「蝦夷 (えみし・えびす・えぞ)」の改名「ホッカイ道」・・・
「蝦夷」は古くは
「愛瀰詩(えみし・神武天皇東征)」・・・
瀰=瀰=氵+彌・・・彌=镾=長+爾
氵+弓+爾
氵+弓+一+八+冂+丨+㸚
氵+弓+一+八+冂+丨+爻
氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+乂
氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+丿
ビ
はびこる(蔓延る)
瀰漫(ビマン)
ひろい
満ちる
水が一面に満ち溢れるさま
彌=镾=長+爾
ビ・ミ
や
あまねし
いや
いよいよ
つくろう
ひさしい
わたる
とおい
月日を経る・時間の経過
広く行きわたる
つくろう・おぎなう
ほころびを縫ってつくろう
いよいよ・ますます
ゆるめる・弓のつるを緩める
弥栄(いやさか)
いよいよ・さらに
歴史上の人名は
蘇我 蝦夷(えみし)
小野 毛人(えみし)
佐伯 今毛人(いまえみし)
鴨 蝦夷(えみし)
1869年(明治2年)7月17日
伊勢の
「松浦武四郎」の提案の「北加伊道」が
「北海道」として命名
明治2年8月15日
太政官布告
「蝦夷地
自今
北海道
ト被稱
十一ヶ国
ニ分割
國名郡名等別紙之通被 仰出候事」
「蝦夷 (えみし・えびす・えぞ)」の改名「ホッカイ道」・・・
「蝦夷」は古くは
「愛瀰詩(えみし・神武天皇東征)」・・・
瀰=瀰=氵+彌・・・彌=镾=長+爾
氵+弓+爾
氵+弓+一+八+冂+丨+㸚
氵+弓+一+八+冂+丨+爻
氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+乂
氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+丿
ビ
はびこる(蔓延る)
瀰漫(ビマン)
ひろい
満ちる
水が一面に満ち溢れるさま
彌=镾=長+爾
ビ・ミ
や
あまねし
いや
いよいよ
つくろう
ひさしい
わたる
とおい
月日を経る・時間の経過
広く行きわたる
つくろう・おぎなう
ほころびを縫ってつくろう
いよいよ・ますます
ゆるめる・弓のつるを緩める
弥栄(いやさか)
いよいよ・さらに
歴史上の人名は
蘇我 蝦夷(えみし)
小野 毛人(えみし)
佐伯 今毛人(いまえみし)
鴨 蝦夷(えみし)
渡島(渡嶋)=北海道
1869年(明治2年)7月17日
伊勢の
「松浦武四郎」の提案で「北加伊道」が
「北海道」として命名
明治2年8月15日
太政官布告
「蝦夷地
自今
北海道
ト被稱
十一ヶ国
ニ分割
國名郡名等別紙之通被 仰出候事」
↓↑
蝦蛄(しゃこ)⇔蝦(えび)=海老=蛯(えび)
青龍蝦
田螺=たにし=つぶ
蝸牛=かたつむり=蜗牛=エスカルゴ (仏語 escargot )
マイマイ=巻き巻き
=デデムシ
=カタツムリ(snail)
=ツブリ・・・螺(つぶ)⇔田螺(たにし・river snails)
=ナメクジ(蛞・蛞蝓)
「蝦」の漢字
エビ(海老)
or
ガマ(蝦蟇)かえる(蛙)=蟇蛙・蟇・蟆=蟾蜍(センジョ)
↓↑
蝦蛄(しゃこ)=蝦(えび・魵)=海老=蛯(えび)
青龍蝦 蝦夷(カイ)⇔甲斐・魁・貝
ウシエビ(牛海老)
↓↑
宝亀十一年(780年)・・・タカラのカメ壱拾壱念(撚)
「宝亀の乱」
伊治 呰麻呂
多賀城陥落
延暦八年(789年)
「巣伏の戦い」
阿弖 流為(アテルイ)・・・阿(曲がった)弓の一
流為(誄・塁=本塁)
遠征軍壊滅
↓↑
「蝸牛角上の争い(荘子・則陽篇
白居易 の詩文集・白氏文集)」
・・・蛮国と触国の領土争奪戦争・・・
↓↑
やってきたのは「New Orleans」
↓↑
「売剣買牛(バイケンバイギュウ)」
闘牛(トウギュウ)
「愛(うし・アイ)のコリーダ」
うい=有為・憂い・初・羽衣 ・宇井・宇居
↓↑
「コリーダ(Corrida de toros)=牛の走り」
(la corrida=闘牛)
「マタドール(matador=torero)=闘牛士」
「ピカドール (Picador)=槍士」
馬上から牛の肩の瘤に槍を突き刺し
牛を弱らせる騎士
↓↑
犍=牛+建
𠂉+十+廴+聿
牛+廴+肀+二
牛+廴+肀+一+一
ケン
去勢した牛・去勢
犍為(ケンイ)=漢代の郡名・四川省西南
聿=イチ・イツ=肀
おさ(める)
の(べる)
ふで(筆)
かく(書)
とうとう・ついに
自分から・自ら
修める・述べる
すばやい・すばやく走る
共に
従う
肀・⺻⇔書・晝・粛=肅
↓↑
オスの去勢牛=ox
メスの去勢牛=steer
↓↑
牡(オス)の牛
牡牛=雄牛(おうし・おすうし
古訓=をうじ)
牡牛(ボギュウ)=雄牛(ユウギュウ)」
種雄牛(シュユウギュウ)
雄の種牛(たねうし)
古語
「男牛(おうし・古訓=をうじ)」
bull=ox・nowt
ラテン語
taurus(タウルス)
bos=性別の問わない「牛」
↓↑
牝(メス)の牛
牝牛=雌牛(めうし・めすうし
めうじ
をなめ・をんなめ・うなめ)
牝牛(ヒンギュウ)=雌牛(シギュウ)
種雌牛=たねめすうし
古語
「女牛(めうし)=牸牛」
cow
ラテン語
vacca
牡馬
牝馬
↓↑
「ルイジアナ・ママ(Louisiana Mama) 」
ルイジアナ・ママ ジーン・ピットニー 1961
https://www.youtube.com/watch?v=sySmydnWlsc
↓↑
ニューオーリンズ(英 New Orleans
仏 La Nouvelle-Orleans )
細哈連・新疴勒安
新阿爾列盎斯
新奥尔良・新奥爾良
アメリカ(亜米利加)合衆国
ルイジアナ州(State of Louisiana)
類 似阿名拾
類 字亜名集 漢字表記
禄細亜那・魯西安納・魯西阿那
魯西安那・累斯安・盧乙悉亜那
路易斯安那・路易斯安娜
南部にある同州最大の都市
メキシコ湾(英 Gulf of Mexico
西班牙 Golfo de Mexico)
墨西哥
に面し
ミシシッピ川(Mississippi River)
密士失比・米西西皮・米西悉比
密斯昔必・密斯昔比・密斯必比
密士失必・美土細比 密西西比
の河口に位置する
港湾都市
穀物・綿花など
ミシシッピ川流域の農産物の輸出港
↓↑
ルイジアナ(Louisiana)の語源
フランス王
ルイ14世(Louis XIV・在位1643年~1715年)
に由来
ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール
がミシシッピ川の流れるこの領域を
フランス領と宣言し
ラ・ルイジ アーヌ
(La Louisi ane)・・・姉
The 名詞+接尾辞の~ana⇔あな・・・?
~ane⇔あね・・・?
ラテン語の接尾辞
「特定の個人
対象
場所
に関(属)するもの」を指す
「Louis+ana」=ルイに関(属)するモノ
↓↑
モンロー市近郊
ワトソン・ブレイク遺跡
北アメリカの最も初期の
「マウンド」
と呼ばれる塚が築かれ
アメリカ大陸最古の
複合的な構造物があった
「11のマウンド」遺跡で構成
約5,400年前~紀元前3500年頃に建設
中古期の
ケイニーとフレンチマンズ・ベンド遺跡
5,600年ないし5,000年前のものと推定
狩猟採集を行っていた部族が
季節を選んで州北部で
組織化され
複合的な構造物を建設した
リンカーン郡
ヘッジペス遺跡は
5,200年ないし4,500年前のものと推定
2,000年近く後
後古期で最大遺跡
ポヴァティ・ポイントが建設
現在のエップス村
紀元前1500年頃にその頂点を迎え
北アメリカでは
最初の複合構造物を造り
最初の部族文化を創った
文化は紀元前700年頃まで続いた
後
チューラ期の
チェフンクト文化
レイクコーモラント文化
が続いた
チェファンクト文化は
この地域で大量の土器を生産し
西暦200年頃まで続いた
ウッドランド中期は
南部と東部で
マークスヴィル文化
北西部で
フーシュマリーン文化
これらの文化は
オハイオ州やイリノイ州の
ホープウェル文化と同時期のもので
同文化の交易網の中に入っていた
南西方向の人々との交流で
弓と矢がもたらされた
この時代に最初の墳墓が建設
世襲的政治
宗教の指導力を高めるため
儀式の中心として最初の
壇状マウンドが建設され
政治的な権力が統合され始めた
西暦400年までに
南部では
ベイタウン文化と共に
ウッドランド後期が始まった
人口が劇的に増加
コールズ・クリーク遺跡
ウッドランド初期の墳墓の上に建設
特権階級が出現し
その権威を強調した・・・
ルイジアナ地域
ミシシッピ期では
プラークミン文化
カドー・ミシシッピ文化
が現れ
広範にトウモロコシ栽培が採用された
ミシシッピ州西部
ルイジアナ州東部
におけるミシシッピ川河谷下流域の
プラークミン文化は
西暦1200年頃~1400年頃まで続いた
ルイジアナ州
ウェストバトンルージュ郡
メドラ遺跡
ミシシッピ州
エメラルド・マウンド
ウィンタービル遺跡
ホリーブラフ遺跡
がある
↓↑
プラークミン文化
ミズーリ州
セントルイス近郊
カホキア遺跡
に象徴されるミシシッピ文化中期と同時代
この文化に所属していた人々は
ナチェズ族
タエンザ族
の先祖
西暦1000年まで
周北西部の
フーシュ・マリン文化
カドー・ミシシッピ文化へと進化し
現在のオクラホマ州東部
アーカンソー州西部
テキサス州北東部
ルイジアナ州北西部
などに広がっていた
前史時代とヨーロッパ人による
最初の接触時の
「カド族」
の直接先祖と
カド語を話す
オクラホマ州にいるカド族は
同族
ルイジアナ州の地名
アチャファライア
ナケテシュ
カドー
ホウマ
タンジパホア
アボイル
はインディアン言語で使われていた単語の音訳
↓↑
ルイジアナ地域
1528年
スペインの
パンフィロ・デ・ナルバエス
が率いた探検隊が
ミシシッピ川河口に到達
1542年
エルナンド・デ・ソト
のスペイン探検隊が
ルイジアナの北部と西部を通り
カド族やトゥニカ族と遭遇
1543年
ミシシッピ川を下ってメキシコ湾に達した
17世紀後半
フランス人
と
フランス系カナダ人
の遠征隊が
地域支配
宗教
交易の目的を持って
ミシシッピ川
メキシコ湾岸に拠点を築いた
↓↑
1682年
フランス領カナダから
南下したフランス人
ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール
がルイ14世にちなんで
ルイジアナと命名
1699年
カナダから来たフランス軍人
ピエール・ル・モワン・ディベールヴィル
が最初の恒久的開拓地
モーレパ砦
をミシシッピ州ビロクシ近郊の
オーシャンスプリングス
に設立
ミシシッピ川河口にも
ラ・バリーズ(フランス語 航路目標)
という小さな砦を建設
1721年
川を航行する船を導くため
木造の高さ62フィート (19 m) の灯台を建設
フランス領ルイジアナは
ミシシッピ川流域
から
カナダに至る広大な領域で
いくつかの交易拠点の網の目によって構成
フランス開拓地の目的
スペイン領テキサスの
スペインとの交易
ルイジアナへの
スペインの進出阻止
フランス系
アカディア人は
ルイジアナ州南部の
アチャファライア盆地など湿地に入植し
ケイジャン
と呼ばれるようになった
フランス開拓地からさらなる探検
ミシシッピ川やその主要支流沿いに
ルイジアナから北に
セントルイス周辺の
イリノイ・カントリー
と呼ばれた地域にまで前身基地ができた
↓↑
1722年
フランス領
ルイジアナの首府を
ニューオーリンズ市
(フランス語
ヌーヴェル・オルレアン
新オルレアン)
に移転
約80年間
ニューオーリンズから
フランスとスペインが交互に植民地経営
1720年
ドイツ人移民が
ジャーマン・コースト
ミシシッピ川沿いの地域に入植
↓↑
フレンチ・インディアン戦争
七年戦争
フランスは
カナダ植民地と
(ニューオリンズ付近を除く)
ミシシッピ川以東の地を
イギリスに割譲
残りの
ニューオーリンズ市
ミシシッピ川以西も
1762年
フォンテーヌブロー条約で
スペインに譲渡
カナダ東部沿海
アカディア植民地
(ノヴァスコシア州
ニューブランズウィック州
プリンスエドワードアイランド州)
のフランス系住民は
1765年
英国王に対する忠誠表明を拒んで強制追放
ルイジアナ南西部の
アケイディアナ地域に大挙移住
ルイジアナの
フランス系人口は増大
アカディア人の子孫は
ケイジャンと呼ばれている
スペインは
カトリック教徒の移民を得ようとし
アカディアからの移民を歓迎
スペイン領
カナリア諸島からも
イスレニョ
と呼ばれた島人が
1778年~1783年
移住
スペインを支配したナポレオンは
1800年
サンイルデフォンソ条約
で
ルイジアナをスペインから取り戻したが
これはその後2年間秘密にされていた
1803年
ナポレオンは財政上の必要性などから
アメリカ合衆国に売却
ルイジアナは
1762年~1800年までスペイン領
行政官はスペイン人であったにも関わらず
新規のスペイン人入植者はほとんどなく
フランス系社会が存続した
ルイジアナ州は
フランス系植民社会として
100年以上もっていた
↓↑
1709年
フランスの資本家
アントワヌ・クロザー
が
メキシコ湾からイリノイまでの
フランス領ルイジアナの商業独占権を獲得
↓↑
1803年
フランスが
ルイジアナを
アメリカ合衆国に売却
19世紀初めの
ルイジアナの砂糖の生産量は少なく
比較的少数の奴隷が生産に従事
プランテーション所有者が
奴隷を購入して無給で働かせたので
間もなく一大生産地になった
奴隷は
アフリカから
サウスカロライナ州に連れてこられ
その後に
ルイジアナへと売買された
アメリカ合衆国の新しい領土では
奴隷制度を違法とする連邦法があり
下院議員
ジェイムズ・ヒルハウス
や論客の
トマス・ペイン
がこの法を強制するよう要求
が、奴隷売買はルイジアナに広まっていった
↓↑
自由黒人女性
と
混血の娘
18世紀の
コラージュ
ニューオーリンズ
ルイジアナ州初代知事の
ウィリアム・C・C・クレイボーン
は人身売買を廃止する責務を負っていたが
実行しなかった
↓↑
1763年~1800年まで
ルイジアナを統治したスペイン人は
奴隷解放民主闘争を怖れ
治安攪乱と見なすものを抑圧
植民地の民主革命の破壊工作を禁じた
1790年5月
国王令によって
奴隷であろうと
自由人であろうと
西インド諸島からの黒人の入国を禁じた
その1年後
サン=ドマングで
世界史最初の奴隷による革命が成功
ハイチ建国につながった
↓↑
「サン=ドマングの革命」
で、様々な人種の人々が大量に植民地を脱出
フランス人は奴隷を連れて逃げた
自身が奴隷所有者の
自由有色人種も逃亡
1793年
主要都市
カプ=フランセ(カパイシャン)
の3分の2を焼き尽くす大火発生
1万人近い人々が永久に離島
外国の侵略や内乱
多くの人々が
東のサントドミンゴ(ドミニカ共和国)
カリブ海の近くの島に移動
人種を問わず人々は
北アメリカの
ニューヨーク
ボルティモア
フィラデルフィア
ノーフォーク
チャールストン
サバンナ
スペイン領
フロリダに移動
↓↑
フランスの海賊
ジャン・ラフィット
1782年頃
ポルトープランスで生まれ
ニューオーリンズで活躍
1791年~1803年
1,300人の避難民がニューオーリンズに到着
1795年春
ポワントクーペで暴動
農園主の家が焼かれた
サン=ドマング
からの自由難民
ルイ・ブノワ
が
「植民地を破壊した革命思想に染まっている」
と告発され、追放
ポワントクーペ
ジャーマン・コースト
では不安定な状態が続き
1796年春には奴隷貿易を全的停止
↓↑
1800年
ルイジアナの役人は奴隷貿易の再開議論
サン=ドマングの黒人は入国を禁じた
スペインが
ルイジアナを
フランスに戻し
農園主達は革命を恐れながら生活
1803年
サン=ドマングに対する遠征失敗
皇帝
ナポレオン・ボナパルト
がアメリカ合衆国に
ルイジアナを売却
ルイジアナは状況悪化
↓↑
1783年
アメリカ合衆国が
イギリスからの独立
アメリカ人開拓者が西から東に
商品を運ぶ最も容易な方法は
平底船で
オハイオ川から
ミシシッピ川を
ニューオーリンズ港まで運び
大洋航行可能な船に積み替えること
このルートの問題点は
ナチェズより
下流の
ミシシッピ川は両岸ともに
スペインが所有し
ルイジアナにおける
ナポレオンの野望は
カリブ海の砂糖貿易を中心に
新帝国を造ること
1800年
アミアンの和約
イギリスが
フランスに
マルティニーク島
グアドループ島
の所有権を返還
ナポレオンは
ルイジアナをこれら砂糖の島にとっての中継地点
アメリカ開拓地に対する緩衝地帯と見なしていた
1801年10月
ナポレオンは
サントドミンゴ島を征服
奴隷制度を再導入するために
大規模な軍隊を派遣
サン=ドマングでは
奴隷革命の後の
1792年~1793年
奴隷制度廃止
フランス植民地では
1794年
法と憲法で
奴隷制度を廃止
↓↑
ナポレオンの義弟
ルクレール
が指揮したフランス軍が
サントドミンゴ市民の
奴隷制度再導入に反対する軍隊に敗れ
ナポレオンは
ルイジアナをアメリカへ売却
↓↑
1800年
第3代アメリカ合衆国大統領
トーマス・ジェファーソン
ナポレオンが
ニューオーリンズを所有していれば
アメリカは通商に不可欠な
ミシシッピ川の出口を抑えられてしまう
ジェファーソンは
駐フランス全権公使
ロバート・リビングストンに
ミシシッピ川東岸の
ニューオーリンズ市を購入し
アメリカの交易のために
ミシシッピ川を自由航行できる交渉を行わせ
リビングストンは
200万ドルまで支払う権限を与えられた
↓↑
スペインから
フランスへの
ルイジアナ返還は公式には終わっておらず
スペインとのナポレオンの取引は
フロンティアでは秘密が保たれていなかった
1802年10月18日
ルイジアナの行政長官代行
フアン・ベンチュラ・モラレス
が
アメリカ合衆国からの全ての貨物について
ニューオーリンズでの
預託品の権利を取り消すという
スペインの意図を公にした
この重要な港の閉鎖は
アメリカ合衆国を怒らせ驚愕させ
西部での交易が事実上封鎖
預託品権利の取り消しは
アメリカ人が法を濫用し
密貿易によって促進され
フランスの陰謀ではなかった・・・
ジェファーソン大統領は
フランスとの戦争を要求する世論を無視し
ジェームズ・モンローを
ナポレオンへの特使として派遣
ニューオーリンズ獲得を支援
買収額の上限を
1,000万ドルに上げることも認めた
↓↑
1803年4月11日
フランス外務大臣
タレイランが
ニューオーリンズ
とその周辺地域のみならず
フランス領
ルイジアナ全体の譲渡について
アメリカ合衆国が幾ら払う用意があるかを尋ね
4月30日
総面積828,000平方マイル (2,145,000 km2)
のルイジアナ全土を
6,000万フラン(約1,500万米ドル)
で購入する契約
支払いはアメリカ合衆国の公債で行われ
ナポレオンはそれを額面価格で
オランダの
ホープ・アンド・カンパニーに
100ドルにつき87.5ドルの割引価格で
イギリスのベアリングス銀行に売却
最終的に
フランスが
ルイジアナの代償として受け取ったのは
8,831,250米ドル
イギリス銀行家
アレクサンダー・ベアリングは
パリで
マルボワと会合し
アメリカ合衆国に行って公債を回収して
イギリスに運び
現金にしてフランスに渡した
ナポレオンは
この金で
イギリスに対する戦争を始めた
↓↑
国土の広さを倍にするような領土を
1,500万米ドルで購入
ジェファーソンの
政敵で
「連邦党」は
ルイジアナ領土が価値の無いものであり
合衆国憲法では上院の承認無しに
新しい領土を獲得したり
条約の交渉をしたりすることは
許されないと主張
1803年10月20日
アメリカ合衆国上院は
ルイジアナ買収を批准
↓↑
管轄権限移譲の式
1803年11月29日
ニューオーリンズで開催
翌日
アメリカ合衆国の
ジェイムズ・ウィルキンソン将軍が
ニューオーリンズの領有を受け入れ
1804年3月9日
セントルイスでも同じような儀式が行われた
ルイジアナ領土は
メリウェザー・ルイスが代表として出席
アメリカ合衆国政府に公式に移管
↓↑
ルイジアナ領土
1エーカー (4,000 m2) あたり
3セント足らずで購入
戦争も無く
一人のアメリカ人の命も失われず
アメリカ合衆国国土を
2倍にした
アメリカ合衆国が
太平洋にまで到達する足がかりとなった
↓↑
1812年
アメリカ合衆国の州
ルイジアナ州成立
1849年
州都が
ニューオーリンズ市
から
バトンルージュ市
移転
ルイジアナの大地に
綿花
砂糖のプランテーションが形成
1861年
南北戦争で
南部連合に加盟して合衆国から脱退
1862年
北軍に占領
北軍占領中
州都はニューオーリンズ市に設置
1868年
ルイジアナ州
合衆国へ復帰
1901年
州内で石油が発見
ルイジアナ州は
産油地帯となった
↓↑
郭公=托卵・・・郭務悰
歴史上の「漢人」
「郭伋」・・・「郭=亠口一了阝(邑)」
+
「伋=イ(人)及」
↓↑
伋=亻+ 及
キュウ
忙しい
「孔伋=孔子の孫=子思(シシ)」
及=キュウ
およぶ
および
およぼす
ならびに
ふたつ以上のものを並列させる
およぶ・いたる・追いつく・達する
およぼす
行きわたる・行きわたらせる
いきわたる=行記亘理
行基渉
壱岐渡
亙・互・旦・渡・度
わたる=亘理・倭・和太留
↓↑
行=line (文字が並んだ)
number (詩の)=verse
numbers
row (数学・数列)
基=base, understructure, fundament
foot
ベース・基本・基地・基盤・拠点・基礎
groundwork, foundation
substructure
underlying
基底・基本・基礎・基・下位・原資
基(キ)=group・radical
↓↑ ↓↑ ↓↑
「行基(ギョウキ)」
天智天皇七年(668年)
天平二十一年二月二日(749年2月23日)
仏教僧
朝廷が
寺や僧の行動を規定し
民衆へ仏教の
直接布教を禁止していた当時
その禁を破って
「行基集団」
を形成
畿内(近畿)を中心に
仏教を説き
困窮者の救済、社会事業を指導
布施屋9所
道場、寺院を49院
溜池15窪
溝と堀9筋
架橋6所
を各地に整備
当初
朝廷から度々弾圧や禁圧を受けた
後
大僧正(日本初の最高位の大僧正)
聖武天皇により
奈良の大仏(東大寺)造立の
実質上の責任者として招聘
東大寺の「四聖」の一人
↓↑
天平二十一年(749年)
「行基」の弟子の
「真成」
が
「行基」の
骨をおさめた
「銅製骨臓器瓶」・・・銅=金+同
製=制+衣
骨=冎+月(肉)
臓=月(肉)+蔵
器=㗊+大=器=器+丶
=噐=吅+工+吅
吅+大+吅
吅+一+人+吅
瓶=并+瓦
に
師の伝記を刻んだ
『大僧上舎利瓶記』に
「俗性は高志氏にして
その考(ちち)の
諱は才智
字は知法君
の長子なり
もと
百済国の王子
王爾
のすえなり
その妣(はは)は
蜂田氏にして
諱は古爾比売
河内国
大鳥郡の
蜂田首
虎身の
長女なり」
中国系帰化人(百済に帰化していた中国人)
の氏族
百済後裔は系譜のの装飾・・・
『日本現報善悪霊異記』
越後国
頸城郡
出身・・・説
↓↑
天智天皇七年(668年)
河内国
大鳥郡
(天平宝字元年(757年)
に和泉国へ分立・大阪府堺市西区家原寺町)
父 高志 才智
母 蜂田 古爾比売・・・故事(虎児)の
比(比較)
売(賣・うる・うり
Bye)
の長子
『大僧正舎利瓶記』
「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」
天武天皇十一年(682年)
15歳で
大官大寺で
「得度」を受け出家し
「法行」
と称し
持統天皇五年(691年)
24歳で
戒師の
高宮寺
徳光禅師のもと受戒
飛鳥寺、次に薬師寺で
法相宗を主として教学を学び
名を
「行基」と改名
↓↑
弟子の
「道昭」
は、入唐し
「玄奘」
の教えを受けた
↓↑
井戸を掘り・・・井⇔并=併・併合
戸=一+尸(屍・かばね・姓)
渡しや港に船を備え
橋を架け
後の行基の事業への影響を指摘
「行基」が
「道昭」に師事したという伝承・・・
「行基」の遺骨を納めた瓶
『舎利瓶記』
『日本現報善悪霊異記』
には記録が無い
↓↑
大宝四年(704年)
生家を
家原寺に改め
母と大和国の
「佐紀堂」・・・日本書紀の佐紀に同?
で暮らす
40歳で
生駒山
草野仙房
に母親と移り修行
43歳で母を亡くし3年間喪に服す
↓↑
「知識結」
僧俗混合の宗教集団を形成し
近畿地方を中心に
貧民救済
治水・架橋
などの社会事業に活動
養老元年(717年)四月二十三日
宗教集団を
寺の外での活動を禁じた
「僧尼令」に違反とされ
糾弾、弾圧を受けた
↓↑
天平二年(730年)九月
平城京の東の丘陵(天地院と推定)で
数千人~1万人を集めて説教し
民衆を惑わした(『続日本紀』)
天平三年(731年)
に弾圧を緩め
翌年
河内国
狭山池の築造に
「行基」
の技術力や農民動員の力量を利用
天平八年(736年)
インド出身の僧
「菩提僊那」
が
チャンパ王国出身の
僧・仏哲
唐の僧
「道璿」
とともに来日
九州の大宰府に赴き
行基に迎えられた後に
平城京に入って
大安寺に住し
「時服」・・・字伏(フク=複・覆・葺)?
を与えられた
天平十年(738年)
朝廷より
「行基大徳」
の諡号が授けられた
(日本で最初の
律令法典
『大宝律令』の注釈書記録)
↓↑
三世一身法が施行され
灌漑事業
聖武天皇の依頼で
740年(天平十二年)
東大寺
盧舎那仏像(大仏)
建立に協力
741年(天平十三年三月)
聖武天皇が
恭仁京郊外
泉橋院で
「行基」と会見
743年(天平十五年)
東大寺
大仏像造営の勧進に起用
745年(天平十七年)
「大僧正」の位を贈られた
(『続日本紀』)
749年(天平二十一年)
喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅
往生院で火葬後
竹林寺に納骨
多宝塔を建て墓所とした
朝廷より
菩薩の諡号
「行基菩薩」と言われ
行基は
「文殊菩薩の化身」
とも言われている・・・
↓↑
「行基」が建立した寺
長岡院の候補
「菅原遺跡(奈良市)」で
円形構造の
回廊跡と塀跡が発掘
柱穴15カ所による直径は
約15メートルで
円堂(他では八角堂)で
多宝塔・・・
「行基」を供養した建物跡・・・
↓↑
「菩提僊那」
752年(天平勝宝四年)
聖武上皇の命で
東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた
↓↑
773年(宝亀四年)
「行基」没後の宗教集団に
国家の援助を与えたが
布教を禁じた
東大寺大仏殿再興の勧進に
「重源」
や
「公慶」
が語るが
仏教団体や教理などの表面から消え
民衆の伝承や寺院の
開基伝承などに伝えられている
・・・???・・・
ー----
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/10
↓↑
干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
「蝦夷」は古くは
「愛瀰詩(えみし・神武天皇東征)」・・・
瀰=瀰=氵+彌・・・彌=镾=長+爾
氵+弓+爾
氵+弓+一+八+冂+丨+㸚
氵+弓+一+八+冂+丨+爻
氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+乂
氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+丿
ビ
はびこる(蔓延る)
瀰漫(ビマン)
ひろい
満ちる
水が一面に満ち溢れるさま
彌=镾=長+爾
ビ・ミ
や
あまねし
いや
いよいよ
つくろう
ひさしい
わたる
とおい
月日を経る・時間の経過
広く行きわたる
つくろう・おぎなう
ほころびを縫ってつくろう
いよいよ・ますます
ゆるめる・弓のつるを緩める
弥栄(いやさか)
いよいよ・さらに
歴史上の人名は
蘇我 蝦夷(えみし)
小野 毛人(えみし)
佐伯 今毛人(いまえみし)
鴨 蝦夷(えみし)
1869年(明治2年)7月17日
伊勢の
「松浦武四郎」の提案の「北加伊道」が
「北海道」として命名
明治2年8月15日
太政官布告
「蝦夷地
自今
北海道
ト被稱
十一ヶ国
ニ分割
國名郡名等別紙之通被 仰出候事」
「蝦夷 (えみし・えびす・えぞ)」の改名「ホッカイ道」・・・
「蝦夷」は古くは
「愛瀰詩(えみし・神武天皇東征)」・・・
瀰=瀰=氵+彌・・・彌=镾=長+爾
氵+弓+爾
氵+弓+一+八+冂+丨+㸚
氵+弓+一+八+冂+丨+爻
氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+乂
氵+弓+一+八+冂+丨+㐅+丿
ビ
はびこる(蔓延る)
瀰漫(ビマン)
ひろい
満ちる
水が一面に満ち溢れるさま
彌=镾=長+爾
ビ・ミ
や
あまねし
いや
いよいよ
つくろう
ひさしい
わたる
とおい
月日を経る・時間の経過
広く行きわたる
つくろう・おぎなう
ほころびを縫ってつくろう
いよいよ・ますます
ゆるめる・弓のつるを緩める
弥栄(いやさか)
いよいよ・さらに
歴史上の人名は
蘇我 蝦夷(えみし)
小野 毛人(えみし)
佐伯 今毛人(いまえみし)
鴨 蝦夷(えみし)
渡島(渡嶋)=北海道
1869年(明治2年)7月17日
伊勢の
「松浦武四郎」の提案で「北加伊道」が
「北海道」として命名
明治2年8月15日
太政官布告
「蝦夷地
自今
北海道
ト被稱
十一ヶ国
ニ分割
國名郡名等別紙之通被 仰出候事」
↓↑
蝦蛄(しゃこ)⇔蝦(えび)=海老=蛯(えび)
青龍蝦
田螺=たにし=つぶ
蝸牛=かたつむり=蜗牛=エスカルゴ (仏語 escargot )
マイマイ=巻き巻き
=デデムシ
=カタツムリ(snail)
=ツブリ・・・螺(つぶ)⇔田螺(たにし・river snails)
=ナメクジ(蛞・蛞蝓)
「蝦」の漢字
エビ(海老)
or
ガマ(蝦蟇)かえる(蛙)=蟇蛙・蟇・蟆=蟾蜍(センジョ)
↓↑
蝦蛄(しゃこ)=蝦(えび・魵)=海老=蛯(えび)
青龍蝦 蝦夷(カイ)⇔甲斐・魁・貝
ウシエビ(牛海老)
↓↑
宝亀十一年(780年)・・・タカラのカメ壱拾壱念(撚)
「宝亀の乱」
伊治 呰麻呂
多賀城陥落
延暦八年(789年)
「巣伏の戦い」
阿弖 流為(アテルイ)・・・阿(曲がった)弓の一
流為(誄・塁=本塁)
遠征軍壊滅
↓↑
「蝸牛角上の争い(荘子・則陽篇
白居易 の詩文集・白氏文集)」
・・・蛮国と触国の領土争奪戦争・・・
↓↑
やってきたのは「New Orleans」
↓↑
「売剣買牛(バイケンバイギュウ)」
闘牛(トウギュウ)
「愛(うし・アイ)のコリーダ」
うい=有為・憂い・初・羽衣 ・宇井・宇居
↓↑
「コリーダ(Corrida de toros)=牛の走り」
(la corrida=闘牛)
「マタドール(matador=torero)=闘牛士」
「ピカドール (Picador)=槍士」
馬上から牛の肩の瘤に槍を突き刺し
牛を弱らせる騎士
↓↑
犍=牛+建
𠂉+十+廴+聿
牛+廴+肀+二
牛+廴+肀+一+一
ケン
去勢した牛・去勢
犍為(ケンイ)=漢代の郡名・四川省西南
聿=イチ・イツ=肀
おさ(める)
の(べる)
ふで(筆)
かく(書)
とうとう・ついに
自分から・自ら
修める・述べる
すばやい・すばやく走る
共に
従う
肀・⺻⇔書・晝・粛=肅
↓↑
オスの去勢牛=ox
メスの去勢牛=steer
↓↑
牡(オス)の牛
牡牛=雄牛(おうし・おすうし
古訓=をうじ)
牡牛(ボギュウ)=雄牛(ユウギュウ)」
種雄牛(シュユウギュウ)
雄の種牛(たねうし)
古語
「男牛(おうし・古訓=をうじ)」
bull=ox・nowt
ラテン語
taurus(タウルス)
bos=性別の問わない「牛」
↓↑
牝(メス)の牛
牝牛=雌牛(めうし・めすうし
めうじ
をなめ・をんなめ・うなめ)
牝牛(ヒンギュウ)=雌牛(シギュウ)
種雌牛=たねめすうし
古語
「女牛(めうし)=牸牛」
cow
ラテン語
vacca
牡馬
牝馬
↓↑
「ルイジアナ・ママ(Louisiana Mama) 」
ルイジアナ・ママ ジーン・ピットニー 1961
https://www.youtube.com/watch?v=sySmydnWlsc
↓↑
ニューオーリンズ(英 New Orleans
仏 La Nouvelle-Orleans )
細哈連・新疴勒安
新阿爾列盎斯
新奥尔良・新奥爾良
アメリカ(亜米利加)合衆国
ルイジアナ州(State of Louisiana)
類 似阿名拾
類 字亜名集 漢字表記
禄細亜那・魯西安納・魯西阿那
魯西安那・累斯安・盧乙悉亜那
路易斯安那・路易斯安娜
南部にある同州最大の都市
メキシコ湾(英 Gulf of Mexico
西班牙 Golfo de Mexico)
墨西哥
に面し
ミシシッピ川(Mississippi River)
密士失比・米西西皮・米西悉比
密斯昔必・密斯昔比・密斯必比
密士失必・美土細比 密西西比
の河口に位置する
港湾都市
穀物・綿花など
ミシシッピ川流域の農産物の輸出港
↓↑
ルイジアナ(Louisiana)の語源
フランス王
ルイ14世(Louis XIV・在位1643年~1715年)
に由来
ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール
がミシシッピ川の流れるこの領域を
フランス領と宣言し
ラ・ルイジ アーヌ
(La Louisi ane)・・・姉
The 名詞+接尾辞の~ana⇔あな・・・?
~ane⇔あね・・・?
ラテン語の接尾辞
「特定の個人
対象
場所
に関(属)するもの」を指す
「Louis+ana」=ルイに関(属)するモノ
↓↑
モンロー市近郊
ワトソン・ブレイク遺跡
北アメリカの最も初期の
「マウンド」
と呼ばれる塚が築かれ
アメリカ大陸最古の
複合的な構造物があった
「11のマウンド」遺跡で構成
約5,400年前~紀元前3500年頃に建設
中古期の
ケイニーとフレンチマンズ・ベンド遺跡
5,600年ないし5,000年前のものと推定
狩猟採集を行っていた部族が
季節を選んで州北部で
組織化され
複合的な構造物を建設した
リンカーン郡
ヘッジペス遺跡は
5,200年ないし4,500年前のものと推定
2,000年近く後
後古期で最大遺跡
ポヴァティ・ポイントが建設
現在のエップス村
紀元前1500年頃にその頂点を迎え
北アメリカでは
最初の複合構造物を造り
最初の部族文化を創った
文化は紀元前700年頃まで続いた
後
チューラ期の
チェフンクト文化
レイクコーモラント文化
が続いた
チェファンクト文化は
この地域で大量の土器を生産し
西暦200年頃まで続いた
ウッドランド中期は
南部と東部で
マークスヴィル文化
北西部で
フーシュマリーン文化
これらの文化は
オハイオ州やイリノイ州の
ホープウェル文化と同時期のもので
同文化の交易網の中に入っていた
南西方向の人々との交流で
弓と矢がもたらされた
この時代に最初の墳墓が建設
世襲的政治
宗教の指導力を高めるため
儀式の中心として最初の
壇状マウンドが建設され
政治的な権力が統合され始めた
西暦400年までに
南部では
ベイタウン文化と共に
ウッドランド後期が始まった
人口が劇的に増加
コールズ・クリーク遺跡
ウッドランド初期の墳墓の上に建設
特権階級が出現し
その権威を強調した・・・
ルイジアナ地域
ミシシッピ期では
プラークミン文化
カドー・ミシシッピ文化
が現れ
広範にトウモロコシ栽培が採用された
ミシシッピ州西部
ルイジアナ州東部
におけるミシシッピ川河谷下流域の
プラークミン文化は
西暦1200年頃~1400年頃まで続いた
ルイジアナ州
ウェストバトンルージュ郡
メドラ遺跡
ミシシッピ州
エメラルド・マウンド
ウィンタービル遺跡
ホリーブラフ遺跡
がある
↓↑
プラークミン文化
ミズーリ州
セントルイス近郊
カホキア遺跡
に象徴されるミシシッピ文化中期と同時代
この文化に所属していた人々は
ナチェズ族
タエンザ族
の先祖
西暦1000年まで
周北西部の
フーシュ・マリン文化
カドー・ミシシッピ文化へと進化し
現在のオクラホマ州東部
アーカンソー州西部
テキサス州北東部
ルイジアナ州北西部
などに広がっていた
前史時代とヨーロッパ人による
最初の接触時の
「カド族」
の直接先祖と
カド語を話す
オクラホマ州にいるカド族は
同族
ルイジアナ州の地名
アチャファライア
ナケテシュ
カドー
ホウマ
タンジパホア
アボイル
はインディアン言語で使われていた単語の音訳
↓↑
ルイジアナ地域
1528年
スペインの
パンフィロ・デ・ナルバエス
が率いた探検隊が
ミシシッピ川河口に到達
1542年
エルナンド・デ・ソト
のスペイン探検隊が
ルイジアナの北部と西部を通り
カド族やトゥニカ族と遭遇
1543年
ミシシッピ川を下ってメキシコ湾に達した
17世紀後半
フランス人
と
フランス系カナダ人
の遠征隊が
地域支配
宗教
交易の目的を持って
ミシシッピ川
メキシコ湾岸に拠点を築いた
↓↑
1682年
フランス領カナダから
南下したフランス人
ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール
がルイ14世にちなんで
ルイジアナと命名
1699年
カナダから来たフランス軍人
ピエール・ル・モワン・ディベールヴィル
が最初の恒久的開拓地
モーレパ砦
をミシシッピ州ビロクシ近郊の
オーシャンスプリングス
に設立
ミシシッピ川河口にも
ラ・バリーズ(フランス語 航路目標)
という小さな砦を建設
1721年
川を航行する船を導くため
木造の高さ62フィート (19 m) の灯台を建設
フランス領ルイジアナは
ミシシッピ川流域
から
カナダに至る広大な領域で
いくつかの交易拠点の網の目によって構成
フランス開拓地の目的
スペイン領テキサスの
スペインとの交易
ルイジアナへの
スペインの進出阻止
フランス系
アカディア人は
ルイジアナ州南部の
アチャファライア盆地など湿地に入植し
ケイジャン
と呼ばれるようになった
フランス開拓地からさらなる探検
ミシシッピ川やその主要支流沿いに
ルイジアナから北に
セントルイス周辺の
イリノイ・カントリー
と呼ばれた地域にまで前身基地ができた
↓↑
1722年
フランス領
ルイジアナの首府を
ニューオーリンズ市
(フランス語
ヌーヴェル・オルレアン
新オルレアン)
に移転
約80年間
ニューオーリンズから
フランスとスペインが交互に植民地経営
1720年
ドイツ人移民が
ジャーマン・コースト
ミシシッピ川沿いの地域に入植
↓↑
フレンチ・インディアン戦争
七年戦争
フランスは
カナダ植民地と
(ニューオリンズ付近を除く)
ミシシッピ川以東の地を
イギリスに割譲
残りの
ニューオーリンズ市
ミシシッピ川以西も
1762年
フォンテーヌブロー条約で
スペインに譲渡
カナダ東部沿海
アカディア植民地
(ノヴァスコシア州
ニューブランズウィック州
プリンスエドワードアイランド州)
のフランス系住民は
1765年
英国王に対する忠誠表明を拒んで強制追放
ルイジアナ南西部の
アケイディアナ地域に大挙移住
ルイジアナの
フランス系人口は増大
アカディア人の子孫は
ケイジャンと呼ばれている
スペインは
カトリック教徒の移民を得ようとし
アカディアからの移民を歓迎
スペイン領
カナリア諸島からも
イスレニョ
と呼ばれた島人が
1778年~1783年
移住
スペインを支配したナポレオンは
1800年
サンイルデフォンソ条約
で
ルイジアナをスペインから取り戻したが
これはその後2年間秘密にされていた
1803年
ナポレオンは財政上の必要性などから
アメリカ合衆国に売却
ルイジアナは
1762年~1800年までスペイン領
行政官はスペイン人であったにも関わらず
新規のスペイン人入植者はほとんどなく
フランス系社会が存続した
ルイジアナ州は
フランス系植民社会として
100年以上もっていた
↓↑
1709年
フランスの資本家
アントワヌ・クロザー
が
メキシコ湾からイリノイまでの
フランス領ルイジアナの商業独占権を獲得
↓↑
1803年
フランスが
ルイジアナを
アメリカ合衆国に売却
19世紀初めの
ルイジアナの砂糖の生産量は少なく
比較的少数の奴隷が生産に従事
プランテーション所有者が
奴隷を購入して無給で働かせたので
間もなく一大生産地になった
奴隷は
アフリカから
サウスカロライナ州に連れてこられ
その後に
ルイジアナへと売買された
アメリカ合衆国の新しい領土では
奴隷制度を違法とする連邦法があり
下院議員
ジェイムズ・ヒルハウス
や論客の
トマス・ペイン
がこの法を強制するよう要求
が、奴隷売買はルイジアナに広まっていった
↓↑
自由黒人女性
と
混血の娘
18世紀の
コラージュ
ニューオーリンズ
ルイジアナ州初代知事の
ウィリアム・C・C・クレイボーン
は人身売買を廃止する責務を負っていたが
実行しなかった
↓↑
1763年~1800年まで
ルイジアナを統治したスペイン人は
奴隷解放民主闘争を怖れ
治安攪乱と見なすものを抑圧
植民地の民主革命の破壊工作を禁じた
1790年5月
国王令によって
奴隷であろうと
自由人であろうと
西インド諸島からの黒人の入国を禁じた
その1年後
サン=ドマングで
世界史最初の奴隷による革命が成功
ハイチ建国につながった
↓↑
「サン=ドマングの革命」
で、様々な人種の人々が大量に植民地を脱出
フランス人は奴隷を連れて逃げた
自身が奴隷所有者の
自由有色人種も逃亡
1793年
主要都市
カプ=フランセ(カパイシャン)
の3分の2を焼き尽くす大火発生
1万人近い人々が永久に離島
外国の侵略や内乱
多くの人々が
東のサントドミンゴ(ドミニカ共和国)
カリブ海の近くの島に移動
人種を問わず人々は
北アメリカの
ニューヨーク
ボルティモア
フィラデルフィア
ノーフォーク
チャールストン
サバンナ
スペイン領
フロリダに移動
↓↑
フランスの海賊
ジャン・ラフィット
1782年頃
ポルトープランスで生まれ
ニューオーリンズで活躍
1791年~1803年
1,300人の避難民がニューオーリンズに到着
1795年春
ポワントクーペで暴動
農園主の家が焼かれた
サン=ドマング
からの自由難民
ルイ・ブノワ
が
「植民地を破壊した革命思想に染まっている」
と告発され、追放
ポワントクーペ
ジャーマン・コースト
では不安定な状態が続き
1796年春には奴隷貿易を全的停止
↓↑
1800年
ルイジアナの役人は奴隷貿易の再開議論
サン=ドマングの黒人は入国を禁じた
スペインが
ルイジアナを
フランスに戻し
農園主達は革命を恐れながら生活
1803年
サン=ドマングに対する遠征失敗
皇帝
ナポレオン・ボナパルト
がアメリカ合衆国に
ルイジアナを売却
ルイジアナは状況悪化
↓↑
1783年
アメリカ合衆国が
イギリスからの独立
アメリカ人開拓者が西から東に
商品を運ぶ最も容易な方法は
平底船で
オハイオ川から
ミシシッピ川を
ニューオーリンズ港まで運び
大洋航行可能な船に積み替えること
このルートの問題点は
ナチェズより
下流の
ミシシッピ川は両岸ともに
スペインが所有し
ルイジアナにおける
ナポレオンの野望は
カリブ海の砂糖貿易を中心に
新帝国を造ること
1800年
アミアンの和約
イギリスが
フランスに
マルティニーク島
グアドループ島
の所有権を返還
ナポレオンは
ルイジアナをこれら砂糖の島にとっての中継地点
アメリカ開拓地に対する緩衝地帯と見なしていた
1801年10月
ナポレオンは
サントドミンゴ島を征服
奴隷制度を再導入するために
大規模な軍隊を派遣
サン=ドマングでは
奴隷革命の後の
1792年~1793年
奴隷制度廃止
フランス植民地では
1794年
法と憲法で
奴隷制度を廃止
↓↑
ナポレオンの義弟
ルクレール
が指揮したフランス軍が
サントドミンゴ市民の
奴隷制度再導入に反対する軍隊に敗れ
ナポレオンは
ルイジアナをアメリカへ売却
↓↑
1800年
第3代アメリカ合衆国大統領
トーマス・ジェファーソン
ナポレオンが
ニューオーリンズを所有していれば
アメリカは通商に不可欠な
ミシシッピ川の出口を抑えられてしまう
ジェファーソンは
駐フランス全権公使
ロバート・リビングストンに
ミシシッピ川東岸の
ニューオーリンズ市を購入し
アメリカの交易のために
ミシシッピ川を自由航行できる交渉を行わせ
リビングストンは
200万ドルまで支払う権限を与えられた
↓↑
スペインから
フランスへの
ルイジアナ返還は公式には終わっておらず
スペインとのナポレオンの取引は
フロンティアでは秘密が保たれていなかった
1802年10月18日
ルイジアナの行政長官代行
フアン・ベンチュラ・モラレス
が
アメリカ合衆国からの全ての貨物について
ニューオーリンズでの
預託品の権利を取り消すという
スペインの意図を公にした
この重要な港の閉鎖は
アメリカ合衆国を怒らせ驚愕させ
西部での交易が事実上封鎖
預託品権利の取り消しは
アメリカ人が法を濫用し
密貿易によって促進され
フランスの陰謀ではなかった・・・
ジェファーソン大統領は
フランスとの戦争を要求する世論を無視し
ジェームズ・モンローを
ナポレオンへの特使として派遣
ニューオーリンズ獲得を支援
買収額の上限を
1,000万ドルに上げることも認めた
↓↑
1803年4月11日
フランス外務大臣
タレイランが
ニューオーリンズ
とその周辺地域のみならず
フランス領
ルイジアナ全体の譲渡について
アメリカ合衆国が幾ら払う用意があるかを尋ね
4月30日
総面積828,000平方マイル (2,145,000 km2)
のルイジアナ全土を
6,000万フラン(約1,500万米ドル)
で購入する契約
支払いはアメリカ合衆国の公債で行われ
ナポレオンはそれを額面価格で
オランダの
ホープ・アンド・カンパニーに
100ドルにつき87.5ドルの割引価格で
イギリスのベアリングス銀行に売却
最終的に
フランスが
ルイジアナの代償として受け取ったのは
8,831,250米ドル
イギリス銀行家
アレクサンダー・ベアリングは
パリで
マルボワと会合し
アメリカ合衆国に行って公債を回収して
イギリスに運び
現金にしてフランスに渡した
ナポレオンは
この金で
イギリスに対する戦争を始めた
↓↑
国土の広さを倍にするような領土を
1,500万米ドルで購入
ジェファーソンの
政敵で
「連邦党」は
ルイジアナ領土が価値の無いものであり
合衆国憲法では上院の承認無しに
新しい領土を獲得したり
条約の交渉をしたりすることは
許されないと主張
1803年10月20日
アメリカ合衆国上院は
ルイジアナ買収を批准
↓↑
管轄権限移譲の式
1803年11月29日
ニューオーリンズで開催
翌日
アメリカ合衆国の
ジェイムズ・ウィルキンソン将軍が
ニューオーリンズの領有を受け入れ
1804年3月9日
セントルイスでも同じような儀式が行われた
ルイジアナ領土は
メリウェザー・ルイスが代表として出席
アメリカ合衆国政府に公式に移管
↓↑
ルイジアナ領土
1エーカー (4,000 m2) あたり
3セント足らずで購入
戦争も無く
一人のアメリカ人の命も失われず
アメリカ合衆国国土を
2倍にした
アメリカ合衆国が
太平洋にまで到達する足がかりとなった
↓↑
1812年
アメリカ合衆国の州
ルイジアナ州成立
1849年
州都が
ニューオーリンズ市
から
バトンルージュ市
移転
ルイジアナの大地に
綿花
砂糖のプランテーションが形成
1861年
南北戦争で
南部連合に加盟して合衆国から脱退
1862年
北軍に占領
北軍占領中
州都はニューオーリンズ市に設置
1868年
ルイジアナ州
合衆国へ復帰
1901年
州内で石油が発見
ルイジアナ州は
産油地帯となった
↓↑
郭公=托卵・・・郭務悰
歴史上の「漢人」
「郭伋」・・・「郭=亠口一了阝(邑)」
+
「伋=イ(人)及」
↓↑
伋=亻+ 及
キュウ
忙しい
「孔伋=孔子の孫=子思(シシ)」
及=キュウ
およぶ
および
およぼす
ならびに
ふたつ以上のものを並列させる
およぶ・いたる・追いつく・達する
およぼす
行きわたる・行きわたらせる
いきわたる=行記亘理
行基渉
壱岐渡
亙・互・旦・渡・度
わたる=亘理・倭・和太留
↓↑
行=line (文字が並んだ)
number (詩の)=verse
numbers
row (数学・数列)
基=base, understructure, fundament
foot
ベース・基本・基地・基盤・拠点・基礎
groundwork, foundation
substructure
underlying
基底・基本・基礎・基・下位・原資
基(キ)=group・radical
↓↑ ↓↑ ↓↑
「行基(ギョウキ)」
天智天皇七年(668年)
天平二十一年二月二日(749年2月23日)
仏教僧
朝廷が
寺や僧の行動を規定し
民衆へ仏教の
直接布教を禁止していた当時
その禁を破って
「行基集団」
を形成
畿内(近畿)を中心に
仏教を説き
困窮者の救済、社会事業を指導
布施屋9所
道場、寺院を49院
溜池15窪
溝と堀9筋
架橋6所
を各地に整備
当初
朝廷から度々弾圧や禁圧を受けた
後
大僧正(日本初の最高位の大僧正)
聖武天皇により
奈良の大仏(東大寺)造立の
実質上の責任者として招聘
東大寺の「四聖」の一人
↓↑
天平二十一年(749年)
「行基」の弟子の
「真成」
が
「行基」の
骨をおさめた
「銅製骨臓器瓶」・・・銅=金+同
製=制+衣
骨=冎+月(肉)
臓=月(肉)+蔵
器=㗊+大=器=器+丶
=噐=吅+工+吅
吅+大+吅
吅+一+人+吅
瓶=并+瓦
に
師の伝記を刻んだ
『大僧上舎利瓶記』に
「俗性は高志氏にして
その考(ちち)の
諱は才智
字は知法君
の長子なり
もと
百済国の王子
王爾
のすえなり
その妣(はは)は
蜂田氏にして
諱は古爾比売
河内国
大鳥郡の
蜂田首
虎身の
長女なり」
中国系帰化人(百済に帰化していた中国人)
の氏族
百済後裔は系譜のの装飾・・・
『日本現報善悪霊異記』
越後国
頸城郡
出身・・・説
↓↑
天智天皇七年(668年)
河内国
大鳥郡
(天平宝字元年(757年)
に和泉国へ分立・大阪府堺市西区家原寺町)
父 高志 才智
母 蜂田 古爾比売・・・故事(虎児)の
比(比較)
売(賣・うる・うり
Bye)
の長子
『大僧正舎利瓶記』
「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」
天武天皇十一年(682年)
15歳で
大官大寺で
「得度」を受け出家し
「法行」
と称し
持統天皇五年(691年)
24歳で
戒師の
高宮寺
徳光禅師のもと受戒
飛鳥寺、次に薬師寺で
法相宗を主として教学を学び
名を
「行基」と改名
↓↑
弟子の
「道昭」
は、入唐し
「玄奘」
の教えを受けた
↓↑
井戸を掘り・・・井⇔并=併・併合
戸=一+尸(屍・かばね・姓)
渡しや港に船を備え
橋を架け
後の行基の事業への影響を指摘
「行基」が
「道昭」に師事したという伝承・・・
「行基」の遺骨を納めた瓶
『舎利瓶記』
『日本現報善悪霊異記』
には記録が無い
↓↑
大宝四年(704年)
生家を
家原寺に改め
母と大和国の
「佐紀堂」・・・日本書紀の佐紀に同?
で暮らす
40歳で
生駒山
草野仙房
に母親と移り修行
43歳で母を亡くし3年間喪に服す
↓↑
「知識結」
僧俗混合の宗教集団を形成し
近畿地方を中心に
貧民救済
治水・架橋
などの社会事業に活動
養老元年(717年)四月二十三日
宗教集団を
寺の外での活動を禁じた
「僧尼令」に違反とされ
糾弾、弾圧を受けた
↓↑
天平二年(730年)九月
平城京の東の丘陵(天地院と推定)で
数千人~1万人を集めて説教し
民衆を惑わした(『続日本紀』)
天平三年(731年)
に弾圧を緩め
翌年
河内国
狭山池の築造に
「行基」
の技術力や農民動員の力量を利用
天平八年(736年)
インド出身の僧
「菩提僊那」
が
チャンパ王国出身の
僧・仏哲
唐の僧
「道璿」
とともに来日
九州の大宰府に赴き
行基に迎えられた後に
平城京に入って
大安寺に住し
「時服」・・・字伏(フク=複・覆・葺)?
を与えられた
天平十年(738年)
朝廷より
「行基大徳」
の諡号が授けられた
(日本で最初の
律令法典
『大宝律令』の注釈書記録)
↓↑
三世一身法が施行され
灌漑事業
聖武天皇の依頼で
740年(天平十二年)
東大寺
盧舎那仏像(大仏)
建立に協力
741年(天平十三年三月)
聖武天皇が
恭仁京郊外
泉橋院で
「行基」と会見
743年(天平十五年)
東大寺
大仏像造営の勧進に起用
745年(天平十七年)
「大僧正」の位を贈られた
(『続日本紀』)
749年(天平二十一年)
喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅
往生院で火葬後
竹林寺に納骨
多宝塔を建て墓所とした
朝廷より
菩薩の諡号
「行基菩薩」と言われ
行基は
「文殊菩薩の化身」
とも言われている・・・
↓↑
「行基」が建立した寺
長岡院の候補
「菅原遺跡(奈良市)」で
円形構造の
回廊跡と塀跡が発掘
柱穴15カ所による直径は
約15メートルで
円堂(他では八角堂)で
多宝塔・・・
「行基」を供養した建物跡・・・
↓↑
「菩提僊那」
752年(天平勝宝四年)
聖武上皇の命で
東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた
↓↑
773年(宝亀四年)
「行基」没後の宗教集団に
国家の援助を与えたが
布教を禁じた
東大寺大仏殿再興の勧進に
「重源」
や
「公慶」
が語るが
仏教団体や教理などの表面から消え
民衆の伝承や寺院の
開基伝承などに伝えられている
・・・???・・・
ー----
↓↑ ↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
+
(表紙・画像・音楽)」の
移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/10
↓↑
干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
↓↑
追加添文
「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB