき)を以ってす
琥は繡(ぬいとり・刺繍)を以ってす
璜は黼(あや・ぬいとり・礼服の模様
斧の形を黒と白の糸で刺繍)を以ってす(周礼)」・・・?
↓↑
六言六蔽(リクゲンリクヘイ)
努力をして学問や教養を積めば
人には六つの徳が備わるが
怠ると六つの弊害がでてくる
『論語』陽貨篇
↓↑
子曰く
由(ユウ)よ
女(なんじ)六言(リクゲン)の
六蔽(リクヘイ)を聞けるか
↓↑
子路(シロ)よ
対(こた)えて曰く未(いま)だし
居(お)れ吾(われ)女に語(つ)げん
↓↑
仁を好みて学を好まざれば其の蔽や愚
↓↑
知を好みて学を好まざれば其の蔽や蕩(とう)
知識を好んでも学問を好まないとただの雑学になる
↓↑
信を好みて学を好まざれば其の蔽や賊(ぞく)
誠実を好んでも学問を好まないと盲信してしまう事になる
↓↑
直を好みて学を好まざれば其の蔽や絞(こ う)
正直さを好んでも学問を好まないと偏屈になる
↓↑
勇を好みて学を好まざれば其の蔽や乱
勇気を好んでも学問を好まないと乱暴者になる
↓↑
剛を好みて学を好まざれば其の蔽や狂
剛毅を好んでも学問を好まないと狂乱に陥ってしまう
↓↑
子路よとにかく一にも二にも学問を好むことだ
『論語』陽貨篇
↓↑
樟脳・・・タンスにゴン?
↓↑
潘 璋(ハンショウ・?~234年)
後漢末期から三国時代の呉の武将
字は文珪
兗州東郡発干県の人
子は潘平
15歳の孫権が
陽羨県長だったときに目通りを求め仕えた
↓↑
扶余豊璋
扶余 豊璋(フヨ ホウショウ)
扶余豐璋
百済最後の王
義慈王(在位:641年~660年)の王子
『日本書紀』は
「扶余豊璋=徐豊璋」
『三国史記』では
「余豊璋=徐豊璋」
『旧唐書』では
「余豊=徐豊」
である
↓↑
肥後国の豪族菊池氏を集斯の後裔
「魏志倭人伝」の
狗奴国の官・狗古智卑狗(くこちひく)
その名前より「菊池彦」・・・?
↓↑
菊池氏
1019年(寛仁三年)
「刀伊の入寇」に戦功のあった
大宰権帥
藤原隆家の孫
藤原則隆が肥後国に下向して土着・・・
↓↑
圭
中国古代の玉器の一種
上方がとがった短冊形を呈し
半圭のものを璋と呼んでいる
圭の形は先史時代の
有孔石斧から発達したといわれる・・・
↓↑
圭
古代中国で儀礼に用いた玉
重要な儀礼では
天子諸侯が手に持って儀礼を執り行った
↓↑
圭=古代中国の重量の単位。10圭が1合、10粟が1圭
圭=古代中国の容積の単位。64黍が1圭
圭=江戸時代の数学・和算で、二等辺三角形を指す
圭形とも
圭=代数学的な構造の一つ
カンドルやラックのうちの特殊なもの
↓↑
儀礼に用いた玉製の道具
日影を測量する玉器
香り酒(鬯酒)を酌むのに用いる玉器
閨と通じて門
↓↑
説文解字・巻十三
「瑞玉なり」
「上圜下方・公は桓圭を執る・九寸
矦は信圭を執り、伯は躬圭を執る、皆な七寸
子は穀璧を執り、男は蒲璧を執る、皆な五寸
以って諸矦を封ず」
諸侯を封ずるときに用いた玉器
上は円形で下は方形
諸侯の格によって大きさが異なる
↓↑
「玉圭」字形
珪
玉の象形
土を上下重ねたような字
土+土(説文)の会意
金文では土の字形と異なる・・・
帝王が諸侯に与える先端の尖った玉の板
↓↑
蛙(かえる)・卦(ヶ)・珪砂(silica sand・石英硅砂)・白色粗粒の砂
藤 圭子
桂小五郎(木戸孝允)
天保四年六月二十六日(1833年8月11日)~明治十年(1877年)5 月26日
癸巳(戊庚丙)偏印 正財沐浴⇔丁丑
庚申(戊壬庚)正官 正財 胎⇔乙巳
乙丑(癸辛己) 偏印 衰⇔己亥
戌亥空亡
↓↑
圭角
圭冠(はしはこうぶり)
漆塗りの布帛(ふはく)製
上は円くとがり、下が方形をしたもの
卦算・圭算=文鎮(ぶんちん)
圭復=「論語」先進の故事
人から来た手紙を繰り返して読むこと
↓↑
金沙遺跡(きんさいせき)
中国
四川省
成都市
青羊区
金沙街道
にある殷周時代の遺跡
本遺跡は
BC1700~1200年(夏晩期~商後期)
の三星堆文化の後
BC1200~500年(商後期~春秋)
の十二橋文化(十二橋・金沙文化と改称)
の代表遺跡と解明・・・
↓↑
「璋」
古人が天を祭り、太陽を拝み
豊作を祈る時に使われた礼器
権力と地位の象徴
「双獣首闌玉璋」
金沙から出土した200点に及ぶ玉璋の一
↓↑
「璧」
金沙から出土
「有領玉牙璧」
↓↑
2001年2月
四川省の省都・成都市の金沙村で
3000年前の
金器、銅器、玉器、石器、漆塗り木器、象牙が出土
↓↑
金沙遺跡はおおよそ3000年前
魚鳧王が創建した
三星堆の都は廃棄され
杜宇王が創立した
金沙王国は繁栄
↓↑
両方とも古代
蜀人が創建した古代蜀国
住民は骨組みが木か竹で土壁の家
稲や桑の栽培
牧畜、漁労、狩猟で生計
鋳物、陶器、玉器、木器の工芸技術
太陽、鳥、虎、蛇、亀、蝉、目
を崇拝
金器、銅器、玉器、石器、陶器は
三星堆のとほぼ同じ芸術的特徴
金製の仮面と冠帯
青銅製の人物彫像
有領(襟に似た突起)
玉璧
玉璋
目の形をした什器
図案や紋様が
三星堆と金沙が同じ
↓↑
金沙では現在2000点に達する玉器が出土
圭(板状の直方体で先端が尖った玉)
璋(圭を縦に二分した玉)
琮(内円外方の柱形をした玉)
璧(薄くドーナツ状の玉)
玦(帯に付けた装飾用の玉)
など二十数種
出土した1200点の石器
形や造りが小さく、精巧
日用品ではなく祭事に用いられた・・・
陶器
尖底盞(ちょこ)
尖底杯
いずれも底が尖った器
↓↑
金沙と三星堆の
古蜀人は
虎をトーテムとして崇拝していた
川西(四川省西部)高原に住む
羌氐民族の後裔
金沙から出土した十数点の
石虎
↓↑
以上
by ウィキペディア(Wikipedia)、etc・・・
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・・・???・・・tama・たま・タマ・・・