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尻取・文字理取・モジリ・母子里・茂尻・妹背牛・望畝有志

2014-02-15 23:17:38 | 古事記字源

 ・・・前回、「アイオナ」島にある中世ケルト教会の修道院、中世前期のキリスト教布教の中心地で、「563年」にアイルランドを逐われた「聖コルンバ」を調べたが・・・
 「563年」?の連鎖は・・・「高孝瑜」・・・「空海の誕生日」を「六月十五日」とするのは、「頼瑜(1304年没)」の「真俗雑記」・・・「頼瑜」は「嘉禄二年(1226年)~嘉元二年一月一日(1304年2月7日)」、鎌倉時代中期から後期の真言宗僧・俗姓は「土生川」氏、字は「俊音」、号は「俊音房」で、紀伊国「那賀郡」の出身。高野山「大伝法院」、「醍醐寺」で学び大伝法院学頭、実勝から灌頂を受け、「中性院」流を開く。「正応元年(1288)」、大伝法院と密厳院を紀伊「根来(ねごろ)寺(和歌山県)」にうつし、新義真言宗の基礎をつくった。享年七十九歳・・・著作に「大日経疏愚草(ダイニチキョウショグソウ)」などがある・・・
 「現存・古事記」に関係する人物の流れ・・・
 そして、頼瑜(ライユ)・・・
 信瑜(シンユ)・・・
 賢瑜(ケンユ)・・・
 春瑜(シュンユ)・・・
 「瑜=王+兪」が共通項の漢字として使用されているのだが意味はアルのか?・・・「瑜」とは、「美しい宝石」、「瑾瑜」という「美しい玉を意味する熟語で用いられる(説文解字・瑾瑜=美玉なり)」・・・
 人名に「瑜」がつく歴史上の人物
ーー↓
 「周瑜(175年~210年)」
 中国後漢末期の武将
 字は公瑾(こうきん)
 渾名は美周郎
 揚州廬江郡舒県(安徽省廬江県)の人
 高祖父は周栄
 従祖父は周景
 従父は周忠
 父は周異
 子は周循・周胤・孫登
 妻は小喬
ーー↓↑
 「断金の交わり」とは
  周瑜と
  孫策の友情・・・・「ソンサク」
 「易経」繋辞上の
 「二人心を同じくすれば、其の利(と)きこと、金を断つ」
  金(カネ)をも断ち切るほどかたい友情
  また、それによって結ばれた間柄のたとえ・・・
 「かね」なのか「キン」なのか?
 ・・・キン欠、ゲルピンの友情・・・?
ーー
 「孫瑜(177年~215年)」
  中国後漢末期の武将
  孫静の次男
  字は仲異
  兄に孫
  弟に孫皎・孫奐
  子に孫弥・孫熙・孫燿・孫曼・孫紘
  孫権、周瑜の配下の将軍 
ーー
 「羊徽瑜(ヨウキユ・214年~278年)」
   徽=しるし・キ・ケ・・・徽章(バッチ)
  司馬師の妻
  諡は献
  泰山県南城郡の人
  父は上党太守の
  羊衜
  母は
  蔡氏(蔡邕の娘)
  ↓ 「蔡(サイ)」・・・占いに用いたオオガメ
     春秋時代の列国の一
     周の武王が弟の
     蔡叔度を封じた国
     河南省上蔡県の西南
     前447年楚の恵王に滅ぼされた
    「蔡倫」は紙の発明者
    「蔡琰 (サイエン)」は
     字が文姫・後漢末期の学者、蔡邕の娘
     音律に精通、女流詩人
  ↓  河東の衛仲道に嫁いだ
  同母弟に
  羊祜・恵帝の皇后
  前趙の皇帝
  劉曜の皇后となる
  羊献容と同族
ーー
 「性瑜(セイユ・?~?)」
 鎌倉時代の僧
 律宗
 大和(奈良県)西大寺の
 叡尊に真言と律を学び
 仁和寺
 醍醐寺で真言をおさめる
 文永九年(1272)
 叡尊に灌頂を受ける
ーー
 「宣瑜(センユ)」
 鎌倉後期の西大寺流の律宗の僧
 第三代西大寺長老
 字は浄覚
 叡尊について顕密、戒律などを修めた
 弘安三(1280)年
 伊勢神宮の内宮に
 叡尊が建立したと伝える
 弘正寺に住し、
 瑜伽(ヨーガ・精神統一)など修行
ーー
 ・・・「渤海使の帰化人」・・・
 「滋野・船代(船白)」・・・「日本後紀・平安遺文」・・・「船代」の子孫で平安時代の学者「滋野貞主(さだぬし)」が渤海使と漢詩のやり取りをした・・・?
 「滋野貞主(しげの の さだぬし)」
 延暦四年(785年)
  ~
 仁寿二年二月八日(852年3月2日)
 平安時代前期の公卿
 姓は宿禰のち朝臣
 尾張守
 滋野家訳の子・・・・・?・・・イエワケ?
 官位は正四位下・参議
 大同二年(807年)
 文章生に及第
 弘仁二年(811年)
 少内記
 弘仁六年(815年)
 大内記に任官
 弘仁十一年(820年)
 外従五位下・兼因幡介
 弘仁十二年(821年)
 従五位下
 図書頭に叙任・・・・?・・・図書館長は怪しい
 弘仁十四年(823年)
 皇太子・正良親王の東宮学士
 天長六年(829年)
 従五位上に昇叙
 淳和朝で、漢詩集「経国集・二十巻」の編纂に参画
 古今の文書を分類した
 日本最古の
 百科事典
 「秘府略・千巻(現存二巻)を撰集
 天長十年(833年)
 正良親王の即位(仁明天皇)に伴い
 正五位上と二階級の加叙を受
 承和元年(834年)
 従四位下
 承和六年(839年)
 従四位上
 承和九年(842年)
 参議に任ぜられて公卿
 下総守・内蔵頭・宮内大輔
 相模守・兵部大輔・大和守
 弾正大弼・大蔵卿・讃岐守
 式部大輔
 勘解由長官と内外の多数の官職を歴任
 承和十一年(844年)
 私邸(城南宅)を寺として
 慈恩寺とした
 承和十二年(845年)
 「便宜十四事」を陳述
 嘉祥二年(849年)
 尾張守を兼ね
 宮内卿に遷任
 嘉祥三年(850年)
 文徳天皇の即位に伴い
 正四位下
 同年
 相模守を兼ねる
 仁寿二年(852年)二月八日死去
 口吻に毒瘡を病み、
 慈恩寺西書院で没
 享年六十八
 最終官位は
 参議正四位下行宮内卿
 兼
 相摸守
 長女の
 縄子は
 仁明天皇の女御
 本康親王・時子内親王・柔子内親王の三皇子女を産む
 娘の奥子は
 文徳天皇の
 惟彦親王・濃子内親王・勝子内親王の三皇子女を産んだ 
ーー
 760年
 天平宝字四年
 大興二十三年(渤海年号)
 陽侯史・・・(隋王朝の帰化人の末裔)
    「ヤゴ(水蠆)」はトンボ(蜻蛉)の幼虫
     肉食性の水生昆虫
 玲璆
 淳仁天皇時代に「文王」に「送高南申使(続日本紀)」・・・
ーーー
 渤海(ぼっかい、698~926年)
 満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方に
 大祚栄により建国
 契丹(遼)によって滅亡
 粟末靺鞨
 高句麗に従属
 姓は
 大氏
  渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏
 「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。
  姓は
  大氏(新唐書)」
ーー
 『旧唐書』と『新唐書』では
 渤海靺鞨
 大祚栄に関する記述は異なる・・・?
 『旧唐書』では
 渤海靺鞨の
 大祚栄は出自は
 高句麗の別種
 渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也
 『新唐書』では
 粟末靺鞨の出 
 「渤海靺鞨の大祚榮、
  本は高麗の別種なり」
ーー
 『大金国史』には
 女直(女真)は
 粛慎の遺種であり、
 渤海の別種
 (又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也)
 渤海風俗
 高句麗・契丹と同じ
 (風俗瑟高麗及契丹同
  風俗は高麗契丹に重なり同じ)
 渤海の名
 遼東半島と山東半島の内側にあり
 黄河が注ぎ込む湾状の海域
 初代国王
 大祚栄が、渤海沿岸(河北省南部)の
 渤海郡の王(渤海郡王)に封ぜられた
 ーーーーー
 563年
 欽明天皇二十四年
 皇紀1223年
 中国
   ・陳=天嘉四年
   ・後梁=天保二年
   ・北斉=河清二年
   ・北周=保定三年
 朝鮮
   ・高句麗=平原王七年
   ・百済=威徳王十年
   ・新羅=真興王二十四年(開国十三年)
 欽明天皇
 和風諡号
 天国排開広庭天皇
 (あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)
 別名
 志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇
 (しきしまのすめらみこと)
 この代に、
 百済より仏教が公伝
 任那が滅亡
 562年(欽明天皇二十三年)
 新羅に討伐軍
 退却
 高句麗にも軍を送った
 「日本書紀」
 継体天皇廿五年
 『百済本記』を引用した記事に
 「百濟本記爲文 其文云
  大歳辛亥三月
  軍進至于安羅
  營乞乇城 是月
  高麗弑其王安
  又聞
  日本天皇及太子皇子
  倶崩薨
  由此而言
  辛亥之歳
  當
  廿五年矣」
ーー
 楊爽(ヨウソウ・563年~587年)
 隋の皇族・衛昭王
 文帝楊堅の異母弟
 字は師仁
 小字は明達
 楊忠の子
 北周のとき、父の軍功により、
 赤子でありながら
 同安郡公に封
 六歳のときに楊忠が死去
 楊忠の正妻の呂氏に養育
 十七歳
 内史上士
 580年
 楊堅が北周の政権を掌握
 楊爽は大将軍・秦州総管
 赴任する前に、
 蒲州刺史に転じ、位は柱国
 581年
 隋が建国
 衛王に立てられ
 雍州牧に転じ、左右将軍を兼ねた
 右領軍大将軍に転じ、并州総管を兼ねた
 582年
 上柱国に進み、涼州総管に転じ、
 行軍元帥
 七万の兵で突厥に備え平涼に進出
 583年
 北伐し、元帥
 河間王楊弘・豆盧勣・竇栄定・高熲・虞慶則らの
 諸将が道を別にして進攻し、みな楊爽の節度を受けた
 楊爽みずからも
 李充節ら四将を率いて
 朔州に進出し、
 沙鉢略可汗と白道で遭遇し、撃破
 沙鉢略可汗は逃走
 文帝は楊爽に梁安県の1000戸を食邑として与えた
 586年
 再び元帥
 十五万の兵を率いて、
 合川に進出し、突厥軍が逃走
 587年
 納言
 楊爽が病床に伏
 文帝は巫者の
 薛栄宗を派遣し
 多くの鬼が病の原因であると見立てた
 楊爽が側近たちに鬼を祓わせると、数日後に
 薛栄宗は鬼物に襲われ、階下に逃げて倒れ死去
 その夜のうちに楊爽も死去
 享年は25
 太尉
 冀州刺史の位を追贈
 子の
 楊集が後を嗣ぐ
 楊集
 字は文会
 初封は遂安王
 衛王を嗣ぐ
 楊素の告発を受けて流刑
 伝記資料
 「隋書・巻四十四・列伝第九」
 「北史・巻七十一・列伝第五十九」
ーー
 「高孝瑜(537年~563年)」
 中国の北斉の皇族
 河南康舒王
 高澄の長男
 母は宋氏
 字は正徳
 河南郡公
 550年
 北斉建国
 河南郡王
 中書令・司州牧を歴任
 高歓に養育
 高湛と同年で仲良
 560年
 楊愔らの処断にあたって、
 孝瑜はその計画に加担
 高湛(武成帝)が即位すると、高い礼遇を受けた
 文学を愛し、読書は早く、十行をいちどに読んだ
 孝瑜は「趙郡王高叡の父高琛は非命に斃れました。趙郡王と親しくしてはいけません」と武成帝に言った。
 高叡と和士開は孝瑜を憎んだ
 爾朱御の娘で名を
 摩女、太后に仕えていた女性であったが、
 孝瑜は彼女(摩女)と密通
 武成帝の激怒に触れ
 孝瑜は車に乗せられ、毒を飲まされ
 西華門で苦しみだし、水に身を投げて絶命
 後、太尉・録尚書事の位を追贈
 子の
 高弘節が彼を嗣いだ
 孝瑜の母の宋氏は、
 北魏の吏部尚書宋弁の孫
 もとは
 東魏の潁川王元斌の妃
 宋氏は高澄と再婚して孝瑜を産み、
 太妃となった
 孝瑜の妃の盧氏は、盧正山の娘
 武成帝の
 胡皇后の内姉
 孝瑜が死去した後、
 宋太妃は盧妃の讒訴で武成帝に殺された
ーー
 史寧(シネイ・?~563年)
 中国の北魏から北周にかけての軍人
 字は永和
 本貫は建康郡表氏県
ーー
 徐世譜(ジョセイフ・509年~563年)
     ヨセフ(Joseph)だろ・・・?
 南朝梁から陳にかけての軍人
 字は興宗
 本貫は巴東郡魚復県
 554年(承聖三年)
 西魏軍が江陵に侵攻
 世譜は馬頭岸に駐屯して、
 龍洲に拠った
 元帝により
 侍中・使持節・都督江南諸軍事
 鎮南将軍・護軍将軍の位を受けた
 江陵が陥落すると、世譜は東に下って侯瑱を頼った
 555年(紹泰元年)
 侍中・左衛将軍
 陳霸先が王琳と戦うにあたって、
 水戦の準備は世譜に任せられた
 558年(永定二年)
 護軍将軍の位
 559年(永定三年)
 陳の文帝が即位
 安右将軍
 561年(天嘉二年)
 使持節・散騎常侍・都督宣城郡諸軍事
 安西将軍・宣城郡太守として出向
 召還されて安前将軍・右禄大夫
 病のために失明
 563年(天嘉四年)五月に死去
 享年は五十五
 諡は桓侯
 伝記資料
 「陳書・巻十三・列伝第七」
 「南史・巻六十七・列伝第五十七」
ーー
 欧陽頠(歐陽頠・498年~563年)
 南朝梁から陳にかけての軍人
 字は靖世
 本貫は長沙郡臨湘県
ーー
 侯莫陳崇(こうばくちん すう・?~563年)
 中国の西魏の軍人
 字は尚楽
 本貫は代郡武川県。
ーーー
  渤海
 
 668 高句麗・平壌城陥落、鴨緑江以北の半分以上の城は抗戦  
 669 高安勝は4000戸余りを率いて新羅に亡命
   剣牟岑と亡命政府樹立
 670 高句麗・新羅連合軍が鴨緑江を渡り、唐軍を撃破
 677 安東都護府を再び新城(遼寧省撫順)に移す
   宝蔵王、唐から帰還し、
   小高句麗を建設後、復興運動を図る 
 686 唐は宝蔵王の孫・高宝元を朝鮮郡王に奉じ、
   高句麗流民達の反発を融和しようとした
 698 大祚栄が東牟山に移り、
   振国を建てる・高王
 699 唐は宝蔵王の子
   高徳武を安東都督に任命
   高句麗の旧住民は渤海に吸収 
 713 国号を渤海に改める 
 719 高王が死亡し、子の
   大武芸が即位する 
 732 渤海が張文休と水軍を送り、
   唐の登州を攻撃
   他方、陸路で馬都山を攻撃・武王
 733 唐の要請で新羅が渤海の南側を攻撃
   退却・旧国から顕州に遷都
 737 武王が崩御、子の
   大欽茂が即位
 739 岨要徳を日本に使臣として送る(2次)
   彼の職責は若忽州都督
   若忽州は
   木底週・玄莵州とともに
   62州を設置する前の高句麗式名称・文王
 756 安禄山の乱を避け、顕州から上京に遷都
 759 この期間に日本は
   「渤海」を「高麗」と呼称
 762 唐で王を渤海郡王から渤海国王に奉ずる 
 771 壹萬福を日本の使臣に送る(7次)
   この時、持参した国書にて
   天孫を自称し、両国を舅婿の関係に規定
 776 史都蒙を日本に使臣として送る(9次)
   この時、彼が
   南海府
   吐号浦から出向したとされ、初めて五京の名が出た 
 777 貞恵公主(737~777)が死亡
   780年11月に葬式 
 780 東京から上京に遷都 
 790 新羅が
   伯魚を渤海に使臣として派遣 
 792 貞孝公主(757~792)が死亡
   同年11月に葬式 
 793 文王が死亡
   弟の
   大元義が即位 
 793 大元義が一年で死去
   大宏臨の子
   大華璵が即位・大元義
 793 即位後に東京から上京に遷都・成王
 794 成王が崩御
   文王の子
   大嵩が即位・康王
 795 呂定琳を日本に使臣として送る(14次)
   この時の国書にて
   康王が
   「命を取り留め、王位についた」と言及
 798 日本から6年に一度づつ使臣を派遣しろと通報
   大昌泰を日本へ使臣として送る(14次)
   この時の国書で、
   康王が
   「教化に従う真面目な心は
    高氏からその足跡をたどることが出来る」と表記 
 818 簡王が一年で崩御
   従夫であり、
   大野勃の四世孫の
   大仁秀が即位・宣王
   818~820 新羅方面と遼東方面を攻略 
 828 日本が渤海・新羅との私的な貿易を禁止 
 832 唐の使臣
   王宗禹が帰国し、
   左右新軍、左右三軍、二十司を置いた事実を
   絵に書いて報告・大葬震
 834 過去に許王府の参軍・騎都衛であった
   趙文休の母・李氏が碑像を作る
   唐の使臣
   張建章が渤海に到着、翌年帰国 
 841 賀福延を日本に使臣として送る(24次)
   この時送った
   中台省牒写本が日本に残っている
   この中で、渤海と日本を遼陽と日域に対比 
 849 王文矩(20次)が日本から帰国した時に
   もらって来た国書にても
   渤海と日本を遼陽と日域に対比 
 845~ 渤海人、
    唐の賓貢科(外国人向け科挙)に及第し始める 
 859 渤海の使臣
   烏孝槇(26次)が日本に
   長慶宣明暦を伝え、
   日本で1684年まで使われる・大虔晃
 861 渤海の使臣
   李居世(27次)が日本に
   不頂尊勝陀羅尼経を伝える
   石山寺に残る 
 872 烏孝度が唐の賓貢科に及第
   この時、
   新羅の
   李同より上に名が出る・大玄錫
 897 唐の賀正使として行った王子
   大封裔が新羅よりも上席を要求したが、
   唐が許さず・大皆
 906 烏光賛が唐の賓貢科に及第する
 908 日本の大江朝江が
   渤海使臣(33次)に渡した文書にて、
   渤海の使臣を「遼水の客」と表現
 911 渤海が新羅などの国々と
   秘密裏に連携を結ぶ 
 918 王建が高麗を建国 
 925 将軍
   申徳など500名が高麗に行く
   この時から渤海人の高麗亡命が始まる 
 926 渤海が契丹に滅ぼされる 
 926 後渤海国建国
   契丹が東丹国を建設   
 935 後渤海国の王子
   大光顕が主力を率いて高麗に投降、滅亡
   農民達は旧来の地に残り、
   後に
   女真に吸収
   定安国建国
 985 定安国、五ヶ月の戦闘の末、契丹に滅ぼされる
 996~1116
ーーー
 岷山の隠士
 国枝史郎
 青空文庫
  ↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43773_19492.html
ーーー

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蜘蛛之巣状=中ム知中ム牛木(の=埜)素姓・素生・素性

2014-02-14 23:05:03 | 古事記字源

・・・メールに「no subject」が多いが・・・「No.Thank you very much for your email.」・・・
ーーーーー
 mail=メェル・メイル 
 電子メール
 (E mail=electronic mail
     communicate electronically on the computer)
ーーー
 メアル・メァル・メァール・・・目在る・目亜留
 メイル・メィル・メィール・・・滅入る・名意留
      mail
 メウル・メゥル・メゥール・・・目有留・女得留
 メエル・メェル・メェール・・・目恵留・女娃留
      mail
 メオル・メォル・メォール・・・目折る・芽折る
ーー
 マアル・マァル・マァール
 ↓
 maar
 爆発によって形成された平底の火山の噴火口
 marl
 主に方解石か白雲石から成る
 ゆるくて崩れている土の堆積物
ーー
 マイル・マィル・マィール
 ↓
 mile
 1301メートル~1899メートル
 競馬での走行距離
ーー
 マウル・マゥル・マゥール
 ↓
  Mauro Maur
 イタリアのトランペット奏者・作曲家
 マウル(Otto Maul・1887~1951)
 ドイツの地理学者
 マウルは韓国語の「町・村」
ーー
 マエル・マェル・マェール
 ↓
  mail (usu. in phrases and compound words)
ーー
 マオル・マォル・マォール
 ↓
 ケスティール マオル
 スカイ島 (カイルアキン近く) に位置
 スカイ島 (デュイスデールモア周辺)
 ↓↑
 アイオナ修道院(Monastery of Iona)が存在
 スコットランド西方海上に浮かぶ
 インナー・ヘブリディーズ諸島の
 アイオナ島にあるのは
 中世ケルト教会の修道院
 中世前期の
 キリスト教布教の中心地
 563年
 アイルランドを逐われた
 聖コルンバは、
ーー↓
 アイルランド北西部
 ドニゴール地方の
 王族(Ui Neill=O'Neill=オニール)
 の家系に生まれた
 クロナード修道院の
 名僧フィニアンの下で修業
 後、
 543年に
 故郷アルスターに
 デリー修道院を建設
 546年に
 ダロウ修道院を創建し、修道院長
ーー↓
 12人の同士とともに修道院を創設
 スコットランドやイングランド北部の異教徒を
 ココを基点に
 キリスト教に改宗させていった
 英国スコットランド西岸の
 アイオナ島は
 ヨーロッパの主要な巡礼地となった
  ↓
 アイオナ島は、
 スコットランド、
 アイルランド、
 ノルウェーの王が埋葬
 される聖なる島となった
 ダルリアダ王国の国王とその後継者にあたる
 初期のスコットランド王が埋葬
 島に埋葬されている人々
 ドナルド2世 (スコットランド王)
 マルカム1世 (スコットランド王)
 ダンカン1世 (スコットランド王)
 マクベス (スコットランド王)
 ドナルド3世 (スコットランド王)
 ジョン・スミス
     ↓↑
 ・・・「マクベス」で、「蜘蛛の巣城(黒澤明監督1957年・昭和三十二年の映画)」・・・「三船敏郎(マクベス)」と「千秋実(ダンカン)」・・・「山田五十鈴(マクベス夫人)」・・・そして「浪花千栄子(物の怪の妖婆・魔女)」の予言・・・、「女の股から生まれたものはマクベスを倒せない」、「バーナムの森が進撃して来ないかぎり安泰だ」・・・だが、「予言」は「帝王切開」で生まれたスコットランドの貴族、ファイフの領主でマクベスに妻子を殺された「マクダフ」は「女の股から生まれたもの」ではなかった・・・
 映画に関しては「蜘蛛の巣城」が最高・・・撮影のエピソードも凄いけれど・・・

THRONE OF BLOOD (1957)

Throne of Blood (1957)

 ・・・クライねっ・・・
  ↓↑
 「マクベス(Macbeth)」
 1606年頃に成立
 ウィリアム・シェイクスピアの戯曲
 勇猛果敢だが小心な将軍
 マクベスが
 妻と謀って
 主君を暗殺し王位に就き
 錯乱して暴政を行い、貴族や王子らの復讐で殺される
 実在の
 スコットランド王
 マクベス(在位1040年~1057年)がモデル
 第2幕第3場の門番のセリフ
 1605年に発覚した火薬陰謀事件に関与して
 裁判にかけられた
 イエズス会士
 ヘンリー・ガーネット (Henry Garnet) を
 念頭に書かれているとの推定から、
 本作の成立を裁判のはじまった
 1606年の中頃以降と考える説が有力
 現存している最古の上演記録は
 1611年4月
 占星術師の
 サイモン・フォアマン(Simon Forman)が
 グローブ座で観劇したというもの・・・
ーー↓
 「ケルズの書」
 8世紀末頃に、アイオナ島で製作されたと信じられている
 写本
 聖コロンバ
 (Saint Columba
  アイルランド語で
  コルム・キル
  Colum Cille=教会の鳩の意味
  521年12月17日~597年の6月9日)
 が
 聖フィニアンの持っていた
 写本を見せてもらい、更にそれを写本した
 写本の所有権で
 ディアメード王に裁定を依頼したが
 コロンバの所有権を認められなかった
 コロンバンの不服で
 王の一派がコロンバの一族を殺害
 コロンバは軍を率いて王と戦争
 後、コロンバは聖職者として罪に問われ、
 償いとしてアイオナでの宣教を命ぜられた
ーー
 806年
 アイオナの修道院は
 ヴァイキングの標的にされ、宝物が強奪された
 1203年
 Somerledの娘「Beathag」を初代院長とする、
 ベネディクト女子修道会の女子修道院が開設
ーーーーー↓
 「メールのノウ・サブジェクト」の漢字の「マ・ミ・ム・メ・モ」文字化が、またもや、アッチ、コッチと跳んでしまった・・・疲れたので、これまで・・・「メ」は兎に角、「モ」はニッポン古代語には重要で、「母・喪」、そして
 「母(はは・ボ・ム)」の類字の
 「毋(ない・なかれ・ブ・ム)」と、
 「毌(つらぬく・カン・貫)」あったかも・・・で、明治の文明開化の「も・モ」は
 「模・摸」なんだろう・・・以下、勝手、ご自由に漢字を当ててください・・・
ーー
 ミアル・ミァル・ミァール
 ミイル・ミィル・ミィール
 ミウル・ミゥル・ミゥール
 ミエル・ミェル・ミェール
 ミオル・ミォル・ミォール
ーー 
 モアル・モァル・モァール
 モイル・モィル・モィール
 モウル・モゥル・モゥール
 モエル・モェル・モェール
 モオル・モォル・モォール
ーー
 マアル・マァル・マァール
 マイル・マィル・マィール
 マウル・マゥル・マゥール
 マエル・マェル・マェール
 マオル・マォル・マォール
ーー

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真魚・眞魚・まな・・・作仮名

2014-02-13 17:19:36 | 古事記字源

 ・・・イヤ~ァ、インターネットの「産経ニュ-ス」はオモシロイ、ッ。その記事、コラムにはまったく、賛同する立場ではないのだが・・・「シュゴ」と「ジュツゴ」がハッキリしているし、「立場」が明確だから・・・それに、当時、デモの翌日、喫茶店で読んだ「サンケイ新聞」、「1960年~1970年代」の三面記事には迫力のアル、街頭での事件記事には「擬音(ドドッと学生が走りだした・機動隊がドドッと)」などとも書き込まれ、「五W・一H」がハッキリしていた・・・学生仲間は馬鹿にしていたが、ボクには一番「事実」理解が出来るシロモノだった・・・
 当時の「日経新聞」は「国際情勢分析」の「資料」だったが、ボクには、その「経済記事」に対する「語彙理解不足」で「分析以前」の問題だった。「朝日・毎日」の「三面記事」はチョッと「社会派(?)きどり」なんだか、「民主的(?)きどり」なんだか、インテリ臭く「上品ぶっていた」が、「国際記事の評論」は「曖昧なヒダリ(?)」なんだか、「コウヘイ(?)」なんだか、「立場」のハッキリわからないシロモノ・・・「読売」は「巨人軍」専門情報のスポーツ新聞のタグイだと思ってホトンド目にしたことがなかった。スポーツ新聞を目にするようになったのは、名古屋で住むようになった「1975、6年」頃・・・やっと念願の「カラーTV」を質屋で手に入れ、TVでみた「プロレス」の勝負結果を仕事を手伝ってくれていた「K君」が「中京スポーツ」を見せてくれた時からだ・・・「猪木のプロレス」は「TV番組の時間枠内の最後に決着」がついていた・・・ビデオ編集じゃなく、実況中継なのに・・・一方の「馬場のプロレス」は時間枠では決着の着かない結果を知るには、翌日の「スポーツ新聞」だった・・・宗教団体らしい「某新聞」と、政治プロパガンダの「某新聞」の「見出し」の「罵りアイの文字」には驚いたけれど・・・
 当時、カネがあったから読める新聞は結構買った・・・「朝日の夕刊(東海人物三景?)」に「知り合いの女性」が載っていたと聞かされ、其の新聞記事を見たさに、「記事の載った夕刊」をサーヴィスしてくれるなら、と、「朝日」を購読の条件でとるコトにした・・・「朝日」からはベテランの人材が辞めだし、フリー記者に転向しだしたは何時の頃だったか・・・「読売」の販売員はナベをくれて一ヶ月無料・・・名古屋では駅の売店でしか買えないシロモノだったが・・・
 喫茶店の仕事をするようになってからは、一週間遅れの「ポスト」、「現代」の週刊誌を読むようになったのだが・・・仕事環境をくださった皆さんに感謝・・・デス・・・
 今現在はカネもないから情報はインターネットからの無料で閲覧できる各新聞社の「ニュース記事」と、ブログ記事・・・結構、読むのに時間がかかる・・・時たまコンピュータが固まってしまう時はどうしょうもナイ・・・電源を引っこ抜くより手がナイ・・・
ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー
 「核心的価値観」を宣伝
  中国、自由など12項目
  2014.2.12 18:58 [中国]
 中国共産党は「民主」や「自由」など12項目を「社会主義の核心的価値観」と位置付け、この価値観を根付かせる政治キャンペーンに乗り出した。12日付の党機関紙、人民日報などの主要各紙はそろって一面に12項目を掲げた。
 改革・開放政策後の貧富の格差拡大などで「社会主義」の統治理念が形骸化していることに、党が危機感を抱いている表れとみられる。だが、改革派の学者からは「(12項目の)多くは指導部が拒否している西側の普遍的価値に近い思想で(核心的価値観に)実効性を持たせるのは困難だ」とキャンペーンの矛盾を指摘する声が出ている。
 党が核心的価値観の基本としているのは、富強、民主、文明、和諧(調和)、自由、平等、公正、法治、愛国、勤勉、誠実、友好の12項目。(共同)
ーー↑
 ・・・呆れるね・・・この12項目、大陸中国の「支配階級」のどこにあるんだか・・・「非民主、非文明、不和諧(調和)、不自由、非平等、不公正、非法治、不誠実」ばかり・・・「富強、愛国(排外)、勤勉(官僚)、友好(冊封)」は、そのトオリだけれど・・・「日本国」も気をつけなきゃ・・・「大正デモクラシー」の次にナニが来たんだか・・・ニッポン・・・
ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー
 浅田真央選手をイメージした
 魚「マオマオ」
 ソチ五輪にちなんだ魚たちを紹介
 大阪・海遊館
 2014.2.13 07:58 [westセレクト]
 平成2年の開館時から…
 「ブルー」は真央と同級生
 ソチ五輪開催にちなみ、大阪市港区の海遊館は14日から21日まで、「オリンピックな魚たち」を映像モニターで紹介する。
 紹介されるのは、金メダルの「金」にちなむ「ゴールデンスナッパー」、フィギュアスケート女子の浅田真央をイメージさせる「ブルーマオマオ」「ピンクマオマオ」の計3種。これらは普段はあまり目立たないといい、海遊館は「オリンピックを応援しながら、目立たない魚にも注目してほしい」としている。
 魚「マオマオ」
ーーー↓
 「真魚」
 空海(クウカイ・そらうみ・あきうみ)
 宝亀五年
 (774年)
 ~
 承和二年三月二十一日・旧暦
 (835年4月22日)
 弘法大師(こうぼうだいし)の
 諡号(921年の醍醐天皇による)
 真言宗の開祖
 俗名(幼名)は
 佐伯 眞魚(さえき の まお)
 中国より真言密教をもたらす
 能書家
 嵯峨天皇・橘逸勢と共に
 三筆の一人
 母の名は
 「玉依御前」
 「阿古屋御前」などと称される
 正確なところは不明
 空海の誕生日を
 「六月十五日」とするのは、
 頼瑜(1304年没)の
 『真俗雑記』が初見
ーー↓
 頼瑜(1304年没)・・・・?
  ↓
 真福寺(宝生院の全身)の
 第二世
 信瑜(シンユ)の命で、・・・・?
 真福寺の僧
 賢瑜(ケンユ)が写本・・・・・?
 上・中巻を
 応安四年(1371)
 下巻を
 1372年に写し終え、
 信瑜が校正
 古漢字で書かれ、
 句読点や
 フリガナはない
 上・中・下巻の
 三巻
ーー↓
 古事記(コジキ・ふることふみ)
 712年(和銅五年)
 太朝臣安萬侶
 (おほのあそみやすまろ・太安万侶)
 「現存・古事記」は写本
 「伊勢本系統」と
 「卜部本系統」
 「現存・古事記」の最古の写本
 「伊勢本系統」の
 1371年
 (南朝の建徳二年・北朝の応安四年)
  ~
 1372年
 (南朝の文中元年・北朝の応安五年)
 真福寺の僧
 賢瑜によって
 写された
 真福寺本
 古事記三帖(国宝)
 奥書によれば、
 祖本は
 上・下巻が
 大中臣定世本、
 中巻が
 藤原通雅の写本(?)
 道果本
 (上巻の前半のみ)
  1381年
 (南朝の弘和元年・北朝の永徳元年)
 道祥本(上巻のみ)
  1424年
 (応永三十一年)
 春瑜本(上巻のみ)
  1426年
 (応永三十三年)
 の写本
 道果本系三本は
 真福寺本に近く、ともに
 伊勢本系統
 その他の写本
 すべて
 卜部本系統に属し、
 祖本は
 卜部兼永自筆本
 (上中下三巻・室町後期写)
ーー↓↑
 偽書説
 上代特殊仮名遣のなかでも、
 『万葉集』『日本書紀』では
 すでに消失している
 二種類の
 「モ」の表記上の区別が、
 『古事記』には残存する
 偽書説を否定する論拠
 ただし
 序文には
 上代特殊仮名遣は
 一切使われていない
 『古事記』以外の史書
 『続日本紀・弘仁私記・日本紀竟宴和歌』などでは
 「太安麻呂」と記載
 『古事記』序文のみが
 「太安萬侶」と異なる記載
ーー
 古事記・序文
 序第1段
 稽古照今(古を稽へて、今に照らす)
 それぞれの御代の事跡は異なるが
 政治についての記載にはほぼ誤りはなかった
 ↑
 臣安萬侶言す。
 それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。
 名もなく為も無し。
 誰れかその形を知らむ。
 ↑
 臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形

 ・・・歩驟(ほしう)各異(おのおのこと)に、
 文質同じくあらずと雖も、
 古を稽(かむが)へて風猷を
 既に頽れたるに縄(ただ)し、
 今に照らして典教を絶えむとするに
 補はずといふことなし。
 ↑
 雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽
 照今以補典於欲絶

 ・・・ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく
 「朕(われ)聞きたまへらく、
 『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、
 多く虚偽を加ふ。』といへり。
 今の時に当たりて、
 其の失(あやまり)を改めずは、
 未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。
 これすなはち、
 邦家の経緯、
 王化の鴻基なり。
 故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、
 偽りを削り実(まこと)を定めて、
 後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」
 とのりたまひき。
 時に舎人(とねり)ありき。
 姓(うぢ)は
 稗田(ひえだ)、
 名は
 阿禮(あれ)、
 年はこれ
 二八。
 人と為り聡明にして、
 耳に度(わた)れば
 口に誦(よ)み、
 耳に拂(ふ)るれば
 心に勒(しる)しき。
 すなはち、
 阿禮に勅語して
 帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び
 先代旧辞(さきつよのふること)を
 誦み習はしめたまひき。
 ↑
 於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭
 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失
 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯
 王化之鴻基焉
 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
 時有
 舍人
 姓
 稗田名阿禮
 年是廿八
 爲人聰明
 度目誦口
 拂耳勒心
 即勅語阿禮
 令誦習帝皇日繼
 及先代舊辭

 内容の区分
 ・・・ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、
 先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、
 和銅四年九月十八日をもちて、
 臣安麻呂に詔りして、
 稗田阿禮の誦む所の勅語の
 旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、
 謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、
 子細に採りひろひぬ。
 然れども、
 上古の時、
 言意(ことばこころ)
 並びに
 朴(すなほ)にして、
 文を敷き句を構ふること、
 字におきて
 すなはち難し。
 ↑
 於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯
 以和銅四年九月十八日
 詔臣安萬侶
 撰録
 稗田阿禮所誦之勅語舊辭
 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然、
 上古之時
 言意
 並
 朴
 敷文構句 於字即難

 ・・・大抵記す所は、天地開闢より始めて、
 小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。
 故、天御中主神
  (あめのみなかぬしのかみ)以下、
 日子波限建鵜草葺不合命
(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を
 上巻となし、
 神倭伊波禮毘古天皇
(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、
 品蛇御世(ほむだのみよ)以前を
 中巻となし、
 大雀皇帝
 おほさぎのみかど)以下、
 小治田大宮
(をはりだのおほみや)以前を
 下巻となし、併せて
 三巻を録して、謹みて献上る。
 臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
 ↑
 大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世
 故天御中主神以下
 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷
 神倭伊波禮毘古天皇以下
 品陀御世以前 爲中卷
 大雀皇帝以下 小治田大宮以前
 爲下卷
 并録三卷 謹以獻上
 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首
 和銅五年正月二十八日
 正五位
 上勲
 五等
 太
 朝臣
 安萬侶
ーー↓↑
 1979年(昭和五十四年)1月に
 奈良市
 此瀬(このせ)町より
 太安万侶の
 墓誌銘が出土・・・・???
 左京四條
 四坊
 従四位・・・・・・・従「四=肆→罒?」位
 下勲・・・・・・・・下勲→下訓→解訓
 五等・・・・・・・・五等→語等
 太・・・・・・・・・ふとい・タイ・タ
 朝臣
 安萬侶
 以
 癸亥年
 七月
 六日・・・・・・己巳?
 卒
 之
 養老七年
 十二月
 十五日
 乙巳・・・・・・オトミ・イツミ
  ↓
 『続日本紀』の記載には
 養老七年
 秋七月
 庚午(七日)・・・?・・・コウゴ
 卒
ー↓↑
 賢瑜
 信瑜
ー↓↑
 真福寺 
 正式名称は「北野山真福寺宝生院」
 真言宗の寺院
 元弘三年(1333)に
 現在の
 羽島市の大須郷に
 僧
 能信が創建したのが始まり
 ↓
 開山(カイザン)の・・・・・・改竄
 能信(ノウシン・のうしん)の
 志をつぎ
 古典や伊勢神道関係の書籍を書写、収集
 これらは
 真福寺文庫(大須文庫)とよばれる
 真福寺本「古事記」は
 弟子の
 賢瑜に書写させ
 信瑜が校訂
 永徳二=弘和(コウワ)二年
 八月七日
 死去
 五十歳
ーー
 真福寺(羽島市)
 1371年~翌1372年にかけて、
 僧
 賢瑜によって
 古事記三帖が書写
ーー
 1612年(慶長十七年)
 徳川家康の命令で
 元は、
 尾張国
 長岡庄
 大須郷(岐阜県羽島市大須)にあったものが、
 犬山城主の
 成瀬正茂(隼人正)によって、
ーー↓↑
 天正十三年(1585年)
 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の攻撃で四散した
 根来衆五十名を与えられ、
 十七歳にして一軍の将となった
 この鉄砲隊が後に
 根来組といわれる
 百人組の部隊
 天正十八年(1590年)
 小田原征伐で功を挙げ、
 豊臣政権に服従した
 家康が関東に移封されると
 下総国
 葛飾郡
 栗原4000石を与えられ
 江戸では
 四谷に屋敷を与えられて、
 組下の根来組を
 内藤
 新宿に配置し、
 甲州街道の防衛にあたった
ーー↓↑
 成瀬正茂(隼人正)が
 真福寺の一院である「宝生院」を
 名古屋城城下に移転した際、
 古事記(真福寺本古事記)や
 古典籍、絵画の殆どを移動させ、
 真福寺のある地名
 「大須」も移動された
 ↓
 1892年(明治二十五年)
 大須大火により
 本堂、
 五重塔と
 仁王門を
 焼失
 第二次世界大戦の
 名古屋大空襲によって再度焼失
 後、
 1870年(昭和四十五年)に
 本堂を再建・・・? 
ーー↓
 現存古事記は
 真福寺の僧
 賢瑜(ケンユ)が写本・・・?
ー↓
 本書の発見は
 尾張藩士で
 本居宣長の門人
 稲葉通邦・・・・・?いなば・通報・通法
 (イナバ・ミチクニ)・・・?
 原本は
 縦24㎝横15㎝
 紙数
 上巻44枚
 中巻50枚
 下巻36枚 斐紙
 押界巻末の糊継目に
 宝生院の僧
 「賢瑜書写」の記載あり
ーー
 真福寺
 第二代
 信瑜の命令によって
 賢瑜が書写
 賢瑜の年令から、
 上、中両巻は
 応安四年(1371)、
 下巻は
 応安五年(1372)

 真福寺(大須観音)の
 二代住職
 信瑜が
 修行に行った
 東大寺
 東南院で、
 南北朝時代の
 1371~72年
 弟子の
 賢瑜に書写させた
 東南院は当時、
 真言密教の中心
 古事記写本は
 『真福寺本・伊勢本
  伊勢一本・吉田家本』その他がある
 古事記上巻は
 三重県の神宮文庫所蔵の
 春瑜本と・・・・・・・・?
ーーー以下は
 橿原日記 平成24年6月28日
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_06_28.htm
 さんの記事からボクが興味があった箇所があったので参照参考抜粋させて貰った部分デス
ーーー↓↑
 ・・・奈良国立博物館では特別展示
 「古事記の歩んだ道」が開催されている・・・
   ↓
 大須観宝生院の所蔵の
 古事記上巻抄
  ↓
 「古事記上巻抄」
 本文は『古事記』のうち、
 建御雷神が
 建御名方神を追って
 諏訪に至り、
 大国主神をして国を譲らせた一節を抄出
 つぎに「諏訪社事」と題して、
 同様のことを記した
 「先代旧事本紀」の文を抄出し、
 旧事記の最古の写といわれているもの
 鎌倉末期の書写になるものと推定
 古訓および朱のオコト点等を附し、
 古事記古訓研究の資料としても重要
 ↓
 も、あわせて展示されていた
 古事記上巻は三重県の神宮文庫所蔵の
 春瑜本と
 大須観宝生院の所蔵の
 古事記上巻抄も、あわせて展示
 前者は室町時代の
 応永三十三年(1426)の写本、
 後者は14世紀の鎌倉時代の写本
ーー↓
 弘長三年(1263)
 花山院通雅『古事記』中巻を得て書写し、自ら校す
 文永三年(1266)
 大中臣定世、『古事記』上下巻を書写する
 文永五年(1268)
 卜部兼文、花山院通雅の『古事記』中巻を書写し、
      校点を加える
 文永七年(1270)
 この頃『古事記上巻抄』なる
 弘安四年(1281)
 一条殿、
 卜部兼文からその子
 兼方への
 相伝の本(『古事記』中巻)を書写校合する
 弘安五年(1282)
 大中臣定世、一条家の『古事記』中巻を書写する
 ここに上中下巻完備し、
 子の
 定忠を経て
 孫の
 親忠に伝わる
 応安四年(1371)
 賢瑜、翌年にかけて
 『古事記』三巻を書写する(真福寺本)
 ↓
 真福寺(宝生院の全身)の
 第二世
 信瑜(しんゆ)の命で、
 真福寺の僧
 賢瑜(けんゆ)が写した
 古漢字で書かれ、
 句読 点やフリガナはない
 上・中・下巻
ーーー
 以下はブログ記事の頭だしから抜粋改作・・・ 
 賢瑜(ケンユ)に類字する漢字
ー↓↑
 ぎっくり腰のツボ
 腎兪(ジンユ)
 ツボ(腎兪・ジンユ)は、
 第二腰椎棘突起の下から、外に一寸五分のところ
 骨盤の左右の一番高い(腸骨稜)を結んだ高さが
 第四腰椎で、そこから
 二つ上の第二腰椎の棘突起の下縁から外に一寸五分
 ツボの取り方
 腎兪は
 背の中心の「命門」から
 1.5寸、約3.44センチ外に寄った部
 腎兪
 腰痛・腰の冷え・ギックリ腰などの障害に効果
 他にも
 生理痛・月経不順・不妊症・切迫流産・習慣性流産
 更年期障害・疲労・だるさ
 腎臓の病気(腎炎、ネフローゼ、尿蛋白等)
 疲労・耳鳴り・
 腎兪穴(ジンユケツ)
 足の
 太陽膀胱経に属す
 第23番目の経穴
 特に腰痛に改善効果のツボ
 腎兪
 腎臓に関係するツボ
 婦人科系の症状に効果的なツボ
 ホルモンバランスや
 自律神経を調整
 女性特有の
 「生理不順・生理通・尿失禁・不妊」
 男性ならば「ED(インポテンツ」にも・・・

ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー
 「影の銀行」デフォルトか、
 中国49億円分償還されず
 2014.2.13 00:24
  [海外経済]
 【上海=河崎真澄】
 12日付の中国紙、上海証券報によると、吉林省の信託会社が大手行の中国建設銀行を通じ、国内の個人投資家らに販売した金融商品のうち2億8900万元(約49億円)分が満期に償還されなかったことが分かった。
 高利回りをうたった「影の銀行(シャドーバンキング)」の中心である「理財商品」で、何らかの救済措置が取られなければ、初のデフォルト(債務不履行)に陥る可能性もある。
 償還できなかったのは吉林省信託が組成し、山西省の石炭会社に投資した金融商品「松花江」の一部で、7日に満期を迎えた。商品の総額は満期が来ていない分も含め9億7300万元。石炭会社は経営難で自力での償還は困難な情勢だ。
 中国では1月末に、30億元規模の理財商品がデフォルトに陥りかけたケースがあったが、中国当局の指示とみられる正体不明の投資家が現れて元本が保証された。今回の吉林省信託もデフォルト回避のための救済策を探しているという。
 中国では4兆元分の理財商品が年内に満期を迎えるが、このうち約5千億元分に償還のめどが立たないとの見方がある。投資家保護を名目にデフォルト懸念の金融商品を、当局などがどこまで救済し続けるかは不透明。市場関係者は「デフォルト問題で負の連鎖が起きる危険性がある」として、警戒を強めている。

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真魚・眞魚・まな・・・作仮名

2014-02-13 17:19:36 | 古事記字源

 ・・・イヤ~ァ、インターネットの「産経ニュ-ス」はオモシロイ、ッ。その記事、コラムにはまったく、賛同する立場ではないのだが・・・「シュゴ」と「ジュツゴ」がハッキリしているし、「立場」が明確だから・・・それに、当時、デモの翌日、喫茶店で読んだ「サンケイ新聞」、「1960年~1970年代」の三面記事には迫力のアル、街頭での事件記事には「擬音(ドドッと学生が走りだした・機動隊がドドッと)」などとも書き込まれ、「五W・一H」がハッキリしていた・・・学生仲間は馬鹿にしていたが、ボクには一番「事実」理解が出来るシロモノだった・・・
 当時の「日経新聞」は「国際情勢分析」の「資料」だったが、ボクには、その「経済記事」に対する「語彙理解不足」で「分析以前」の問題だった。「朝日・毎日」の「三面記事」はチョッと「社会派(?)きどり」なんだか、「民主的(?)きどり」なんだか、インテリ臭く「上品ぶっていた」が、「国際記事の評論」は「曖昧なヒダリ(?)」なんだか、「コウヘイ(?)」なんだか、「立場」のハッキリわからないシロモノ・・・「読売」は「巨人軍」専門情報のスポーツ新聞のタグイだと思ってホトンド目にしたことがなかった。スポーツ新聞を目にするようになったのは、名古屋で住むようになった「1975、6年」頃・・・やっと念願の「カラーTV」を質屋で手に入れ、TVでみた「プロレス」の勝負結果を仕事を手伝ってくれていた「K君」が「中京スポーツ」を見せてくれた時からだ・・・「猪木のプロレス」は「TV番組の時間枠内の最後に決着」がついていた・・・ビデオ編集じゃなく、実況中継なのに・・・一方の「馬場のプロレス」は時間枠では決着の着かない結果を知るには、翌日の「スポーツ新聞」だった・・・宗教団体らしい「某新聞」と、政治プロパガンダの「某新聞」の「見出し」の「罵りアイの文字」には驚いたけれど・・・
 当時、カネがあったから読める新聞は結構買った・・・「朝日の夕刊(東海人物三景?)」に「知り合いの女性」が載っていたと聞かされ、其の新聞記事を見たさに、「記事の載った夕刊」をサーヴィスしてくれるなら、と、「朝日」を購読の条件でとるコトにした・・・「朝日」からはベテランの人材が辞めだし、フリー記者に転向しだしたは何時の頃だったか・・・「読売」の販売員はナベをくれて一ヶ月無料・・・名古屋では駅の売店でしか買えないシロモノだったが・・・
 喫茶店の仕事をするようになってからは、一週間遅れの「ポスト」、「現代」の週刊誌を読むようになったのだが・・・仕事環境をくださった皆さんに感謝・・・デス・・・
 今現在はカネもないから情報はインターネットからの無料で閲覧できる各新聞社の「ニュース記事」と、ブログ記事・・・結構、読むのに時間がかかる・・・時たまコンピュータが固まってしまう時はどうしょうもナイ・・・電源を引っこ抜くより手がナイ・・・
ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー
 「核心的価値観」を宣伝
  中国、自由など12項目
  2014.2.12 18:58 [中国]
 中国共産党は「民主」や「自由」など12項目を「社会主義の核心的価値観」と位置付け、この価値観を根付かせる政治キャンペーンに乗り出した。12日付の党機関紙、人民日報などの主要各紙はそろって一面に12項目を掲げた。
 改革・開放政策後の貧富の格差拡大などで「社会主義」の統治理念が形骸化していることに、党が危機感を抱いている表れとみられる。だが、改革派の学者からは「(12項目の)多くは指導部が拒否している西側の普遍的価値に近い思想で(核心的価値観に)実効性を持たせるのは困難だ」とキャンペーンの矛盾を指摘する声が出ている。
 党が核心的価値観の基本としているのは、富強、民主、文明、和諧(調和)、自由、平等、公正、法治、愛国、勤勉、誠実、友好の12項目。(共同)
ーー↑
 ・・・呆れるね・・・この12項目、大陸中国の「支配階級」のどこにあるんだか・・・「非民主、非文明、不和諧(調和)、不自由、非平等、不公正、非法治、不誠実」ばかり・・・「富強、愛国(排外)、勤勉(官僚)、友好(冊封)」は、そのトオリだけれど・・・「日本国」も気をつけなきゃ・・・「大正デモクラシー」の次にナニが来たんだか・・・ニッポン・・・
ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー
 浅田真央選手をイメージした
 魚「マオマオ」
 ソチ五輪にちなんだ魚たちを紹介
 大阪・海遊館
 2014.2.13 07:58 [westセレクト]
 平成2年の開館時から…
 「ブルー」は真央と同級生
 ソチ五輪開催にちなみ、大阪市港区の海遊館は14日から21日まで、「オリンピックな魚たち」を映像モニターで紹介する。
 紹介されるのは、金メダルの「金」にちなむ「ゴールデンスナッパー」、フィギュアスケート女子の浅田真央をイメージさせる「ブルーマオマオ」「ピンクマオマオ」の計3種。これらは普段はあまり目立たないといい、海遊館は「オリンピックを応援しながら、目立たない魚にも注目してほしい」としている。
 魚「マオマオ」
ーーー↓
 「真魚」
 空海(クウカイ・そらうみ・あきうみ)
 宝亀五年
 (774年)
 ~
 承和二年三月二十一日・旧暦
 (835年4月22日)
 弘法大師(こうぼうだいし)の
 諡号(921年の醍醐天皇による)
 真言宗の開祖
 俗名(幼名)は
 佐伯 眞魚(さえき の まお)
 中国より真言密教をもたらす
 能書家
 嵯峨天皇・橘逸勢と共に
 三筆の一人
 母の名は
 「玉依御前」
 「阿古屋御前」などと称される
 正確なところは不明
 空海の誕生日を
 「六月十五日」とするのは、
 頼瑜(1304年没)の
 『真俗雑記』が初見
ーー↓
 頼瑜(1304年没)・・・・?
  ↓
 真福寺(宝生院の全身)の
 第二世
 信瑜(シンユ)の命で、・・・・?
 真福寺の僧
 賢瑜(ケンユ)が写本・・・・・?
 上・中巻を
 応安四年(1371)
 下巻を
 1372年に写し終え、
 信瑜が校正
 古漢字で書かれ、
 句読点や
 フリガナはない
 上・中・下巻の
 三巻
ーー↓
 古事記(コジキ・ふることふみ)
 712年(和銅五年)
 太朝臣安萬侶
 (おほのあそみやすまろ・太安万侶)
 「現存・古事記」は写本
 「伊勢本系統」と
 「卜部本系統」
 「現存・古事記」の最古の写本
 「伊勢本系統」の
 1371年
 (南朝の建徳二年・北朝の応安四年)
  ~
 1372年
 (南朝の文中元年・北朝の応安五年)
 真福寺の僧
 賢瑜によって
 写された
 真福寺本
 古事記三帖(国宝)
 奥書によれば、
 祖本は
 上・下巻が
 大中臣定世本、
 中巻が
 藤原通雅の写本(?)
 道果本
 (上巻の前半のみ)
  1381年
 (南朝の弘和元年・北朝の永徳元年)
 道祥本(上巻のみ)
  1424年
 (応永三十一年)
 春瑜本(上巻のみ)
  1426年
 (応永三十三年)
 の写本
 道果本系三本は
 真福寺本に近く、ともに
 伊勢本系統
 その他の写本
 すべて
 卜部本系統に属し、
 祖本は
 卜部兼永自筆本
 (上中下三巻・室町後期写)
ーー↓↑
 偽書説
 上代特殊仮名遣のなかでも、
 『万葉集』『日本書紀』では
 すでに消失している
 二種類の
 「モ」の表記上の区別が、
 『古事記』には残存する
 偽書説を否定する論拠
 ただし
 序文には
 上代特殊仮名遣は
 一切使われていない
 『古事記』以外の史書
 『続日本紀・弘仁私記・日本紀竟宴和歌』などでは
 「太安麻呂」と記載
 『古事記』序文のみが
 「太安萬侶」と異なる記載
ーー
 古事記・序文
 序第1段
 稽古照今(古を稽へて、今に照らす)
 それぞれの御代の事跡は異なるが
 政治についての記載にはほぼ誤りはなかった
 ↑
 臣安萬侶言す。
 それ、混元既に凝りて、気象未だ效(あらは)れず。
 名もなく為も無し。
 誰れかその形を知らむ。
 ↑
 臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形

 ・・・歩驟(ほしう)各異(おのおのこと)に、
 文質同じくあらずと雖も、
 古を稽(かむが)へて風猷を
 既に頽れたるに縄(ただ)し、
 今に照らして典教を絶えむとするに
 補はずといふことなし。
 ↑
 雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽
 照今以補典於欲絶

 ・・・ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく
 「朕(われ)聞きたまへらく、
 『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、
 多く虚偽を加ふ。』といへり。
 今の時に当たりて、
 其の失(あやまり)を改めずは、
 未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。
 これすなはち、
 邦家の経緯、
 王化の鴻基なり。
 故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、
 偽りを削り実(まこと)を定めて、
 後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」
 とのりたまひき。
 時に舎人(とねり)ありき。
 姓(うぢ)は
 稗田(ひえだ)、
 名は
 阿禮(あれ)、
 年はこれ
 二八。
 人と為り聡明にして、
 耳に度(わた)れば
 口に誦(よ)み、
 耳に拂(ふ)るれば
 心に勒(しる)しき。
 すなはち、
 阿禮に勅語して
 帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び
 先代旧辞(さきつよのふること)を
 誦み習はしめたまひき。
 ↑
 於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭
 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失
 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯
 王化之鴻基焉
 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
 時有
 舍人
 姓
 稗田名阿禮
 年是廿八
 爲人聰明
 度目誦口
 拂耳勒心
 即勅語阿禮
 令誦習帝皇日繼
 及先代舊辭

 内容の区分
 ・・・ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、
 先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、
 和銅四年九月十八日をもちて、
 臣安麻呂に詔りして、
 稗田阿禮の誦む所の勅語の
 旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、
 謹みて詔旨(おほみこと)の随(まにま)に、
 子細に採りひろひぬ。
 然れども、
 上古の時、
 言意(ことばこころ)
 並びに
 朴(すなほ)にして、
 文を敷き句を構ふること、
 字におきて
 すなはち難し。
 ↑
 於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯
 以和銅四年九月十八日
 詔臣安萬侶
 撰録
 稗田阿禮所誦之勅語舊辭
 以獻上者 謹隨詔旨 子細採摭然、
 上古之時
 言意
 並
 朴
 敷文構句 於字即難

 ・・・大抵記す所は、天地開闢より始めて、
 小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。
 故、天御中主神
  (あめのみなかぬしのかみ)以下、
 日子波限建鵜草葺不合命
(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を
 上巻となし、
 神倭伊波禮毘古天皇
(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、
 品蛇御世(ほむだのみよ)以前を
 中巻となし、
 大雀皇帝
 おほさぎのみかど)以下、
 小治田大宮
(をはりだのおほみや)以前を
 下巻となし、併せて
 三巻を録して、謹みて献上る。
 臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
 ↑
 大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世
 故天御中主神以下
 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷
 神倭伊波禮毘古天皇以下
 品陀御世以前 爲中卷
 大雀皇帝以下 小治田大宮以前
 爲下卷
 并録三卷 謹以獻上
 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首
 和銅五年正月二十八日
 正五位
 上勲
 五等
 太
 朝臣
 安萬侶
ーー↓↑
 1979年(昭和五十四年)1月に
 奈良市
 此瀬(このせ)町より
 太安万侶の
 墓誌銘が出土・・・・???
 左京四條
 四坊
 従四位・・・・・・・従「四=肆→罒?」位
 下勲・・・・・・・・下勲→下訓→解訓
 五等・・・・・・・・五等→語等
 太・・・・・・・・・ふとい・タイ・タ
 朝臣
 安萬侶
 以
 癸亥年
 七月
 六日・・・・・・己巳?
 卒
 之
 養老七年
 十二月
 十五日
 乙巳・・・・・・オトミ・イツミ
  ↓
 『続日本紀』の記載には
 養老七年
 秋七月
 庚午(七日)・・・?・・・コウゴ
 卒
ー↓↑
 賢瑜
 信瑜
ー↓↑
 真福寺 
 正式名称は「北野山真福寺宝生院」
 真言宗の寺院
 元弘三年(1333)に
 現在の
 羽島市の大須郷に
 僧
 能信が創建したのが始まり
 ↓
 開山(カイザン)の・・・・・・改竄
 能信(ノウシン・のうしん)の
 志をつぎ
 古典や伊勢神道関係の書籍を書写、収集
 これらは
 真福寺文庫(大須文庫)とよばれる
 真福寺本「古事記」は
 弟子の
 賢瑜に書写させ
 信瑜が校訂
 永徳二=弘和(コウワ)二年
 八月七日
 死去
 五十歳
ーー
 真福寺(羽島市)
 1371年~翌1372年にかけて、
 僧
 賢瑜によって
 古事記三帖が書写
ーー
 1612年(慶長十七年)
 徳川家康の命令で
 元は、
 尾張国
 長岡庄
 大須郷(岐阜県羽島市大須)にあったものが、
 犬山城主の
 成瀬正茂(隼人正)によって、
ーー↓↑
 天正十三年(1585年)
 羽柴秀吉(豊臣秀吉)の攻撃で四散した
 根来衆五十名を与えられ、
 十七歳にして一軍の将となった
 この鉄砲隊が後に
 根来組といわれる
 百人組の部隊
 天正十八年(1590年)
 小田原征伐で功を挙げ、
 豊臣政権に服従した
 家康が関東に移封されると
 下総国
 葛飾郡
 栗原4000石を与えられ
 江戸では
 四谷に屋敷を与えられて、
 組下の根来組を
 内藤
 新宿に配置し、
 甲州街道の防衛にあたった
ーー↓↑
 成瀬正茂(隼人正)が
 真福寺の一院である「宝生院」を
 名古屋城城下に移転した際、
 古事記(真福寺本古事記)や
 古典籍、絵画の殆どを移動させ、
 真福寺のある地名
 「大須」も移動された
 ↓
 1892年(明治二十五年)
 大須大火により
 本堂、
 五重塔と
 仁王門を
 焼失
 第二次世界大戦の
 名古屋大空襲によって再度焼失
 後、
 1870年(昭和四十五年)に
 本堂を再建・・・? 
ーー↓
 現存古事記は
 真福寺の僧
 賢瑜(ケンユ)が写本・・・?
ー↓
 本書の発見は
 尾張藩士で
 本居宣長の門人
 稲葉通邦・・・・・?いなば・通報・通法
 (イナバ・ミチクニ)・・・?
 原本は
 縦24㎝横15㎝
 紙数
 上巻44枚
 中巻50枚
 下巻36枚 斐紙
 押界巻末の糊継目に
 宝生院の僧
 「賢瑜書写」の記載あり
ーー
 真福寺
 第二代
 信瑜の命令によって
 賢瑜が書写
 賢瑜の年令から、
 上、中両巻は
 応安四年(1371)、
 下巻は
 応安五年(1372)

 真福寺(大須観音)の
 二代住職
 信瑜が
 修行に行った
 東大寺
 東南院で、
 南北朝時代の
 1371~72年
 弟子の
 賢瑜に書写させた
 東南院は当時、
 真言密教の中心
 古事記写本は
 『真福寺本・伊勢本
  伊勢一本・吉田家本』その他がある
 古事記上巻は
 三重県の神宮文庫所蔵の
 春瑜本と・・・・・・・・?
ーーー以下は
 橿原日記 平成24年6月28日
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_06_28.htm
 さんの記事からボクが興味があった箇所があったので参照参考抜粋させて貰った部分デス
ーーー↓↑
 ・・・奈良国立博物館では特別展示
 「古事記の歩んだ道」が開催されている・・・
   ↓
 大須観宝生院の所蔵の
 古事記上巻抄
  ↓
 「古事記上巻抄」
 本文は『古事記』のうち、
 建御雷神が
 建御名方神を追って
 諏訪に至り、
 大国主神をして国を譲らせた一節を抄出
 つぎに「諏訪社事」と題して、
 同様のことを記した
 「先代旧事本紀」の文を抄出し、
 旧事記の最古の写といわれているもの
 鎌倉末期の書写になるものと推定
 古訓および朱のオコト点等を附し、
 古事記古訓研究の資料としても重要
 ↓
 も、あわせて展示されていた
 古事記上巻は三重県の神宮文庫所蔵の
 春瑜本と
 大須観宝生院の所蔵の
 古事記上巻抄も、あわせて展示
 前者は室町時代の
 応永三十三年(1426)の写本、
 後者は14世紀の鎌倉時代の写本
ーー↓
 弘長三年(1263)
 花山院通雅『古事記』中巻を得て書写し、自ら校す
 文永三年(1266)
 大中臣定世、『古事記』上下巻を書写する
 文永五年(1268)
 卜部兼文、花山院通雅の『古事記』中巻を書写し、
      校点を加える
 文永七年(1270)
 この頃『古事記上巻抄』なる
 弘安四年(1281)
 一条殿、
 卜部兼文からその子
 兼方への
 相伝の本(『古事記』中巻)を書写校合する
 弘安五年(1282)
 大中臣定世、一条家の『古事記』中巻を書写する
 ここに上中下巻完備し、
 子の
 定忠を経て
 孫の
 親忠に伝わる
 応安四年(1371)
 賢瑜、翌年にかけて
 『古事記』三巻を書写する(真福寺本)
 ↓
 真福寺(宝生院の全身)の
 第二世
 信瑜(しんゆ)の命で、
 真福寺の僧
 賢瑜(けんゆ)が写した
 古漢字で書かれ、
 句読 点やフリガナはない
 上・中・下巻
ーーー
 以下はブログ記事の頭だしから抜粋改作・・・ 
 賢瑜(ケンユ)に類字する漢字
ー↓↑
 ぎっくり腰のツボ
 腎兪(ジンユ)
 ツボ(腎兪・ジンユ)は、
 第二腰椎棘突起の下から、外に一寸五分のところ
 骨盤の左右の一番高い(腸骨稜)を結んだ高さが
 第四腰椎で、そこから
 二つ上の第二腰椎の棘突起の下縁から外に一寸五分
 ツボの取り方
 腎兪は
 背の中心の「命門」から
 1.5寸、約3.44センチ外に寄った部
 腎兪
 腰痛・腰の冷え・ギックリ腰などの障害に効果
 他にも
 生理痛・月経不順・不妊症・切迫流産・習慣性流産
 更年期障害・疲労・だるさ
 腎臓の病気(腎炎、ネフローゼ、尿蛋白等)
 疲労・耳鳴り・
 腎兪穴(ジンユケツ)
 足の
 太陽膀胱経に属す
 第23番目の経穴
 特に腰痛に改善効果のツボ
 腎兪
 腎臓に関係するツボ
 婦人科系の症状に効果的なツボ
 ホルモンバランスや
 自律神経を調整
 女性特有の
 「生理不順・生理通・尿失禁・不妊」
 男性ならば「ED(インポテンツ」にも・・・

ーー↓産経ニュ-スより抜粋添付↓ーー
 「影の銀行」デフォルトか、
 中国49億円分償還されず
 2014.2.13 00:24
  [海外経済]
 【上海=河崎真澄】
 12日付の中国紙、上海証券報によると、吉林省の信託会社が大手行の中国建設銀行を通じ、国内の個人投資家らに販売した金融商品のうち2億8900万元(約49億円)分が満期に償還されなかったことが分かった。
 高利回りをうたった「影の銀行(シャドーバンキング)」の中心である「理財商品」で、何らかの救済措置が取られなければ、初のデフォルト(債務不履行)に陥る可能性もある。
 償還できなかったのは吉林省信託が組成し、山西省の石炭会社に投資した金融商品「松花江」の一部で、7日に満期を迎えた。商品の総額は満期が来ていない分も含め9億7300万元。石炭会社は経営難で自力での償還は困難な情勢だ。
 中国では1月末に、30億元規模の理財商品がデフォルトに陥りかけたケースがあったが、中国当局の指示とみられる正体不明の投資家が現れて元本が保証された。今回の吉林省信託もデフォルト回避のための救済策を探しているという。
 中国では4兆元分の理財商品が年内に満期を迎えるが、このうち約5千億元分に償還のめどが立たないとの見方がある。投資家保護を名目にデフォルト懸念の金融商品を、当局などがどこまで救済し続けるかは不透明。市場関係者は「デフォルト問題で負の連鎖が起きる危険性がある」として、警戒を強めている。

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ハナのツモリ・・・塙の心算・洟の津守

2014-02-12 21:57:50 | 古事記字源

 ・・・ヒルから国会討論を見た。「質問者」のほとんどが「予定として使用徴集するカネ(税金)と、借金(国債)するカネをどうするのか」の質問であった。原則、夫婦の稼ぎの枠内での家計簿の収支の数字を睨めっこする主婦と比べて、国家予算って不思議である。いや、不思議なコトはないか。個々の一家族の予算には「サラ金」での無理な借金も、無駄な借金もあるらしいから。それでも「月給」の枠内で僅かな「貯金(?)」や、「生命保険の掛け金(?)」の支払いはしているらしい・・・

 1970年代のアメリカ人はホトンドが「週給」か「日給」だったから「労働者」の一週間の生活サイクルでの「貯金」と云う思想は無理なようにも思えたが・・・北欧諸国では「貯金」はあまりしないらしい。国家の徴集する「税金」=「生活保障」らしいけれど・・・問題もあるらしい・・・

 ・・・「質疑応答」にはワライ声もあった。
 その「質疑応答」では「結いの党」の「江田 憲司(1956年4月28日)」氏の前年に余った金や無駄な予算の追求質問が「論理的(?)」にも思えたが、決定された「四月の消費税施行」には「景気の腰を折るもの」と反対らしい。
 江田氏の「経済政策」はアベ政権と同根の「クルーグマン教授」だかの説らしい。この学説・・・稼いだ金は貯めないでダレかに貸してやれ、稼いで余ったカネはダレかに投資、援助してやれって・・・?・・・貸した金が利子が付いて無事戻ってくるならばイイけれど。貸した相手がグウダラで怠け者、借りた金で旨いもの喰って、返す心算(つもり)も無い・・・希臘、西班牙、伊太利亜などの国家財政不安・・・国家枠にカネが無いときは紙幣を増発しろ・・・そして「デフレ(物余り・人余り)」を「インフレ(物不足・人不足)」にしろ・・・増発した紙幣は余っているなら国外へ為替、株、金融投資して利鞘で儲けろ・・・この余ったカネはダレが借りて動かすんだろう・・・
 学生時代、ボクのアルバイトのカネをアテにして貸してくれって奴がいた・・・手元に現金はあるし、下宿代を支払っても当面は困らない・・・明日、すぐ返すと言う・・・奴が困っているんだから貸さないワケにはいかナイ・・・奴は借りた金で高給な定食を食って、その後、珈琲を奢(おご)ってやるからとボクを誘い、喫茶店の椅子にフンゾリ返って、珈琲を飲み、タバコの煙を燻らしながら「本」を読みだす・・・アルバイトの経験は無いという。相当の仕送りが親からあるらしい・・・確かに珈琲の奢(おご)りのカネは奴が手にしたカネで払ってくれた・・・「貸してくれ、明日返すから」の同じコトバが3回も反故にされ、繰り返えされると・・・貸したカネが返済される未来はないんだ、と、悟るが、コレが最後と・・・奴もハナから返す心算(つもり)は毛頭ない。ボクがダメでも、カネを無心するカモは無数にいるらしい・・・奴のスバラシイ「未来社会」の言葉が「担保」である・・・
 イイコト云うヤツには気をつけたホウがイイ・・・
 ・・・「舛」の本来の意味は「背く・たがう・違う・もとる・入り交じる・混じり乱れる」・・・「舛午・舛忤(センゴ)」は「背き違う・違背する」の熟語である。裏切り者である・・・東京トチ事がトチったら・・・「枡・桝」の類字、類音漢字に「枅(ケイ・とがた・『ますがた』・ひじき)」があり、「柱の上に置いて棟木(むなぎ=務名伎)を受ける角材(かくざい=化句座意)」とある・・・
 興味があるならば、以下のボクの「家頁」へ・・・
ーーーーー↓
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kojiki31.htm
ーーーーー
 ・・・

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