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則天武后の妹の夫は「郭素慎」⇔「郭務悰」は血縁?

2018-12-20 23:19:32 | 古事記字源

 ・・・『則天武后』と「現存・古事記」・・・「托卵」しながら、アッチこっちに彷徨(さ迷)い歩いたボクの「HP」・・・「遊郭=廓=くるわ=来るわ・繰るわ・刳るわ」・・・「彠=尋+蒦」とは「彠=はかる・ものさし・のり・クワク・ワク・カク・キャク・ヤク」・・・反物を測るのに用いられてきた和裁用物差の単位・・・「鯨尺(一鯨尺 = 37.8787879 cm・鯨尺一尺=曲尺 (かねじゃく) の1尺2寸5分に相当・37.88cm)」・・・「もと鯨の鬚(ひげ)で作られた」・・・「1958年(昭和33)の尺貫法廃止にともない法定単位でなくなった。鯨差し=呉服尺」・・・
 「鯨=くじら=魚+京・異体字は𩼃・䲔・巨京」
 「雌は鯢(ゲイ)・女久治良」
 「久地良・久知良・久治良・久慈理・区施羅・屈支羅」
 「『クジンラ(九尋羅)』が変化」
 「イサナ・勇魚・伊佐那・伊佐難・伊沙那・鯨名・異舎儺」
 「クロシラ(黒白)=くじら」

 ↓↑
 「訳(ヤク)=言+尺」の
 「ものさし
 (ruler・(measuring) rule [rod]・straightedge・measure)」
 ・・・辞典・事典・字典・・・
 「規彠=キカク・おきて・法度」・・・
 「尋(ひろ)=古代の中国や日本で使われた長さの単位」
 「古代中国で8尺・日本で6尺または5尺」
 「両手を左右に伸ばしたときの
  指先から指先までの長さを基準にし
  一尋は5尺=約1.515メートル
  ないし6尺=約1.816メートル」
 「海神 所乘駿馬者 八尋鰐 也 是 竪其鰭背 而在 橘之小戸
  第十段一書(三)」
 海神の乗る駿馬=「八尋鰐(わに)」・・・王仁・和邇
 「異体字は、彟・蒦=艹+隻・卝+隻」・・・
 「彠=ヨエロ寸艹(クサカンムリ)隹又」
   尋(たず・たづ)ねる 
   ヨエロ(与重侶・世慧鹵)を
   ョ=鼠(子・シ)の頭・・・ネズミのカシラ・・・則天武后
                ネコのカシラ・・・・王皇后
     猪(亥・ガイ)の頭・・・豚(ぶた)の頭・・褚遂良
     鯨(くじら)の頭は括れていない・・・
   寸(はか・スム・一亅丶)る
        ・・・初(一・はじめ・イチ)に
           釣(亅・かぎ・鉤・鈎・つる)る
           天(丶・てん・点・典・あま・あめ)
   日下(くさか・艹)の無理(ムリ)・・・久坂の無理
    ・・・草(艹・艸)冠=くさかんむり
   執り(取=耳+又・とり・隹・鳥・鶏・酉・禽) 
 ↓↑
 「篗=竹+隻=糸を巻き取る道具・榬」・・・イトまき
 「榬=木+袁=異体字、楥・𥰟・楦」・・・
       十八(拾捌)の
       長袖(ながそで・袁)=sleeves
      「グリーンスリーヴス=Greensleeves」
 「䈅=竹+或=〔集韻〕に籆」・・・
ーーーーー
 高宗・・・太宗(李世民)の第九子
      母   長孫皇后
      姓・諱 李治
      字   為善
      小字  稚奴
      諡号  天皇-大聖-大弘孝-皇帝
      廟号  高宗
 の
 皇后
 王氏
 と
 蕭淑妃
 が対立
 武照の入宮
 武照が昭儀(後宮上位5番目の地位)
 として後宮に入宮
 ↓↑
 永徽六年(655年)六月
 高宗は武照を
 昭儀から新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが
 宰相
 韓瑗・・・韓の瑗(王の爰=エン・オン・ここに?)・・・どこに?
 と
 来済・・・来済(救済に来た?)
 が反対
 同年
 中書舎人・李義府などの側近が
 皇后廃立と
 武照
 擁立の
 意図を
 揣摩(シマ)し
 許敬宗・・・許す敬の宗
 崔義玄・・・崔(もよおし)の義は玄(くろ)
       崔=山+隹=高くて大きい
 袁公瑜・・・猿の公の瑜(ユ)
       瑜=玉+兪
          兪=中をくりぬいた丸木船
            木の中身をそっくり抜くの意
            不純な部分を取り除いた上質な宝玉
            美しい宝玉
       賢瑜=三巻揃いの現存最古の
          「古事記」を写本
          ・・・瑜=ユ=諭=喩
               福沢諭吉・比喩=たとえ(喩)
 らの大臣が結託
 高宗に
 武照
 立后の上奏文を送った
 ↓↑
 高宗は
 王皇后を廃し・・・・・・・王仁・王邇・和邇
 武照を皇后に立てることの
 是非を重臣に下問
 ↓↑
 太宗(李世民)の
 皇后
 長孫氏の兄で
 高宗
 の伯父にあたる
  ↓↑
  長孫無忌・・・長の孫、忌(いみ・嫌・厭)は無し
 (チョウソン ムキ)
  ↓↑ ↓↑  開皇十五年(595)頃~顕慶四年(659)
         唐朝の外戚
         字は輔機
         黔州・唐初の重臣
         鮮卑の拓跋の
         鮮卑系貴族
         本貫は河南郡洛陽県
         凌煙閣二十四功臣第一位
         隋書は・・・随所・随処・髄書・瑞書
         長孫無忌
         と
         魏 徴(ギチョウ)
         らの編纂・・・
  ↓↑ ↓↑    ↓↑
          「俀国」
     在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居
     ・・・都於「邪靡堆」
     則魏志所謂「邪馬臺」者也
     開皇二十年
          「俀王」
         姓「阿毎」
         字「多利思北孤」
         號「阿輩雞彌」
  ↓↑  遣使詣闕
    ・・王妻 號「雞彌」・・・
  ↓↑
 太宗に信任、直言をしていた
 褚遂良(チョ スイリョウ)・・・
       596年~658年
       書家・銭塘(セントウ)の人
       字は登善
       楷書に巧みで書風は王羲之の流れ
      褚=衤(衣)+者+丶⇔異体字「𧝙」
        わたいれ・さいふ・ためる・あか・あかい
        チョ・シャ
      遂=䒑+乑+辶=彖+辶=彑+𧰨+辶
             彖(垂れた・タン)・・・豚の垂れた腹
             縁(ふち)・縁(へり)=糸+彖
             縁側・縁談・縁日・縁故・因縁
             手づる・えにし
      良=丶+艮=白+レ+乂(乀′・乀ノ・⺊)
       =異体字「𣌩」
 ↓↑
 高祖と同じ
 北周八柱国出身の
 于志寧・・・こころざしを寧(ねんごろ)にまわす
 ↓↑
 太宗の下で
 突厥討伐の戦功者
 李勣・・・木の子、責(せめる)チカラ
 ↓↑
 の4人
 長孫無忌
 と
 褚遂良は反対
 于志寧は賛成も反対も言わず
 李勣が
 皇后の廃立を消極的に容認
 ↓↑
 十月十三日(11月16日)
 高宗は
 「陰謀下毒」の罪により
 王皇后
 蕭淑妃
 を庶民に落とし投獄
 同2名の親族は
 官位剥奪
 嶺南へ流罪
 その7日後
 高宗は
 武照を立后し
 諫言した
 褚遂良を
 潭州都督へ左遷
 ↓↑
 十一月初旬
 皇后の武照は
 王氏(前皇后)
 蕭氏(前淑妃)
 を棍杖で百叩きに処した上
 処刑
ーーーーー
 以下はボクの「HP」・・・
 『則天武后』と - Wix.com
haa98940.wixsite.com/.../『則天武后』と「現存・古事記」1
 が原文で・・・少々、添付
 ・・・彠=尋+艸+隻
         尋ねる久坂玄瑞の隻眼?
  一つの目・片目・ものを見抜く眼識・すぐれた識見
 独自の見識・独眼・隻眼・・・
 伊達政宗=幼名梵天丸・法名から貞山公
      幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目失明
      「独眼竜」の異名
      隻眼の伊達政宗をあえて
      李克用になぞらえた
      後唐の太祖武帝
 柳生十衛兵=柳生 三厳(やぎゅう みつよし)
       別名 七郎・十兵衞
       戒名 長岩院殿-金甫-宗剛-大居士
 ↓↑
 則天武后の父親
 『武士彠(尋+艸+隻)』は・・・獲得?
        ヨエロ寸艹(クサカンムリ)隹又
        武士彠=幷州-文水(山西省汾陽県)の人
 『隋王朝』の
 『煬帝』の
 『鷹楊府隊正』の部隊長で
 当時の
 『李淵』
 や
 『世民』
 親子と縁があり
 『隋王朝』滅亡の時には
 『李淵』の配下の
 『大将軍府・鎧曹参軍』
 の地位にあった
 彼の最初の夫人が
 『相里氏』で
 後に再婚した別の夫人が
 『楊氏』で
 『隋王朝』の
 『観王(楊雄)』の
 姪であった。
 この夫人が「三人娘」を産んだ
 ↓↑
 『韓国婦人』は長女
     ・・・「調序・重所・聴如」?
 『照(則天武后)』は次女
        ・・・「自序・次序・爾汝・自助」?
 『郭素慎婦人』は三女
      ・・・「纂序・纂所・蒜如・讃女」?
      ・・・則天武后の妹の夫は
        「郭素慎」⇔「郭務悰」は血縁?
 ↓↑
 郭公
 《鳴き声から》カッコウ目カッコウ科の鳥
  全長約35 センチ
  頭部と体の上面は灰青色
  胸と腹は白く暗灰色の横縞
  尾羽は黒灰色で
  白い横縞が入り
  先端も白い
  雌には赤褐色型もある
  全体に灰色
  腹に黒い横斑がある・・・腹黒いって?
 カッコウ
 ノビタキ、モズ科、ホオジロ科、オナガ
 などに托卵
 腹のしま模様はツツドリより細く薄い
 雄は体を横にして翼を下げ
 尾を左右に振りながら鳴く
 ↓↑
 楊玄琰の長女
 崔峋に嫁いでいた
 韓国夫人に封じられる
 皇子、皇孫の婚姻は
 韓国夫人や
 虢国夫人に
 賄賂を贈れば思い通りになった
 至徳元載(756年)
 楊国忠が殺された後
 陳玄礼率いる兵士たちに殺された
ーーーーー
 『則天武后』と - Wix.com
haa98940.wixsite.com/.../『則天武后』と「現存・古事記」1
 ↓↑
 『武士彠』は
 『隋王朝』の
 『煬帝』の
 『鷹楊府隊正』の部隊長で
 当時の
 『李淵』
 や
 『世民』
 親子と縁があり
 『隋王朝』滅亡の時には
 『李淵』の配下の
 『大将軍府・鎧曹参軍』の地位にあった
 李淵(唐高祖)の挙兵に参加し
 利州(四川省広元県)都督を授けられた
 広元県にある
 皇沢寺が
 娘の
 則天武后(武照)の生地
 彼の最初の夫人が
 『相里氏』で
 後に再婚した別の夫人が
 『楊氏』で
 『隋王朝』の
 『観王(楊雄)』の
 姪であった。
 この夫人が「三人娘」を産んだ
 ↓↑
 『韓国婦人』は長女
     ・・・「調序・重所・聴如」?
 『照(則天武后)』は次女
        ・・・「自序・次序・爾汝・自助」?
 『郭素慎婦人』は三女
      ・・・「纂序・纂所・蒜如・讃女」?
ーーーーー
 玄宗朝の妃
 楊貴妃(名は玉環)
 ↓↑ 735年(開元二十三年)
    玄宗と武恵妃の間の息子
    寿王李瑁、第十八子」の妃となり
    737年(開元二十五年)
    武恵妃が死去し
    翌年
    宦官
    高力士・・・光宅元年(684年)
          ~
          宝応元年八月十八日(762年8月31日)
          唐の第六代皇帝玄宗の腹心
    の薦めで
    李璵・・・姓・諱
         李嗣昇→李浚→李璵→李亨
         諡号
         文明武徳大聖大宣孝皇帝
         廟号
         粛宗
         景雲二年九月三日(711年10月19日)
         ~
         宝応元年四月十八日(762年5月16日)
    が皇太子に冊立
    740年(開元二十八年)
    玄宗に見初められ
    長安の東にある温泉宮で
    「女冠(道号を太真)」となった
    息子から妻を奪う形になるのを避けるため
    実質は内縁関係
    後、宮中の太真宮に移り住み
    玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた
    後宮の人間からは
   「娘子(ニィァン ヅゥ・niáng z)」と呼ばれた
745年(天宝四載)、貴妃に冊立
    ・・・楊貴妃は後に「玄宗皇帝」の妃となる
           蜀出身・本籍は蒲州・永楽
           兄に楊銛
       叔父の楊玄珪は、光禄卿
       兄の楊銛は殿中少監
       従兄の楊錡は駙馬都尉
       に封じられ
       楊錡は玄宗の愛娘である
       太華公主と婚姻
 ↓↑
 「虢国」夫人
 (カクコクふじん)
 ?~至徳元載(756年)
 名は不詳
 楊貴妃
 の姉
 姓は楊
 蜀州司戸の
 楊玄琰の二女
 裴氏に嫁ぎ
 子の
 裴徽と・・・後、延光公主と婚姻を結ぶ
 娘を一人産むが
 夫に死なれ寡婦
 天宝七載(748年)に虢国夫人
 楊国忠との密通の噂
 天宝十四載(755年)
 安史の乱の勃発
 至徳元載(756年)
 玄宗の長安出奔後
 陳倉に赴いていたが
 楊国忠、韓国夫人、楊貴妃
 の死を聞き
 裴徽と娘、楊国忠の妻の裴柔を殺して
 自殺未遂
 後、のどに血が固まり死亡
 (虢
  河南省三門峡市上村嶺にある
  西周時代後期~春秋時代前期の虢国
  虢は周と同姓の国であるが
  周の文王の弟
  虢仲が初めて封ぜられた西虢のほか
  文王の弟
  虢叔の封ぜられた東虢があり
  その後の移動によって
  南虢、北虢(山西省平陸県)がある)
 ↓↑
 姉の
 「韓国」夫人
 楊玄琰の長女
 崔峋に嫁いでいた
 韓国夫人に封じられる
 皇子、皇孫の婚姻は
 韓国夫人や虢国夫人に
 賄賂を贈れば思い通りになった
 至徳元載(756年)
 楊国忠が殺された後
 陳玄礼率いる兵士たちに殺された
 (韓
  戦国時代に存在した国
  戦国七雄の一国
  紀元前403年~紀元前230年
  首都は陽翟
  地方名としての韓は
  河南省北部の一部
  山西省南部の一部
  陝西省東部の一部
  西は秦
  北は魏
  南は楚
  に挟まれた国)
  国姓 姫姓 韓氏
  爵位 侯爵
  国都 陽翟・・・翟=きじ・テキ・タク
            キジ(雉)の尾羽
            舞楽で舞人が右手に持つ
 ↓↑         雉の尾羽
 翟=羽+隹
   通仮字「挑・狄」
   耀
   翟・嬥・濯・趯・曜・藋・戳
   燿・躍・櫂・蠗・擢・䊮・𩱲
 (河南省禹州市)
 新鄭
 (河南省新鄭市)
 分封者 威烈王
 始祖  景侯
 存在時期 前403年~前230年
 秦により滅亡
 ↓↑
 秦国夫人
 楊玄琰の三女
 楊貴妃の姉(排行は八番目・・・)
 柳澄という男に嫁いでいたが死に別れ
 子は
 柳鈞
 秦国夫人に封じられる
 天宝六載(747年)
 彼女が宮中に侍女の
 明珠を連れてきたことが
 楊慎矜失脚の原因の一
 天宝十三〜十四載頃に死去
 楊銛、楊錡、韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人
 の5家で楊氏五家
 楊国忠を含めて、楊氏六家という場合も・・・
ーーーーー
 『則天武后(武照)』は
 「貞観二年(628)」の
 生まれ年の干支は「戊子(ツチのエのネ)」?
 「戊子」は「ボシ」とも読む
 「古事記」や「日本書紀」の中では
 「ボシ」、「ホシ」、「ボジ」
 の同音異字に掛けられている・・・?
 「星」、「干」、「補詞」、「補史」
 「母子」、「母死」、「母字」、「母事」
 等の「模字」で、
 「母鼠」の誕生と「音図見とりの描写」・・・
 ↓↑
 『則天武后(武照)』
 は憎くっき「王氏」を
 「蟒(ボウ・モウ・うわばみ・おろち)」
 「蕭氏」を
 「梟(キョウ・シャオ・ふくろう・みみずく)」
 としてその記録上の
 「姓の漢字」を換えさせた
 後に
 「武氏」を
 「蝮(フク・まむし)」
 「李氏」を
 「キ(兀+虫=カイ・ケ)=まむし・とかげ・ひばかり」
 と凶悪な「字」をつけた
 「孝謙称徳女帝」が
 「和気清麻呂」を
 「汚麻呂」とした記録がある
 「キタナマロ」とは
 「記他名真賂」か、
 「企多名眞賂」・・・?
 「ヨゴレマロ」・・・
  世後例間ロ、予後例眞賂・・・
  余呉、余語、四語・・・
  等の例を萬慮と・・・
 『則天武后(武照)』は
 殺してしまった
 「王皇后」と「蕭淑妃」の
 亡霊、幽霊に悩まされて
 「竜朔三年(663)」に
 「西内の大明宮」から「蓬莱宮」に引越し
 さらには「長安」から
 「東都・洛陽」に住むようになった・・・
 唐王朝にとって
 「竜朔三年(663)」とは
 「白村江の海戦」での
 大勝利の年である・・・
ーーーーー
 以下、殆んど「by wikipedia.org/wiki/武則天」・・・
 ↓↑
 則天武后・・・「貞観二年(628)」生まれ?
 貞観二年(628年2月17日)~   神龍元年(705年12月16日)
 ↓↑
 戊子(壬 癸)⇔正財印綬  病⇔乙巳
 甲寅(戊丙甲)⇔劫財正財 帝旺⇔戊子
 乙巳(戊庚丙)⇔  正財 沐浴⇔壬寅
  寅卯=空亡
 ↓↑
 武徳七年一月二十三日~ 神龍元年十一月二十六日
 (624年2月17日)Y ? (705年12月16日)Y
 ↓↑
 甲申(戊壬庚)比肩偏官 絶⇔乙巳
 丙寅(戊丙甲)食神比肩建禄⇔戊子
 甲午(丙 丁)--- 正財 死⇔壬寅
  辰巳=空亡
 ↓↑
 父 武士彠
 母 楊夫人
 少女期の
 媚娘は漆黒の髪
 切れ長で大きな瞳(目)
 雪のような肌
 桃色の唇
 薔薇色の頬
 大きな胸
 見る者を魅了する
 媚笑
 聡明な頭脳
 ↓↑
 出身県である
 文水県を
 武興県と改めた
 ↓↑
 武三思(ブ・サンシ・?~707年)
 武則天の
 異母兄弟である
 元慶の子(武則天の甥)
 右衛将軍
 武則天が政権掌握後
 夏官尚書に任命
 周朝(武周)が成立すると
 梁王に封ぜられ一千戸を賜る
 天官尚書を拝命
 695年(万歳登封元年)に
 春官尚書に転じ
 国史監修を担当
 698年(聖暦元年)
 検校内史
 699年
 特進
 太子賓客
 ↓↑
 懿安郭皇后=唐の憲宗の皇后
 郭子儀(カク シギ)
 神功元年(697年)
 ~
 建中二年六月十四日(781年7月9日)
 唐朝に仕えた軍人・政治家
 玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた
 客家人
 安史の乱で大功
 異民族の侵入を防いだ
 盛唐〜中唐期を代表する名将
 憲宗(在位805年~820年)の
 皇后
 「郭」氏は
 子儀の孫
 ↓↑
 華州鄭県(陝西省渭南市華州区)の人
 字は諱に同じ
 諡号は
 忠武
 後晋の
 劉昫の撰した『旧唐書』に
 「子儀 長六尺餘」
 北宋・欧陽脩の撰した『新唐書』に
 「長七尺二寸」
 旧書の「六尺餘」は身長190cm
 父の
 郭敬之は
 綏州・渭州・桂州・寿州・泗州
 の刺史(地方長官)を歴任
  『新唐書』・百官志四下に
 「上州」刺史は「従三品」に当たり
 渭州・寿州などには
 中都督府が置かれ
 中都督は「正三品」であった
 府兵制が崩れる以前に
 都督・刺史の官は
 地方職(外官)としては高官
 「蔭官」(父祖の功によって官職に就くこと)
 ではなく
 武挙(科挙と同じく武官試験)で
 仕官を果た
 (『新唐書』本伝
  「武挙の異等なるを以て左衛長史に補さる」
   徐松 撰/孟二冬 補正『登科記考補正』巻27)
 後、単于副都護、振遠軍使に累進
 玄宗の
 天宝八年(749年)
 木剌山に
 横塞軍
 と
 安北都護府を設置した際
 横塞軍使に命じられた
 李吉甫撰『元和郡県図志』巻4・天徳軍の条
 に
 「天宝八年、張斉丘
  又た西可敦城に横塞軍を置き
  又た中受降城より横塞軍を移して理む」
 呉廷燮撰『唐方鎮年表』巻1に
 天宝九年まで
 節度使の
 張斉丘の配下
 後、
 節度使として赴任した
 安思順
 李林甫
 らに仕え
 天宝十三年(754年)に
 横塞軍の在所の地形が悪く
 耕作に向かず
 人口も少なく
 新たに
 永清柵の北側に築城して
 横塞軍と安北都護府とを移し
 横塞軍は
 「天徳軍」と改称
 子儀はあらためて
 天徳軍使となって
 九原太守を兼ね
 朔方節度右兵馬使に命じられた(新旧書)
 上司・節度使の
 安思順は
 安禄山の従弟(姚汝能撰『安禄山事迹』上巻)
 ↓↑
 天宝十四年十一月
 安禄山の乱
 安思順は
 以前から禄山の叛心を進言し
 死罪は免れたが
 (新書・哥舒翰伝
  「始め、安思順 禄山の必ず反せるを度り
   嘗て帝が為に言はば、坐せざるを得」)
 中央に戻された
 後任として
 右兵馬使であった
 子儀が朔方節度使に昇格し
 衛尉卿(五監の一、衛尉寺の長官。従三品)
 に任ぜられ
 霊武郡太守を兼務し
 朔方郡の兵馬を率いて
 安禄山討伐に向うよう詔
 ↓↑
 粛宗の時
 安史の乱を平らげて
 国難を救う功
 衛尉卿、
 霊武郡太守、
 朔方節度使、
 関内河東副元帥に任ぜられ
 汾陽王に封ぜられた
 ↓↑
 764年
 安史の乱の際に賊軍征伐をともに行った
 僕固懐恩が宦官との対立から叛乱
 太原に進攻したのを撃退
 ↓↑
 765年
 吐蕃・ウイグルの叛乱を平定
 徳宗より
 尚父の号を賜り
 大尉・中書令に昇進
ーー↓↑ーー
 907年・・・唐王朝滅亡
 6月2日(天祐四年=開平元年四月十九日)
 朱全忠が
 唐の
 哀帝から
 禅譲を受けて後梁を建国
 五代十国時代が始まる
 ↓↑
 延喜通宝を鋳造
 延喜格が完成
 ↓↑
 干支=丁卯
 中国
  唐=天祐四年
 五代
 後梁=開平元年
 十国
  呉=天祐四年(唐の元号を使用)
 前蜀=天復七年(唐昭宗の元号を使用)
  遼=太祖元年
 中国周辺
 渤海=大諲譔元年
 南詔=安国5年
 日本
 延喜7年
 皇紀1567年
 朝鮮
 新羅=孝恭王10年
 泰封=聖冊3年
 後百済=正開8年
 ↓↑
 朱 全忠
 ↓↑
 王朝 後梁
 在位期間
 907年6月1日~912年7月18日
 都城 開封
 姓・諱 朱温→朱全忠→朱晃
 諡号  神武元聖孝帝・・・神武-元聖-孝帝
 廟号  太祖
 生年 大中六年十月二十一日
 (852年12月5日)
 没年 乾化二年六月二日
 (912年7月18日)
 父 朱誠
 母 王氏
 陵墓 宣陵
 年号 開平 907年~911年
    乾化 911年~915年
 朱 全忠(シュゼンチュウ)
 五代後梁の
 初代皇帝
 廟号は太祖
 諱は初め温
 黄巣の乱の際の功で
 唐朝より
 全忠の名が下賜
 皇帝即位後に
 晃と改めた
ーーーーー
 趁=走+㐱
     㐱=人+彡(たくさん)
   人の髪の毛がびっしりとつまっていること
   前の人にぴったりとついて追うこと
   追う
 ↓↑
  趁=おう・おもむく・ゆきなやむ・チン
    追う・おいかける
    おもむく・ゆきなやむ
    のる・のりこむ
    つけこむ
 ↓↑
 趁・趁着
 …のうちに・…に乗じて
 例
 趁热喝吧=熱いうちに飲みなさい
 趁好天气、我们快收割吧
 =せっかくよい天気だから
 ↓↑
 ~に乗じて
 持っている
 追いかける・追う
 異体字「趁・蹨・趂」
 趁乱・どさくさまぎれに・混乱に乗じて
 「趁著=thàn-tio̍h」=「~のうちに」
 「…に乗じて・…のうちに・…を借りて」の意
 機会を利用する
 趁=おう・おもむく・ゆきなやむ
   チン
   走+㐱
   異体字「𢌝・趂・𧽃・跈・蹨」
   繁体字「趂」
 ↓↑
 㐱=𠆢+彡
 疹・沴の初文
 㐱=異体字「鬒」
 ↓↑
 㐱=人+彡
   鬒=镸(長)+彡+眞(真)
           眞=ヒ+目+乚+八
     人(𠆢)+彡=㐱
   髪が多い・髪が黒く美しい
   髟=ヒョウ・ヒュウ
   髟+α=髽髯髦髷髴髠
   α+彡=彭羏彩彲簓彫諺
       彦=立+丿+彡=亠+䒑+丿+彡
       彥=文+厂+彡=亠+乂+丿+彡
         文(模様)+厂(崖)+彡(模様)
「文+厂」→「产」で
         はっきり際立った模様
     彦=彥=顔立ちがはっきりした立派な男性?
 ↓↑
   𠘱=几+彡=シン⇔風・・・彡=空気の流れ
   𢒀=𢒁=乃+彡=𠘱
     羽が生えたばかりの鳥が飛ぶさま
 ↓↑
   𡯎=尢+彡=一丿乚彡=ナ(𠂇)乚彡=𡯎
     尤+彡
     尨(尢`彡)の異体字
     異体字「𡯎・狵・庬・𧱓・𧱦・𧳑
     むく・ボウ・モウ
     毛がふさふさとした犬
     雑色の
     大きい・入り乱れる=厖
 ↓↑
 曑・疹・診・駗・珍・胗・䪾・殄
 眕・趁・畛・袗・飻・沴・紾・軫
 抮・珍・殄・胗・昣・畛・袗・眕
 疹・紾・翏・參・聄・軫・趁・診
 跈・勠・摻・憀・慘・廖・滲
 㐱
 ↓↑
 翏(リョウ)
 「羽と㐱シンからなり高く飛ぶなり(説文解字)」
 「鳥の両翼と尾羽の形(字統)」
 㐱=尾羽
   髪飾り
 「羽かざりをつけた人のさま(角川新字源)」+「彡」
 ↓↑
 謬=言+羽+㐱
      㐱=𠆢+彡
        合+痕(あと・艮・傷痕・引掻き痕)
   誤謬(ゴビュウ・logical fallacy)
      ・・・言は
         呉(国)の
         言を
         羽(筆・pen)で
         𠆢(合わせるように)
         彡(引掻いた痕⇔文字痕・記録した痕)
      詭弁=詭辯≠誤謬
      キベン・σοφιστική・sophism
      意図的に欺く「すり替え論述」
      説明の関連性の不十分、
      弁証の欠陥性の
      誤謬とは区別される・・・
      ・・・言は
         危(国)の
         弁(辯)舌、弁(辯)言
 ↓↑
 蓼=艸(くさ)+翏(羽𠆢彡)
   たで・リョウ・リク
  「蓼国リョウコク」
   商=殷の時代から河南省にあった国
   紀元前622年に楚国により滅ぼされた
  「蓼科(たてしな・長野県の地名)」
 ↓↑
 寥=宀+翏(羽𠆢彡)
   さびしい・リョウ
   寂寥(セキリョウ)
   寥寥(リョウリョウ)
   静かなさま・空虚なさま
   うつろ・まばらなさま
 ↓↑
 勠=翏+力・・・羽𠆢彡力
   あわせる・リク・ロク
   ころす=戮(リク)
 ↓↑
 戮=翏+戈・・・羽𠆢彡戈
   リク・ころす・・・殲滅(センメツ)
   戈(ほこ)で殺す
   殺戮(サツリク)
   刑戮(ケイリク)
   戮辱(リクジョク)
   戮力(リクリョク)=勠力
 ↓↑
 眉毛(まゆげ・eyebrow)
 目の上部に弓状に生える毛・眉(まゆ)
 額から落ちる雨水や汗が
 目に入らないようにする機能
 雨水やほこりや小さなゴミが
 目にはいるのを避ける役割
 ↓↑
 眉墨=黛(まゆずみ)
 化粧品の一種
 眉の形を美しく見せるために
 眉を書き足すための化粧品、その化粧法
 アイブロウ
 ↓↑
 平安時代
 上流社会で、眉毛を抜いた上で
 「掃墨」という粉末状の墨で
 眉を描き
 引眉と呼ばれた
 江戸時代
 引眉の風習は既婚女性のものとなった
 引眉は
 明治三年(1870年)
 「お歯黒」とともに禁止令
 ↓↑
 眉唾(まゆつば)=騙されない心がけ
 眉唾物(まゆつばもの)=真偽不明の怪しいもの
 キツネに化かされないために
 眉に唾をつけるとよい
 キツネに化かされるのは
 眉毛の数を読まれるから・・・
 真偽の疑わしいものを
 「眉唾物(まゆつばもの)」
 イソップ
 鴉が大きな肉をくわえて高い木にとまった
 食べようとしたときに
 狐に声をかけられ
 容姿を褒められ
 鴉は肉を食べることを忘れ
 聞き入ってしまい
 狐が
 「きっと素晴らしい声をしているんだろうなあ
  ああ、声を聞いてみたい」
 と言うと、
 鴉は「カー」と高らかに鳴き
 くわえていた肉を落とし
 下にいた狐の口に収まってしまった・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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