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コジキジゲン

雷鳥・サンダーバード・雷霆・雷艇=乙型魚雷艇

2018-08-14 20:24:32 | 古事記字源

 ・・・「トリ(酉=樽=たる)」のナカミを醸(かも)したエタノール含有飲料で「カミの世界」で酩酊・・・妄想・・・酔っている世界が「カミの世界」・・・樽酒で虎か彪(豹)、そして翼ある「禽(とら)」になれるモノはサイワイなり・・・
ーーーーー
 カミナリ鳥(サンダーバード・Thunderbird)
 雷鳥(Lagopus muta)は
 キジ目キジ科・・・雉=キジ=記事・生地・木地・奇事・喜字・起辞
 ライチョウ属・・・雷鳥=鶆鳥=來朝・来庁=来聴
            =雷長=ライチョウ
            =雷霆(ライテイ・かみなり・いかずち)
             雷霆=ゼウスの武器・雷帝
             雷艇=乙型魚雷艇
               (おつがたぎょらいてい)
                は日本海軍の魚雷艇
                含む「隼艇」
 ↓↑         水雷艇(torpedo boat)




 ↓↑
 トーテムポール(totem pole)
 北アメリカインデアンの
 北西沿岸部に住む彼らが生活空間に立てた
 柱状の木の彫刻標識
 崇拝の対象としての偶像ではなく
 宗教的なものではない
 トーテムポールは
 ハウスポスト(家柱)で
 家の中の屋根を支える柱・・・?
 家柱(house post)
 クワキウトル族の
 カミナリ鳥(サンダーバード)の
 デザインが著名・・・ライチョウ(雷鳥、Lagopus muta)
 ↓↑      クワックワカワックゥ族(クワキウトル族?)
         の
         カミナリ鳥とシャチ・・・?
         江戸時代初期に中国の明から渡来した
         高泉性潡が
        『鶆(らい)』を著した名称も使用
         長野県の諏訪地域や上伊那地域では
 ↓↑     「岩鳥」と呼ばれ
         1813年(文化十年)
         小原文英による『白山紀行』の写生図で
        「雷鳥・鶆鳥」の両方を記録
         富山県で「閑古鳥」
         木曽の御嶽山で
 ↓↑     「御鳥」の記録
         1907年(明治四十年)
         日本のライチョウに
         学名Lagopus muta japonicaが付けられた
         1916~18年(大正五~七年)
         百科事典『広文庫』で
        「雷鳥に鶆に作るは誤
         本邦の神鳥にして支那になし」と記載
         日本のライチョウは
         江戸時代までは信仰の対象
         明治時代に一時乱獲
         1910年(明治四十三年)
         捕獲禁止
         1923年(大正十二年)
         史蹟名勝天然紀念物保存法で
 ↓↑      天然記念物に指定され現在に至る
 ↓↑      ↓↑
 ↓↑      雷神はゼウスだが
 ↓↑      殷(イン)は雷鳴だが
         殷=さかん・おおい・ゆたか・にぎやか
         殷賑(インシン)・殷盛
         ねんごろ・深い
         殷勤(インギン)・殷憂
         なりひびく・音の強く響くさま
         殷殷・殷雷
         中国王朝の名
         あかい・赤黒い色
 ↓↑      殷紅(アンコウ)・朱殷(シュアン)
 家屋柱(house frontal post)
 入り口柱(entrance pole)
 家族の長の家系をあらわす紋章
 家屋柱の最下部に楕円形の穴を開け
 出入り口とした「入り口柱」
 ↓↑
 記念柱(memorial pole)
 墓標柱 (grave marker, grave post)
 墓棺柱(mortuary post)
 彫刻柱の一部が棺桶としてされる
 墓棺柱はハイダ族の形式として単柱式と双柱式がある
 ↓↑
 はずかしめの柱(shame pole, discredit pole)
 トリンギット族の特定の個人、グループに対して
 義務履行を請求する彫刻柱
 ↓↑
 領域柱(territorial marker)
 歓迎者像(welcome figure)
 招待客を歓迎する
 催事(ポトラッチ)で一時的に立てられる
 ↓↑
 ワカシュ語族の
 クワキウトル族のトーテムポールは
 伝説の鳥
 サンダーバード(雷鳥?)の彫刻や
 多色(黒、赤、白、青、緑、黄色など)を使う
ーーーーー
 「鳴女という名の雉(キジ)を遣わす」
 「河の
  雁(カリ・がん)を死者に食事をささげ持つ役とし、
  鷺(サギ)を掃除をする役とし、
  翡翠(カワセミ・しょうびん・そにどり)を食事を作る役とし、
  雀(スズメ・さざき)を米をつく女とし、
  雉(キジ)を泣き女として役を定め、
       八日八晩にぎやかに死者を弔った」
 「天鳥船神(アマノトリフネ)」・・・船に酔う、って?
ーーーーー
 酒に酔う・・・
 酔=酉+卆(九+十)
   よう・スイ
   旧字は醉=酉+卒(亠+人+人+十)
   酒や乗り物などによう・酔眼・酔態
   薬物によって感覚を失う・麻酔
   心を奪われる・熱中する・心酔
   酒に酔う
   酔漢・酔眼・酔客・酔態・酔余・宿酔・泥酔・微酔・乱酔
   意識をなくする・麻酔
   心を奪われる・心酔・陶酔
   馬酔木 (あしび・あせび)=ツツジ科アセビ属の常緑低木
   アセビ属=japonica=日本の Pieris(ピエリス)
   ギリシャ神話の詩の女神達 Pierisの名前から
   別称はムーサ(ミューズ・ミューゼス)


   マケドニアの王
   ピーエロスと
   パイオニアの
   エウイッペの間に生まれた9人の娘の総称
   ムーサと同一視される
   ピーエリスを描いた神話原典は
   古代ローマの詩人
   オウィディウスによる
  『変身物語』が有名
   自信と傲慢を持つ
   ピーエリス九姉妹は
   ムーサの長姉
   カリオペーに歌勝負を挑んで
   負けて
   カササギ(かささぎ)という鳥に姿を変えられた
   九姉妹の名前
   コリームバス(Colymbas)
   インクス(Iynx)
   ケンクリス(Cenchris)
   シーサー(Cissa)
   クロリス(Chloris)
   アチャラディス(Acalanthis)
   ネーサー(Nessa)
   ピーポー(Pipo)
   ドラコンティス(Dracontis)

   ハルモニア・・・カドモスとハルモニアー
   ハルモニアー
  (古希: Ἁρμονία, Harmoniā, ラテン語: Harmonia)
   調和(ハーモニー)の女神
   アレースと
   アプロディーテーの娘
   テーバイの始祖
   カドモス・・・テーバイの創建者
          青銅の発見者
          フェニキア文字の配列を変更し
          ボイオーティア地方に伝えた
   と結婚し子供を生んだが
   子供たちは不幸な死に方をし
   神の呪いがこれ以上
   テーバイに降りかからないようにと
   カドモスと連れ添い
   テーバイを出て放浪の旅に出た
   カドモスが蛇に変化する際
   ずっと抱き続け
   最後には自らも蛇に変じた
   その後二人は
   エーリュシオンの野に住む
   カドモスとの結婚式の際に
   祝いの品としてもらった
   首飾りと婚礼衣装は
   テーバイ王家に代々受け継がれ
   それぞれ
   テーバイ攻めの七将
   エピゴノイ
   にて買収工作に利用された
ーーーーー
 酒=氵+酉(西一・兀冂二)
   酉=とり・みのる・なが・ユウ
     ひよみのとり・こよみのとり・とりへん
     康熙字典214部首で164番目に置かれる
     (5画の18番目、酉集の18番目)
     「酒を盛った器(大漢和辞典・11巻)」
     酒壜・酒瓶
     酒が成熟する
     とり、とりへん、さけのとり、ひよみのり
 酒=氵+西+一
   さけ・さか・き・シュウ・シュ
 酉+α
 酊・酐・酒・配・酏・酎・酌・酑・酖・酘・酚・酕
 酞・酗・酝・酜・酓・酛・酙・酔・酢・酦・酤・酣
 酥・酡・酠・酟・酬・酱・酪・酩・酮・酰・酯・酧
 酫・酭・酨・酲・酵・酷・酹・酶・酿・酺・酾・酸
 酴・酽・酻・酼・酳・醇・醋・醌・醂・醁・醅・醄
 醊・醉・醃・醆・醈・醏・醀
 ↓↑
 醊=酉+叕
   酉+双+双・・・・・・綴=糸+双+双
   酉+双+又+又
   酉+又+又+双
   まつる・テツ・テチ・チイ
   地に酒を注いで神々や死者を祭る
   神々を祭壇に並べて設け、次々と祭る
ーーーーー
 ・・・???・・・綴り方教室・・・
 醊=祀(政・祭)り方教室・・・酒次第・・・バッカス・・・

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妄誕無稽・無稽之言・無稽之談・・・

2018-08-11 22:27:46 | 古事記字源

 ・・・雨がシトシト、ユリの花がワンサカ、ムクゲ(木槿・ Hibiscus・木波知須(きはちす)・きらひ物・嫌ひ花)も満開だったが雨でショボクなっている。槿=ムクゲ=尨毛・無垢化?・・・毎年咲く「紫陽花(あじさい)」が未だに葉っぱだけで、ドウシタンダロウ?・・・一日、「上原 ひろみ(Hiromi Uehara)さんのジャズ・ピアノを「youtube」・・・「滑稽=すぐれた表現で、是非を言いくるめること」≠≠「滑稽=くだらなくてみっともない様子」・・・ジャズってドッチの音なんだか?・・・ピアノと抱き合って鍵盤を叩き、愛撫しながら悶え、恍惚に耽溺・・・「シリアス(serious)」で、「ファニィ(funny・humorous・comical・滑稽=コッケイ=酷刑」・・・苦しいそう?・・・バイオリストの「川井」さんや、「寺井」さんも・・・同じように奏でた音のトルネード(tornado)の真空の中・・・?
ーーーーー
 1979年3月26日
 己 未(丁・乙・己)
 丁 卯(甲・ ・乙)
 干合(乙・甲)
   三合乙
 壬 辰(乙・癸・戊)
   午未=空亡
 干合丁壬・合支卯・・・化木格?
ーーーーー
 「酷(酉+告)刑(开+刂)」・・・「トリが告げる开(とりい)の刂(かたな)」・・・「开=閉じているものを開ける、開く・开一下窗户换换空气=窓を開けて空気を入れ換える・你把窗户开开=窓を開けなさい・抽屉开不开了」・・・
 「开=開」・・・「鳥居」は「开=開」・・・?
 「开=開く・あく・あける・开锁=錠を開ける
    切り開く・開削する・开水田=水田を開拓
    くっついている物がバラバラになる
    離れる=扣儿开了=ボタンが外れた
        开线=縫目がほどける
    氷がとける・解凍する
    軍が出発する
    機械類が作動する(させる)・運転
    开本(kāiběn)=印刷物の判型の大きさ
            全紙の何分の1かを示す」・・・
 ・・・「开本(kāiběn)=カイベン=快便・快弁」って?

 酉(ユウ)=とり=鳥(チョウ)=禽(キン)=鶏(ケイ)
   ・・・十二支・「アルタイル(Altair・飛んでいる鷲・
          急降下する鷲・アラビア語)」
          アルタイル=鷲座α星
          わし座(鷲座、Aquila)で
          最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ
          ガニュメデス(ギリシャ神話の美少年の給仕)
     アイヌ語「ウナルベクサ=ノチウ(川を渡す老婆の星)」
          七夕の彦星=牽牛星(けんぎゅうせい)
     比古保之(ひこぼし)=以奴加比保之(いぬかいぼし)」
   子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥
                     酉は十番目干支

 鳥居(とりい)=二本の柱の上に笠木(かさぎ)
         二層の水平材とする場合に
         上層の笠木に接して島木(しまぎ)を渡す
         その下に貫(ぬき)を入れて
         柱を固定したのが一般的な鳥居の構造
         「木鳥居」
         「石鳥居」
         銅板で全体を葺いた鳥居を
         「銅鳥居・金鳥居(かなどりい)」
         などが一般的
 神社などにおいて
 神域と
 人間が住む俗界を区画するもの(結界)
 神域への入口で「門」
 屋根のない門という意味で
 「於上不葺御門(うえふかずのみかど)」
 中国の「華表」の訳を鳥居
 華表(カヒョウ)は中国の伝統建築様式の「標柱」

 ↓↑
 「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)=鶏」
  に因み、神前に鶏の止まり木を置いた
  開き戸の上部横木の全て鴨居(かもい)と称する
 鴨居=かもい=神居=神威(カムイ)・・・鳥居
 「会稽東冶の東」・・・「計其道里、當在會稽、東冶之東」、「計-其道里-當-在-會稽-東冶(治)之東」・・・北緯約33度・・・
ーーーーー
 稽=禾+尤+旨(ヒ日)
 𥡴=禾+尤+㫖(上日)
   モットも
   とどまる・かんがえる
   引きとめる・とどまる・ケイ
   稽留
   かんがえる
   稽古・滑稽・不稽・無稽
   頭を地につける・稽首
   くらべる・比較する・計る・数える
   至る・やってくる
   稽=禾+尤+旨
     禾+尢+丶+旨
     禾+尤+匕+日
     禾+尢+丶+匕+日
   稽の
   異体字は「𥡴=禾+尤+㫖」
 ↓↑
 くらべてかんがえる・稽古
 とどまる・とどめる・とどこおる
 稽留
 ぬかずく・頭を地につけて敬礼する
 稽首
 滑稽(コッケイ)・無稽(ムケイ)
 不稽 ・無稽
 さえぎる・稽留
 かんがえる(考)・稽古・滑稽
 ↓↑
 禾=ノ十八
 尤=尢+ヽ
   もっとも・すぐれる・とがめる・ユウ
   そのとおり・ただし
   ことなる・すぐれている・とりわけ
   尤異・尤物
   とがめる・非難する
   无耻之尤
   拔其尤=ずば抜けたものをより抜く
   同類の中で、特にすぐれたもの
   美しい女性・美女・美人
   尤物=多くの中ですぐれたもの・逸物・逸品
      すぐれて美しい女・美女
 旨=うまい・上手
 㫖=「旨、 或ひは𣅀に作る」とある異体字
 ↓↑
 稽える=かんがえる・物事を突き詰め考える
     稽淹(ケイエン)・とどめること・とどまること
     稽緩(ケイカン)・とどこおって、ぐずぐずすること
     稽古=学問・武術・芸能など諸芸を習うこと
     荒唐=漢字の意味と無関係で、状態を表す
        「漢字の擬態語」・・・?
 ↓↑
 「稽」の四字熟語
 架空無稽(カクウムケイ)
 「架空」と「無稽」はどちらも根拠のない、でたらめなこと
 ↓↑
 会稽之恥(カイケイノハジ)
 野卑滑稽(ヤヒコッケイ)
 妄誕無稽(モウタンムケイ)
 無稽之談(ムケイノダン)
 無稽之言(ムケイノゲン)
 無稽荒唐(ムケイコウトウ)
 再拝稽首(サイハイケイシュ)
 滑稽之雄(コッケイノユウ)
 滑稽洒脱(コッケイシャダツ)
 ↓↑
 会稽之恥(カイケイノハジ)
 架空無稽(カクウムケイ)
 稽古之力(ケイコのちから)
 ↓↑
 厥角稽首(ケッカクケイシュ)
 最も礼儀正しく、心のこもった敬礼をすること
 「厥角」と「稽首」はどちらも地面に頭を着けてする礼のこと
 ↓↑
 荒唐不稽(コウトウフケイ)
 荒唐無稽(コウトウムケイ)
 ↓↑
 滑稽洒脱(コッケイシャダツ)
 文章や話が機知に富んでいて、俗気がなく洗練されていること
 「滑稽」は弁舌が上手く、思うように出来ること
 「洒脱」はさっぱりとしていて洗練されていること
 ↓↑
 滑稽之雄(コッケイノユウ)
 次々と様々な知恵が出てくる賢い人
 「滑稽」はすぐれた表現で、是非を言いくるめること
 ↓↑
 再拝稽首(サイハイケイシュ)
 ↓↑
 北面稽首(ホクメンケイシュ)
 最もすぐれた挨拶の方法のこと
 「北面」は北の方角を向いて座ること
 玉座は南を向いているので
 それに向き合って北を向いて座るので
 臣下の座る場所
 「稽首」は地面に当たるまで頭を下げて礼をすること
 ↓↑
 無稽荒唐(ムケイコウトウ)
 無稽之言(ムケイノゲン)
 無稽之談(ムケイノダン)
 妄誕無稽(モウタンムケイ)
 ↓↑
 野卑滑稽(ヤヒコッケイ)
 下品でばかばかしくてくだらないこと
 「野卑」は品がなく卑しい様子
 「滑稽」はくだらなくてみっともない様子
 ↓↑
 野鄙滑稽(ヤヒコッケイ)
 下品でばかばかしくてくだらないこと
 「野鄙」は品がなく卑しい様子
 「滑稽」はくだらなくてみっともない様子
ーーーーー
 ・・・???・・・

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コーン・コーン・・・きつね・・・

2018-08-09 21:41:42 | 古事記字源

 ・・・気儘(気侭)にコトバと文字に混乱・・・コンフューズ(confuse)・・・ダレかが?「You have me confused with someone else.」・・・唐黍(とうきび・corn)?・・浮遊厨(柚子)?・・・「コーン. cone(koun・コウン)・円錐・錐(きり)・道路や工事現場などの規制や区分けを目的として置かれる円錐形の物・ロードコーン(Road cones)=パイロン(Pylons)」・・・
 「三角帽子」・・・アイスクリームのコーンか?・・・
 ・・・荒唐無稽・・・唐が荒廃し、会稽(会計)すること無し・・・塊茎、快慶、海景・・・?・・・運慶・・・
ーーーーー
 唐黍・・・唐=から=漢・韓・加羅・空・殻・蚊等・化螺
 漢国?・・・カンコク? or からくに?
 漢=氵+𦰩(カン)
   汉(簡体字)・漢(旧字体, 繁体字)
       ・・・又(右手・また)=𦰩(乾・渇・干)・・・?
          又=叉=交叉=こうさ=考査・黄沙・黄砂・交差
                 甲佐・公差
   おとこ・から・よこしま・カン
   漢水・漢口・漢中・漢江=長江の最大の支流
   天の河
   雲漢・星漢
   おとこ
   悪漢・凶漢・暴漢・痴漢=チカン=置換・知館
   中国王朝の名
   漢=乾く
     火などで炙(あぶ)った動物の革
     水の流れない乾いた川=天の川
     𦰩(カン)=渇く・乾く・炙(あぶ)る
     𦰩+α=漢・嘆・難・灘・儺・・・
         難しいが「𦰩+隹」?・・・焼き鳥?
         堇(キン)=日照り・饉と通じて飢饉
           𦰩は日照りの神
           𦰩は巫祝で巫祝を焼く字・・・亀甲、甲骨文字
          (説文解字・巻十三)
           火矢の意=鳥を火矢で射る儀式や呪い
     𦰩=艹+口+夫(二人)・草加(日下・久坂)の
                口は仁(丹)の人?
                浦嶋(嶼・揣摩)子=高橋虫麻呂?
                島の児(子)=武寧王・蘇我蝦夷?
 漢の国号・・・紀元前206年~220年
 皇帝であった
 劉氏の姓と密接に結びつき
 前漢・後漢の両漢王朝以後も
 劉姓の王朝によってたびたび使われた
 劉姓の王朝において
 「漢」を号しなかったものは
 匈奴系の
 夏
 と
 南朝の宋のみ
 漢中市=漢中盆地にほぼ一致
 漢中郡=古代中国に存在した郡
     後に漢中は
     郡の役所が置かれた
     南鄭(陝西省漢中市)
     一帯の名称
     劉邦が興した
     漢王朝や、「漢民族」、「漢字」
     などの名称の由来となる地名
 漢中郡
 古くは
 梁州に属し
 後には独立した国家になった
 戦国時代に
 秦に併合・・・秦=𡗗+禾
     ・・・𡗗(mǒu)=三+人=ダイ、だいかんむり、だいかしら
 紀元前325年
 漢中郡と命名され
 南鄭県に
 郡治(郡の役所、及びその所在地)が設置
 一時楚に奪われるが
 紀元前312年に回復
 秦滅亡後
 劉邦が漢中の地に封じられた
 漢中で
 韓信を見出し
 劉邦は「漢王(漢中王)」を名乗り
 帝位に就き
 国号を「漢」とした
 前漢代
 益州に属し
 西城、旬陽、南鄭、褒中、房陵、安陽
 城固、沔陽、鍚、武陵、上庸、長利
 の12県を治めた
 ↓↓
 韓国
 韓=𠦝+韋
   𠦝+韦・・・「キ+𠃌」・「丰+亅」
   から・いげた(井桁)・カン
   韋(なめしがわ)+幹(カン)
   異体字は韩・𡋶・㙔・𩏑
   乾いて丈夫な板、強い、強大
   古代朝鮮の国名・三韓
   李氏朝鮮の国名
   中国戦国時代の国名
   魏(ギ)・趙(チョウ)とともに
   晋(シン)から分立し
   河南・山西両省の一部を領土とした
   後に
   秦(シン)に滅ぼされた
   戦国七雄の一(前403年-前230年)
   朝鮮半島南部の
   部族(馬韓・辰韓・弁韓)
   朝鮮半島の古代
   三国(新羅・百済・高句麗
   李氏朝鮮(1897年~1910年)
ーーーーー
   韓=𠦝+韋
     呂不韋=呂 不韋(リョ フイ)
         ?~紀元前235年
     戦国時代の秦の政治家
     荘襄王を王位につける事に尽力
     秦で権勢
     荘襄王により
     文信侯(ブンシンコウ)・・・・文信侯=書記長?
     に封じられた
     始皇帝の実の父親との説も・・・
ーーーーー
 ↓↓      ↓↓
 呂 不韋・・・・・呂(せぼね)は 不韋(なめさず)?
 出身地は二説
 衛の濮陽(戦国策)
 or
 韓の陽翟(史記)
 商人の子
 各国を渡り歩き
 商売で富を築いた
 ↓↓
 趙の人質となっていた
 秦の公子
 異人(後に子楚と改称・秦の荘襄王)
 を
 「これ奇貨なり。居くべし
  (これは、掘り出し物だ。手元におくべきだ)」
 と
 陽翟に帰った呂不韋は父と相談し
 将来のために「異人(子楚・荘襄王)」
 に投資することにし
 呂不韋は再び趙に赴き
 公子の「異人(子楚・荘襄王)」と会見
 ↓↓
 異人は
 秦王、昭襄王の太子
 安国君(孝文王)の子とはいえ
 20人以上の兄弟が居た
 生母の夏氏が既に父からの寵愛を失ってい
 母国にとっては惜しくない人質
 趙との関係が悪化
 趙での異人の待遇は悪く
 生活費にも事欠くほどであった
 ↓↓
 呂不韋は
 異人に金を渡し
 趙の社交界で名を売る事を指導し
 自身は秦に入って
 安国君の寵姫
 華陽夫人の元へ行った
 呂不韋は
 華陽夫人に
 異人は賢明で
 華陽夫人のことを
 実の母親のように
 慕って日々を送っていると吹き込んだ
 さらに華陽夫人の姉にも会って
 自身の財宝の一部を贈って彼女を動かし
 この姉を通じて異人を
 華陽夫人の養子とさせ
 安国君の世子とするよう説いた
 華陽夫人は
 安国君に寵愛されていたが未だ子が無く
 この話に乗り
 安国君もこの話を承諾し
 異人を自分の世子に立てる事に決めた
 ↓↓
 趙に帰った
 呂不韋が
 異人にこの吉報をもたらし
 異人は呂不韋を後見とした
 異人はこのとき
 養母となった
 華陽夫人が
 楚の出身だったので
 名を子楚と改めた
 ↓↓
 呂不韋は
 趙の芸妓(趙姫)を寵愛していたが
 子楚は女を子楚に譲った
 彼女は既に
 呂不韋の子を身籠っていたが
 子楚にはこれを隠し通し
 生まれた子は
 子楚の子とした
 これが
 政(始皇帝)・・・
 『史記』に記録・・・
 ↓↓
 秦の宰相
 紀元前252年
 秦で高齢の
 昭襄王が在位55年で逝去
 次男の
 孝文王が立つと
 子楚は秦に送り返され
 太子となった
 孝文王が50代で逝去し
 太子の子楚が即位し
 荘襄王となった
 呂不韋は丞相(相邦)となり
 文信侯と号し
 洛陽の10万戸を領地として授けられた
 呂不韋は秦の丞相として権勢を振るった
 ↓↓
 紀元前246年
 荘襄王が若くして死に
 太子の
 政が王となった
 呂不韋は
 仲父(尊称)の称号を授けられた
 ↓↓
 一字千金
 この時期
 孟嘗君
 信陵君
 などが食客を集めて天下の名声を得ていた
 呂不韋は
 3000人の食客を集め
 呂不韋家の召使は1万
 この客の中に
 李斯がおり
 その才能を見込んで王に推挙
 更に客の知識を集めて
 『呂氏春秋』と言う書物を作った
 (思想的には中立で百科事典のような書物)・・・?
 呂不韋はこの書物を自慢し
 市の真ん中にこれを置いて
 「一字でも
  減らすか
  増やすか
  出来る者には
  千金を与える」
 と触れ回った・・・
 ↓↓
 「以呂氏春秋
  布咸陽市門
  縣千金其上
  延諸侯游士賓客
  有能筯損一字者
  予千金
   『史記(巻八五 呂不韋列伝)』
 呂不韋は
 政の生母である太后と密通・・・?
 ↓↓
 荘襄王の死後
 太后からの誘いで
 太后は
 呂不韋の元愛人
 今や国母となった太后との
 不義密通を
 危険と感じた呂不韋は
 嫪毐(ロウアイ)
 という巨根の男を太后に紹介し
 男性の入れぬ後宮へ
 宦官に偽装して送り込んだ
 嫪毐は息子を2人生んだ・・・
 ↓↓
 後の嫪毐は
 太后の寵愛を背景に
 長信侯に封じられた
 太后との密通が発覚すると
 嫪毐は
 政へ謀反するが、すぐに鎮圧、車裂きの刑で誅殺
 太后と嫪毐の2人の息子も処刑
 呂不韋へも波及し処刑されるところだったが
 功績を重んじた政によって
 丞相職の罷免と蟄居に減刑
 ↓↓
 呂不韋は蟄居後も客との交流を止めず
 諸国での名声も高かく
 紀元前236年
 客や諸国と謀って反乱を危惧した
 政からの詰問状を受け
 蜀地域への流刑を追加
 翌年
 呂不韋は服毒自殺
 ↓↓
 劉邦の妻
 呂雉(呂后)は
 呂不韋の一族だったと
 郭沫若
 佐竹靖彦
 らは示唆・・・
 三国時代に
 呂不韋の名に因んだ
 永昌郡
 不韋県
 出身で
 蜀漢に仕えた豪族の
 呂凱は
 呂不韋の後裔(『三国志(蜀書呂凱伝)』)
ーーーーー
 ↓↓
 帯方郡の滅亡
 泰始元年(265年)・・・泰始⇔秦始(皇帝)
          泰=𡗗+氺⇔秦=𡗗+禾
              泰≠秦
 魏の重臣であった
 司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が
 魏の
 曹奐(元帝)から
 禅譲を受けて
 晋朝(西晋)を興す
 永康元年(300年)
 身内の
 八王の乱で
 混迷状態
 帯方郡に属する県は
 帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥
 の七県であった(『晋書地理志』)
 ↓↓
 建興元年(313年)
 遼東へ進出した
 高句麗が南下して楽浪郡を占領
 朝鮮半島南半に孤立した
 帯方郡は
 晋の手を離れ情報も途絶
 元の
 帯方郡や楽浪郡南部に残された
 漢人の政権や都市は
 東晋を奉じて5世紀初頭までの存続
 5世紀前半
 百済によって征服
 5世紀後半
 高句麗が百済を駆逐
 ↓↓
 倭
 帯方郡の滅亡後
 404年
 倭から百済征伐の形で北侵し
 帯方界(帯方郡の境界)に進入し
 高句麗と戦ったが敗北
ーーーーー
 燕国・・・常世の国・・・常陸=ひたち=日立
   ・・・常盤・日常・常識・尋常(小学校)
 ↓↓
 常世の国へ渡航
 少彦名神
 御毛沼命
 田道間守
 が
 「常世の国」に渡った・・・
 浦島子(浦島太郎)の伝承も、常世の国
 ↓↓
 田道間守
 『古事記』
 垂仁天皇が
 多遲麻毛理に
 時じくの香の木の実
 『日本書紀』
 垂仁天皇が
 田道間守を常世国に遣わし
 「非時香菓」を求めさせたが
 その間に天皇は崩御
 「非時」は、時を定めずということから
 「いつでも香りを放つ木の実」
 「今の橘なり」
 橘は葉が常緑で
 「永遠性・永続性」の象徴
 「非時香菓」は不老不死の霊薬
 ↓↓
 浦嶋子
 『万葉集(巻九・1740)』
 高橋虫麻呂作
 浦嶋子
 を詠んだ歌で
 浦島子が漁に出て
 七日帰らず海を漕いで
 常世に至り
 海若(わたつみ)の
 神の宮に
 神の乙女とともに住んだ
 神の宮では老いも死にもせず
 永世にわたって生きることができた
 浦嶋子は帰郷し
 自分の家が既に無くなっていることを知って
 開けてはならぬ
 玉笥を開けて老人になる
 『日本書紀(雄略天皇二十二年)』
 『丹後国風土記』逸文
 にも同様の話
 海中の「蓬莱山」に至った・・・
 ↓↓
 高橋(連) 虫麻呂(たかはし の むしまろ)
ーーーーー
 𡗗=大+二・・・三+人・二+大・一+夫=𡗗
 実=宀+𡗗
   み・みのる・まことに・げに・シツ・ジ゙チ・ジツ
   實𡪲实𡾍・・・宀+三+人・宀+二+大・宀+𡗗=実
          宀+毌+目+八=實
   備蓄充満
   詰まった中身
   誠に、本当に、事実を強調する言葉
 㤗=心+𡗗・・・
   タイ・・・泰𣳾・・・三+人+心・二+大+㣺・𡗗+小+丶=㤗
   大きくゆったり・安らかな
   驕る、高慢で自分勝手
   贅沢なさま
   甚だしい、非常に、極めて
   あまりにも~過ぎる
   「太、太」は「泰」の略字
 春=日+𡗗・・・
   はる・シュン
   旾萅𦸬𣊨𣈤𣇸㫩𣆊・・・三+人+日・二+大+日・一+夫+日=春
   四季(春夏秋冬)の第一
   陰暦一月から三月・草木が芽生える季節
   瑞々しい・生気に満ちているさま
   男女間の情欲
 泰=水+𡗗・・・
   タイ
   泰・・・三+人+氺・二+大+氺・一+夫+冫+く・𡗗+水=泰
   ゆったり・安らかな
   驕る、高慢で自分勝手なさま
   贅沢なさま
   甚だしい
 𥘿=示+𡗗・・・
   はた・シン・ジン
   秦𥠼𥢮𣜈𥣠・・・三+人+示・二+大+示・一+夫+示
           𡗗+示・二+大+二+小・𡗗+一+𡭕=𥘿=秦
   周代後期の戦国時代(前475年~前221年)
   に諸国を統一して建った王朝
   五胡十六国時代の国名
   前秦・後秦・西秦
   中国陕西省の別称
 秦=禾+𡗗・・・
   はた・シン、ジン
   𥘿𥠼𥢮𣜈𥣠・・・三+人+禾・二+大+禾=秦=𥘿
   周代後期の戦国時代(前475年~前221年)
   に諸国を統一して建った王朝
   五胡十六国時代の国名
   前秦・後秦・西秦
   中国陕西省の別称
 舂=臼+𡗗・・・
   つく・ショウ・シュ
   㫪𣇃𦥴𦦓𦥽・・・三+人+臼・二+大+臼・一+夫+臼
           𡗗+臼・𡗗+E+ヨ=舂
   穀物を臼などに入れて搗(つ)く
   撞(つ)く、突く
 𧉾=虫+𡗗・・・
   うごめく・シュン
       ・・・三+人+虫・二+大+中+ム
          一+夫+虫・𡗗+口+I+ム
          𡗗+虫=𧉾
   𧉾=蠢
ーーーーー
 ・・・荒唐無稽・・・
 荒唐=根拠がなく、取り留めのないこと
 無稽=考え方に根拠がなく出鱈目なこと
 「荒唐之言」+「無稽の言」
 「荘周その風を聞きてこれを悦び
  謬悠の説、荒唐の言、端崖の無きの辞を以てす
 (荘子はその説を学んで共鳴し
  実情を伴わない広遠な説
  判断できない根拠のない説
  糸口がとらえられない言葉を使って述べた・荘子)」
 「無稽の言は聴くこと勿れ
 (根拠のない話には耳を傾けるべきではない・書経)」
ーーーーー
 ・・・???・・・

コメント
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「越冬=エットウ=越島・越当・曰等・説問う」つばめ?

2018-08-08 21:07:14 | 古事記字源

 ・・・「遠州つばめ返し」?・・・「越冬つばめ」・・・「ツバメのウタ」・・・卑弥呼・・・西暦170年?~西暦247年or西暦248年・・・

ーーーー
 燕国・燕州
 「燕」=中国河北省北部(北京周辺)に位置
     青銅器時代の都市国家
     東周期に領域国家に発展し
     河北省北部全体を指す
     歴史的にこの地域に建てられた
     国名、地方名、行政区名
     農耕定住地域の華北と
     牧畜の満州・内モンゴルの媒介地域
     河北省そのものの雅称
  ↓↑     ↓↑  
 「燕 (春秋・紀元前1100年ごろ~紀元前222年)」
     周により封建された都市国家から
    春秋時代~戦国時代にかけて領域国家
    七雄の一
    陳勝・呉広の乱
    ↓↑
    秦末期
    韓広
    が擁立されて名乗った燕
   (紀元前209年~紀元前207年)
    ↓↑
    臧荼・楚漢戦争
    燕の武将
    臧荼が
    秦末の動乱で
    西楚の覇王となった
    項羽に封建された
    燕国
   (紀元前206年~紀元前202年)
    ↓↑
    盧綰
    前漢初期
    劉邦と同郷の盟友の
    盧綰が
    臧荼に替えて諸侯王として
    封建された燕国
   (紀元前202年~紀元前195年)
    ↓↑
 公孫氏 (遼東)
 三国時代
 公孫淵
 が魏からの自立を企てて名乗った
 燕(236年~238年)
 ↓↑
 五胡十六国時代
 鮮卑の
 慕容部が
 満州・内モンゴルから
 河北省北部に当たる地域に建国
 ↓↑
 前燕(337年~370年)
 五胡十六国時代
 慕容皝の建国
 ↓↑
 後燕(384年~409年)
 五胡十六国時代
 慕容垂の建国
 ↓↑
 西燕(384年~394年)
 五胡十六国時代
 慕容泓の建国
 ↓↑
 南燕(398年 - 410年)
 五胡十六国時代
 慕容徳の建国
 ↓↑
 北燕(409年~435年)
 五胡十六国時代
 馮跋の建国
 ↓↑
 燕 (安史の乱・756年~759年or763年)
 唐代に
 平盧節度使
 范陽節度使を兼ねた
 安禄山
 が満州・内モンゴルの
 遊牧民を背景に
 「安史の乱」で建国
 ↓↑
 桀燕(911年~914年)
 五代十国時代
 劉仁恭(息子の劉守光)が
 河朔三鎮の勢力を背景に建国
ーーーーー
 燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)
 周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国
 春秋十二列国の一
 戦国七雄の一
 河北省北部、北京周辺を支配
 首都は薊(ケイ・北京)
 燕都・薊城の遺蹟は北京市房山区に所在
 ↓↑ 
 燕の始祖
 周建国の元勲
 召公奭(召の公である奭の意・ショウコウセキ
     奭=大+百+百)
 姞姓の伯爵
 河南省の
 「南燕国」に対して
 「北燕」とも
 当時は
 「燕」ではなく
 「匽」と記録
 召公の一族は
 山東半島の
 「奄(魯の近隣)」に封じられ
 成王の時(禄父の乱の鎮圧後?)
 北京近辺に移った
 国名を燕といった
 (奄=匽=燕=エン)
 この時、現地にあった
 韓侯国が入れ替わりに
 陝西省に移った
 燕に残った
 韓の旧住民は
 多く「韓氏」を名乗った
 西周時代
 燕の東方(遼寧省朝陽市喀喇沁左翼自治旗)に
 「箕侯」という都市国家があり
 「燕」の属国であったが
 春秋時代を待たずに
 北方遊牧民に滅ぼされ
 燕に亡命した住民が多かった・・・
 春秋時代以降
 燕の士大夫層に
 「韓」や「箕」を「氏」とする者がみられる・・・
ーーーーー
 春秋時代
 北方の
 山戎に攻められた際
 君主・荘公は
 隣国の覇者
 斉の
 桓公に援軍を乞い
 山戎軍を撃退
 (紀元前664年/紀元前663年)
 後
 荘公は
 桓公に感謝の意を表するために
 斉まで
 桓公の軍を送って
 その際に軍は
 燕と斉の国境を越えて
 斉国内に入ってしまった
 自国まで軍を見送らせることができる者は
 天子(周王)しかおらず
 時の名宰相
 管仲に指摘された
 桓公は
 一部自領を切り取って
 燕に授けた・・・
 ↓↑
 戦国時代
 紀元前334年
 『史記』蘇秦列伝
 「東に
  朝鮮・遼東
  北に林胡・楼煩
  西に雲中・九原
  南に呼沱・易水
  がある」
  紀元前323年
  王(左飛)を名乗る
  第2代の王の
  噲は
  宰相の
  子之を盲信し
  堯舜に倣うと言って禅譲し
  騒乱状態
  (紀元前315年)
  翌年
  斉(田斉)が付けこみ
  兵を出して侵攻
  全土を併合
  ↓↑
  紀元前313年
  公子職が
  子之を倒し
  斉軍も撤退し
  公子職は
  昭王となった
  ↓↑
 昭王は
 斉を憎み
 復讐を誓った
 昭王は人材を集めることを
 郭隗に尋ね
 郭隗は
 「死んだ馬の骨を買う」の故事を喩え
 「まず私を優遇してください
  さすれば
  郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから
  もっと優れた人物は
  もっと優遇してくれるに違いないと思って
  人材が集まってきます」
 と答えた
 昭王はこれを容れ
 郭隗を師と仰ぎ
 特別に宮殿を造って郭隗に与えた
 「まず隗より始めよ」・・・
 燕には名将
 楽毅
 蘇秦の弟
 蘇代
 など人材が集まり
 これらを使い
 昭王は
 燕の改革・再建を進めた。
 ↓↑
 将軍の
 秦開を派遣し
 北方遊牧民族の
 東胡を討つ
 新領土に
 郡県制をしき
 上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東
 の5郡を設置
 秦開に
 造陽から襄平までの
 東西二千里にわたる
 「燕の長城」を築かせた(魏略)
 秦開はさらに
 満潘汗(平安北道博川)に至って
 朝鮮との境を定めた
 ↓↑ 
 燕は
 斉包囲網を形成し
 紀元前285年/紀元前284年
 楽毅率いる5ヶ国連合軍50万が
 斉軍20万を撃破
 楽毅は
 斉の首都
 臨淄を陥落させ
 莒(キョ)と即墨を除く
 斉の都市を尽く占領
 燕は「朝鮮」を更に討って
 朝鮮半島北部も領有
 南部の「真番」を略属させ
 所々に要塞を築き官吏を派遣
 以後約5年間
 燕は
 河北省
 遼寧省
 朝鮮半島
 山東半島
 を併合
 『山海経』の
 「鉅燕(巨大な燕)」
 「全燕(完全な燕)」・・・
 ↓↑
 昭王が死に
 子の
 恵王が即位
 楽毅を疑って
 趙に走らせ
 紀元前279年
 占領していた斉は
 田単によって取り返され
 山東半島の領土は失った
 ↓↑
 後は
 秦が強勢となり
 斉や趙に対抗するために
 秦と結んだ
 紀元前228年
 趙が秦によって滅ぼされ
 燕は秦と国境を接し
 太子丹は
 秦王政に
 刺客
 荊軻を送ったが失敗
 (荊軻に同行した
  秦舞陽は
  秦開の孫)
 秦王
 政は
 燕は攻め首都を陥落(紀元前226年)
 太子丹は殺され
 燕王喜は遼東に逃れた
 紀元前222年
 秦の将軍
 王賁に攻められ王が捕虜となり
 燕は滅亡
 督亢の地(燕の本土)は
 秦の広陽郡となり
 昭王が置いた
 5郡と合わせて
 秦の統治下では6郡となった
 朝鮮半島の
 燕の諸要塞は
 「上鄣」と「下鄣」の2ヶ所にまとめられ
 遼東郡に属することになり
 官吏を派遣して治められた
 ↓↑
 秦末漢初
 紀元前209年
 趙にいた
 武臣から派遣されてきた
 将軍
 韓広
 が現地の燕人らに推戴されて
 燕王となって自立
 紀元前206年
 項羽の封建により
 臧荼が燕王に立てられ
 燕王だった
 韓広は
 遼東王に遷された
 臧荼は
 韓広を攻め
 遼東を併合
 燕全体の王となった
 朝鮮半島は放置
 燕王
 臧荼は
 紀元前204年に
 韓信に帰順
 紀元前202年に
 群雄諸王らとともに
 劉邦に
 皇帝の尊号を奉った
 後、反乱を起こし臧荼は処刑
 代わって
 盧綰が燕王に封建された
 紀元前195年
 盧綰は
 匈奴に亡命
 燕国は廃され郡県となった
ーーーーー
 倭との関係
 『山海経』海内北経に
 「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」
 倭は燕の属国
 ↓↑
 燕の姓は姞(女+吉)
 ↓↑
 倭の位置
 後の玄菟郡の
 「蓋馬(西蓋馬県、蓋馬大山)」
 遼東半島の
 「蓋平(遼寧省営口市)」
 鉅燕を『史記』の「全燕」と同じとみて
 山東半島の「蓋(現在の山東省淄博市沂源県)」
 朝鮮半島江原道の
 「濊(ワイ)」
 馬韓の「乾馬(全羅南道益山)」
 ↓↑ ↓↑
 『山海経』海内北経
 「蓋国在鉅燕南倭北。倭属燕」
ーーーーー
 公孫氏(コウソンシ)
 三国時代
 2世紀後半
 後漢の地方官だった
 公孫度が
 「黄巾の乱」=黄巾之乱・後漢末期の西暦184年(中平一年)
        太平道の教祖張角を指導者とする信者が
        各地で起こした農民反乱
 以来の混乱に乗じ
 遼東地方に
 半独立政権を樹立
 ↓↑
 領土は朝鮮半島中西部の
 帯方郡を境に
 南は韓と接し
 東北は高句麗
 西北は烏丸・鮮卑
 と接する
 遼東以北の地は
 中華圏の北東端
 漢・魏王朝からは絶域
 公孫氏の勢力圏を
 確立
 公孫康の時代以後
 韓や倭は
 帯方郡に帰属した・・・帯(たらし)の方(かた)の郡(こおり)?
 ↓↑
 189年
 公孫度
 後漢により
 遼東太守に任命
 後
 後漢から自立
 朝鮮半島の北端である
 楽浪郡
 山東半島まで勢力を伸張
 ↓↑
 204年
 公孫度の嫡子
 公孫康
 が
 楽浪郡の南に
 帯方郡を設置
 韓や倭を勢力下に置く
 ↓↑
 曹操により
 公孫康は
 後漢に服属し
 左将軍の官位を授けられた
 後継には弟である
 公孫恭が立った
 ↓↑
 228年
 公孫康の子
 公孫淵
 が謀叛し
 叔父から位を奪う
 当時、後漢が崩壊し
 魏・呉・蜀
 の三国に分立・・・
 ↓↑
 公孫淵(コウソンエン)・・・淵=エン=円・延・猿・鉛・艶・燕
 は
 自領と隣接する
 魏に臣従
 一方で
 呉と同盟工作
 ↓↑
 236年
 魏の皇帝
 曹叡
 から上洛を求められ
 公孫淵
 は魏に反旗
 燕王を称した
 ↓↑
 翌237年
 年号を
 紹漢・・・紹=つぐ・うけつぐ・とりもつ・ひきあわせる・ショウ
        紹介・紹述・介紹・継紹
 と定め
 支配体制を確立
 近隣部族に
 印璽を与えるなどして
 魏を刺激し
 軍事衝突は決定的となる
 ↓↑
 公孫淵
 魏の
 幽州刺史の軍勢を退けた
 ↓↑
 238年
 太尉
 司馬懿・・・司馬懿=シバイ=芝居・芝井・四倍・司馬意
 の討伐を受け
 国都
 襄平
 を包囲され降伏
 一族ともども処刑され
 公孫氏の勢力は消滅・・・全滅?
 「遼隧(リョウスイ)の戦い」・・・
 ↓↑
 公孫恭
 は魏への忠義を貫いたとして
 処刑されなかったが
 子がおらず
 公孫恭の死により
 公孫度の子孫は滅亡・・・滅亡?・・・残党は倭国へ天孫降臨?
 ↓↑
 『新撰姓氏録』は
 「常世連(とこよのむらじ)」なる
 ↓↑・・・常 世 連=赤染氏・・・常世連
     『続日本紀』
      天平十九年(747)八月
      正六位上
      赤染造広足(あかぞめのつくり・ひろたり)
      赤染高麻呂ら九人に
      常世連(とこよのむらじ)の姓を賜ふ」
      天平勝宝二年(750)九月
      正六位上
      赤染造広足
      赤染高麻呂
      ら二十四人に
      常世連(とこよのむらじ)の姓を賜ふ」
      宝亀八年(777)四月
      右京の人従六位
      赤染国持ら四人
      河内大県(かわちのおおあがた)郡の人
      赤染人足ら十三人
      遠江国蓁原(はいばら)郡の人
      従八位下
      赤染長浜
      因幡国八上郡の人
      外従六位
      赤染帯縄・・・帯(たらし)の縄(なわ)
          ・・・帯刀・刀帯=たてわき?
      ら十九人に
 ↓↑   姓を常世連(とこよのむらじ)と賜ふ」
 大陸から日本へ土着した
 帰化人の氏族について
 公孫淵
 の
 末裔であると記述・・・
 ↓↑
 系譜
 公孫延
 ↓↑
 公孫度
 ↓↑
 公孫康
 ↓↑
 公孫晃
ーーーーー
 オオヤケ(公=八ム)の
 孫(孑=ボウフラの系)
 系統・体系・家系
 糸すじのようにつながるもの・次々につながった関係
 系図・系統・系譜・系列・家系・山系・水系
 直系・同系・母系・傍系
 組織立ったまとまり・大系・体系
 (分散しないように紐・縄・リボンで)結ぶ、締める 
 ・・・???
 ・・・236年~238年(景初二年)
 「遼隧の戦い(遼寧省-鞍山市-海城市)」
 太尉
 司馬懿
 の討伐を受け
 国都
 襄平に包囲され降伏
 一族ともども処刑
 公孫氏
 の勢力は消滅・・・???・・・倭国へ逃亡?
 ↓↑
 景初二年(238年)12月
 卑弥呼、
 初めて難升米らを
 魏に派遣
 魏から
 親魏倭王の
 仮の金印と
 銅鏡100枚を与えられた
 ↓↑
 正始元年(240年)
 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ
 詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた
 ↓↑
 正始四年(243年)12月
 倭王は大夫の
 伊聲耆
 掖邪狗
 ら八人を復遣使として魏に派遣
 掖邪狗らは
 率善中郎将の印綬を受けた
 ↓↑
 正始六年(245年)
 難升米に黄幢を授与
 ↓↑
 正始八年(247年)
 倭は
 載斯
 烏越
 らを
 帯方郡に派遣
 狗奴国との戦いを報告
 魏は
 張政を倭に派遣
 難升米に
 詔書、黄幢を授与
 ↓↑
 ?- 卑弥呼が死に、墓が作られた
 男王が立つが、国が混乱し
 互いに誅殺しあい千人余が死んだ
 卑弥呼の宗女「壹與」を
 十三歳で王に立て
 国を鎮定
 倭の女王
 壹與は
 掖邪狗
 ら20人に
 張政の帰還を送らせ
 掖邪狗らはそのまま都に向かい
 男女の
 生口30人と
 白珠5000孔
 青大句珠2枚
 異文の雑錦20匹を貢いだ
 ↓↑
 『後漢書』
 建武中元二年(57年)
 倭奴国が金印を授与される
 ↓↑
 永初元年(107年)
 倭国王の
 帥升が
 安帝に拝謁を願う
 ↓↑
 桓帝と霊帝の間(146年~189年)
 倭国大乱
 ↓↑
 189年前後?
 名を卑彌呼
 年増だが嫁がず
 神鬼道に仕え
 妖術を以て大衆を惑わす
 ↓↑
 『晋書』
 泰始二年(266年)
 倭の遣使が入貢
 邪馬台国からの最後の入貢
 ↓↑
 『三国史記』
 新羅本紀
 173年
 倭の女王卑弥呼が新羅に使者を派遣
 193年
 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った
 208年
 倭軍が新羅を攻め
 新羅は
 伊伐飡の
 「利音」を派遣して防いだ?・・・「利音」
 232年
 倭軍が新羅に侵入
 王都
 金城を包囲
 新羅王自ら出陣し
 倭軍は逃走
 新羅は軽騎兵を派遣して追撃
 倭兵の死体と捕虜は
 合わせて千人
 287年
 倭軍が新羅に攻め入り
 一礼部(地名、場所は不明)を
 襲撃して火攻めにした
 倭軍は
 新羅兵千人を捕虜にした
 ↓↑
 『三国史記』
 于老列伝
 233年
 倭軍が新羅の東方から攻め入った
 新羅の
 伊飡の
 于老が沙道(地名)で倭軍と戦った
 于老は火計をもって
 倭軍の船を焼き
 倭兵は溺れて全滅
 249年
 倭国使臣が
 新羅の
 舒弗邯の
 于老を殺した
 ↓↑
 『梁書』
 光和年間(178年~184年)
 倭国の内乱
 卑彌呼、女性を共立して王とした
 正始年間(240年~249年)
 卑弥呼、死亡
 ↓↑
 『隋書』
 桓帝
 と
 霊帝の間
(146年~189年)
 倭国大乱
 189年前後?
 卑彌呼、女性
 鬼道を以て
 よく大衆を魅惑
 国人は王として共立
 ↓↑
 『北史』
 光和年間(178年~184年)
  倭国の内乱
 184年前後?
 卑彌呼、女性が
 よく鬼道を以て衆を惑わし
 国人は王に共立
 ↓↑
 日本列島、
 皆既日食
 247年3月24日日没
 248年9月 5日日出
ーーーーー
 ・・・???・・・
 公孫氏は後漢の時代より遼東に移り住み、勢力を強めた
 歴代の王朝は遼東を絶域とし
 周辺異民族との流通交易を行わなかった
 公孫氏は
 後漢末期の戦乱、三国鼎立後
 各国は国益と隣国への牽制も兼ね
 辺境部族と交流を持ちかけるようになった・・・
 ↓↑
 呉は
 遼東に
 周賀を送り込もうと謀るが
 魏の
 田豫に敗れ
 遼東公孫氏の
 公孫淵は
 孫権に使節を送り
 呉に恭順を示すふりをしながら
 呉の使者を襲撃
 その首を魏に送り
 魏の
 曹叡より
 楽浪公と専断権を得た
 ↓↑
 公孫淵の裏切りに
 孫権は公孫淵討伐軍を派遣しようとするが
 臣下の
 薛綜から
 公孫淵の支配地を得ても利益が無い事
 海洋遠征は危険である事
 兵士の脚気で兵を失う不利益を上訴
 断念した(三国志・薛綜伝)
 ↓↑
 237年
 孫権は
 高句麗と通じ
 遼東へ親征を行おうとし
 魏は
 毌丘倹を派遣し
 これと対陣
 毌丘倹が
 鮮卑の軍を動かし
 遼東に駐屯
 孫権は親征を断念
 魏は
 公孫淵に対し上洛を命じたが
 公孫淵はこれを拒否
 挙兵して
 遼隧で
 毌丘倹を撃退
 ↓↑
 同年
 公孫淵は
 燕王を称し
 年号を紹漢とし
 独立を宣言
 周辺部族を掌握し
 玉璽を与え
 魏との国境をめぐり抗戦継続
 ↓↑
 遼隧の戦い
 238年
 曹叡は
 司馬懿に4万余の兵を与え
 公孫淵征伐を命じた
 公孫淵も
 卑衍
 楊祚
 らに数万の軍を与えて
 遼隧に派遣
 司馬懿が遼東に到着すると
 卑衍が攻撃したが
 司馬懿は
 胡遵らを派遣し
 卑衍を破った
 ↓↑
 ・・・「卑」が「衍=はびこる・あふれる・蔓衍(マンエン)・しく・ひろげる・ひろがる・衍義・敷衍・あまり・余分な・衍字・衍文・ 類 羨(セン)・ひろい・おおきい・大衍(タイエン)・ 敷衍(フエン)・墳衍(フンエン)・蔓衍(マンエン)・衍義(エンギ)・衍字( エンジ)」・・・?
 ↓↑
 公孫淵は
 遼隧に数十里
 (三国志には二十里、晋書には六・七十里ほどと記録)
 の塹壕を掘り
 司馬懿の軍を迎え撃った
 遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固と見た司馬懿は
 東南に退却したとみせかけ
 国都の襄平に侵攻
 公孫淵は
 遼隧の軍を撤退させ
 都の守備に当たらせたが
 防戦一方となり敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲される
 ↓↑
 長雨の時期
 兵糧が底を突き
 公孫淵は
 人質を出して和睦しようと画策
 司馬懿はこれを許さず
 公孫淵を捕え、処刑
 公孫淵の子
 公孫脩
 をはじめとする一族も討たれ
 遼東の公孫氏は滅亡
 ↓↑
 戦後
 司馬懿はこの地に
 魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよう
 当地の15歳以上の男子を皆殺しにし
 夥しい数の亡骸で京観を作った・・・
 ↓↑
 公孫淵は
 呉の
 孫権に謝罪し
 援軍を求め
 239年
 孫権は援軍として
 羊衜
 鄭冑
 孫怡
 を派遣
 魏の
 曹叡が死去し
 魏は遼東への配慮を欠き
 羊衜らが
 遼東の
 牧羊城(旅順口)で
 魏の
 張持
 高慮
 らを破って
 その男女を捕虜として帰国
 ↓↑
 238年
 遼東公孫氏が滅亡し
 倭国が魏に使節を派遣
 ↓↑
 公孫氏が
 遼東で消滅したことで
 倭国は
 中国大陸の
 文化に直接触れることが
 可能になった・・・
 遼東公孫氏を滅ぼした
 魏は、
 完全に遼東半島を支配
 更に
 高句麗と
 国境を巡って衝突
 244年
 魏は
 毌丘倹
 を派遣し
 高句麗を侵攻
 遼隧の戦い
 で司馬氏は
 魏の軍権を掌握
 後に国権の強化を目論む
 曹爽との政争に繋がっていく
ーーーーー
 極東の
 国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、中遼の二郡とし
      自らの太守を置く
      また、山東半島に営州刺史を置き
      「遼東侯・平州牧」と号した
      「公孫度」の子、「康」が継ぎ、
      「度」の弟、「恭」が「永寧郷侯」
      となり、
      「康」は西暦196~220年まで
      楽浪郡を分けて
      帯方郡を置いた
 220年 後漢滅亡
      魏王・「曹丕」、「献帝」を廃し
      魏の「文帝」となる
 221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
 229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
      「公孫康」の子、「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
      「車騎将軍」の爵号を授く
 232年 呉の「孫権」、「淵」に「燕王」の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣
      「淵」はこの使者を殺し、
      その首を「魏」に差しだし、
      「楽浪公」の爵位を得る
 235年 高句麗王、「位宮=第11代、東川王
      姓は高、諱は憂位居、幼名は郊彘・東壌王」
      呉から「単・」の爵号を受く
      姓は位・名は宮
      高句麗の王、伊夷模(イイモ)と妾の子
      呉の孫権が遼東の
      公孫淵に
      使者を送り
      公孫淵に殺されたとき
      逃げてきた呉の人間を保護し呉に送り返した
      238年
      魏の
      司馬懿が公孫淵を討伐したとき
      魏に加担
      242年
      西安平に進入し略奪
      幽州刺史の
      毋丘倹に撃退され
      都の丸都を破壊され逃亡
      (魏書・東夷伝、毋丘倹伝、呉書・呉主伝)
 237年 「魏」は幽州刺史の
      「毋丘倹」を将軍にし「淵」軍と戦い敗北

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・238年 六月、「卑弥呼」、大夫「難升米」を「魏」におくる
 ・     ↓
 ・     八月、「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に
・ 「淵」軍敗北、戦死
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 239年 帯方郡・太守「弓遵」が「韓」族に攻められ戦死。
「韓」滅亡
 244年 「魏」は幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし、
高句麗軍を壊滅さす
      帯方郡太守「王頎」、
塞曹掾史
「張政」を「倭国」に派遣

 この「年表」に記されている「人名」と「官名」、「地名」の漢字とその「音」に注意すれば「古事記」が何を示唆しているか明かである。
 更に「238年」の「六月」と「八月」・・・ワズカ、「二カ月間」・・・。
 「卑弥呼」の「倭」は、少なくても「六月」までは「もと『燕』に属」さざるを得なかったハズである・・・?
 何故なら
 「公孫淵=燕」は
 「237年」には「呉」と同盟、あるいは册封関係にあり、
 敵対する
 「魏」の「幽州刺史」の
 「毋丘倹」を将軍とする軍隊と戦い、勝利し、
 翌年の
 「238年の八月」に
 「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北し、
 戦死したのである。
 時間的な流れでいえば、
 「倭」は「八月」までは
 「呉」と深い関係にあった
 「公孫淵=燕」に「属」していたハズだ・・・
 もちろん、状況的に、直接的にも
 「倭」は「呉」と深い関係にあったのだ。
 すると、
 「238年『六月』」、
 この『六月』に
 「卑弥呼」が
 大夫
 「難升米」を「魏」に送る 、
 と云うことはどういうことなのであるか。
 朝鮮半島はいまだ
 この年の『八月』まで「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
 どのような経路でいけたのか?・・・
 どのような目論見で「難升米」を「魏」におくったのか?
 「卑弥呼」は「邪馬台国」をまもるため、
 「呉=燕」の配下にありながらも
 二股をかけざるを得なかったのだ。
 あるいは
 「公孫淵=燕王」の「対魏戦略」に
 「卑弥呼」は乗せられたのである。
 あるいは「呉」そのものと「縁籍」であった。
 そして、
 『八月』、
 「公孫淵=燕」は
 「魏」の「司馬懿」を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
 『十二月』、
 「卑弥呼」は
 「魏王=明帝」から
 詔と「親魏倭王」としての
 「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらっている。

 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦
            卑弥呼の死亡
           「邪馬台国で男王」立つが「内乱」
           「宗女・壱與」が「十三才で女王」となる
 238年から六年後、
 244年に
 「高句麗王=位宮」も敗北した。
 朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?・・・
 当然、「倭」へ、である・・・。
 そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は
 「魏」の
 「張政」に担ぎ上げられた
 「壱与」に権力交替したのである。
 「狗奴国との対立」や
 「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
 すなわち、この部分に於いても
 「陳寿」は
 「使役=シエキ=使訳(?)」の報告すべてが
 正しいわけがあるまい、と言っているのだ。  
 「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的である。
 同音異字なら「芝居」で、しかも「芝居」は日本語であるから・・・。
 ・・・この『六月』の「卑弥呼」に対する「魏」の答えは・・・
 「卑弥呼」の排除である。
 243年は「宗主国」である「魏の帯方郡太守」が
 「倭へ使者」を派遣してきたのである。
 その後の
 「壱与」の権力交替は「帯方郡使」としての
 「張政=魏」の策謀による
 「淵=燕=呉」親派の「卑弥呼」の「縊殺・絞殺」
 あるいは
 「溺殺」によるものである・・・?
 「張政」と「壱与」の「告喩」としての「卑弥呼」に対する侵攻は朝鮮半島、博多「伊都」、そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし、「長崎」、「諌早」、「熊本・宇土・横島」とその勢力を浸透させて「卑弥呼」を殺害したのだ・・・
 その後、「壱与」は「宇佐」に東遷し、権力の基盤を「大分」に置いた。だが、「卑弥呼」の親派勢力は長崎「諌早」、「天草諸島」、「熊本・横島」にその勢力を有していたハズである・・・。
 結論的に九州は「魏」の配下に入ったが、
 「二人の女王」の勢力は
 「遼東半島」、「山東半島」、「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓」の亡命者、血縁者を抱え、
 「太陽の烏=卑弥呼=長崎・諌早=左目=天照大御神」と
 「月の卯=壱与=大分・宇佐=右目=宇受女=豊受大神」
 に分裂=磐余(イワレ)=大分していたのだ。
 もちろん、
 「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」は
 「博多・伊都=須佐之男」であるハズだ。
 その後、
 「卑弥呼」の勢力は何処へ移動して行ったのか?
 広島の「呉」、「吉備」、四国の「土佐」、「紀伊」、「奈良」、山陰の「越」へ・・・「尾張」、「美濃」へ。
 「壱与」の勢力は何処へ?
 四国の「愛媛=讃岐=サ貫」、「阿波」、山陰の「出雲」へ。
 ↓↑
 日本列島=「弓状の周囲」を一周しながら、
 「二つの勢力」は「斑点」のように
 「縄文人=蝦夷」の地へと分散、移民して行った。
 特に「卑弥呼」の勢力は
 「縄文人=蝦夷」と血縁的にも強く結び付いていったハズである
 ↓↑
 帯方郡(たいほう-ぐん)は
 204年~313年の
 109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点(植民地との見方も存在する)。
 楽浪郡の南半を割いた数県(晋代では7県〈『晋書地理志』〉)と、東の濊、南の韓、南端の倭(半島南端)がこれに属す。後漢から魏、西晋の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という東夷地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。
 帯方郡治は、楽浪郡治(平壌)の南方にあった
 ↓↑
 後漢の末、
 中平六年(189年)に
 中国東北部の
 遼東太守となった
 公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、
 後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、
 現在の平壌付近から
 漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。
 その後を継いだ嫡子
 公孫康は、
 建安九年(204年)
 楽浪郡十八城の南半
 屯有県(黄海北道黄州か)以南を割くとともに
 南方の土着勢力韓・濊族を討ち
 併せて帯方郡として
 「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」
 という朝鮮半島南半の統治体制を築く。
 郡治とは、
 その周囲の数十県(城)の
 軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、
 個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。
 公孫康はほどなく
 魏の曹操に恭順し、その推薦によって
 後漢の
 献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、
 帯方郡も後漢の郡として追認された。
 ↓↑
 公孫康の死後、
 その子の
 公孫淵が幼いために
 公孫康の実弟
 公孫恭が後を継ぎ、
 後漢の献帝から
 禅譲を受けた
 魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により
 車騎将軍・襄平侯に封じられた。
 しかし
 太和二年(228年)
 成長した
 公孫康の子の
 公孫淵は
 叔父の
 公孫恭の位を奪い取り
 魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて
 揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。
 公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、
 魏朝の仇敵である
 呉の孫権との同盟を画策し、
 最終的には、
 魏から受けた
 大司馬・楽浪公の地位を不足とし、
 景初元年(237年)
 反旗を翻して独立を宣言。
 遼東の襄平城で
 燕王を自称するにいたる。
 帯方郡も
 楽浪郡もそのまま燕に属した。
 ↓↑
 翌年(238年)
 魏の太尉
 司馬懿の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ
 長期の兵糧攻めにあって
 公孫淵とその子
 公孫脩は滅びる。
 これまで
 帯方郡は「後漢─魏─燕」と、
 形式的にはその所属に変遷があったが、
 実質的は一貫して
 公孫氏の領有下にあり
 韓や倭といった
 東夷からの朝貢は
 公孫氏が受け取っていた・・・
 ↓↑
 魏の直轄経営
 襄平城の攻城戦の最中
 魏は
 劉繒と
 鮮于嗣をそれぞれ
 帯方太守、楽浪太守に任じ、
 両者を密かに海路で
 山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣。
 帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。
 帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。
 太守・劉繒は、
 周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、
 魏との冊封関係を改めて結び直した。
 邪馬台国・卑弥呼も
 景初二年六月
 (238年・『魏志倭人伝』の記述は誤りで
  景初三年が正しいとする説も?)
 この新生・帯方郡の地へ
 朝貢使の難升米を派遣した
 このとき太守は
 劉夏であったが
 彼は郡の官吏を付けて
 後漢の都・洛陽まで
 難升米の一行を送らせた。
 ↓↑
 正始元年(240年)
 新太守、
 弓遵は
 魏の詔書・金印紫綬を配下の
 梯儁に持たせて
 卑弥呼のもとへ送った。
 ところがこの弓遵は、
 同六年(245年)に嶺東へ遠征し
 東濊を討った後、
 それまで帯方郡が所管していた
 辰韓八国を
 楽浪郡へ編入することになり、
 その決定を現地に伝えた際、
 通訳が誤訳を犯し
 韓族を激怒させ
 郡内の韓族が
 帯方郡の
 崎離営を襲った。
 これを
 弓遵と
 楽浪太守の
 劉茂が兵を興して討ち、
 魏軍は韓族を滅亡させたが
 弓遵は戦死
 ↓↑
 同八年(247年)
 弓遵から引き継いだ太守
 王頎は、
 倭の使者から
 邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け
 自ら上洛して官の決裁を仰ぐが
 魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく
 魏の少帝の
 詔書と黄幢を携えた
 塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の
 張政が派遣された。
 ↓↑
 歴代太守の記録
 戦死した
 弓遵の例を除き
 外交官としての
 非軍事的活動が主である
 その頻繁な人事異動には(8年間で4人の太守)
 帯方郡の軍閥化を防ぎ
 第2の
 公孫氏を生まぬようにするための
 魏の基本方針・・・?
 ↓↑
 帯方郡の滅亡
 泰始元年(265年)
 魏の重臣であった
 司馬炎(懿の孫、後の晋の武帝)が
 魏の曹奐(元帝)から禅譲を受けて
 晋朝(西晋)を興すが、
 永康元年(300年)
 身内の八王の乱で混迷状態
 この時代、
 帯方郡に属する県は
 帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥
 の7県であった(『晋書地理志』)
 ↓↑
 建興元年(313年)
 遼東へ進出した
 高句麗が南下して
 楽浪郡を占領
 朝鮮半島南半に孤立した
 帯方郡は
 晋の手を離れ情報も途絶した。
 元の帯方郡や楽浪郡南部に残された
 漢人の政権や都市は
 東晋を奉じて
 5世紀初頭までの存続が確認
 が、
 5世紀前半には
 百済によって征服され
 5世紀後半に
 高句麗が百済を駆逐して支配下へ置いた。
 ↓↑
 倭との関係
 帯方郡の滅亡後も地理的概念として帯方の名は残った
 広開土王碑文によると
 404年
 倭から百済征伐の形で北侵
 帯方界(旧帯方郡の境界?)に進入し
 高句麗と戦って
 無数の将兵を失った・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

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ツバメのボランティア・・・?

2018-08-06 23:44:45 | 古事記字源

 ・・・月曜日、8/6/21:30・・・外に出て南東の夜空に火星を確認してきた・・・ボクのカスミ眼には相変わらず橙色の光源が一つの物体から四点の穴から輝き漏れているように視える・・・それにしてもデッカく視える・・・昨日はハムもコンサも負け、今日は旭川も北照も、負けた・・・大谷さん、打った・・・明日、立秋は、「二十四節気の第十三。七月節(旧暦6月後半から7月前半)。定気法では太陽黄経が135度のときで8月7日ごろ」・・・アキが(弖爾乎波・てにをは・で・に・を・は)タツって??・・・「安芸・亜紀」・・・「助詞・接続詞・言葉のつじつまを意味する言葉のこと。「は」、「を」、「が」、「も」、「に」など、語句と語句との間に使用し、単語同士の関連性を示したり、意味を加える言葉」・・・俗に「てにをは(弖爾乎波・天爾遠波)」か「てにはを(弖爾波乎)」と呼ばれる(Wikipedia)・・・
 「他言語との接続詞、後置詞」・・・高知市(史・氏・師・士)・・・土佐のサカモト某のコト・・・???
ーーーーー
 「星の王子さま」が、大人の利害関係で「トラブル」なんッて?
 「審議が終わるまで、このお知らせを除去しないでください。
 (以下、著作権侵害の可能性がある箇所を取り除いた内容を
  暫定的に表示します。Wikipedia)」
 ・・・???
 ・・・「星(リュウグウ)の皇子(はやぶさ2)さま」・・・「ミズの無い星」って?・・・「乙姫さまも魚たちもイナイ」?
  ↓↑
 「星の王子様(アントワーヌ・サン=テグジュペリ・1943年出版)」
 か
 「幸福な王子(The Happy Prince・アイルランド出身の文人オスカー・ワイルドによる子供向けの短編小説・この小説が初出する短編集 The Happy Prince and Other Tales の通称・1888年に初版」
 か・・・
 「夜空の星の所有権を主張し、その数の勘定に日々を費やす実業家」・・・ヤッパ、「The Happy Prince」の事情だ。相棒は「はやぶさ」じゃぁなく、越冬「つばめ(燕・鷰・鳦・乙鳥)」じゃぁなく・・・皇子に尽くして、皇子の財産を剥ぎ取っては貧しい人々に運搬し、「南方のエジプトへの渡りの時期を逃し、寒さに凍え死んだツバメ」だョッ・・・?
 「ツバメは
  皇子の
  剣に装飾されていたルビーを
  病気の子供とその母親に
  両目のサファイアを
  飢えた若い劇作家と
  幼いマッチ売りの少女に
  配送
  ツバメは
  エジプトに渡る事を中止
  街に残り街中を飛び回り
  両目をなくしメクラになった皇子に
  街の人々の暮らしを報告
  皇子はまだたくさんいる不幸な人々に
  自分の体の
  金箔を剥がし
  分け与えてと頼む
  冬が訪れ
  皇子はみすぼらしい姿
  ツバメは体力を失い
  最後の力を振り絞って
  皇子にキスをし彼の足元に落下し
  息をひきとり
  そして
  皇子の鉛の心臓は
  音を立て二つに割れた・・・
  王子の像は
  柱から取り外され
  溶鉱炉で溶かされたが
  鉛の心臓だけは溶けず
  ツバメと一緒に
  ゴミ溜めに捨てられてしまった・・・
  神に命じられた天使は
  ゴミ溜めから
  皇子の鉛の心臓
  と
  死んだツバメを
  神のもとに持ってきた・・・
  ↓↑
  ・・・「鉛の心臓」は鉄砲の弾丸、「ツバメの身体」は焼き鳥・・・真っ逆・・・真、佐賀のハナシ・・・か?・・・そんなァ~

   ↓↑
 『雀孝行』
 「昔、燕と雀は姉妹であった。あるとき親の死に目に際して、雀はなりふり構わず駆けつけたので間に合った。しかし燕は紅をさしたりして着飾っていたので親の死に目に間に合わなかった。以来、神様は親孝行の雀には五穀を食べて暮らせるようにしたが、燕には虫しか食べられないようにした(Wikipedia)」

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