gooブログはじめました!キリヤ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
コジキジゲン

孫の顔・マゴのカホ・馬子の顔

2014-02-22 01:39:06 | 古事記字源

 ・・・ジィジィとバァバァは「孫の顔」をみたいらしい。「子」よりも「孫」にナニを期待しているのだろう?「子(こ・ね・シ・ス)」は「親の生き方」に批判的で反抗的だし、知ったかぶりで、理屈ぽい、時にはライバル意識で親に対峙する。「孫」は・・・ただただ「めごい・めんこい・面濃・めんごい・めんこ・面子・可愛い・愛(いと)しい」・・・メ語彙?・・・「翰苑」の「後漢書」に「倭面上国王・帥升」、「唐類函・変塞部倭国の条」、所引の「通典」には、「倭面土地王・帥升」・・・の記録・・・「面濃い」って、「顔の彫りが深い」ってことなのか、「日焼け顔」なのか、「目が濃い黒い瞳」なのか、「久留米・来目・久米・大来目命=伊須気余理比売=比売多多良伊須気余理比売・富登多多良伊須岐比売=百合姫=小百合姫=クメの娘)の父・来目王子」は「黒目」なのか、「目の周りに刺青」してたのか・・・
ーー↓
 爾
 大久米命、
 以
 天皇之命詔其
 伊須氣余理比賣之時、
 見其
 大久米命・・・耐久、於補救米命
 黥利目而=ゲ・ゲイ・ケイ・いれずみ・利き目の爾
      解・刑・景・黒京・利の目爾
        芸・迎・桂・刺青(シセイ)
                 市政・利・目次      
            黥=里烈火(灬)京
 思奇歌曰、
 阿米都都=あめつつ?・・・・・阿毎の都の都
                亜米利加の都
 知杼理麻斯登登=ちどりましとと?
  杼=ショ・ジョ・どんぐり
 那杼佐祁流斗米=などさけるとめ
 爾大久米命、答歌曰、
 袁登賣爾=をとめに
 多陀爾阿波牟登=ただにあはむと
 和加佐祁流斗米=わがさけるとめ
ーー
 ・・・それとも「お面」そのものをかぶったヒトなのか・・・「埴輪の面」なのか・・・
 漢字の
 「子(こ・ね・シ・ス)」と
 「孑(ぼうふら・ひとり・ケツ・ケチ)=孒」は、
 「蚊」の幼虫の「孑」の漢字はほとんどが「子」と同じで区別がつき難い。
 「子・孑」を分解すれば「一+了」で「始と終」である。
 熟語なら「始終・終始」である。
 「孑」に「棒振」の漢字を当てる場合もある。「歌舞伎の舞踊の一つ」であるらしい。文字の「棒振」の説明文でみるかぎり、「フラダンス」か「ベリーダンス」である。
 漢字ソノモノの意味は
 「孑=右腕を欠損した子供」、
 「孒=左腕を欠損した子供」であるらしい。
 ならば
 「了」は「両腕のない子供」になってしまう。
 兎に角「蚊=中+ム+亠+乂」の幼虫である。
 「孫(まご・のがれる・ソン・スン・ソウ)」の漢字は
 「子+系」ではなく、活字で見る限り
 「孑+系」である。
 「燕王」の
 「公孫」の字面からすれば「公」の「孫」・・・
 「呉王」の
 「孫権」は「名前」であるように思うが
 「氏姓」が「孫」・・・すると「権」が一字の名・・・?
 ・・・「燕の公孫氏」と「呉の孫氏」の繋がりは・・・「卑弥呼」である・・・それとも
 「孫悟空」か、
 1910年(明治四十三年)に
 「支那暗殺團」を結社した
 「孫文=孫中山」・・・?
 「孫」=まご=「馬子」・・・蘇我馬子・・・?
 「乳母」
 「児孫のために美田を買わず」では
 「子孫」ではなく「児孫」で、
 「児孫」=「兒孫」・・・旧(臼)+儿→「舊+儿」
 「児=兒」ならば「臼のヒト(儿)」である。
ーー
 呉
 222年~280年
 三国時代に
 孫権が
 長江流域に建てた王朝
 姓は
 「孫」氏・・・?
 首都は
 建業(南京付近)
 孫呉、東呉とも呼ばれる
 222年
 魏に対して称臣していた
 孫権が
 「黄武」と言う新しい元号を使い始め、
 魏からの独立を宣言した年
 呉の建国
 孫権が
 皇帝を称して即位したのは
 229年
ーー
 孫権の
 父は
 孫堅
 兄は
 孫策
ーー
 孫堅は
 「孫子の著者」の
 「孫武」の末裔を称していた
  ↓  「孫子」は「兵法書」の署名だが・・・
  ↓  「孫」の「子」はナニを意味しているのか?
      ↓・・・後に「武経七書」の一・・・
      ↓「呉」は「兵法書」の
      ↓「呉子」を指す場合もある
         ↓
        春秋戦国時代に著作され
       「呉起」を主人公とした物語形式
        現存は「呉子・六篇」だが、
       「漢書・芸文志」には
       「呉子・四十八篇」と記録
        部隊編制の方法、
        状況・地形毎の戦い、
      ↓ 兵の士気の上げ方、
      ↓ 騎兵・戦車・弩・弓の運用方法など
      ↓ ・・・?
      ↓ 1)序章
          呉起と武侯との出会い
        2)図国
          政治と戦争について
        3)料敵
          敵情の分析の方法
        4)治兵
          軍兵の統率原則
        5)論将
          戦争指導者について
        6)応変
          臨機応変(法家思想)について
        7)励士
          士卒の激励と鼓舞について
        「和して、しかる後に大事をなす」
        四不和・・・戦争の訓戒、禁止
        国内の不和
        軍内の不和
        部隊の不和
        戦闘時の不和、不調
        「戦争勝利は治による」
        「治とは即ち、規律秩序」
        「進退節度・合図号令遵守」
        連絡不調でも陣容をくずさず、
        散開しても隊列をくずさない
        これを指して「父子の兵」と言う
        死に栄ありて生の辱なし
        軍将の心得
        1)理(管理)
          軍兵管理監督
        2)備(準備)
        3)果(決意)
        4)戎(警戒、自戒)
        5)約(簡素化)
        「一の力で十の敵を撃つ」
        険しい山地で戦う
        狭い谷間で戦う
        「多数を率いるものは、平坦な戦場
         少数を率いるものは、狭隘な戦場
         を選ぶ」
        「賞罰を公正しても、
         賞罰はそれ自体で、
         勝利の保証とはならない。
         号令に、
         喜んで服従する
         動員命令で、
         喜んで戦場に赴く
         敵と刃を交えれば、
         喜んで一命を投げ出す」
         「どうすればよいか?」
        「功績者を、抜擢して手厚く遇し
         且つ、
         功績のない者に対しても
      ↓  激励のコトバをかけてやる」
      ↓
     「孫武」は、紀元前500年ごろ
      当時の「呉」に仕えた人物・・・
      孫武の子孫で
      斉に仕えた
     「孫臏」も兵法書を著す
     「漢書・芸文志・兵権謀家類」
      孫武のものを
     「呉孫子兵法・八十二巻・図九巻」
      孫臏のものを
     「斉孫子兵法・八十九巻・図四巻」と記録
      両書はそれぞれ異なる著作
       ↓
      呉孫子兵法
      十三篇
     1)計篇-序論
       戦争を決断する以前に考慮すべき事柄
     2)作戦篇
       戦争準備計画
     3)謀攻篇
       戦闘に拠らずして、謀略の方法
     4)形篇
       攻撃と守備の態勢
     5)勢篇
       態勢から生じる軍勢の勢い
     6)虚実篇
       戦争での主導性の発揮
     7)軍争篇
       敵軍対する機制、機先
     8)九変篇
       戦局の変化に対応する九の対処戦術
     9)行軍篇
    10)地形篇
       地形による戦術の対処変更
    11)九地篇
       九種類の地形地勢に対応した戦術
    12)火攻篇
       火攻め
    13)用間篇
       敵情偵察
  ↓    間諜、スパイがもたらす情報、分析、判断
  ↓    (竹簡孫子・宋本十一家注孫子)
  ↓    好戦、長期戦の戒
  ↓    「百戦百勝は善の善なるものに非ず。
  ↓     戦わずして
  ↓     人の兵を屈するは
  ↓     善の善なるものなり(謀攻篇)」
  ↓    「彼を知り己を知れば
  ↓     百戦して殆うからず(謀攻篇)」
  ↓    「善く攻むる者には、
  ↓     敵、其の守る所を知らず。
  ↓     善く守る者は、
  ↓     敵、其の攻むる所を知らず(虚実篇)」
  ↓    「兵は国の大事にして、
  ↓      死生の地、存亡の地なり。
  ↓      察せざるべからず」
  ↓    「国を(防衛)全うするを上と為し、
  ↓    (敵)国を破るは之に次ぐ」
  ↓    「百戦百勝は善の善なるものに非ず」
  ↓ ・・・「孫子」は国家存亡の
  ↓    「戦略・政略」を重視・・・
ーー↓
 孫堅は        
 黄巾の乱で
 朱儁の配下
 戦後に
 別部司馬(別働隊の武将)
 辺章・韓遂の反乱の鎮圧で
 長沙太守
 「江東の虎」と評された・・・虎
 189年
 洛陽で
 董卓が関東諸豪族の反感を買い、
 反董卓連合軍が結成され、
 孫堅も出兵し、その途中で
 荊州刺史
 王叡
 南陽太守
 張咨を殺し、
 袁術の配下に入って
 破虜将軍・豫州刺史となった
 孫堅は
 董卓の武将
 華雄(葉雄)を討ち取り、
 呂布を撃退
 董卓は洛陽を焼き払い、長安へ去った
 後、
 反董卓連合軍は内部対立で崩壊
 191年(192年?)、
 孫堅は
 劉表と争い、
 劉表の部将
 黄祖の軍を打ち破るが、
 追撃途中で戦死
ーー
 孫策
 孫堅死後、
 軍団は伯父の
 孫賁の指揮の元で
 袁術の旗下に入り、
 孫策は
 江東(長江の東、江蘇省・安徽省)の
 劉繇
 王朗らを撃破
 江東を制覇
 孫策の周りには
 程普・黄蓋・韓当
 周瑜・太史慈・張昭・張紘・魯粛
 などが結集
 197年
 袁術が皇帝を僭称
 袁術と絶交し、
 献帝を奉じていた
 曹操の配下となる
 曹操の弟の娘が
 孫策の弟の
 孫匡に嫁ぎ同盟
 孫策は
 討逆将軍・呉侯の位を得
 長江の北部の
 劉勲を討ち、
 黄祖を破った
 200年
 孫策は許都侵攻作戦を企てが
 許貢の息子に襲撃され死亡
ーー
 孫権
 継いだのが、
 弟の孫権
 呉建国以前から居住していた
 漢民族は
 宗部・宗伍などと呼ばれた
 208年
 孫権は
 黄祖を討伐
 曹操は官渡の戦いで
 旧袁紹領をすべて併呑、華北を統一
 208年に軍を南下させ
 荊州の劉�懿は曹操に降伏
 曹操は、劉備を追い散らし、江東へと侵攻
 孫権は
 劉備と同盟を結び、
 周瑜・程普を大都督として
 赤壁で曹操軍を撃退
 (赤壁の戦い)
 孫権は、妹の孫夫人を劉備に嫁がせ
 荊州の数郡を劉備に貸し与えた
 後、蜀は劉備に占拠された
 210年
 孫権は
 歩騭を
 交州刺史に任命して交州に派遣し、
 士燮を服属させ、
 呉巨を謀殺した
 212年
 呉から建業へと拠点を移した
 214年
 孫権は呂蒙・甘寧を率いて
 曹操領の皖城を降し、
 廬江太守の
 朱光を捕らえた
 劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有
 孫権は劉備に
 荊州の長沙・桂陽・零陵の三郡の返還を要求
 孫権は軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪った
 曹操が漢中に侵攻
 劉備は孫権と和解し、
 長沙・桂陽を孫権に返還し、
 同盟友好関係を回復
 217年
 劉備に対し
 孫権は曹操と和睦して称臣
 219年
 荊州を攻め落とし、関羽を捕らえて処刑
 孫権は荊州の南部をすべて領有
 220年
 曹操が死去
 曹丕が献帝より禅譲を受け
 魏の皇帝を称した
 221年
 劉備は魏に対抗して
 皇帝を名乗り、蜀漢を建てた
 孫権は
 魏の
 曹丕に対して臣従し、
 呉王に封ぜられる。
 皇帝となった劉備は、荊州奪還で呉に侵攻
 呉の
 陸遜が全軍の指揮を執り、
 蜀軍に大勝
 (夷陵の戦い)
 大勝した孫権は、
 黄武の元号を立てて
 魏から独立
 大敗した劉備は
 223年に病死
 劉禅が継ぎ、
 諸葛亮が政治・軍事の全てを司る
 以降、蜀漢と呉は再び和睦して
 魏に対抗
 
 229年
 孫権は皇帝に即位
 元号を黄龍と改め、
 建業に遷都
ーーー
 その後、
 孫権は
 遼東の
 公孫淵に使者を送って
 魏を挟撃しようとしたが失敗
 東の夷州・亶州(台湾・沖縄諸島)に
 兵を派遣したが、
 亶州には辿り着けず、
 夷州から数千人の住民を連れ帰った
 231年
 潘濬に命じて武陵蛮を討伐し、鎮圧
 234年
 蜀軍との同盟により、
 諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻める
 236年
 五銖銭500枚、
 238年
 五銖銭1000枚の
 価値を持つ貨幣を発行
 246年に廃止
 皇太子
 孫登の死後、
 三男の
 孫和を皇太子に立てたが、
 243年頃から四男の
 孫覇との間での継承争い
 (二宮事件)
 250年
 孫和を庶子に落とし、
 孫覇に対して自殺を命じ、
 皇太子には
 七男の
 孫亮を即ける
ーー
 孫亮・孫休
 252年
 孫権は死去
 十0歳の
 孫亮が皇帝
 太傅・大将軍の
 諸葛恪が政権を握る
 皇族の
 孫峻によるクーデターで
 諸葛恪は殺される
 258年
 孫権の六男
 孫休が擁立
ーー
 孫晧
 孫休が死去し、
 孫権の三男で
 廃太子であった
 孫和の子の
 孫晧が擁立された
 279年
 晋が呉へ侵攻
 280年3月
 晋軍は建業に達して
 孫晧は降伏、呉は滅亡
 ・・・・???
ーーーーー↓
 公孫氏 (遼東)
 公孫氏(こうそんし)
 三国時代の中国において栄えた氏族
 二世紀後半
 後漢の地方官だった
 公孫度が
 黄巾の乱以来の混乱に乗じて
 遼東地方に半独立政権を樹立
 漢民族
 領土
 朝鮮半島中西部
 帯方郡を境に
 南は
 韓と接し
 東北は
 高句麗
 西北は
 烏丸・鮮卑と接する
 公孫康の時代以後
 韓や倭は帯方郡に帰属
 189年
 公孫度は後漢により
 遼東太守に任命
 後に後漢から自立
 朝鮮半島の北端である
 楽浪郡や、
 山東半島まで伸張
 204年
 公孫度の嫡子である
 公孫康が
 楽浪郡の
 南に
 帯方郡を設置
 韓や倭を勢力下に置く
 「魏志韓伝」
 曹操の後漢
 公孫康に服属
 左将軍の官位を授けられた
 公孫康の後継には
 弟の
 公孫恭が立ったが、
 228年に
 公孫康の子
 公孫淵が謀叛
 叔父から位を簒奪
 後漢が崩壊し
 魏・呉・蜀の
 三国に分立
 公孫淵は三国の
 魏に臣従を装い
 呉と同盟工作
 236年
 魏の皇帝
 曹叡から上洛を求められ
 公孫淵は
 魏に反発
 燕王を称した
 翌年には年号を
 紹漢と定めた
 公孫淵
 一度は魏の
 幽州刺史の軍勢を退けたが
 238年
 太尉
 司馬懿の討伐を受け
 国都
 襄平を包囲され降伏
 公孫氏の勢力は消滅
 (遼隧の戦い)
 公孫恭は魏への忠義を貫いたとして
 処刑されなかったが、
 子がおらず
 公孫恭の死により
 公孫度の子孫は滅亡
ーー
 黄巾の乱の前後に
 倭国大乱
 公孫氏滅亡後
 卑弥呼による魏への遣使まで
 倭に関する記事が無い
 公孫氏滅亡直後に
 遼東経由で
 遣使された
 公孫氏が
 倭の勢力が
 中国本土へ朝貢する道を遮って、
 倭からの朝貢を
 公孫氏が受けていた可能性・・・
 「新撰姓氏録」の記録には、
 「常世連」なる帰化人は
 公孫淵の末裔であると記述・・・
ーー
 公孫延-公孫度-公孫康-公孫晃
          |   |
                  公孫恭   公孫淵-公孫脩
ーーー
 公孫度(コウソンド・コウソンタク)
 ?~204年
 字は升済
 初名は豹
 漢末期の群雄
 幽州
 遼東郡
 襄平県の人
 「後漢書・謝弼伝」では
 玄菟郡の出身
ーー
 家系は公孫氏
 父は公孫延
 子は
 公孫康
 公孫恭
 孫は
 公孫淵
 公孫晃
ーー
 父は
 玄菟太守の
 公孫琙に官吏
 公孫琙の早死した
 子の名が、
 公孫度の
 初名と同じ「豹」だった
 尚書郎から
 冀州刺史に転じたが、
 謡言を理由に職を追われた
 董卓が実権を握ったとき、
 友人であった
 徐栄の推挙で
 遼東太守
 後漢が衰退し
 董卓が死んだ後は、
 公孫氏による
 独立国のような体制となった
 公孫度
 襄平の名門を滅ぼし支配を固め
 高句麗や
 烏桓を討伐し
 実権を握った
 曹操に賞され、
 武威将軍
 永寧郷侯の地位を与えられたが
 臣従を嫌い
 遼東王を称した 
ーーー
 公孫氏
 字義通り、公(諸侯)の孫を指す
      ?・・・「ダレの公」の「孫」なのか?
 公の子である
 公子までは公族
 公孫からは臣籍
 公孫を「氏」とすることが多い・・・?
ーー
 公孫氏
 公孫竜・公孫僑(子産)・公孫鞅(商鞅)
 公孫述・公孫瓚・公孫度・公孫淵(遼東公孫氏)
 など
 公孫氏は、多くが
 楽浪から
 襄平・北平・薊(北京)など、
 遼東を含む河北の北部に存在
ーーー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「互個」が「心中」

2014-02-20 00:21:08 | 古事記字源

 ・・・午前中に農協で買い物したモノが午後に宅配されてきた。宅配は無料・・・ネコの餌と食料品、それに除雪する大きい「雪掻き」。自家用車の無いボクにとっては「アリガタイサーヴィス」であるカナ。雪国の小さな町だけれど、最近目眩が頻繁になってきたジィジィには買い物の目的地である農協に出かけるだけでも雪道はシンドイ・・・その後、製本を依頼した「日記」の3冊目が届いた・・・結構、生きるって、体力、眼力の減少に比例して「シンドク」なるけれど・・・イイコトもある・・・
ーーーーー
 東京新聞 TOUKYO WEB
 尿毒素を吸着する人工繊維を開発
 携帯型の透析装置に期待
 2014年2月19日 20時04分
 腎臓の働きが低下する腎不全患者の血中に含まれる尿毒素を、吸着することができる人工繊維を開発したと物質・材料研究機構(茨城県つくば市)の荏原充宏主任研究員らのチームが19日、英科学誌電子版に発表した。災害時に携帯できる小型の透析装置の開発につながると期待される。
 慢性腎不全の患者は、血中の老廃物や尿毒素を腎臓でろ過しきれず、透析が必要となる。チームは、代表的な尿毒素のクレアチニンを吸着する性質がある鉱物ゼオライトを樹脂に混ぜ、極細の繊維の作製に成功。
 荏原主任研究員は「吸着率を向上させれば、腕時計型の装置でも透析治療が可能になるかもしれない」と話している。
 (共同)
ーー
 福島、震災関連死が直接死上回る
 避難長期化でストレス
 2014年2月19日 17時36分
 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故による住民避難が続く福島県で、体調悪化などが原因で亡くなる「震災関連死」の死者が19日現在で1656人となり、津波など震災を直接の原因とする死者1607人(10日の警察庁集計)を上回ったことが、県などのまとめで分かった。
 福島県は現在も約13万6千人が県内外に避難しており、県の担当者は「それまでの生活が一変した上、帰還など将来の見通しが立たずにストレスが増していることが要因」とみている。
 復興庁によると、震災関連死とされた人の約9割が66歳以上。県は市町村と連携しながら保健師らの巡回で避難者を見守る活動を強化する。
(共同)
ーーーーー
 ・・・生きていれば朗報もあれば、悲報もある・・・それにしても人間の歴史、「西洋史・中東史・阿弗利加史・印度史・東洋史・東南亜細亜史」、それに「南、北の亜米利加史」、「全世界史」って、「戦争+天変地異」の中での「生活史」である・・・
ーー
 五胡十六国時代
 中国の時代区分
 304年の漢(前趙)
  ~
 439年の北魏の華北統一まで
 十六国とは
 北魏末期の
 史官
 崔鴻の
 私撰
 「十六国春秋」による
ーー
 五胡
 匈奴・鮮卑・羯・氐・羌
ーー↓
 匈奴は前趙、夏、北涼
 鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦
 羯は 後趙
 氐は 前秦、後涼、成漢
 羌は 後秦
 漢族は前涼、西涼、冉魏、北燕
ーー↓
 1  前涼 張軌   301年 - 376年 漢族
 2  前趙 劉淵   304年 - 329年 匈奴
 3  成漢 李特   304年 - 347年 巴賨
 4  後趙 石勒   319年 - 351年 羯
 5  前燕 慕容皝  337年 - 370年 鮮卑
 6  前秦 苻健   351年 - 394年 氐
 7  後燕 慕容垂  384年 - 409年 鮮卑
 8  後秦 姚萇   384年 - 417年 羌
 9  西秦 乞伏国仁 385年 - 431年 鮮卑
 10 後涼 呂光   389年 - 403年 氐
 11 南涼 禿髪烏孤 397年 - 414年 鮮卑
 12 北涼 沮渠蒙遜 397年 - 439年 盧水胡
 13 南燕 慕容徳  400年 - 410年 鮮卑
 14 西涼 李   400年 - 421年 漢族
 15 夏  赫連勃勃 407年 - 431年 匈奴
 16 北燕 馮跋   409年 - 436年 漢族
ーー
 五胡十六国以外の国
 ↓
 仇池  楊茂捜  296年 - 506年 氐
 代   拓跋猗盧 315年 - 376年 鮮卑
 冉魏  冉閔   350年 - 352年 漢族
 西燕  慕容泓  384年 - 394年 鮮卑
 翟魏  翟遼   388年 - 392年 丁零
 後蜀  譙縦   405年 - 413年 漢族
 宇文部 葛烏菟  ???年 - 344年 鮮卑
 段部  段日陸眷 ???年 - 357年 鮮卑
ーー
 ・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦

2014-02-19 00:52:16 | 古事記字源

 ・・・「蓋国(ガイコク)」・・・「蓋国(ケイコク)」・・・以下、すべて、「ブログ記事」や、「ウイキペデア」の記載をベースに参考、参照として添付、少々改作・・・したモノです・・・警告・経国・渓谷・傾国・・・外国・害国・賀意国・我意国・・・?・・・「蓋(ふた・ガイ・ケイ)・亠」・・・天蓋・鍋蓋・釜蓋・椀(碗)蓋・樽蓋・箱蓋・・・容器のフタ・・・臭いモノにはフタ・・・古代中国の歴史的文献は膨大でとてもじゃないが、ギャァテイ、ギャァテイである・・・
 罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
 想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
 得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜
 多是大神咒是大明咒是無上咒是無等等
 咒能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜
 多咒即説咒曰
 ↓
 掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦
 菩提薩婆訶 般若心経
 ↓↑
 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
 菩提娑婆訶 般若心経
 ・・・「掲諦」と「羯諦」の文字の異なりはナゼなんだか?・・・「羯(羯族)の諦(アキラメ)」・・・
 石勒の出身で五胡の一
 「羯(ケツ)族」は匈奴の一種族
 「魏書・列伝第八十三」に
 「その先は匈奴の別部で、分散して
  上党武郷の
  羯室に住んだので、
  羯胡と号した」
  羯族
 「後趙(319年~351年)」
  五胡十六国時代の
 「羯族の石勒」によって建てられた国
  国号は「趙(チョウ)」・・・
ーーーーー
 「山海経
  第十二の
  海内北経」の
 「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」・・・を「漢文配置」と「漢字」から・・・探求(探る=さぐる・求=もとめる)してみる・・・と・・・
ーー
 「海内経」
  蓋国・・・蓋国(主語)は
  在
  鉅燕・・・鉅燕も
  南倭・・・南倭も
  北倭・・・北倭も
  属燕・・・燕に属すところに在る
ー  or
  蓋国・・・蓋国(主語)は
  在
  鉅燕南・・鉅燕の南と
  倭北・・・倭の北に蓋国があり
  倭属燕・・倭(第二主語)は燕に属す
ー  or
  蓋国・・・蓋国(主語)は
  在
ーー↓
  鉅・・・・キョ・ク・かたい・おおきい
  ↓    はがね=鋼鉄・鋼鐵
  ↓    規矩(キク)=鉤(かぎ・こま・はり
                ク・コウ)
              鈎(鍵・鑰=ヤク
                ハリ=釣り針)
       鉤=鈎 (かぎ・はり・ち・はぜ・コウ・コ)
         鉤=こう・かぎ・まがり・はり
         先が曲がった棒状のモノで、
         金属製の器具
         曲がった部分を何かに引っ掛けて使う
         フック (hook)
   小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)
       鉏鉤=先が曲がった鉏(すき・ソ・ショ)
   なぜ、「さひち」なのか・・・細緻・最知・才智・佐市
                 作日地・差比地・佐秘知
       鉏=鍬=鋤=くわ・すき)
             すき=耒(ライ・ルイ)
             耕具(コウグ・キョウグ)
         鉤=鈎=コマかぎ 
         先の曲がった金属製の器具
         物をひっかけるのに使う
         長い柄の先にL(J)字形の爪が付いたもの
         物にひっかけて引き寄せたり、
         武器にしたりする
         「鉤括弧(かぎかっこ)」
         かぎ・物を引っかけたり留めたりする、
         先の曲がった金属製の道具
          かける・ひっかける
         鉤=かぎ
           手術用器具
           臓器を引っかけて牽引する道具「J」
           漁具・魚類や貝類などを捕獲する「J」
           武器・長柄の先がJ形に曲がって、
           敵に引っ掛ける
           鉤縄=先に鉤を結わった縄
           鉤針=先が曲がった編み物用の針
           鉤爪=細長く湾曲した、
              肉食獣などのJ形の爪
           釣針=はり・古語では「ち」
           ↓
           L=エル=漢字「乙」の略字
           J=ジェィ=曲がり針の字形
             「J」→平仮名「し」の逆字
             Journal・Judge・Justice
             アルファベットの10番目
             半母音(硬口蓋接近音)
             Japan(日本)の略
             エネルギーの単位、ジュール
             トランプなどでジャック (11)
             消毒剤としての
             ポビドンヨードや、
           ↓ ヨウ素を慣例的にJと略す
           ↓
           鉤(こ)=簾を巻き上げ、
                掛けて置くための道具
           鉤(はぜ)=板金を接続するときに
                 折り曲げる部分
                 「はぜ」=馳とも書く
                 同音「はぜ」の漢字は
                 櫨=黄櫨・漆科落葉高木
        ↓        鯊=沙魚・蝦虎魚
        ↓          スズキ目の魚
        鑰=鍵=錠の穴に差し込み、
        開閉するための金属製の道具・キーKEY
        錠前そのもの・錠
        物事を理解したり、
        解決したりするのに最も大切な事柄
        印鑰
        印判・印(いん)
        印判と鍵(かぎ)
        長官の印と諸司・城門・蔵などの鍵
        天台座主(ざす)の
        職印と延暦寺宝蔵の鍵
        僧綱(そうごう)の職印と僧綱所の鍵
        秘蔵宝鑰
        平安前期の仏教書、三巻。空海著
        天長七年(830年)ごろ成立
        「十住心論・十巻」を要略した書       
ーー↓
  鉅=鉤・鈎・鑰
  「鉤距」=さぐる
      深い所にあるものを、
      ひっかけるようにしてとりだす
      物事の道理をさぐる
      はり(針)・つりばり(釣り針)
      钜(鉅)=鉄・鉤・巨
      鉅室=大きな家、部屋・勢力のある家
      鉅儒=すぐれた儒者・大学者
         大儒・碩儒(セキジュ)
        「鉅」の類字
         矩・巨・粔・詎・歫・苣・・・
           拒・・・拒否
           秬(キョ・くろきび)=禾+巨
             「秬鬯(キョチョウ)」の
             「鬯」の字は酒の一種
             「明鬯(メイチョウ)」
              言葉・音声・論旨などが
              はっきりしている・・・?
              酒を呑んでは酩酊だろうが、
             「匕鬯(ヒチョウ)」は
              神祇に捧げる 
              「匙(さじ)」と「お神酒」
               ↓
   「震百里を驚かすとも匕鬯を喪わず」・・・?
     ↓
   「鬱は鬯と合す」とは「鬱=鬯」と云う事?
   「古代祭祀時所用的香酒
    由鬱金香釀秬黍而成」
    說文解字に
   「鬯、以秬釀鬱艸、芬芳攸服、以降神也」
     ↓
   「震丹、百済の里を驚かすとも牝の鬱を喪わず」
             ↓
             秬谷川(きびたにがわ)
             大阪府貝塚市南部を流れる、
           ↓  近木川の支流
           ↓
           距・・・距離
           炬・・・炬燵=こたつ=火燵
           螶・・・蜉蝣の別名
            「螶也。
             一曰蜉蝣(かげろう・フヨウ)、
             朝生莫死者(說文解字)」
           柜・・・戸棚・箪笥・本箱
               柜房=商店の帳場
                  経理室
               柜台=カウンター
ーー↓
  鉅=「探る、物事の道理をさぐる」
  燕・・・燕国を鉅(さぐる)に
  南
    倭・・・倭を南にし
    北
    倭・・・倭を北にする
  属燕・・燕に蓋国(主語)が属す
ーー↓
 蓋国
 秦は書物「孟子・公孫丑章句」の記述の中で、
 「蓋」の大夫「王驩」が孟子の副使として、
 戦国時代の
 斉より滕という国へ行った
 「蓋」の注記に
 「蓋は斉の支配下の地域」とある・・・
ーー
 燕(エン)
 紀元前1100年頃~紀元前222年)
 周代、春秋時代、戦国時代に存在した国
 春秋十二列国の一
 戦国七雄の一
 河北省北部を支配
 首都は薊(ケイ・ケ・あざみ)で、現在の北京
 燕都は薊(あざみ→字視?)城の遺蹟は
 北京市西城区に所在
 国姓は
 「姞(キツ)」姓
 爵位は伯爵
 分封者は「武王」
 始祖は「召公」
 紀元前222年に秦により滅亡
 史書の記載
 「史記・巻三十四・燕世家)
 「春秋左氏伝・襄公二十八年初見」
 河南省の
 「南燕」国に対して
 「北燕」国という
 当時は
 「燕」ではなく
 「匽(エン・ふせる→伏せる・臥せる?)」と記録
  匽=匚+日+女
  匽=かくす・ふす
    なびく(靡く)・はこ(箱・函)・どぶ(溝)
    邪靡堆(隋書俀国伝)→ 秦王国&「邪靡堆」
    ・・・意図的な記載であろう・・・
   「長孫無忌(チョウソンムキ?~659年)の・・・
 召公
 一族は山東半島の
 「奄」(魯国の近隣)に封じられ、
 成王の「禄父の乱」後?に
 北京近辺に移住
 国名を燕(エン)とした
 エン=奄→匽→燕・・・奄美?
    奄=おおう(蔽・覆・被・蓋)・・・蓋→天蓋?
      たちまち(忽ち)・・・田地町?
          石川県白山市「田地町」
 山東半島の
 韓侯国が入れ替わりに
 陝西省に移封
 燕(奄)に残った
 韓の旧住民は多く「韓氏」を名乗った
 西周時代
 「燕」の東方(遼寧省朝陽市喀刺沁左翼自治旗)に
 「箕侯」という都市国家があり、
 燕国の属国であったが、
 北方遊牧民に滅ぼされ、
 燕国に亡命した住民が多かった・・・
 春秋時代以降
 燕の士大夫層に
 「韓」や「箕」を氏とする者が記録されている・・・
ーー
 秦が
 紀元前228年に
 趙を滅ぼし、
 燕は秦の力を懼れ
 太子
 丹は、
 秦の王
 政に対して
 荊軻を刺客としたが失敗
 荊軻に同行した
 秦舞陽は
 秦開の孫
 秦王政に燕は攻められ、
 燕の首都が陥落した(紀元前226年)
 太子丹は殺され、
 燕王
 「喜」は遼東に逃れ、
 紀元前222年に
 秦の
 王賁将軍に
 喜は捕虜となり、燕は滅亡
 督亢の地(燕の本土)は
 秦の広陽郡となり、
 昭王が置いた五郡と合わせて
 秦の統治下では六郡となった
 朝鮮半島の
 燕の諸要塞は
 「上鄣」と「下鄣」の二ヶ所となり
 遼東郡に属し、
 秦の官吏が派遣され治められた
ーー
 紀元前209年
 趙の武臣
 将軍
 韓広が
 燕王となった
 紀元前206年
 項羽の封建により
 臧荼が
 燕王に立てられ、
 韓広は
 遼東王に遷された
 臧荼は韓広を攻め遼東を併合し
 燕全体の王となった
 朝鮮半島は放置された
 燕王
 臧荼は
 紀元前204年に
 韓信に帰順、
 紀元前202年
 劉邦に皇帝の尊号を奉ったが
 劉邦に
 臧荼は叛乱し処刑、
 盧綰が
 燕王に封建
 紀元前195年
 盧綰は匈奴に亡命し、
 燕国は廃され
 郡県となった
 「山海経」
ーーー
 位置
 1)玄菟郡の「蓋馬」(西蓋馬県、蓋馬大山)
 2)遼東半島の「蓋平」(遼寧省営口市)
 3)鉅燕を『史記』の「全燕」と同じとし、
   山東半島の「蓋(山東省淄博市沂源県)」
 4)朝鮮半島江原道の「穢(かい)」
 5)馬韓の「乾馬(全羅南道益山)」
 などの諸説があるらしい・・・
ーーーーー
 中国の文献に記載されている
 倭の位置が、
 北方にあったり南方にあったり東方にあったりするのは、
 流動的な
 初期の
 日本「認識」の
 形成軌道を物語っている・・・?
 ・・・「場所の問題」ではなく、「認識の問題」とするなら、「倭国の素性」をハッキリさせたいのか、させたくないのか、の「問題」でもあるカナ・・・では、ダレが?・・・
ーー
 倭
 「倭国」と「倭人」
 記録は、
 中国の地名、
 「燕」と「越」の二系列
 倭は燕の南方
 「蓋国=韓国」は
 燕の南、
 倭の北にあり、
 倭は燕に属している・・・
 東沃沮の位置
 「高句麗の蓋馬大山の東にあり」
 「蓋国=蓋馬」の
 朝鮮半島の北部
 燕と倭
 班固の撰した「漢書」
 「楽浪の海中に倭人があり、分かれて百余国を為す。
  歳時をもって来たり、献見するという」
 「漢書・巻二十八下、地理志」の
 「燕地の条」
  に記載から、燕地=ゆかりの倭
 「倭は燕に属する」
 北方の燕地を起点
 范曄の
 「後漢書・卷九十・鮮卑伝」
 後漢の光和元年(一七八)
 鮮卑族の
 君長
 檀石槐は
 「烏侯秦水」を眺め
 「東して倭人の国を撃ち、千余家を得た。
  徙して秦水の上に置き、
  魚を捕らさせて、もって糧食の助けとする」
 「烏侯秦水」
  遼河の支流をなす
  老哈河・・・
  遼寧省の
  赤峰市あたりをながれる川・・・
 ・・・日本列島をさすのではなく、
 朝鮮半島の南海岸に住んでいた倭人・・・
ーー
 南方にあった倭
 朝鮮半島の南海岸一帯
 倭人と韓人とが雑居
 「北史・巻九四」
 「隋書・巻八一・百済伝」
 「(百済に)その人は雑じって
  新羅・高麗・倭、中国の人もある」
 「山海経」
 「倭」は
 「燕に属する」特定の種族および地域
 「漢書」
 「倭人」は
 「歳時をもって来たり献見する」
 「百余国の支配政権」
 「後漢書」
 「魚捕りの倭人・倭人国」
 海外に散らばった倭人の小集団を対象としていない
 半島を起点としてみれば、
 朝鮮半島の
 南に位置する「倭」になる。
 「後漢書・巻八五・韓伝」
 三韓=馬韓、辰韓、弁韓
 「馬韓は西にあり、五十四国ある。
  その
  北は楽浪と、
  南は倭と接する・・・
  弁韓は辰韓の南にあり、また十二国ある
  その
  南はまた
  倭と接する」
 紀元前108年
 漢の武帝が
 燕の亡命人らの
 衛満朝鮮を滅ぼし
 楽浪・真番・臨屯・玄菟の
 四郡を設けた
ーー
 東方の倭
 秦の始皇帝
 天下を
 三十六郡にわけ
 揚子江流域を中心とする
 会稽郡(浙江省紹興)
 会稽を起点とする
 日本認識
 「越国」系列の文献
 王充の
 「論衡・巻八・儒増篇第二十六」
 「周の時、天下は太平である。
  越裳は白雉を献じ、
  倭人は鬯草を貢ずる」
 同書の
 「巻五の異虚篇・巻十三の超奇篇・巻十九の恢国篇」
 に、類似の記事
 「越裳」は
 「越常国」、「越甞国」と称し、
 「後漢書・南蛮西南夷伝」に、
 「交阯(ベトナム)」の
  南に
  越裳国があるとして、
 周代での白雉献上のことが述べられている
 会稽を中心に方の地域に分布していた
 越族の一派・・・
 倭人の貢献した
 「鬯草」は、
 「欝金草(香)・欝鬯・暢草」とも称し、
 中国南方の
 欝林郡(前漢武帝の郡、広西省桂平県)産の香料の一種
 祭酒の原料
 恢国篇にしたがって
 成王の時と限定すれば、
 紀元前1020年ごろのこと
 日本では縄文後期の末から晩期・・・
 「論衡」の著者
 王充は、
 後漢の
 光武帝の
 建武三年(27年)に
 会稽郡の
 上虞県で生まれた
 建武中元二年(57年)は、
 倭の奴国の使者が漢都の洛陽に入貢
 王充は
 洛陽の太学に入り、
 「班彪」に学んでいた・・・
 中国に伝達された
 倭人の情報を、
 北方の燕国を中軸として伝えたのが
 「山海経」、「漢書」
 南方の会稽を視点に記録したのが
 「論衡」
ーーー
 「前漢書・地理史・燕地条・顔師古の注」
 魏略云
 倭在
 帶方
 東南大海中
 依
 山島
 爲國
 度
 海千里
 復
 有國
 皆倭種
ーー
 「山海経・第十二・海内北経」
 蓋国 在鉅燕南倭北 倭属燕
 蓋国とは、
 朝鮮半島最北部に
 蓋馬(ケイマ)高台という高原地帯があり、
 蓋馬市がある
ーー
 鉅燕(きょエン)
 戦国時代中国の大国・燕
 秦の始皇帝に
 B.C.E.222年に中国が統一され
 独立を失った地域
 鴨緑江以北の遼東から東北区
 鉅燕(きょエン)の南に蓋国
 蓋国が朝鮮半島の国だった
 蓋国は「倭の北に在る」・・・
 記事の指す時代は、
 第九「海外東経」の末尾に、
 「建平元年(B.C.E.6年)四月丙戌に書いた」の記録
 卑弥呼時代
 朝鮮半島
 蓋馬高台や蓋馬市のあたりは
 高句麗であり、
 それ
 以南には
 濊(ワイ)と
 韓がある。
 「山海経」は
 「濊(ワイ)・韓」の記録は無く、
 そこは「倭」だと記録
 続けて「倭は燕に属す」と記録
 朝鮮王の
 準が漢の初めに
 燕人の
 衛満に騙されて国を奪われた
 朝鮮半島は燕人の支配下
 前漢末の中国人は、
 後の
 濊(ワイ)と韓(馬韓・辰韓・弁韓)を
 全て
 倭だと認識していた・・・
 当時の朝鮮半島は
 北の高句麗から南端の狗邪韓まで
 琉球・南九州人の国だった・・・
 濊(ワイ)の発音、「倭(ワイ)」も
 ウワイの「訛り」・・・
ーーーーー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都+合=capital+ゴウ→同音異字の「ゴウ」って?

2014-02-17 21:31:43 | 古事記字源

・・・「不都合なヒトビト」・・・「都合のイイひと」・・・「遷都」ではなく、「奠都」でもなく、「都」を一つに「合(併)せる」、である・・・「中央集権の要」であるのだが・・・都は「一国家」の「首都(キャピタル)」であるから、都の合併、合わされるとは、他の「国家」は滅亡と言う事であるな・・・キャピタル(capital)・・・「頭文字・大文字・キャピタルレター・首都・資本・建築での柱頭(チュウトウ)」・・・「キャピタルクランチ(capital crunch)」は資本不足で金融閉塞、貸し渋り・・・「資本、資産」・・・首都・州都・ある活動拠点、中心地・・・
 身体が「資本」だからって・・・身体のエネルギーが転換され、身体を維持する衣食住(家族も含めた)の必要以外に費やされ、「余ったモノ」に「転嫁されたエネルギー」だ・・・ 雪投げでの「ボクのエネルギー」は転嫁されるべき対象がない。よって「資本」にもならない・・・「資本の蓄積」にもならない・・・
ーー
 「ソーシャル・キャピタル‎キャッシュ」
 上下関係の垂直的人間関係でなく、
 平等主義的な、水平的人間関係を意味する・・・?
 「ソーシャル・ キャピタル」
 ヒューマン・キャピタル(人的資本)と対応する概念
 「ヒューマン・キャピタル(Human Capital)」
 人間が持つ能力(知識や技能)を資本として捉えた
 経済学(教育経済学?)の概念・・・?
 「人的資本」と表現されることもある・・・?
 具体的には、資格や学歴として測定される・・・?
 ・・・過去の学習や労働で得、蓄積された「過去の労働」・・・
 「ベンチャーキャピタル(venture capital)」
 ハイリターンを狙った
 アグレッシブな投資を行う、
 投資会社(投資ファンド)のこと
 高い成長率を有する
 未上場企業に対して投資を行う
 「ソーシャルキャピタル」
 社会・地域における
 人々の信頼関係や結びつきを表す概念・・・?
 この資本で「相互の信頼や協力」が得られる・・・?
 「キャピタルゲイン(capital gain)」
 株を売却した際に出た利益
 株だけでなく、有価証券や不動産などを
 売った利益のことも、
 キャピタルゲインという呼ぶ
 買値より売値が高く発生するときの利益・・・
 ・・・「利益」って、「等価」じゃないんだ・・・
ーー
 Capital
 都(みやこ、ト)
 都(みやこ)
 「宮処(みやどころ、みやこ)」から転じた言語
 天皇の宮殿が所在するところを指す言葉
 みやこ
 人びとのあつまる大きな町
 国の中心ときめた大きな町
 みやこをきめて国の中心の町とする
 読み方
 ト・ツ・みやこ・いち・くに・さと・ひろ
 熟語
 旧都・古都・首都・新都・帝都
 遷都・・・・・・・政治機能のスベテを移転実行
 奠都(テント)・・・新たに都を定める事(プロセス)をいう
       ・・・未だ「遷都」ではないらしい・・・?
 奠=テン・デン・
   神仏に物を供えて祭る
   「奠茶」
   供え物
   「香奠(コウデン)・祭奠・釈奠(セキテン)
    奉奠
    乞巧奠(キッコウデン)・・・七夕様へのお願い
   位置を定める
   「くましね(奠稲)」に同じ・・・日本書紀(持統訓)?
    くましね?・・・「大隈死ね」・・・?
 「釈(釋)」の
 「釈奠」も供え物を安置・並べるという意味
 「釈(釋)」は釈菜(セキサイ・釋菜)を、
 「奠」を奠幣の意味に特定
  前者は「疏菜」を供えるもので、
  奠幣・奠饌・酒が供えられない略式儀式・・・?仮の儀式
 「釈奠(セキテン)」は、
 孔子とその門人を祀る祭儀
 「釈」は「置く」、
 「奠」は「据える」という意味
 「釈奠」とは
 孔子やその門人の霊前にお供え物を置き据えるお祭り・・・
ーー↓
 ・・・「生贄(いけにえ)」・・・インカや、マヤでは「人間の生贄」ってあったらしいけれど・・・「生意気な口を利(き)くな」の意味はナンなんだろう・・・「実力に伴わないことを言うこと・大口を叩く・利いた風な口を叩く・偉そうなことを言う・大袈裟なことを言う」・・・「生意気」とは、「自分の年齢や能力を考えず、出すぎた言動をすること。また、そのさま」らしい・・・生半可(者)の意気、未熟(者)の意気・・・「意気」は「意気込み・気負い・やる気・気概」だが、「息(いき)=自+心」だろう・・・「人生意気に感ず、功名誰か論ぜん」は「唐の太宗に仕えた魏徴が、その苦労の結果を感想として歌ったもの」らしいが・・・自惚れるのもいい加減にせい・・・と、ダレかが論じたのではないだろうか・・・?
 魏徴(ギチョウ・580年~643年)
 字は玄成
 魏州
 鉅鹿曲城(山東省)の人
 秘書監、侍中等の職を転任
 諫議大夫、左光禄大夫、檢校侍中、
 鄭國公に封ぜらる
 直言を以て皇帝を補佐して
 「貞觀の治」を為した・・・
 太宗の命で編纂した
 「隋書」の「序論」
 「梁書・陳書・齊書」の「総論」などの著作がある。
 その言論は唐代に
 「呉兢」編纂した「貞観政要」に多く収められている。
 「人生意気に感ず」の句は「述懐」という詩で詠んだ
ーー↓
 秦以来、天子に忠告し、
 政治の得失について意見を述べる
 諫官(カンカン)という職務があった
 唐代の諫官には
 毎月200枚の用紙が支給され、
 それを用いて諫言した
 歴代の王朝に諫官が置かれたが、
 太宗のようにその忠告を聞き入れた
 皇帝は極めて稀で、
 天子の怒りに触れて
 左遷されたり、殺されるということも多かった・・・
 ・・・「アベちゃん」には「諫官」ではなく、「寧言・佞言」の官吏、側近が多いのでは・・・今更の「小泉+細川」の「諫言」では無理・・・かも・・・それにしても「都政」のトップがアレじゃぁ・・・
ーー↓
 都の漢字の意味
 「説文解字」には
 先君の
 舊宗廟有るを都と曰ふ、
 邑に従ひ、者を聲とす、
 周禮にいふ、
 距国(キョコク)
 五百里を都と為す、と。
ーー
 舊=艸(サ)・・・舊=ふるい=旧・古(十+口)
   +
   隹(とり・スイ)
   +
   臼(うす・キュウ・グ)
   +
   一(ひとつ・イチ)
     臼・・・E+ヨ+一
         ∈+∋
           ヨ=彐(ケイ)
           與輿興
           鼠臾兒
 古=ふるい・ふるす・いにしえ・コ
   ふるびている・いにしえ・むかし
   ひからびているさま・こちこちのさま
   ふるびたさま・ふるめかしいさま
   たか・ひさ・ふる・・・「古」が「たか」って?

 都=者+阝・・・者+邑(むら・ユウ・オウ)
         者=十+一+ノ+日(曰)
           邑=口+巴(ともえ・ハ・ヘ)
     阝(こざとへん・阝=阜=おか・フ・ブ)
     阝・・・β→|+3←B
         ∩+∩+一←阜・・・追蛗
         ω(Ω)
   都の類字は「覩(みる・ト・ツ)」・・・観
ーー
 者=もの・は・シャ
ー↓↑
 者は
 祝祷の器である
 曰(いわく・エツ)を
 土中に埋める形、
 その呪辞が諸、その土垣が堵、
 その堵に埋められた呪符が書、
 その堵をめぐらした集落が都。
 ・・・?
ーー
 都(みやこ)
 国家の中心となる町
 多くの人々が集まる所
 都(すべ)て・みんな
 声符は者(シャ)
 者は祝祷の器を埋めて
 呪禁を施すことで、その土垣が堵
 堵をめぐらした城邑を都という
 (字通)
 邑(まち・ユウ)+音符は「者(シャ)」
 焜炉(コンロ)の上で
 柴をもやすさまで、
 火力を集中すること・・・?
 人々の集中する大きいまち
 (漢字源)
ーー
 邑・・・災・甾・灬(烈火→熊=能+灬)
       甾=かめ・シ・サイ
         酒を入れる容器
         災い
         東方に棲むキジ(雉)・鶅
         山東省を源とする川の名前
     災=巛(かわ・セン)+火
     ・・・ならば「巛」は「湯気」か「煙」だろう
     「邑の漢字」からは上の意味は「?」である
     「邑」は口と巴(トグロ巻く糞便)である・・・
     ・・・ならば
     「人口」とは「人間の数」であり、
     「生口」と「奴隷」の意味で考えているらしい
      あるいは
     「生口」は技能工とも
ーー
 107年(後漢の永初元年)
 倭国の
 王帥升が
 後漢の安帝へ
 「生口160人」を献じた
 239年(魏の景初二年)
 卑弥呼が
 魏の明帝へ
 男「生口4人」、女「生口6人」を献じた
 243年(魏の正始四年)
 魏の少帝へ生口を献じ、
 248年
 壱與(臺與・壹與)が
 生口30人を魏へ献じた
 (魏志倭人伝)
ーー
 生口
 捕虜を意味する語
 捕虜の奴隷
 技能者の説・・・
 留学生との説・・・
 「生口」は、
 高句麗の広開土王碑
 396年
 百済が高句麗へ「生口(?)」を献じた記録
 高麗史
 1274年(忠烈王元年)
 高麗史十六・世家巻第二十八
 文永の役(1274年)で
 高麗に帰還した
 金方慶らが、
 日本人の子女を「捕虜」とし、
 高麗王と妃に献上した「記録」・・・
 「侍中
  金方慶
  等還師、
  忽敦以所
  俘童
  男女
  二百人
  献
  王及公主」
 には
 「生口」の「漢字文字」はない、
 「俘童」である・・・ 
ーーーーーー↓↑
 魏志倭人伝記載には「生口」
 漢字音では「生口(ショウク)」だが、
 日本語の「生口(いけぐち・いきぐち)」
 ならば
 「巫者」が生霊をよび出す「口寄せ」である
 「生口」の説明に「証人」とも・・・?
 「巴」とは巳(へび・み・シ・ジ)である
 「巴(ともえ・ハ)」は
 中国四川省東部の異称・「巴蜀(ハショク)」
 「ともえ(どもえ)」は日本語で
 「水が渦巻いた様子、その模様」である  
ーー
 生口島(いのくちシマ)
 芸予諸島に属する瀬戸内海の有人島
 広島県
 因島市、
 豊田郡瀬戸田町の
 一市一町
 別名
 瀬戸田島(セトダジマ)
 耕三寺(こうさんじ)と
 ↓
 広島県尾道市に所在
 浄土真宗本願寺派の仏教寺院
 山号は
 潮声山
 1936年(昭和十一年)から伽藍の建立が始められた
 新しい寺院
 「西の日光(東照宮)」とも呼ばれる
 ↓
 向上寺がある
 ↓
 向上寺(コウジョウジ)
 曹洞宗の寺院
 山号は潮音山
 本尊は釈迦如来
 中国三十三観音
 霊場第十一番
 1403年(応永十年)
 生口守平の開基、
 ↓
 愚中周及の開山により臨済宗の寺院として創建
 向上庵と号
 江戸時代の
 1609年(慶長十四年)
 関的が入寺して再興し、曹洞宗に改められた
 ↓↑
 聖観世音菩薩
  愚中周及(大通禅師)
 応永七年(1400年)
 御詠歌
 せとうちの しおのながれに
 たどりつき おじひをといて
 みなをすくわん
 室町時代初期に建立された曹洞宗の禅刹
 生口島
 尾道寄りに因島、愛媛県よりの大三島に
 挟まれた「芸予諸島」の一
 応永7年(1400年)
 地頭の
 生口守平公が
 瀬戸田
 潮音山の
 観音の霊場に一寺を建立
 臨済宗
 佛通寺派
 開山勅特賜
 仏徳
 大通禅師
 愚中周及大和尚(1323~1409年)を
 迎えて開山
 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊
 古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺
 「三重塔」
 永亨四年(1432年)の建立
 国宝の三重塔の中では最も新しい
 鐘楼は戦時中の没収から免れ
 鐘楼の音色は、除夜の鐘として全国に放送
ーー↓
 向上寺三重塔
 曹洞宗向上寺
 臨済宗大本山仏通寺開山、
 仏徳大通禅師の開基
 応永十年(1403年)に
 生口島地頭、
 惟平の頃に「向上庵」が建てられ
 応永二十一年(1414年)ごろに
 仏通寺の末寺として独立
 三重塔
 藤原朝臣の作
 大檀越、生口守平、檀那信元、信昌として
 永享四年(1432年)
 正月から六月にかけて完成、十月に供養
 昭和三十八年
 解体修理
 大正二年
 国宝指定
 昭和二十六年法律改正により、
 重文指定になり、
 昭和三十三年二月八日付で、
 再度国宝に指定
ーー↓
 向上寺
 創建
 応永七(1400)年
 小早川生口氏を祖とする
 地頭
 生□守平公が、
ーー↓
 生口氏(いくちし・いくちうじ)
 鎌倉幕府の功臣
 土肥実平・・・寿永四年(1185年)三月
 ↓      壇ノ浦の戦いの後に
        長門国と周防国の
        惣追捕使として長府に居城を構える
        文治五年(1189年)
        奥州合戦に参加
        建久二年(1191年)七月十八日
        厩の上棟奉行(吾妻鏡)
        以後を最後に、実平は史料には無い
        所領であった安芸国沼田荘では、
        承久元年(1219年)
        遠平の妻である
        天窓妙仏尼(源頼朝の娘)を弔うために
        棲真寺(広島県三原市大和町平坂)を創建
 ↓        
 の後裔
 小早川氏の庶流一族
 桓武平氏
 平良文の流れを汲む
 相模国
 土肥郷を発祥とする
 土肥氏の一族
 土肥実平の子
 遠平が
 安芸国
 沼田荘(広島県三原市)
 地頭職に補任
 養子
 景平がこれを継ぎ
 小早川氏を称した
 その後裔、
 沼田小早川氏
 小早川宣平の子
 惟平が瀬戸内海
 生口島を本拠地とし、
 生口氏を称したことに始まる
 景平の実父は
 平賀義信
 これ以降は源氏の一族・・・
 暦応四年(1341年)
 沼田小早川氏の
 本拠地・沼田荘内に造成した新田を
 小早川宣平の子
 道祖鶴丸が分知され小早川氏の
 庶子家として始まる
 道祖鶴丸が後の
 生口氏の初代当主
 生口惟平
 康永元年・興国三年(1342年)
 北朝勢として
 南朝方の
 伊予国世田山城攻略戦に参戦
 小泉氏など他の小早川氏庶子家と共に、
 瀬戸内海の
 弓削島、
 因島、
 生口島などに進出
 本拠地を
 生口島に移し、
 地名をとって
 生口氏を称した
 二代当主
 生口公実の頃には、
 瀬戸内海の交通の要衝で
 水運の拠点でもあったこの地の商人と結びつき
 水運に深く関わった
 生口守平の代となって、
 永享五年(1433年)
 室町幕府より正式に
 生口島地頭職を得た
 15世紀末期
 惣領家・沼田小早川氏より
 小早川煕平の子
 元清を当主として迎えた・・・
 戦国時代には
 毛利・小早川水軍の一翼
 第一次
 木津川口の戦いなど
 各地を転戦した
 生口景守の名が史料に記録
 ↓
 向上寺
 潮音山の観音の霊場に建立
 臨済宗仏通寺派開山勅特賜
 仏徳
 大通禅師(愚中周及)を迎えて開く
 現在の三重塔
 永享四(1432)年
 信元、信昌の発願で造建
 伽藍は
 明治六年に焼失
 ↓↑
 福山尾道~愛媛今治の中継
 連絡橋の児島・坂出ルートにあたる
 位置・形状
 三原市の南17km
 古生層と
 花崗(カコウ岩)からなる
 卵形の島
 「いくちじま」とも呼ばれる
ーー
 ・・・「生口」を「巫女・口寄せ・水が渦巻いた様子」、そして「潮声(聲)山・潮音(韻・亠)山」から類推すれば「歌手」である・・・そして、「意」とは「音の心」、すなわち、「暗誦・暗唱」の「唄の歌い手・謡曲の芸妓」だろう・・・「稗田阿礼」・・・
ーーーーー
 都合
 物事をする時に他の物事に影響を及ぼす事情
 具合が良いか悪いかということ
 差し障り
 やりくりすること
 工面すること
 合計
 都合の「都」の字には「すべて」といった意味
 「すべてを合わせる」
 「合計する」
 物事をする時に他の物事に影響を及ぼす事情
 具合が良いか悪いかということ
 場都合
 「跋」と同語源という
 その場のぐあい・調子
 つじつま
 ばつを合わせる
 ばつが悪い
 きまりが悪い
 日本人の名字
 都合=とごう
 一身上の都合
 退職理由や履歴書などにおいて用いられる定型句
 労働者の個人的な理由で職を辞する場合
 病気療養、結婚により家事に専念、
 老親の面倒を見るため
 会社都合退職
 労働契約解除の主たる原因が
 会社(使用者)による非自発的な退職
 御方便なものだ
 「詭弁」とほぼ同じ意味で用いられることもある
ーーーーー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人類、みな「兄弟姉妹」でイイのカナ

2014-02-16 21:44:57 | 古事記字源

 ・・・どうやら「漢字文字・漢字文章」を調べれば、地理的な「場所」ではなく、「古代国家」の時代から「倭」と言う「支配者層」は・・・「燕・渤海・高麗・高句麗・女真(女直)・金・満州」の「中国大陸北方血縁」・・・更にいえば、「隋・唐」の血縁も混ざった、ゴッチャ、ごチャで・・・「知恵(技術)」と「武力暴力の武器」を携え、半島経由で渡来してきたヒトビト・・・戦乱結果の「逃亡人種」らしい・・・中国大陸の「面的地理」からは南北東西の時代的な「戦乱難民の指導者」とその「一族郎党」である・・・それでも、憬れたのは膨大な冨と権力を中国大陸で握った「種族」の「中国王朝文化」である・・・「冊封」・・・当時は「中国王朝の苦肉の策」で、陸続きの周辺「国家(?)領域」の侵略者に対する「妥協の政治政策」だった。律令国家秩序を形成した支配者は「戦争は厭だった」のさ。だが身内の「財産相続」は周期的な喧嘩の始まりで、それが中国全土に拡大したのだ・・・最終的な逃亡先・・・有り難い事に「倭国(大陸倭人種)+α」の「支配者領域」は「海に囲まれた島国」で、既に逃亡移住した「親類縁者」らしき者たちがワンサカいたのだ・・・カネの世の中では「赤の他人」よりも「兄弟姉妹・血縁者」には気をつけたほうがイイだろう・・・
ーー
 倭
 「班固」が書いた「漢書・地理志」
 朝鮮半島の南の海のハテ
ーー 
 「王充」の「論衡」
 中国の南の呉越地方
 「周時天下太平 倭人來獻鬯草・(異虚篇第一八)」
 「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯・(恢国篇第五八)」
 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草
  食白雉服鬯草 不能除凶・(儒増篇第二六)」
 中国歴史
 商
 周
 春秋・戦国
 秦
 前漢
 新
 後漢
 三国(魏・呉・蜀)
 王充(27年~97年)
 讖緯(シンイ)、陰陽五行思想を批判
 儒家、道家、法家なども批判
 王充の時代には倭人は周代から大陸と関わりを持ち、
 倭国から海を渡って周に朝貢していた
ー 
 「山海経」
 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
  (山海經 第十二 海内北經)」

 「三国志・魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)」
 「去
  女王
  四千餘里
  又
  有
  裸國
  黒齒國
  復在
  其東南
  船行
  一年可」

 「梁書・卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭」
 「其南有
  侏儒國
  人長三四尺
  又南
  �眦齒國
  裸國
  去
  倭四千餘里
  船行
  可一年至」

 百越人(春秋時代の呉地方人)

 「宋書・楽志・白紵舞歌」
 「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」
 「白紵」は「呉(春秋時代)」の織物

 「前漢書地理志」
 「然東夷天性柔順、
  異於三方之外、
  故孔子悼道不行、
  設浮於海、
  欲居九夷、
  有以也夫。
  楽浪海中
  有
  倭人、
  分為
  百余国、
  以歳時
  来献見云」

 「隋書・東夷傳 倭条」
 「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」

 「漢書(前漢書)・地理志」
 「然東夷天性柔順、
  異於三方之外、
  故孔子悼道不行、
  設浮於海、
  欲居九夷、有以也夫。
  樂浪海中有倭人
  分爲百餘國
  以歳時來獻見云」
ーー
 楽浪郡
 前漢(紀元前202年~8年)
 武帝が
 紀元前108年
 衛氏朝鮮の故地に設置した
 漢四郡の一(平壌付近)
 漢四郡
 真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡

 班固の「後漢書・東夷傳」
 「建武中元二年(57年)
  倭奴國奉貢朝賀
  使人自稱大夫
  倭國之極南界也
  光武
  賜
  以印綬」
 「安帝永初元年(107年)
  倭國王帥升等獻生口百六十人
  願請見」

 「北史・倭国伝」
 「安帝時(106年~125年)、
  又遣朝貢、
  謂之
  倭奴國」

 「隋書・俀国伝」
 「安帝時(106年~125年)、
  又遣使朝貢、
  謂之倭奴國」

 「旧唐書・倭国・日本国伝」
 「倭國者、
  古
  倭奴國也」

 「後漢書・安帝紀・永初元年(107年)」
 「冬十月,
  倭國遣使奉獻。
  辛酉,
  新城山泉水大出」

 檀石槐伝
 「後漢書・卷九十
  烏桓鮮卑列傳・第八十・檀石槐伝」
 「光和元年冬
  又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多
  田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行
  見烏侯秦水廣從數百里 水停不流
  其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕
  於是東擊
  倭人國 得千餘家 徙置秦水上
  令捕魚以助糧食」

 范曄(ハンヨウ・398年~445年)
 「漢書・三国志・魏略」
 「倭の五王・上表文」を既読

 「後漢書・東夷伝倭人伝」
 「後漢書・東夷傳」

 「魏志・倭人伝」
 「倭人
  在
  帶方東南
  大海之中
  依山島爲國邑
  舊百餘國
  漢時有朝見者
  今使譯所通三十國
 「三国志・魏書巻三〇・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条」
 「東夷伝」は、
 夫余・高句麗・東沃沮
 挹婁・濊
 馬韓・辰韓・弁辰
 倭人の九条が含まれている
 「東夷伝の韓伝」
 「韓
  在帶方之南
  東西以海爲限
  南與
  倭接
  方
  可四千里・(魏志韓伝)」
 「王沈」の「魏書」に東夷伝はない
 「陳寿」の「魏志・倭人伝」が約二千字

 「三国志」
 「魏書・三十巻」
 「呉書・二十巻」
 「蜀書・十五巻」
 「魏の文帝の
  黄初元年から
  晋の武帝の
  太康元年にいたる
  (220年~280年)」
 「正史二十四史の第四番目」
 「晋が天下を統一した
  太康年間(280年~289年)
 全六十五巻」を
 「陳寿」が撰述

 「陳寿」
 字は承祚(ショウソ)
 巴西(ハセイ)郡安漢県(四川省南充)
 健興(蜀の年号)十一(233)年
  ~
 六十五歳死没
 「卑弥呼(248年頃死亡)

 「晋書・太康十年(289年)条」
 「東夷
  絶遠三十餘國
  西南二十餘國來獻」

 「魏志東夷伝・武帝紀」
 「晉書・四夷傳(東夷条)」
 「晉書・帝紀」
 「宋書・倭国傳」
 「自昔祖禰
  躬擐甲冑
  跋渉山川
  不遑寧處
  東征
  毛人五十國
  西服
  衆夷六十六國
  渡平
  海北九十五國」
  ・・・「渡平、海北九十五国」・・・
 「詔除武使持節、
  都督
  倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
  六國諸軍事、
  安東大將軍、倭王」
 「宋の文帝の命で
  439年(元嘉十六年)から編纂が始まり、
  何承天・山謙之
  琲裴之(ハイショウシ)
  徐爰(ジョカン)ら継続され、
  487年(永明五年)に
  南斉の
  武帝の命を受けた
  沈約(シンヤク)が・・・斉の著作郎(歴史編纂長官)
  488年(元嘉十七年)に
  本紀十巻・列伝六十巻を完成させ、
  志三十巻は
  502年(天監元年)完成
  倭の五王の中の
  珍に関係する記述が
  列伝の倭国条だけでなく
  本紀の
  文帝紀にもある」
 「宋書・夷蠻伝・倭国伝」

 「南斉書・東南夷伝」
 479年の倭国の遣使を記し、
 倭王武を
 使持節都督
 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
 六国諸軍事安東大将軍、称号など記録

 「南齊書・列傳 第三十九 蠻 東南夷」
 「梁職貢図・(新羅題記)」
 521年以前
 「斯羅國
  本
  東夷辰韓之小國也
  魏時曰新羅宋時日斯羅其實一也
  或属韓
  或属倭國王
  不能自通使聘」

 「梁書」
 唐の著作郎であった
 姚思廉(ヨウシレン)が
 太宗の命を受けて編纂
 636年(貞観十年)に完成
 「梁書・巻五四・諸夷伝」に「倭」に関する記述
 「倭の五王名、続柄」が「宋書」と異なる
 「梁書諸夷伝」
 「北史・倭国伝」
 「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫」
 「安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國」

 「隋書・卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」
 「男女多
  黥臂
  點面文身
  没水捕魚」
  ・・・608年の隋使、裴清(裴世清)の
  一行の見聞や観察を基礎・・・?
  「新羅 百濟
   皆以
   俀爲大國
   多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
   倭人が鉄使用の記述
 「大業三年
  其王
  多利思北孤
  遣使朝貢
  使者曰
  聞海西菩薩天子重興佛法
  故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」
  菩薩天子とは
  開皇十一年(591年)
  菩薩戒により総持菩薩となった
  煬帝のコト
 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
 「隋書・東夷傳・倭条」
 「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」

 「魏徴(ギチョウ)」
 「隋書俀国伝」
 「隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」

 「旧唐書・倭国・日本国条」
 「倭國者
  古
  倭奴國也
  去京師一萬四千里
  在
  新羅
  東南大海中
  依山島而居
  東西五月行
  南北三月行
  世與中國・・・
ーー↓
  日本國者
  倭國之
  別種也
  以其國在日邊
  故以
  日本爲名
  或曰
  倭國
  自惡其名不雅
  改爲日本
  或云
  日本舊小國
  併倭國之地

 「旧唐書(クトウジョ)」
 五代十国時代(十世紀)
 「劉昫(リュウク)」らの編纂歴史書

 「魏書」は「王沈(オウシン?~266年)」の著
 「魏略」は「魚豢(ギョケン)」撰の著
 佚文(逸文)
 「前漢書・翰苑・北戸録・魏志・法苑珠林」に記録
 清代に
 「張鵬一(チョウホウイツ)」が
 諸書の逸文を集めて
 「魏略輯本」を編集
 「裴松之(ハイショウシ・371年~451年)
 宋の文帝の命を受けて
 426年(元嘉六年)に
 「魏志」に関する「注」を実施
 「翰苑(カンエン)」は唐の
 「張楚金(チョウソキン)」編集の類書
 「蕃夷(バンイ)部」のみが
 太宰府天満宮に唯一現存
 「翰苑」は9世紀に書写されたもの
 誤字や脱漏く、「魏略」の引用が多い
 「史通」は唐の
 「劉知幾(リュウチキ)」撰
 「太平御覧(タイヘイギョラン)」は、
 北宋の太宗の勅を受けて
 「李棒�壯(リホウ)」等が編纂した類書
ーー
 「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に 属す」
 地理書「山海経・(巻十二、海内北経)」
 「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」
 「蓋国は鉅燕にあり、南倭と北倭は燕に 属する」
 「燕」は中国の戦国時代(紀元前403年)の国

 紀元前六年頃の中国の古い地理誌
 「山海経」
 「蓋国は、鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」
 「燕」は
 「渤海湾の北側にあった国」
 「倭朝鮮半島」においても、
 「倭」は「韓」と境を接していた
 「燕の将軍の
  楽毅が斉の宝物類を根こそぎ奪って
  昭王のもとに送り届けた」・・・

ーー↓六国史↓
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/
ーー↓續日本紀↓
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/syokuki/syokuki.html
ーーーーー
續日本紀卷第廿起
天平寶字元年正月、盡二年七月。
從四位下行民部大輔

左兵衛督
皇太子学士臣
菅野朝臣眞道
奉勅撰」
寳字稱徳孝謙皇帝
ーー
己巳。
内藥司佑兼出雲國員外掾正六位上
難波
藥師
奈良
等一十一人言。
奈良等
遠祖
徳來。

高麗人。
歸百濟國。昔泊瀬朝倉朝廷詔百濟國。訪求才人。
爰以
徳來
貢進聖朝。
徳來
五世孫
惠日。小治田朝廷御世。被遣大唐。
學得醫術。因号藥師。
遂以爲姓。今愚闇子孫。不論男女。


藥師之姓。
竊恐名實錯乱。伏願。

藥師字。

難波連。許之。
ーー
六月甲辰。
大宰陰陽師從六位下
余益人。
造法華寺判官從六位下
余東人
等四人賜
百濟朝臣姓。
越後目正七位上
高麗
使主
馬養。
内侍典侍從五位下
高麗
使主
淨日
等五人
多可連。
散位大属正六位上
狛廣足。
散位正八位下
狛淨成
等四人
長背連。
辛亥。陸奥國言。去年八月以來。
歸降
夷俘。男女惣一千六百九十餘人。
或去離本土。
歸慕皇化。
或身渉戰塲。与賊結怨。惣是新來。良未安堵。
亦夷性狼心。猶豫多疑。望請。
准天平十年閏七月十四日勅。
量給種子。令得佃田。永爲王民。
以充邊軍。許之
ーー
丙辰。
以從四位上
佐伯宿祢毛人
爲常陸守。
參議從三位
文室眞人智努
爲出雲守。
從五位上
大伴宿祢
家持
爲因幡守。
乙丑。
大和國葛上郡人從八位上
桑原史年足
等男女九十六人。
近江國神埼郡人正八位下
桑原史人勝
等男女一千一百五十五人同言曰。
伏奉去
天平勝寳九歳五月廿六日勅書稱。
内大臣。太政大臣之名不得稱者。

年足人勝
等先祖
後漢
苗裔■言
興并帝
利等。
於難波高津宮御宇天皇之世。
轉自
高麗。
歸化聖境。
本是同祖。
今分數姓。望請。
依勅一改史字。


同姓。
於是。
桑原史。
大友桑原史。
大友史。
大友部史。
桑原史戸。
史戸六氏
同賜
桑原直姓。
船史
船直姓。
ーー
丙子。
正六位上
阿倍朝臣乙加志

從五位下。
正六位上
額田部宿祢三富。
戸憶志。
根連
靺鞨。
生江臣智麻呂。
調連
牛養。
山田史銀

外從五位下。
三富
本姓
額田部
川田連也。
是日。

額田部宿祢

便書位記
賜之。
ーーーーー
續日本紀卷第廿一起
天平寶字二年八月、盡十二月。
右大臣從二位

行皇太子傅
中衛
大將臣
藤原朝臣繼繩
等奉勅撰」
廢帝
ーー
戊申。勅曰。子尊其考。・・・
日並知皇子命。・・・・草壁王子
天下未稱天皇。
追崇尊号。古今恒典。
自今以後。
宜奉稱
岡宮御宇天皇。
ーー
癸亥。
歸化
新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。
移武藏國閑地。
於是。
始置
新羅郡焉。
ーー
丙寅。
外從五位下
津史秋主
等卅四人言。
船。葛井。津。
本是一祖。
別爲三氏。
其二氏者
蒙連姓訖。
唯秋主等未霑改姓。
請改史字。
於是賜姓
津連。
ーー
丁亥。
小野朝臣田守等
至自
渤海。
渤海大使
輔國大將軍兼將軍
行木底州
刺史兼兵署少
正開國公
揚承慶
已下廿三人。
隨田守來朝。
便於
越前國
安置。
丁酉。
始頒
越前。越中。佐渡。出雲。石見。伊豫

六國飛驛鈴。
國一口。
ーー
丁夘。

遣渤海
大使
從五位下
小野朝臣田守從五位上。
副使
正六位下
高橋朝臣老麻呂從五位下。
其餘六十六人各有差。
美濃國席田郡大領外正七位上
子人。
中衛无位吾志等言。
子人

六世祖父
乎留
和斯知。

賀羅國
慕化來朝。
當時
未練風俗。
不著姓字。
望隨國号。
蒙賜姓字。
賜姓
賀羅造。
十一月辛夘。
御乾政官院。行大甞之事。
丹波國
爲由機。
播磨國
爲須岐
ーー
戊申。

渤海使
小野朝臣田守等

唐國
消息曰。
天寳十四載歳次乙未十一月九日。
御史大夫兼范陽節度使
安祿山
反。
擧兵作乱。
自稱
大燕聖武皇帝。

范陽

靈武郡。
其宅爲潛
龍宮。
年号
聖武。
留其子
安卿緒。

范陽郡事。
自將精兵廿餘万騎。啓行南往。
十二月。
直入洛陽。署置百官。
天子遣
安西節度使
哥舒翰。
將卅万衆。守潼津關。
使大將軍封常清。將十五万衆。別圍洛陽。
天寳十五載。
祿山遣將軍
孫孝哲等。
帥二万騎攻潼津關。
哥舒翰

潼津岸。
以墜黄河。絶其通路而還。
孝哲鑿山開路。引兵入至于新豊。
六月六日。天子遜于劔南。
七月甲子。皇太子與即皇帝位于靈武郡都督府。
改元

至徳元載。
己夘。天子至于益州。平盧留後事徐歸道。
遣果毅都尉行柳城縣兼四府經畧
判官
張元澗。
來聘
渤海。
且徴兵馬曰。
今載十月。當撃祿山。
王須發騎四万。來援平賊。
渤海


有異心。
且留未歸。
十二月丙午。
徐歸道果鴆劉正臣于北平。
潛通祿山。
幽州節度使
史思明
謀撃天子。
安東都護王
玄志仍
知其謀。
帥精兵六千餘人。打破柳城斬徐歸道。
自稱權知平盧節度。進鎭北平。
至徳三載四月。
王玄志

將軍王進義。
來聘
渤海。
且通國故曰。天子歸于西京。迎太上天皇于蜀。居于別宮。
弥滅賊徒。故遣下臣來告命矣。
渤海王
爲其事難信。
且留進義遣使詳問。
行人未至。
事未至可知。
其唐王賜
渤海國王勅書一卷。
亦副状進。於是。
勅大宰府曰。
安祿山者。是狂胡狡竪也。違天起逆。
事必不利。疑是不能計西。還更掠於海東。
古人曰。蜂■猶毒。何况人乎。
其府帥
船王。

大貳
吉備朝臣眞備。
倶是碩學。名顯當代。簡在朕心。委以重任。
宜知此状。預設奇謀。縱使不來。儲備無悔。
其所謀上策。及應備雜事。一一具録報來。
癸丑。
左京人
廣野王
賜姓
池上眞人。
壬戌。
渤海使
揚承慶
等入京。
ーーーーー
續日本紀卷第廿二起
天平寶字三年正月、
盡四年六月。
右大臣從二位兼
行皇太子傅
中衛大將臣
藤原朝臣
繼繩
等奉勅撰」
廢帝
ーー
乙酉。
帝臨軒。

高麗大使
揚承慶
正三位副使
揚泰師
從三位。
判官
馮方禮
從五位下。
録事已下十九人各有差。
賜國王及大使已下祿有差。
饗五位已上。
及蕃客。并主典已上於朝堂。
作女樂於舞臺。奏内教坊踏歌於庭。
客主典殿已上次之。事畢賜綿各有差。
ーー
甲午。
大保藤原惠美朝臣押勝宴蕃客於田村第。
勅賜内裏女樂并綿一万屯。
當代文士賦詩送別。
副使
揚泰師
作詩和之。
丁酉。
授正六位上
高元度
外從五位下。
爲迎
入唐大使使。
二月戊戌朔。

高麗王
書曰。
天皇敬問
高麗國王。
使
揚承慶

遠渉滄海。來弔國憂。誠表慇懃。深増酷痛。但隨時變礼。聖哲通規。從吉履新。更无餘事。兼復所貽信物。依數領之。即因還使。相酬土毛絹■疋。美濃■卅疋。絲二百■。綿三百屯。殊嘉尓忠。更加優。賜錦四疋。兩面二疋。纈羅四疋。白羅十疋。彩帛■疋。白綿一百帖。物雖輕尠。寄思良深。至宜並納。
國使附來。
无船駕去。
仍差單使送還
本蕃。
便從彼郷達於大唐。欲迎前年入唐大使藤原朝臣河清。宜知相資。餘寒未退。想王如常。遣書指不多及。」
授從五位下
當麻眞人廣名
從五位上。
癸丑。
揚承慶
等歸蕃。
高元度
等亦相隨而去。
三月丁夘朔。
日有蝕之。
ーー
夏四月辛亥。
以外從五位下
陽胡史
玲■爲越後守。
ーー
辛亥。
迎藤原河清使判官内藏忌寸全成。

渤海却廻。
海中遭風。
漂着
對馬。
渤海使
輔國大將軍兼將軍
玄菟州
刺史

押衙官
開國公
高南申
相隨來朝。其中臺牒曰。迎藤原河清使惣九十九人。
大唐
祿山
先爲逆命。
思明
後作乱常。内外騷荒。未有平殄。即欲放還。恐被害殘。又欲勒還。慮違隣意。
仍放頭首
高元度
等十一人。
往大唐迎
河清。即差此使。同爲發遣。
其判官
全成
等並放歸卿。
亦差此使隨徃。
通報
委曲。
壬子。
中宮大夫從四位下
佐味朝臣虫麻呂卒。
丙辰。

高麗使
於大宰。
ーー
辛亥。
高麗使
高南申。
我判官内藏忌寸
全成
等到着
難波江口。
丙辰。
高南申
入京。
四年春正月癸亥朔。
御大極殿受朝。
文武百官

渤海蕃客。
各依儀拜賀。
▼是日。宴五位已上於内裏。賜祿有差。
甲子。
幸大保第。
以節部省■綿。賜五位已上及從官主典已上各有差。
ーー
丁夘。
帝臨軒。
渤海國使
高南申
等貢方物。
奏曰。
國王
大欽茂
言。
爲獻日本朝
遣唐大使特進兼秘書監
藤原朝臣
河清
上表并恒貢物。
差輔國大將軍
高南申
等。充使入朝。詔曰。
遣唐大使
藤原河清
久不來歸。所鬱念也。

高麗王

南申
令齎
河清
表文入朝。王之款誠。實有嘉焉。
▼是日。
高野天皇

帝幸太師第。
授正六位上
巨勢朝臣廣足
從五位下。
從三位
藤原朝臣
袁比良
正三位。
從五位上
池上女王
正五位上。
從五位上
賀茂朝臣小鮒。
飯高公
笠目
並正五位下。賜陪從五位已上錢。
戊辰。
授无位
藤原朝臣
久米刀自
從五位下。
己巳。
高野天皇

帝御閤門。
五位已上及
高麗使
依儀
陳列。
詔授
高麗國大使
高南申
正三位。
副使
高興福
正四位下。
判官
李能本。
解臂鷹。
安貴寳
並從五位下。録事已下各有差。賜國王■卅疋。美濃■卅疋。絲二百■。調綿三百屯。大使已下各有差。賜宴於五位已上及蕃客。賜祿有差。
ーー
戊寅。
以從五位下
大野朝臣
廣立

少納言。
從三位
藤原朝臣
弟貞
爲坤宮大弼。
但馬守如故。
從五位下
大原眞人
繼麻呂

少忠。
正四位下
高麗朝臣
福信

信部大輔。
從五位下
阿陪朝臣
許知

少輔。
從五位下
阿倍朝臣
意宇麻呂

内藏助。
從五位下
奈癸王

内礼正。
從五位下
路眞人
野上

兵馬正。
從五位上
河内王

義部大輔。
從四位下
石川朝臣
名人

造宮卿。
從四位下
仲眞人
石伴

河内守。
從五位下
紀朝臣
小楫
爲和泉守。
外從五位下
高元度

能登守。
正四位上
紀朝臣
飯麻呂
爲美作守。
從五位下
多治比眞人
木人
爲薩摩守。
ーー
辛夘。
從二位
藤原夫人薨。
贈正一位
太政大臣
房前之女也。
二月壬寅。
從五位下
石川朝臣
廣成


高圓朝臣。
辛亥。
以從四位下
笠王。

左大
舍人頭。
從五位下
豊野眞人
尾張

内藏頭。
在唐大使
正四位下
藤原朝臣
河清
爲文部卿。
從五位下
高圓朝臣
廣成
爲少輔。
從五位下
石川朝臣
人成

仁部少輔。
從五位下
巨勢朝臣
廣足

節部少輔。
從五位上
當麻眞人
廣名

遠江員外介。
從五位下
藤原朝臣
楓麻呂

但馬介。
▼是日。
渤海使
高南申
等歸蕃。
ーー
戊午。

歸化
新羅
一百卅一人

武藏國。
ーー

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする