・・・旧のお盆(月遅れのお盆) 8月13日~16日・・・「盆入りの8月13日の夕方に先祖の霊が迷わないように迎え火を焚き、盆明けの8月16日の夕方に送り火を焚いて先祖の霊を見送る」・・・「盆=分(八刀)+皿=皿の上のモノを分ける」・・・「逝く=ゆく=行く・往く(往復)」・・・ 「逝く=辶+折=二度と帰らない世界へイクこと、イったまま帰らないこと・死ぬ・二度と帰らない世界へイク・行ったきり帰らない」・・・「お盆=逝った人の往復」って?・・・魂魄の現世帰還・・・「カネが無くても阿波踊り」は「タマシイのお迎え」・・・
お盆、終わった
日本人の
戦争、負けて終わった・・・
↓↑ ↓↑
昭和二十年(1945)八月十五日
乙酉(庚・ ・辛)
甲申(己・壬・庚)
丙辰(乙・癸・戊)
↓↑ ↓↑
神武天皇が即位日(紀元前660年2月11日)
今生天皇最期の平成三十年
お盆、終わった
↓↑
「往くなり(説文解字・巻二)」
「逝、往くなり(方言)」
「逝、秦晉の語なり(方言)」
↓↑
往=彳+王(古体は「㞷(屮王)」、「主」ではない?)
王=人が手足を広げる様で?、足をすすめるの意?・
↓↑ ↓↑
西周金文の象形文字は
「七支刀(しちしとう)=六又鉾(むつまちほこ)」
にみえる
『泰□四年五月十六日丙午正陽
造百練□七支刀
□辟百兵 宜供供侯王 □□□□作』
『先世来未有此刀
百済□世□奇生聖音
故為倭王[二/日]造 伝示□世』
↓↑ ↓↑
晋(西晋)の 泰始四年(268年)?
↓↑ ↓↑
秦■四年
百済の蓋鹵王が
宋に遣使457年に鎮東大将軍に任ぜられた
468年の宋年号=泰始四年(468年)?
468年6月8日
戊申(己・壬・庚)
戊午(丙・ ・丁)
丙午(丙・ ・丁)
↓↑ ↓↑
百済王=蓋鹵王
百済の世子=武寧王=斯摩王
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
太和(泰和)四年(369年)?
百済の独自年・・・???
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
「泰始四年(268年)五月十六日」=「丙午」
西暦268年5月8日=「丙午」
戊子(壬・ ・癸)
丁巳(戊・庚・丙)
丙午(丙・ ・丁)
臺與の時代=壹與(235年+13+α)=248年+α
『晋書』起居註に
秦始二年(266年)
倭の女王の使者が朝貢
150年後の
義熙九年(413年)
倭王讃の朝貢(倭の五王)
↓↑ ↓↑
「泰和四年(369年)
百済王の太子
奇生聖音が
倭王旨のために
七支刀を造った
この世にも珍しい刀を献上するので
末永く保存して欲しい」
↓↑ ↓↑
奇生聖音=近仇首=貴須は同一人物・・・?
倭王-旨(うまし・シ)
広開土(こうかいど)王=好太王(こうたいおう)
國岡上廣開土境平安好太王=永楽大王
(374年~412年)は高句麗の第19代王
日(ひ・か・ニチ・ジツ)・・・曰(いわく・エツ)
十(とお・と・そ・たり・ジュウ・ジツ・ジフ)
大王
斯麻(しま)=武寧(ぶねい)王
獲加多支鹵(わかたける)大王
↓↑ ↓↑
倭の五王
↓↑ ↓↑
「讃」→履中天皇? 仁徳天皇? 応神天皇?
「珍」→反正天皇? 仁徳天皇?
「済」→允恭天皇
「興」→安康天皇
「武」→雄略天皇
↓↑ ↓↑
413年 東晋 義熙九年
讃
東晋・安帝に貢物を献ずる
(『晋書』安帝紀・『太平御覧』)
↓↑ ↓↑
421年 宋 永初二年
讃
宋・武帝に朝献し除授の詔
安東将軍倭国王
(『宋書』夷蛮伝)
↓↑ ↓↑
425年 宋 元嘉二年
讃
司馬の曹達を遣わし
宋の文帝に貢物を献ずる
(『宋書』夷蛮伝)
↓↑ ↓↑
430年 宋 元嘉七年
讃
1月
宋に使いを遣わし、貢物を献ずる
(『宋書』文帝紀)
↓↑ ↓↑
438年 宋 元嘉十五年
珍
倭王讃没し、弟珍立つ
宋に朝献し、自ら
「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓
六国諸軍事安東大将軍倭国王」
と称し、正式の任命を求める
(『宋書』夷蛮伝)
4月
宋文帝
珍を
安東将軍倭国王とする
(『宋書』文帝紀)
珍は
倭隋ら13人を
平西・征虜・冠軍・輔国将軍
にされんことを求め許される
(『宋書』夷蛮伝)
↓↑ ↓↑
443年 宋 元嘉二十年
済
宋・文帝に朝献し
安東将軍倭国王とされる
(『宋書』夷蛮伝)
↓↑ ↓↑
451年 宋 元嘉二十八年
済
宋朝・文帝から
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
六国諸軍事」を加号される
安東将軍はもとのまま
(『宋書』倭国伝)
7月
安東大将軍に進号する
(『宋書』文帝紀)
上った23人は、
宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる
(『宋書』夷蛮伝)
↓↑ ↓↑
460年 宋 大明四年
済
12月
孝武帝へ遣使して貢物を献ずる
↓↑ ↓↑
462年 宋 大明六年
興
3月
宋・孝武帝
済の世子の
興を安東将軍倭国王とする
(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
↓↑ ↓↑
477年 宋 昇明一年
興(武)
11月
遣使して貢物を献ずる
(『宋書』順帝紀)
興没し、弟の武立つ
武は自ら
「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する
(『宋書』夷蛮伝)
↓↑ ↓↑
478年 宋 昇明二年
武
上表して、自ら
開府儀同三司と称し、叙正を求める
順帝、
武を
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
六国諸軍事安東大将軍倭王」とする
(『宋書』順帝紀・「武」と明記した初め)
↓↑ ↓↑
479年 南斉 建元二年
武
南斉の高帝、王朝樹立に伴い、
倭王の武を
鎮東大将軍(征東将軍)に進号
(『南斉書』倭国伝)
↓↑ ↓↑
502年 梁 天監一年
武
4月
梁の武帝、王朝樹立に伴い
倭王武を
征東大将軍に進号
(『梁書』武帝紀)
ーーーーー
「標」の原義から「禁野」と誤解した・・・?
「標」の原義は「墓標」ではないのか・・・?
↓↑ ↓↑
ゆく・いく・いぬ・すすむ
往還・往診・往路・・・往来・往復
むかし・いにしえ・以前に・かつて
已往(イオウ)・既往・古往
のち・あと・おり
以往・往往
已往(イオウ)・帰往(キオウ)
既往(キオウ)・古往(コオウ)
往来・往復・・・往き来(いきき)
↓↑ ↓↑
往還(オウカン)・往古(オウコ)
往古来今(オウコライコン)
往歳(オウサイ)
往事渺茫として都(すべ)て夢に似たり
往時(オウジ)・往生(オウジョウ)
往生素懐(オウジョウソカイ)
往生際(オウジョウぎわ)
往昔(オウセキ)・往年(オウネン)
往訪(オウホウ)
往亡日(オウモウニチ)
往きがけの駄賃
往き大名の帰り乞食
往く者は追わず
右往左往
以往
↓↑ ↓↑
逝=辶+折(扌斤)・・・扌(手・て・シュ)
斤(おの・キン・コン)
辵+折(扌斤)
辵 (ちゃく・しんにょう・しんにゅう・しにょう)
ゆく・いく・セイ・セツ・テツ
去る・人が死ぬ・die・death
ある人を敬って死をいう言葉
逝水・逝去・長逝
永逝(エイセイ)・遠逝(エンセイ)
急逝(キュウセイ)・夭逝(ヨウセイ)
逝水(セイスイ)=流れ去る水
逝=死
いく・立ち去って帰らない
死ぬことを婉曲にいう語
逝=辶+折(おる・セイ・セツ・テツ)
通仮字は筮・噬
異体字は䠠・遞・遰・递・遆・𨒾
𨓝・𨓠・𨔄・𨔛・𨕑・𨘬
逝の部首は辵
折+α・・・誓・哲
ーーーーー
天智天皇
↓↑
誕生 626年
崩御 672年1月7日
↓↑
天智天皇七年(668年) 新羅の文武王の代に使節を送った
天智天皇九年(670年) 新羅の文武王の代に使節を送った
↓↑
在位期間
天智七年(668年2月20日)~672年1月7日
↓↑
舒明天皇の第2皇子
叔父・孝徳天皇(軽皇子)の皇太子
先代 斉明天皇(皇極天皇重祚)
次代 弘文天皇(大友皇子)
↓↑
皇后・倭姫王(やまとひめのおおきみ)=古人大兄皇子の娘
夫人・道君-伊羅都売(いらつめ)=道君氏の娘
第七皇子=志貴(しき・施基)皇子
(春日宮天皇=後に親王=光仁天皇の父)
采女・宅子娘(やかこのいらつめ)=伊賀国造某の娘?
第一皇子=友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)
↓↑
誕生 626年
崩御 672年1月7日
↓↑ ↓↑ ↓↑
天智十一年十二月三日(672年1月7日)
近江大津宮で崩御
↓↑
近江大津宮
斉明天皇六年(660年)
と
天智天皇十年(671年)
に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせた
↓↑
天智天皇の蒲生野行幸は
天智七年(668)五月五日
↓↑
「茜草指
武良前野逝・・・武良前野-逝・・・逝=死
標野行・・・・・・・標野-行・・・逝≠行
野守者
不見哉
君之
袖布流」・・・・袖振る=相手の霊魂を招き寄せる呪術?
「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも」
↓↑
「額田王が
大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく
宴などでおおやけに披露した歌と思われる
(宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)」
↓↑
「才女の額田王がからかいかけた
どう少なく見積もっても、
この時すでに
四十歳になろうとしている
額田王に対して
天武もさるもの
『にほへる妹』などと、しっぺい返しをした
↓↑
天智天皇の大殯(おおあらき)の時の歌
↓↑
「かからむと
かねて知りせば
大御船(おほみふね)泊
はてし泊に
標結(しめゆ)はましを(万2-151)」
大殯 殯(あらき)の尊敬語
埋葬までの間
天皇の遺体を柩におさめて安置しておくこと
↓↑
吉野の宮に幸いでませる時
弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首
↓↑
「古(いにしへ)に
恋ふる鳥かも
弓絃葉(ゆづるは)の
御井(みゐ)の上より
鳴き渡りゆく」
↓↑
額田王の和こたへ奉る歌一首 倭京より進入(たてまつ)る
↓↑
「古に
恋ふらむ鳥は
霍公鳥(ほととぎす)
けだしや鳴きし
我が思へるごと(万2-112)」
↓↑
遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は
ほととぎす
もしかすると
鳴いたかも
私が昔を偲んでおりますように
↓↑
吉野の宮に幸せる時
持統天皇の吉野行幸
持統四年(690)~同八年頃
弓削皇子は二十代
額田王は六十代
倭京=飛鳥京
霍公鳥=過去を偲んで
悲しげに鳴く鳥・・・霍公鳥≠雷鳥
霍≠雷
霍=にわか・つる・カク
はやい・すみやか
霍乱(カクラン)・霍然=カクゼン=確然
霍然=突然・急に・いきなり
確然=確固
ホトトギス=不如帰・杜鵑=時鳥
一度帝位を退いたのち
復位を望んだ
蜀の望帝が
その志を果たせず
死して「ほととぎす」と化し
往時を偲んで昼夜分かたず鳴いた
中国の故事
「我が思へるごと」は
西本願寺本などの原文に
「吾戀流碁騰」とあり
「あがこふるごと」と訓む説も・・・
↓↑
「古に恋ふる鳥かも」
(昔を懐かしがる鳥なのでしょうね)
と暗に
額田王を鳥に喩えて詠んだ
弓削皇子の歌に対し
中国の故事を踏まえて
婉曲に「その通りです」と答えた歌・・・
↓↑
668年
↓↑
干支
戊辰年
日本
天智天皇七年668年
皇紀1328年
中国
唐
乾封三年、総章元年
↓↑
東ローマ皇帝コンスタンス2世が暗殺
↓↑
10月
唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)
が
高句麗を滅ぼす(唐の高句麗出兵)
唐が平壌に安東都護府を設置
日本
1月
近江令を制定
2月20日(天智天皇七年一月三日)
天智天皇即位式
4月10日(天智天皇七年二月二十三日)
大海人皇子が立太子
6月19日(天智天皇七年五月五日)
近江蒲生野にて薬猟
大海人皇子と額田王の相聞歌
9月
新羅使、調を貢進する
新羅の僧が
草薙剣(天叢雲剣)を
国外に持ち出そうとする
草薙剣盗難事件
↓↑
誕生
行基、奈良時代の僧(~749年)
ユスティニアノス2世
東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝最後の皇帝(~711年)
↓↑
死去
7月15日
コンスタンス2世
東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(630年~)
智儼、中国華厳宗の第二祖とされる僧(602年~)
ブラーマグプタ、インドの数学者、天文学者(598年~)
ーーーーー
↓↑
秋の田の
かりほの庵の苫をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ
↓↑
「屋根を葺いている苫が粗いので
私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」
↓↑
香具山は
畝火雄々(を愛)しと
耳梨と
相争ひき
神代よりかくなるらし
古へもしかなれこそ
うつせみも嬬(妻)を争ふらしき
↓↑
「高山波
雲根火雄男志等
耳梨與
相諍競伎
神代従如此尓有良之
古昔母然尓有許曽
虚蝉毛
嬬乎
相挌良思吉」
ーーーーー
・・・???・・・