・・・「オデッセイ(odyssey・長期間の冒険、知的探求・原題: The Martian)」・・・生きて帰還する・・・何処に?・・・「イリ」・・・「相撲」、「首相夫人」、「モリカケ」・・・「アメリカン-フットボール」・・・今度は「アマチュア-ボクシング会長」・・・「文部省-事務次官」・・・ヤァッ!!、日本の政治屋っていうか、接待してもらうことは市民生活の「日常文化」、「おもてなし=客や大切な人への気遣いや心配り・心のこもった待遇・お+持て成し・饗応・供応」・・・「うらてあり=台所・調理場・庫裏(くり)・かまど(竈)場=穀物や食料品などを加熱調理する際に火を囲うための調理器、竃(かまど・釜戸)設備のある部屋・御勝手」?・・・「おもて=表・面」+「なし=為し・成し・生し・無し」、「うらて=裏手」+「あり=有り」?・・・モチロン、市民社会の「イデオロギーの私物化」も「階級身分文化」のウチ・・・ボクも接待される側の「身分」になりたいモノだが・・・組織的な権力機構の序列の最下層で生きているらしいから「自炊」で充分か・・・「自スイ」からカイホウされるヒはメデタイだろうナッ?・・・
「炊」って?・・・
炊=火+欠=火+丿+乛+人
=異体字は「𣣛」
=炊は火に息をふきかけ・・・
欠=あくび・ケツ・カク=欠伸・・・
欠片(かけら)
欠=缺=缶(午凵)+夬(ユ人)
=空気を送って火の勢いを得て食物を煮炊きすること
欠唇・欠損・欠員・欠陥・欠如
欠点・欠乏・残欠・不可欠
欠けている所・補欠
↓↑
吹=口+欠=ふく・スイ・・・吹奏楽団
次=冫+欠=氷+欠・・・・・・次点・目次・次第
欣=斤+欠
よろこぶ・キン・ゴン・コン
↓↑
欸・欹・欧・歌・款・歓・歛
欷・欺・歙・歔・欣・欽
欠=缺=ある物体の穴からでる空気(気体)の音
歇・歉・次・歠・歃・歎・歟
欲=谷+欠・・・欲望・私欲・欲求
資・・・資質・資本・資源
姿・・・姿態
恣・・・恣意
諮・・・諮問
茨・・・茨城・茨木
盗=次+皿=ぬすむ・トウ・・・盗賊
↓↑ ↓↑
炊=たく・かしぐ・スイ
めしをたく・煮たきをする
炊事・雑炊・一炊 (イッスイ)
自炊(ジスイ)・晨炊(シンスイ)・雑炊(ゾウスイ)・・・
炊ぐ(かし-ぐ)・炊煙ん(スイエン)
炊臼の夢(スイキュウのゆめ)
炊金
饌玉(スイキンセンギョク)
炊爨(スイサン)
炊事(スイジ)
炊飯(スイハン)
炊(た)く
い・かし・かしぎ・とぎ・とぐ
一炊之夢(イッスイのゆめ)
栄華之夢(エイガのゆめ)
邯鄲之夢(カンタンのゆめ)
黄粱之夢(コウリョウのゆめ)
盧生之夢(ロセイのゆめ)
ーーーーー
推古天皇(スイコ-テンコウ)・・・ふるきをおす-天工・転向・転校
↓↑ ↓↑
欽明天皇十五年(554年)・・・欽=金+欠
~
推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
『古事記』は(三十七年戊子・三月十五日)
第三十三代天皇
在位
崇峻天皇五年十二月八日(593年1月15日)
~
推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
最初の女帝(女性天皇)
諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ・ガクデンブ)
↓↑ ↓↑
和風諡号は
豊 御食 炊 屋姫 尊
(とよみけ かしき やひめのみこと)
豊 御食 炊 屋比売 命
炊 屋姫 尊
ーーーーーー
大陸では
「男子は氏
女子は姓
を称した」・・・?
↓↑
推古天皇(すいこてんのう)
欽明天皇十五年(554年)
~
推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
『古事記』は(三十七年戊子・三月十五日)
第三十三代天皇・・・サン拾サン
在位
崇峻天皇五年十二月八日(593年1月15日)
~
推古天皇三十六年三月七日(628年4月15日)
最初の女帝(女性天皇)
諱は額田部皇女・・・・・額(客の頁)田(た・デン)の部?
(ぬかたべのひめみこ)
和風諡号は
豊 御食 炊 屋 姫 尊
(とよ みけ かしき や ひめのみこと)
豊 御食 炊 屋 比売 命
炊 屋 姫 尊
↓↑
三輪 逆(みわ の さかう)
・・・ナンで「逆(さからう・さかさ)」?
纂話(三話・参話・讃和)は逆?・・・編纂の倭は逆?
姓は君・・・姓(女+生)は君(尹+口)=クン=訓?
三輪特牛(矢口)の子・・・特(牛+寺)の牛(𠂉+十)
敏達天皇(びだつてんのう)・別名、「他田天皇」?ナゼ、タダ?
(渟中倉太珠敷尊=沼名倉太珠敷命)
(ぬなくらのふとたましきのみこと)
の寵臣
↓↑
敏達天皇十四年(585年)六月
蘇我馬子が
敏達天皇に仏法を許され
仏舎を造り、仏像を迎えて供養した際に
三輪 逆は
物部守屋
中臣磐余と寺塔を焼き
仏像を廃棄しようと謀ったが
蘇我馬子に拒まれた
同年八月
敏達天皇が崩御し
殯宮で葬儀
三輪 逆は
「朝廷を荒らさぬよう
鏡のように浄めて平らかに治まるよう
臣は仕えます」
と誄を読み
隼人を集めて殯庭を警護
↓↑
用明天皇元年(586年)五月
穴穂部皇子は
炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)
を犯さんと欲して、殯宮に押し入ろうとした
「三輪逆」は
兵衛を集めて宮門を閉じて侵入を拒んだ
穴穂部皇子は
七度開門を呼ばまわったが
三輪逆は入れなかった
穴穂部皇子は激怒
大臣の蘇我馬子
と
大連の物部守屋
に
三輪逆は不遜であると言った
馬子と守屋はこれに同意
穴穂部皇子は
物部守屋とともに兵を率いて
磐余の池辺を囲んだ
三輪逆は
三輪山に逃れ
その日の夜に山を出て
炊屋姫の後宮(海石榴市宮)へ隠れた
逆の一族の
三輪白堤と
三輪横山が
三輪逆の居場所を密告
穴穂部皇子は
守屋に遣いを出して
三輪逆と2人の子供を殺すことを命じた
物部守屋は三輪逆を討つべく兵を率いて
海石榴(つばき)・・・海石榴(カイセキリュウ)
・海の石の榴(ざくろ)=根は駆虫薬
市宮へ向かった
穴穂部皇子も
物部守屋と合流すべく自邸を出たが
蘇我馬子が
「王者は刑人に近づくべきではない」
と諫言して止めた
穴穂部皇子と馬子が待っていると
守屋が帰ってきて
三輪逆を斬ったことを報告
(穴穂部皇子が自ら射殺・・・)
馬子は「天下の乱は近い」と嘆き
守屋は「汝のような小臣の知るところではない」
と言った・・・
↓↑
三輪逆は敏達天皇に信任され
内外のことを悉く委ねられていた
このため
炊屋姫と馬子は
穴穂部皇子を深く恨むようになった
後
穴穂部皇子と物部守屋は
蘇我馬子によって滅ぼされた
↓↑
穴穂部皇子(あなほべのみこ)
?~用明天皇二年六月七日(587年7月17日)
欽明天皇の皇子
聖徳太子の叔父
物部守屋と結託したが
蘇我馬子に殺された
↓↑
欽明天皇の皇子
母は
蘇我稲目の娘
小姉君
異母兄に
敏達天皇・用明天皇
同母姉に
穴穂部間人皇女(用明天皇妃・聖徳太子生母)
同母弟に崇峻天皇
↓↑
穴穂部皇子は皇位を望み
敏達天皇十四年(585年)八月
兄・敏達天皇が崩御し
同年九月
大臣・蘇我馬子の推す
大兄皇子(用明天皇)が即位
これに対抗し
大連・物部守屋と結んだ
ーーーーー
中臣 勝海
(なかとみ の かつみ)
生年未詳~用明天皇二年(587年)四月
中臣勝海は
蘇我氏の家来(太子伝暦には太子舎人)
迹見赤檮によって殺された
↓↑
姓は連
出自は不明
父は中臣鎌子・・・中臣鎌足とは別人?
・中臣磐余・・・磐余?・・・神武天皇
磐余は黒田の子
常盤の弟に伊礼波とあり
同一人物の可能性・・・
・中臣真人・・・天武天皇?
の諸説がある
大夫(まえつきみ:議政官)の地位にあった。
中臣氏は舒明期の中臣御気から鎌足まで記録が無い
↓↑
・中臣-宮地-連-鳥麿呂
長屋王の謀叛を密告し
無位から外五位に取り立てたれ
後に長屋皇の家臣に殺された
↓↑
中臣氏は
・中臣黒田
・中臣塩屋連?・・・中臣枚夫?
・中臣鯯(コノシロ)=塩屋連(魚制)魚(コノシロ)
堺部鯯魚(コノシロ)
幼魚=ママカリ・つなし
有間皇子に味方し
鎌足と敵対し殺された
・中臣鯯より始まる
・中臣黒田から3代目
・中臣御気
子が
・中臣鎌足・・・?
↓↑
敏達天皇十四年(585年)三月
物部守屋と共に
疫病流行の原因が
蘇我氏の仏教信仰のせいと奏上
用明天皇二年(587年)四月
天皇が病床で仏教に帰依する旨を詔し
群臣にこのことを協議するように命じた
守屋と共に詔に反対し
後
守屋の挙兵に呼応し
自宅に兵を集め
押坂彦人大兄皇子の像
と
竹田皇子の像を作り呪詛
が、反乱計画の不成功を知って
彦人大兄に帰服
皇子の宮に行ったが
迹見赤檮(迹見首赤檮)に殺された
↓↑
迹見赤檮(迹見-首-赤檮)
(とびのいちい・とみのいちい)
首(おびと)
物部守屋の反乱
合戦で
迹見赤檮は
秦河勝とともに
物部守屋を
直接弓で射止めた
赤檮(イチイ)=イチイガシの別称
イチイ科の常緑針葉高木、園芸植物、薬用植物
ーーーーー
系図によると
勝海には
中臣若子
中臣古多比
中臣贄古
の三子があり
古多比からは
中臣宮処氏(中臣宮処氏連)が
贄古からは
中臣大家氏(中臣大家連)が出た
ーーーーー
菟道貝蛸(うじのカイダコ)皇女
大中臣安遊麻呂(おおなかとみのアユまろ)・・・鮎
中臣烏賊津連(なかとみのイカつのむらじ)
粟田入鹿(あわたイルカ)・・・・・・海豚
道公宇奈岐(みちのきみのウナギ)・・鰻
加茂小鮒(かものをブナ)
堺部鯯魚(コノシロ)・・・・鯯魚(コノシロ)
紀鯖麻呂(きのサバまろ)
大豆鯛麻呂(おおまめタイまろ)
尾張須受枳(おわりのスズキ)・・・鱸
粟凡鱒麻呂(あわおおしのマスまろ)
ーーーーー
ーーーーー
イシク・クル
(ウイグル語:Ysyk-Köl
キルギス語:Ысык-Көл
ロシア語: Иссык-Куль)
天山山脈の北
キルギスの北西に在る内陸湖
イシク湖、イシククル湖、イスィククリ湖などとも表記
同国最大の面積をもつ
イシク・クル州に位置しており
この湖の北岸はイシク・クル地区と呼ばれている
↓↑
古称は
熱海(呉音:ねつかい、漢音:ぜつかい)
唐代の詩人
岑参は
「側聞陰山胡児語、西頭熱海水如煮
海上衆鳥不敢飛、中有鯉魚長且肥」
と詠んでいる
↓↑
イシク・クルの湖底
多数の遺跡が水没している
湖畔の砂浜には陶器など
湖底遺跡から流れ着いたものが打ち寄せ
なぜ遺跡が存在するかは未だに謎
遺跡は1つではなく
様々な時代の遺跡が水没している事が判明
烏孫の
赤谷城が有る
↓↑
湖には少なくとも16世紀頃までは島が有り
更にその島には城が存在していた
↓↑
イシク湖には旧ソ連時代から魚雷の試験場があった
↓↑ ↓↑
イリ=Ili, ile ↓↑
イリ地方・イリ川・イリ
カザフ自治州・グルジャ市の別名
韓国全羅北道の地名 (Iri)=裡里市
↓↑
イリ・カザフ自治州
中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部に位置する
カザフ族の副省級自治州
グルジャ市(伊寧市)を州都とし
全国で唯一
タルバガタイ(塔城)、アルタイ(阿勒泰)
の2地区を管轄する地区級行政単位
↓↑
民族構成は
カザフ族が25.5%
漢族が45.2%
ウイグル族が15.9%
を占める
自治区の中心部は
天山山脈
ボロホロ山脈
(天山山脈の支脈)に挟まれた
イリ盆地(イリ川上流部)
↓↑
唐代には
突厥旧属カルルク部の地
後に
カラハン王朝の領土
1124年
契丹貴族
耶律大石が
イリのカルルク部を臣服させて西遼を樹立
1211年
カルルク部はモンゴル帝国の支配下に入り
チャガタイ・ハン国に分封
1677年
オイラト・モンゴルの
ジュンガル部が南下して新疆に入り
イリ地方をその中心とした
1755年
清朝は
ジュンガル部との数十年にわたる戦いの後
イリを征服し
1762年
イリ将軍を置いた
イリ将軍が駐在した
恵元城は新疆の政治、軍事の中心ともなった
新中国成立後
1954年
イリ・カザフ自治州が成立
↓↑
1949年10月1日
中華人民共和国新疆省イリ専区が成立
↓↑
中華人民共和国 新疆ウイグル自治区
伊犁哈薩克自治州
↓↑
漢代、シルクロードの北に位置し
烏孫国の領土となり、
西域都護府の指揮に帰した
その後
西突厥に属すと同時に
唐の北庭都護府に臣従
南宋時は西遼、元代には
チャガタイ・ハン国
清初には
ジュンガル部に属した
↓↑
乾隆年間に
清朝がジュンガルを征服すると
グルジャは
イリ将軍の管轄下の新疆の一部となった
1871年
ヤクブ・ベクが
東トルキスタンに侵攻し
カシュガルで独立を宣言し
ロシア帝国は
グルジャ(固勒扎)すなわち
寧遠城を占領して
イリ地方を併合
清朝は
1881年
ロシアとの間でイリ条約を締結し、イリ地方を回復
光緒年間の
1884年
新疆省が設置され、県制が施行されると
グルジャは
寧遠県となった
中華民国成立後の
1913年に
伊寧県へ改称
↓↑
1944年
ウイグル人、カザフ人などの
テュルク系住民の間で独立運動が起こり
ソ連の支援の下で
東トルキスタン共和国が設立
グルジャは
1949年に
同政権が
中華人民共和国へ合流するまで
同政権の首都となっていた
↓↑
1952年
グルジャ市(伊寧市)が
伊寧県から分離され
1954年にイリ・カザフ自治州が設置されると
グルジャはその首府となった
↓↑
東トルキスタン共和国
1944年
グルジャ市内で起きた
ウイグル人の武装蜂起に
タルバガタイ、アルタイのカザフ人ゲリラ勢力が合流し
中華民国からの独立と東トルキスタン共和国の成立を宣言
同政権は
中国国民党の新疆省政府と対立し
ソ連の支援の下で
1949年まで独立を維持
国共内戦を終結させた
中国共産党とソ連の協議により
1949年8月
中華人民共和国に合流
9月
省政府の国民党勢力も中華人民共和国への服属を表明
東トルキスタンは
中国共産党の統治下に置かれた
↓↑
この後
国境に近い
イリ・カザフ自治州は
ロシア、ソ連からの影響を受け
中ソ対立が激しくなった
1960年代には
約6万人の
イリ・カザフ自治州在住の
ウイグル人
カザフ人
の農牧民がソ連へと脱出
グルジャは
東トルキスタン独立運動が活発な地方の1つ
1997年2月
大規模な騒動では、デモ隊が暴徒化
漢民族などの一般庶民に攻撃し
数人の死者と数百人の負傷者が出た
ーーーーー
・・・???・・・