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コジキジゲン

烏孫→阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名⇔アテネ)

2018-08-23 23:06:00 | 古事記字源

 ・・・「十三湊(とさみなと)」の壊滅・・・ナンで「とさみなと」なんだか?・・・「土佐港」・・・
ーーーーー
 安日彦(アビヒコ)=安日王・・・我孫子(あびこ)
          =安日長髄彦
     阿毎=阿部・安陪・安倍・阿倍・阿邊(阿辺)
        阿武・安歩・焙・虻・炙
        那賀須泥毘古(古事記)
     登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)
     登美毘古(トミビコ)
     神武東征に抵抗した河内の豪族の長
     安日彦(アビヒコ)という兄がいた・・・
 鎌倉~室町期成立の
 『曽我物語』に
 蝦夷の祖を
 流罪にされた
 鬼王安日・・・・鬼室福信=?~663年=扶余福信
 ↓↑      百済の王族・将軍
         義慈王の父で
         百済
         第三十代武王(余璋)の甥
         官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)
         鬼室氏の祖
         白村江の戦い(663年)以前に
         倭国と百済の連合軍が大敗
 ↓↑      鬼宿=和名は魂緒の星(たまおのほし)
            魂讚星(たまほめぼし)
            二十八宿の一
            南方朱雀七宿の第2宿
 ↓↑         距星はかに座θ星
 とする伝承が記載
 長髄彦の兄
 彼と共に青森県の弘前に逃れた
 or
 単独で津軽地方に流された・・・
 事記や日本書紀には
 安日彦の名は記録されていない
 ↓↑
 長髄彦一人が大和で死なず
 東北に落ち延びた(塩釜神社伝承)
 長髄彦(兄の安日彦または兄弟2人)が
 津軽に逃げてきたという伝承は
 中世以降の創作・・・
 ↓↑
 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)
 登美毘古(トミビコ)
 ↓↑
 饒速日命の手によって殺された
 ・・・或いは失脚後に故地に留まり死去
 自らを後裔と主張する
 矢追氏による自死したという説も・・・
 ↓↑
 旧添下郡
 鳥見郷(生駒市北部・奈良市富雄地方)付近
 あるいは
 桜井市付近に勢力を持った豪族
 長髄=邑の名(記紀)
 ↓↑
 登美夜毘売(トミヤヒメ)=三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)
 登美夜須毘売(トミヤスヒメ)
 ↓↑
 登美毘古(トミビコ)の
 妹を
 ↓↑ 天の磐舟で・・・磐舟=UFO?
    斑鳩の峰
    白庭山に降臨した
    饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
    饒速日=邇藝速日(古事記)
 ↓↑ 櫛玉命(くしたまのみこと)
    飛行神社
    京都府八幡市にある神社
    飛行機の神
    饒速日命と航空事故の犠牲者などを祀る
    ギリシャ風の拝殿を持っている
    日本で最初に飛行原理を研究した
    二宮忠八・・・日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功
    が創建(1915年・大正四年)
    1936年(昭和十一年)・・・十一念?
    忠八の死により廃絶・・・・注葉知?
    1955年(昭和三十年)
    忠八の息子
    二宮顕次郎・・・・・・・・顕(日並頁)の
                 次(似素意)の
                 郎(良阝=邑=大里=都)
 ↓↑ によって再興
 天照国照彦-火明-櫛玉(奇霊・奇魂)-饒 速日命
 ↓↑               =邇藝速日(古事記)
 ↓↑ 物部氏、穂積氏、采女氏、熊野国造らの祖神・・・
 ↓↑
 の妻とし、仕え・・・「宇摩志麻遅命=可美真手」を産んだ
 中世の武将の
 伊達家が長髄彦の子孫・・・
 神武天皇が
 浪速国
 青雲の
 白肩津に到着したのち
 孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち
 天皇の兄の
 五瀬命は
 矢に当たって負傷、死亡
 後
 八十梟帥
 兄磯城
 を討った皇軍と再び戦い敗北
 金色の鳶が飛んでき
 神武天皇の
 弓弭に止まり
 長髄彦の軍は
 眼が眩み、敗戦
ーーーーー
 秋田氏の系譜
 先祖に由来する
 「伊駒姓」
 伊駒長脛(ナガスネ)のこと
 生駒市北部
 奈良市富雄を勢力範囲としていた古代の王
 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ)
 神武東征に対し最大の抵抗をした豪族
 ↓↑ 
 明治維新後
 秋田田子爵家が宮内庁に系図を求められ
 「安日長髄を先祖」とする一族の
 「秋田家の系図」
 「孝元天皇-開化天皇-大毘古命(大彦命)安倍将軍
  是、安倍姓元祖-建沼川別命安倍将軍」
 安日王   兄 
 長髄彦   弟 
 安国 安日後孫
 安東(はる)崇紙天皇御宇
 賞二軍功一賜二安倍姓一致(むね)東(はる)
 号二奥州日下将軍一・・・日下将軍?
 ↓↑ 
 秋田市子爵家の後見職
 秋田主税(ちから)は
 「当家は姓を賜って
  安倍を称した
  安倍姓の祖系を先に掲げ
  当家の年来の慣例
  これを宮内省で
  秋田家の系図として納めた」
 大毘古命(大彦命)の末裔の安倍姓は
 奥州の安倍氏とは血脈の上ではまったく関係がない
 ・・・(浪岡具雄の伝承)?
 ↓↑
 秋田氏=本姓が安藤(安東)
 古代
 陸奥国俘囚の長であった
 安倍貞任の子孫・・・
 中世
 今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までを勢力圏
 津軽十三湊を本拠地
 とし貿易や水軍活動
 「蝦夷管領」
 「日の本将軍」
 と称された・・・
 後、
 檜山安藤氏(下国家)
 と
 湊安藤氏(上国家)
 に分かれ、南部氏の勢力に押され
 出羽国に本拠地を移し
 天正年間の
 愛季に至り、両家が合体
 愛季は
 天正十七年(1589)
 居城を檜山(能代市)から
 湊(秋田市土崎)へ移し
 律令官職である
 「秋田城介」を名乗った
 以後
 秋田氏と称するが
 本姓の安倍
 従来の安藤(安東)姓が併用
 先祖に由来する
 伊駒姓も使用・・・
 ↓↑  
 長脛=イギリスの長脛王
    エドワード1世(Edward I)
    1239年6月17日~1307年7月7日・・・130777・・・?
    プランタジネット朝
    イングランド王
    在位1272年11月17日~1307年7月7日
    渾名は
   「Longshanks(ロングシャンクス・長い足・長脛王
          身長が190cm)
    Hammer of the Scots(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ
    スコットランド人への鉄槌)」
    エドワード1世 (イングランド王) (Wikipedia)
ーーーーー
 突厥=前身は
    阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名)
    烏孫→阿史那→突厥

    アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína
        Athinai・古代ギリシア語=Athēnai)
        ギリシャ共和国の首都
        アッティカ地方の古代からの都市
    アテナイ=Athēnai
    現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で
    アシネ=Athínai
    現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で
    アシナ=Athína
    アテネはラテン語
    1970年代
    カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで
    公式名称は
    Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine])
    カサレヴサ廃止以降
    Ἀθήνα=アシナ

    女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より
            武装して鎧を纏った姿で出現
    と
    海神ポセイドン
    との争い
    ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で
    地を突き海水を湧き出させ
    アテナは
    オリーヴの木を生い立たせ
    国王ケクロプス、住民は
    オリーヴの木を択び
    アテナの名を都市の名とした
    アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都
    古代ギリシアの詩人
    ピンダロスが
     ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで
    「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」
ーーーーー
 突厥=前身は阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名)
    烏孫→阿史那→突厥

    アシナ⇔アテネ(ギリシア語: Αθήνα; Athína
        Athinai・古代ギリシア語=Athēnai)
        ギリシャ共和国の首都
        アッティカ地方の古代からの都市
    アテナイ=Athēnai
    現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で
    アシネ=Athínai
    現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で
    アシナ=Athína
    アテネはラテン語
    1970年代
    カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで
    公式名称は
    Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine])
    カサレヴサ廃止以降
    Ἀθήνα=アシナ
    女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より
            武装して鎧を纏った姿で出現
    と
    海神ポセイドン
    との争い
    ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で
    地を突き海水を湧き出させ
    アテナは
    オリーヴの木を生い立たせ
    国王ケクロプス、住民は
    オリーヴの木を択び
    アテナの名を都市の名とした
    アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都
    古代ギリシアの詩人
    ピンダロスが
     ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで
    「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」
ーーーーー
 蘆名氏(あしなし)
 桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族
 相模国
 蘆名(横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来
 「芦名氏」「葦名氏」
 「三浦芦名家」と表記される事もある
 相模
 蘆名氏
 と
 会津
 蘆名氏の二つの系統が存在
 通し字は
 前者は「為」
 後者は「盛」
 蘆名 盛氏(あしな もりうじ)
 戦国時代の陸奥国の武将・戦国大名
 蘆名氏第十六代当主
ーーーーー
 突厥=トゥルク
    突厥の発祥
    西海(地中海)から中央アジアへ移住
    窮地を狼に救われた
    烏孫=突厥
    烏孫の移動ルート
 『東日流外 三 郡 誌』
 (つがるそとさんぐんし)
 津軽地方支配の
 荒吐族(あらはばきぞく)
 その王
 阿倍氏⇒安東氏⇒秋田氏
 その都
 十三湊(とさみなと・青森県五所川原市の十三湖の辺り)
 ↓↑
 「アラハバキ」=縄文の遮光器土偶・・・
 「ナガスネヒコは
  兄の
  安日彦(アビヒコ)とともに
  津軽に渡り
  津軽の土着民
  阿蘇辺族
  津保化族
  と併合し
  荒吐族となった」・・・
  和邇氏(海神族)の協力を経て北上し
  兄
  安日彦(アビヒコ)とともに
  青森県は津軽(東日流=つがる)に落ち着いた
  大阪の十三(じゅうそう)や
  十三湊(とさみなと)
  という地名は
  アビヒコの弟
  トミヒコ(ナガスネヒコ)が語源
ーーーーー
 ・・・
 鎌倉時代後期
 豪族・安東氏(津軽安藤氏)の本拠地
 和人と蝦夷地のアイヌとの交易拠点
 文明年間(1469~87年間・戦国時代初期
      or戦国時代末期(16世紀末、17世紀初頭)・・・
 日本最古の海洋法規集『廻船式目』が
 「三津七湊」について
 七湊の一つとして
 「奥州津軽十三湊」記録
 後代
 朝鮮半島や中国などと交易・・・
 遺跡は東西に延びる土塁を境に
 北側には安東氏や家臣たちの館
 南側には町屋が整然と配置
 室町時代中期
 安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って
 夷島(蝦夷地)へ逃げ
 十三湊は衰微し
 和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は
 野辺地湊(野辺地湾に面する湊・上北郡野辺地町域)
 盛岡藩の北の門戸へ移った
 大浜=大濱(青森市油川地区)
 飛砂が堆積して水深が浅くなり
 港としての機能は低下
 16世紀後半から再び整備復興
 江戸時代
 岩木川を下ってきた米を
 十三湊から
 鯵ヶ沢湊(西津軽郡鰺ヶ沢町域)へと運ぶ
 「十三小廻し」が行われた
 ↓↑
 『東日流外三郡誌』
 興国元年(1340年・南北朝時代初期)
 大海嘯(大津波)によって
 十三湊は壊滅的被害
 安東氏の政権は崩壊・・・
 発掘調査で津波の痕跡は無し?
 興国二年以後
 十三湊は重要な湊として数々の文献に記録
 1993年(平成五年)
 青森県古文書研究会が
 同書を偽書と断じた・・・?・・・偽書を作った理由はナニ?
 弘前大学の発掘調査により
 正確な年代こそ不詳ながら
 十三湊を襲った津波の痕跡であろう
 泥の堆積が2層以上確認
 津波の試練は幾度もあった・・・?
 ↓↑
 12世紀(平安後期)
 平安期の当地域周辺に見られた
 区画集落群の人為的廃絶
 在地豪族層による広域支配体制の確立
 鎌倉時代初頭
 津軽地方一帯は
 鎌倉幕府支配体制下
 古十三湖の周辺地域は幕府支配下で
 「西浜」と呼ばれる
 13世紀初頭(鎌倉時代後期前葉)
 西浜で十三湊
 蝦夷沙汰職(蝦夷管領)を務めた
 安東氏(津軽安藤氏)の許で繁栄
 15世紀半ば(戦国時代初頭)
 安東氏(津軽安藤氏)が
 南部氏に敗れて支配地を失い
 夷島(えぞがしま。蝦夷地)へ逃亡
 十三湊は衰退
ーーーーー
 ・・・???・・・

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「平成最後の百姓一揆」・・・負けたね、安藤昌益さん

2018-08-21 23:39:19 | 古事記字源

 ・・・「第百回全国高校野球選手権記念大会・高校野球・甲子園決勝 大阪桐蔭13―2金足農」・・・「平成最後の百姓一揆」・・・「百姓一揆」で「百姓」が結果、勝利した歴史はないし、「日本の百姓一揆」は政治支配体制の変革でも、権力奪取でもなく、支配階級に対する「嘆願・請願」で終わった・・・もちろん、暴動、騒動だから「百姓」の「一揆」の敗北は前提でもあった・・・搾取対象の「百姓」をスベテ抹殺するわけにはいかないから、扇動者だけを殺した・・・
 例外は支配者をオン出し、追放し、地域自治を「国人政治」とした「くに」があったらしいのだが・・・これって「忍びのクニ」?・・・
 「山城国一揆(やましろのくにいっき)は、文明十七年(1485年)、山城国(現在の京都府南部)南半の上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)で国人や農民が協力し、守護大名畠山氏の政治的影響力を排除し、以後8年間自治を行った」・・・ナンで、「文明十七年」で、「八年間の自治(ジチ)」なんだか?・・・字知・事知・時知・耳知・・・?
 「国人が起こした一揆=国人一揆」、「惣国一揆=惣村(そうそん)は、中世日本における百姓の自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)を指す。惣(そう)」・・・「惣=物+心=共同組織」・・・なるほど、ザ、わぁーるど・・・
 「桐蔭=瑞鳥の鳳凰が桐の葉の陰で休み、力を蓄える・・・花札で桐に鳳凰(yahoo・知恵袋)」・・・「松陰」のモジリ?じゃないんだ・・・
 「金足=秋田市金足(かなあし)追分の三叉路=江戸時代末は、なにもない砂丘のふもとで、羽州街道と男鹿街道の追分」・・・
 秋田は「古事記の登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ)の兄弟、安日彦(アビヒコ)⇔阿比毘古(安日王・阿比古・阿彦⇔居多神社)」、「安日彦=長髄彦の兄、彼と共に青森県の弘前に逃れたとも、単独で津軽地方に流されたとも」・・・
 が逃げてきた場所だから・・・
 「金足=キンソク=禁足・禁則⇔藤原(中臣)鎌足(鎌子)⇔榎本武揚(釜次郎)」のモジリじゃないのか?・・・いずれも「百=もも」・・・桃尻(木兆尸九)の百済・・・?
 以上も以下もぜェ~んぶ、原文は「wikipedia」・・・イチャモンの「・・・」と「・・・モジ」はボクのカンジたカンソウ・・・
ーーーーー
 賛助金を「年貢」
 金足農業の快進撃を
 「平成最後の百姓一揆」
 とたとえる人が続出・・・
 平成最後の百姓一揆
 ↓↑
 実際の「最後の百姓一揆」
 1875年(明治八年)に起きた
 伊勢暴動や
 1876年
 九州における西南戦争下の諸一揆
 ↓↑
 1875年の伊勢暴動(いせぼうどう)
 や翌年の九州における
 西南戦争下の諸一揆が最後の百姓一揆
 以降の農民闘争・民衆運動は
 自由民権運動や小作騒動へと受け継がれた・・・
 ↓↑
 平成最後の百姓一揆タグ誕生
 なまはげも泣かされる感動
 勝ちすぎて宿泊費不足→金不足農業高校・寄付する→「年貢納める」(振込先は秋田なまはげ農協)
 吉田投手母「(鍛えすぎてしゃがむ度に破ける)」
 ↓↑ ↓↑
 「1918年夏の米騒動
  の残っている
  証言・資料に現れている
  最も早い時点での行動は
  東水橋町の
  女性
  陸仲仕たち20数人によって
  7月上旬から始められた
  移出米商
  高松への積出停止の要求の行動
  『米騒動の研究』(全5巻)」
 ↓↑
 1918年米騒動
 1918年(大正七年)に日本で発生した
 コメの価格急騰に伴う
 暴動事件、米騒動
 ↓↑
 肉や魚などの摂取が少なかった当時
 日本人の食生活は穀物類が主体
 特に肉体労働者は激務のため
 1日に1升(1.8リットル)もの米を消費・・・
 米価の高騰は
 家計を圧迫し
 人々の生活を困窮させた
 ↓↑
 富山県中新川郡東水橋町(富山市)
 1918年(大正七年)
 「7月上旬」から、
 「二十五六人」の
 「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ
  積出し停止要求に日参する」
 行動が始まっている
 ↓↑
 7月22日の昼
 富山市中長江町ほかで
 富豪浅田家の
 施米にもれた
 細民200名
 (「杖にすがった
   むさ苦しい婆さん達もあれば
   子供の手を曳いた女房連も」)
 が市役所に押し掛けた
 (7月23日『北陸政報』)
 記事には、
 「昨今の米高が
  如何に細民をして
  生活難に陥らしめているが窺われる」
 と記している
 同日夜間
 富山県下新川郡魚津町の魚津港には
 北海道への米の輸送を行うため
 「伊吹丸」・・・・息吹山、伊吹山・・・白猪の神⇔ヤマトタケル
 が寄航していたという
 この時は巡回中の
 警官の説諭によって解散させられたが
 住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた
 荷積みを行っていたのは
 十二銀行(北陸銀行)であった
 同年7月24日、25日の
 『北陸タイムズ』で
 それぞれ
 「二十日未明同海岸に於いて
  女房共
  四十六人集合し
  役場へ押し寄せんとせしを
  いち早く
  魚津警察署に於いて探知し」
 「二十日未明海岸に集合せしを
  警察署がいち早く探知し
  解散せしめ」
 と魚津の動きが
 20日未明(19日夜間)から
 起きていたと報じている
 8月9日の
 『高岡新報』は
 「魚津町にては、
  米積み込みの為
  客月一八日
  汽船伊吹丸寄港に際し
  細民婦女の一揆が起こり
  狼煙を上げたる」
 と、
 魚津でも 
 7月18日以来
 一揆が起きていることを記している
 その頃
 東水橋町、富山市、魚津町以外にも
 東岩瀬町(28日)
 滑川町、泊町(31日)等
 富山県内での救助要請や
 米の廉売を要望する人数はさらに増加し
 各地で動きが起きていた
 ↓↑
 翌月8月3日
 当時の
 中新川郡西水橋町(富山市)で
 200名弱の町民が集結し
 米問屋や資産家に対し
 米の移出を停止し
 販売するよう嘆願した
 ↓↑
 8月6日
 東水橋町
 滑川町の住民も巻き込み
 1,000名を超える事態となった
 住民らは
 米の移出を実力行使で阻止し
 当時1升
 40銭から50銭の相場だった米を
 35銭で販売させた
 ↓↑
 大阪堂島の米市場の記録
 1918年(大正7年)
 1月に1石15円だった米価は
 6月には20円を超え
 7月17日には30円を超えた
 (当時の一般社会人の
  月収が18円~25円)
 7月末~8月初めにかけて
 各地の取引所で立会い中止が相次ぎ
 地方からの米の出回りが減じ
 8月7日
 白米小売相場は
 1升50銭に暴騰
 ↓↑
 地主や商人は米を
 米穀投機へ回すようになり
 次第に売り惜しみや買い占めが発生
 仲小路廉農商務大臣は
 1917年(大正六年)9月1日に
 「暴利取締令」を出し
 米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品
 の買い占めや売り惜しみを禁止した
 無効果
 口語の動詞
 「ぼる・ぼられる・ぼったくる
 (暴る、暴られる、暴ったくる)」
 は、「暴利取締令」の「暴利」に由来
 ↓↑
 1918年(大正七年)4月
 「外米管理令」が公布
 三井物産
 鈴木商店
 など指定七社による
 外国米の大量輸入が実施
 が、米価引下げには至らなかった
 ↓↑
 寺内内閣
 1918年(大正七年)8月2日
 シベリア出兵を宣言
 この宣言は
 流通業者や商人などが
 戦争特需における
 物資高騰を狙い
 売り惜しみを加速させた
 神戸米会所の相場で
 7月2日に1升34銭3厘
 8月1日に  40銭5厘
8月9日に 60銭8厘
 前後して
 富山県でのコメ騒動が発生
 シベリア出兵と米騒動の因果関係・・・
 ↓↑
 第一次世界大戦による好景気
 1918年(大正7年)
 伊勢の
 福寅一派の
 相場師の買いあおりにより
 米穀取引所における
 期米相場は
 50円(1石当たり)に迫り
 小売価格も
 1升30銭~50銭を超す
 ↓↑
 1918年(大正七年)
 8月1日
 1石35円を超え
 同5日には40円を超え
  9日には50円を超えた
 8月10日
 京都市と名古屋市を皮切りに
 全国の主要都市で米騒動が発生
 8月12日
 鈴木商店が
 大阪朝日新聞により
 米の買い占めを行っている
 悪徳業者である
 (米一石一円の手数料をとっている)
 との捏造造記事?を書かれ
 焼き打ちに遭った
 米騒動は
 移出の取り止め
 安売りの哀願から始まり
 次第に
 寄付の強要
 打ちこわし
 に発展
 10日夜
 名古屋鶴舞公園で
 米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂
 約20,000人の群集が集結
 京都で
 柳原町(京都市下京区の崇仁地区)
 で騒動が始まり
 米問屋を打ち壊すなどして
 1升30銭での販売を強要
 ↓↑
 東京市
 8月10日
 宮武外骨を発起人とし
 山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による
 野外演説会を
 日比谷公園で
 8月13日に開催する広告
 警察が禁止の決定
 当日には
 約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった
 200人の警官が包囲する中で行われた
 即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れ
 怒号と興奮
 警官との衝突に発展し
 暴徒となった群衆は3派に分かれ
 派出所や商業施設への投石
 電車や自動車の破壊
 吉原遊郭への襲撃・放火
 浅草方面に向かった一派は
 翌14日に
 浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ
 暴力的な廉売交渉
 8月15日
 軍が出動し
 16日
 暴動は鎮圧され
 総計299人が検挙
 「値下げを強要すれば安く米が手に入る」
 8月17日頃から
 都市部から町や農村へ
 8月20日までにほぼ全国へ波及
 騒動は
 米問屋から炭坑へと
 9月12日
 三池炭坑の騒動終了まで
 50日間を数えた
 ↓↑
 8月17日以降
 米騒動は
 山口県や北九州の
 炭坑騒動へ飛び火
 山口県沖の山炭坑
 福岡県峰地炭坑など
 炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化
 沖の山炭坑の騒動
 住民を加え数千人規模の騒動に発展
 米問屋、屋敷の打ち毀し
 遊郭への放火などが起こった
 出動した軍隊に対し
 ダイナマイトで対抗するなど(陸軍のねつ造?)
 死者13名を数える惨事
 陸軍が発砲理由とした
 坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は
 陸軍が発砲を正当化するために
 ねつ造したコメントを
 『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付)
 などが取材なしに
 記事化した・・・ 
 ↓↑
 一連の騒動は最終的に
 1道3府37県の
 計369か所
 参加者は数百万人
 出動した軍隊は
 3府23県
 10万人以上が投入
 呉市では
 海軍陸戦隊が出動
 民衆と対峙する中
 銃剣で刺されたことによる死者が2名
 検挙人員は
 25,000人を超え
 8253名が検事処分を受けた
 7786名が起訴され
 第一審で
 無期懲役が12名
 10年以上の有期刑が59名
 一部民衆を扇動したとして
 和歌山県で2名が死刑判決
 ↓↑
 米騒動での刑事処分者
 8185人
 被差別からはそのうちの1割の処分者
 の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では
 3割から4割が被差別民
 女性の検挙者35人のうち34人が民
 ↓↑
 1920年(大正九年)
 原内閣は
 部落改善費5万円を計上
 部落改善のための最初の国庫支出を行った
 内務省は省内に
 社会局を設置
 府県などの地方庁にも社会課を設けた
 ↓↑
 呉市
 水兵が騒動に参加し検挙
 一部の地域では制止すべき
 警官が暴動を黙認
 ↓↑
 8月13日
 政府は
 1000万円の国費を
 米価対策資金として支出する事を発表
 各都道府県に向けて米の安売りを実施させた
 騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から
 8月28日にはこの指令を撤回
 安売りを打ち切った
 発表時の4割程度の支出に留まり
 米価格の下落には至らず
 1918年(大正七年)末
 米騒動当時の価格まで上昇
 国民の実質収入増加によって
 騒動が再発することはなかった
 ↓↑
 全国
 中等学校
 優勝
 野球大会の中止
 この騒動は
 全国中等学校優勝野球大会
 (全国高等学校野球選手権大会)
 に影響
 ↓↑
 8月11日
 神戸市で始まった騒動により
 当時の会場だった
 鳴尾球場に程近い
 鈴木商店で焼き打ち事件が発生
 ↓↑
 8月14日
 開催予定だった
 第4回
 全国中等学校
 優勝
 野球大会は
 一旦延期
 その後も
 治安改善の見通しが立たず
 8月16日に大会の中止が決定
 ↓↑
 米騒動の影響で
 寺内内閣の退陣を求め
 寺内は体調不良もあり
 8月31日に
 山縣有朋に辞意を告げ
 9月21日に正式に辞表を提出
 ↓↑
 山縣は西園寺公望に組閣を命じたが
 西園寺はこれを固辞し
 原敬を推薦
 9月27日
 原に組閣が命じられ
 日本で初の
 本格的な政党内閣
 原内閣が誕生
 爵位を持たない
 衆議院議員を首相とする
 初の内閣
 民衆からは
 「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された
ーーーーー
 ・・・???・・・

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やもり・いもり・トカゲ=ト化解?・訳卦解・戸影

2018-08-20 01:34:19 | 古事記字源

 ・・・幾度も、何度も同じような繰り返し・・・何ら証拠となるモノも実証する根拠もない・・・でも巨大化したスピノサウルスの化石は存在する・・・「ゾウの3倍の大きさの哺乳類、3階建てのビルよりも高い恐竜」・・・「アルゼンチノサウルス(学名:Argentinosaurus)」・・・「スピノサウルス Spinosaurus は、中生代白亜紀前期から後期(約1億1200万 - 約9,700万年前)の現アフリカ大陸北部に生息していた獣脚類(肉食恐竜)。属名は「棘トカゲ」」・・・蜥蜴なんだ・・・「蜥=中+ム+木+斤」+「蜴=中+ム+日+勿」・・・

 とかげ=トカゲ=ト化解?・・・
 戸影・・・物の怪(忄・心の又の十の一)=異体字は恠(忄・心に在る)・・・「忄=リッシンベン=立身の弁」・・・出世・・・
 ↓↑
 易=日+勿(勹+ノノ・彡+𠃌)・・・「𠃌(コン)」?
      刁刁(ちょうちょう・蝶々)・・・喋々・間諜
      風がそよそよと吹く  
      かすかな風が吹くさま
      刁=一文字で「悪い・狡(ずるい)・動く・揺れる」
                狡黠(コウカツ)・狡猾・狡知
                狡=獣+亠(音)+八+乂(乄)
      羽=习+习・・・翼=习+习+異(田共)
      刁鴨(あいがも)
      刁・・・习=習・・・𠃌+冫+𠃌+冫=羽
             冫(ニスイ)=冰(氷)=こおり・ヒョウ
               似素意・爾諏意   呼緒理・彪・標
      勿=ノ+𠃌+ノノ
 昜=日+一+勿・日+丂+ノノ・・・万+ノノ⇔場・陽・煬(煬帝)
 易≠昜
 勿+α
 物・吻・刎・忽・惚・舓・笏
           舓=なめる・ねぶる・シ・ジ
            =なめる・嘗・舐
             臥薪嘗胆
 刎・芴・忽・昒・歾・䀛
 「勿=吹流しのついた旗」=「㫃=旗竿につけた吹流しがなびくさま」
 勿の
 異体字、「𣃦」
 禁止、否定の語
 はた、吹流し
 弓筈の音・・・弓の弦を弾(はじ)く音
 払う、土はね
 無きなり、莫きなり
 禁止、否定の意味は仮借・・・?
 ・・・「仮借」ではなく、「勿」は
    「指物・標記・標章・墓標・進入禁止の標示の物=幡・旗」
 物=「旗の名前(周代、役人=大夫や士が用いた)」
   「見る・占う」=観えない風の動き方向を知る道具(吹流し)
          =観えない音の音階を知る道具(弦楽器)
   「死ぬ」=「物故」・物にカエル
   「尤物」=すぐれたモノ・美しい女性
        「尤=すぐれる・ユウ」・・・ナ乚丶・一儿ヽ
        「无=ない・ブ・ム」・・・・二儿・チ乚
        「旡=つくす・つきる・つまる・いきつまる
           むせる・キ・ケ=既」
        「兂=かんざし・シン=簪・篸=櫛・髪梳
                   𠂉・コーム ( comb) 」
        「牙=きば・ガ」
 物=牛(𠂉十)+勿(勹ノノ)
    「𠂉十=牛の二本の角」に
    「勹ノノ=張った糸弦」を掻き鳴らす「楽器・竪琴」?
 ↓↑
 勿は吹流しのついた旗の象形
 民衆を集める合図、
     信号に使う・・・壱與、張政、黄幡⇔邪馬台国・帯方郡
 勿々(早々)の意味
 遽(には・俄)かなること
 突然・不意
 ↓↑
 勿論 
 勹(つつみがまえ,つつみがまえ)+ノノ(ノノ字点)
   モチ・ブツ・なかれ
   禁止をあらわす
 勿の読み方
 勿=モチ・ブツ・なかれ
 勿来関(なこそのせき)
 「蝦夷(えぞ・えみし・カイ)
 来(きた・ライ)る
 勿(ナカ)れ」
 「浪越(なみこえ)」とも
 福島県南部、茨城県との
 県境にあった奈良時代以来の関所
 海沿いに
 常陸(ひたち)国から陸奥(むつ)国への入口
 白河・念珠(ネズ)とともに奥州三関の一
 はじめは
 「菊多(キクタ)の関」と呼ばれ
 古代末は白河関の異称
 場所は
 いわき(磐木)市
 勿来の九面(ココヅラ)付近
 源義家
 吹く風を なこその関と 思へども
 道もせに 散る 山桜かな
 ↓↑
 勿来・勿吉・四勿・勿怪・勿れ・勿体
 勿論
 勿忘草・勿体顔・事勿れ・勿来の関
 驚く勿れ・勿体無し
 勿忘草色・・・忘れな草
 事勿れ主義・勿体を付ける
 君死にたまふこと勿れ
 己に如(し)かざる者を友とする勿れ
 過ちては改むるに憚(はばか)ること勿れ
 己の欲せざるところは人に施す勿れ
 過ちては則ち改むるに憚(はばか)ること勿れ
 ↓↑

ーーーーー
 往=彳+王(古体は「㞷(屮+王)」≠「主」)
 ↓↑  屮=凵+丿≠屮=凵+礀
     屮=サ・芽生え
       艸木の初生なり・・・艸=屮+屮
       礀の出でて枝莖の有る形
       艸=屮+屮・・・・屮+凵=出
     屮=左払いの屮
      =左・左手の古字
      古文に或いは艸字を以て為す
      讀みて徹(テツ)の若し?・・・徹底
      凡そ屮の屬は皆な屮に従ふ
      尹彤の說なり(説文解字)
      若芽がわずかにあらわれる形(字通)
     屮の類字、部分構成文字
     屮、𡳾
     屯・㞢
     屰
     㞣
     𡴫
    「㞷(屮+王)の
     王=人が手足を広げる様で
       足をすすめるの意」?・・・
       ・・・「㞷=山ノ王」の王は
      「王(一+ 十+ 一)=111=壱壱壱」だろう・・・
       ・・・壹陌壹拾壱(壹)=始め邑の百、拾う壹(與)
      「屮」の      
       西周金文の象形文字は
      「七支刀(しちしとう)=六又鉾(むつまちほこ)」
       に似る・・・「屮≒丰」?
 ↓↑
 義熙九年(413年)
      倭王讃の朝貢(倭の五王の始め)
  熙=ひかる・かがやく・キ・・・康煕字典の「煕」
    光熙・光が行きわたる・ひろまる・ひろめる・ひろい
    熙隆
    「煕」は正字、「熈」は異体字
    名のり
    おき・さと・てる・のり・ひろ・ひろし・ひろむ・よし
  熙=かわく・かわかす
    光る・光り輝く
    広い・広まる・広める
    興す
    やわらぐ・楽しむ・やわらぎ楽しむ・喜ぶ・喜び笑う
    ああ(感嘆の言葉・嬉々=キキとして)
ーーーーー
 往生素懐=仏教に帰依し
      現世を去って極楽浄土に
      生まれ変わりたいという
      平素からの願い
      往生=現世を去って、極楽浄土に生まれ変わること
      素懐=平素からの思い、願い
ーーーーー
 天智天皇の蒲生野行幸
 天智七年(668)五月五日
 天智天皇
 ↓↑
 誕生 626年
 崩御 672年1月7日
 ↓↑
 天智天皇七年(668年)
 新羅の      日本の
 文武王の代に・・・文武天皇(683~707)
 ↓↑       第四二代天皇(在位697~707)
          名は珂瑠(かる)
          天武・持統天皇の孫
          草壁皇子の第一皇子
          母は元明天皇
          大宝律令を制定
 ↓↑・・・ナゼ、新羅の「文武王」なのか?
ー↓↑ーーーー
 ↓↑  「文武」王⇔金春秋⇔天智・天武・持統⇔「文武」天皇
 ↓↑   ↓↑ 文武天皇(683~707)
 ↓↑   ↓↑ ↓↑  ↓↑ ↓↑    ↓↑
      文武王(626年~681年7月21日・旧暦7月1日)
      新羅、第30代の王(在位:661年~681年)
      姓は金
      諱は法敏
      武烈王(金春秋)の長子
      母は角干(1等官)の
      金舒玄の娘(金庾信の妹)の
      文明夫人
      王妃は
      波珍飡(4等官)の
      金善品(真智王の弟の金仇輪の子)の
      娘の
      慈儀王后
      661年6月
      武烈王(金春秋)が死去し王位に就く
      在位中に高句麗を滅ぼし
      唐の勢力を朝鮮半島から駆逐し
 ↓↑   半島統一・・・
ー↓↑ーーーー
 ↓↑ 唐が高句麗に出兵し始めた頃の
    661年6月
    武烈王(金春秋)が死去
    文武王(金法敏)が即位
    唐から高句麗討伐軍に呼応することを求められ
    文武王は
    金庾信らに命じ
    唐軍のいる平壌で支援をする構えを保った
    高句麗は唐の攻撃に耐え
    唐軍は食糧を受け取ると戦いを収めて帰国
    662年
    唐から
    開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王に冊封
    663年5月
    百済の
    鬼室福信らが
    王族の
    扶余豊璋を倭国から迎え
    百済復興の大規模な反乱
    百済・倭国vs唐・新羅
    白村江の戦い
    倭国の水軍壊滅
    百済再興絶望
    666年4月
    唐に対し高句麗討伐の出兵要請
    唐は
    李勣を
    遼東道行軍大縈管に任命し
    高句麗攻撃開始
    668年
    新羅は唐軍に合流し
    平壌の長安城を攻め
    同年9月21日に
    高句麗を滅ぼす
    金庾信を遇するために
    最高官位である
    大角干の上に
    太大角干の位を設けて与え
    すべての貴族に
    官位一等の昇進を賜った
    恩賞は新羅の中央貴族の私兵層へは与えられず
    地方豪族や
    百済・高句麗から投降した官・将を取り立て
    王の直接の支配の及ぶ
    軍事力の育成に努め
    新羅の王権の拡大に寄与
 ↓↑ 百済・高句麗を滅ぼした後
    663年4月
    新羅は
    鶏林州都督府とされ・・・鶏の林の州
    文武王自身も
    鶏林州大都督に任じられていた
    唐は
    百済の故地に熊津都督府・・・熊の津の都
    高句麗の故地には
    安東都護府・・・安の東の都
    を設置し
    遺臣を用いて統治させるという
    羈縻政策
     ・・・羈=おもがい・たづな・キ
          手綱でつなぎとめる・つないで自由を奪う
          羈絆 (キハン)・不羈・馬で旅をする
          の
          縻=つな・つなぐ・きずな・ミ・ビ
    を用いようとした
    高句麗の
    宝蔵王の庶子である
    安勝が残存勢力とともに
    新羅に亡命してきたので
    金馬渚(全羅北道益山市)に住まわせ
    670年8月
    高句麗王として封じた
    新羅の送使が随行する形で
    高句麗をして
    倭国へ朝貢させ
    674年9月
    安勝を
    報徳王として再封し
    旧高句麗に対する
    新羅の宗主権を誇示
 ↓↑
    唐はこれを叱責したが
    新羅は
    旧百済領域の支配をめぐって
    唐と対抗姿勢をとり
    671年
    泗沘の占領
    所夫里州の設置
    旧百済領域を奪取
   (唐・新羅戦争)
    674年1月
    唐の
    高宗からは官爵を削られ
    宿衛として留まっていた
    王弟の
    金仁問を
    新羅王に代えようとするとともに
    劉仁軌
    らが新羅討伐に出兵準備
    文武王は
    675年2月
    謝罪使を派遣
    その後も小規模な戦闘を繰り返し
    676年11月
    白江河口部の
    伎伐浦(忠清北道舒川郡長項)で
    唐軍に大打撃を与えた
    唐は
    熊津都督府・安東都護府
    を
    遼東地方に引き上げ
    朝鮮半島から唐の勢力は引き上げた
 ↓↑
    文武王は
    百済・高句麗の遺民を取り込み
    新羅の身分制度を再編
    新羅の身分制度は
    首都金城(慶州市)を中心とする京位と
         地方豪族を序列化する外位との
         二本立てであったが
    674年には外位を廃止して京位に一本化した
    前年(673年)に
    百済から帰属してきたものを
    新羅の官制に取り込んだが
    百済での官制の序列に従って
    新羅官制の序列に組み入れ
    両者の連続性を継承させた
    高句麗移民に対して
    安勝を保護し
    高句麗王
    次いで
    報徳王として
    新羅の配下に冊封
    680年
    文武王の妹を
    安勝に降嫁させ
    新羅・高句麗の王家の結合を図り
    旧の三国が一体となるように努め
 ↓↑
    在位21年
    681年7月1日
    死去
    文武王と諡された
    王自身の遺詔で
    新羅では初めての
    火葬された王となり
    骨壷は日本海の浜辺の
    大石の上に葬られた
   「海中王陵」である
    王は護国の大龍に化身し
    この大石を
   「大王岩」といった
    王のために
    感恩寺(慶尚北道慶州市陽北面)が建てられた
    感恩寺に伝わる書物には
    文武王が
    倭兵を鎮圧するために
    この寺を建てようとしたが
    完成する前に亡くなり
   「神文王」の
    二年(682年)に完成・・・
 ↓↑
    神文王七年(687年)
    新羅の祖廟の祭祀として
    神文王にとっては
    父   文武王
    祖父  武烈王
    曽祖父 文興葛文王(金龍春)
    高祖父 真平王
    太祖大王(金氏王統の始祖、13代味鄒尼師今)
    の五廟の制度が整備
    682年
    慶州
    四天王寺に
    文武王の業績を称えた
    文武王陵碑が建立
    文武王は
   「匈奴の末裔」と記録・・・
ー↓↑ーーーー
 天智天皇七年(668年)
 新羅の
 文武王の代に
 使節を送った・・・???ナゼ・・・新羅へ
 ↓↑ ↓↑
 九月 草薙剣(天叢雲剣)盗難事件
 ↓↑ ↓↑
 「是歳。沙門
     道行
     盗
     草薙剣・・・・・ナゼ、草薙剣の剣なのか?
     逃向新羅。・・・ナゼ、新羅の僧なのか?
     而中路風雨。
     荒迷而帰」
 ↓↑ ↓↑
  事件十八(拾捌・足捌)年後の
 「戊寅に・・・・戊寅=つちのえのトラ      ・ボイン
           =土 の兄の虎(彪・禽・録)・母音
            十一(通知)の阿仁・阿児の捕等?
  天皇の病を占ふに
  草薙剣に祟れり。即日に、
  尾張国の熱田社に送り置く。
  (『日本書紀』朱鳥元年(686)六月戊寅条)」
 ・・・「日本武尊」は
    「伊吹山(「五十葺山・膽吹山・伊服阜能山」)」
     へ登る時に
    「草薙剣(天叢雲剣)」を
    「尾張」の
    「宮簀媛(書紀)=美夜受比売(古事記)
    (ミヤズヒメ=尾張国造の乎止与命(オトヨ)の娘
     乎止与(オトヨ)命は
     天火明命(アメノホアカリ)の子孫
     建稲種命の妹」
     に預け素手で・・・
    「宮簀媛(宀呂竹責ヒメ)=美夜受比売」は
     日本武尊(ヤマトタケル)の
     東征の帰路、尾張滞在の際に娶った女性
    ・・・尾張は敵地との緩衝地帯だが
    ・・・高句麗・女真・金・・・
      (蝦夷
       粛慎(シュクシン・みしはせ・あしはせ
       中国東北地方・沿海地方の
       挹婁(ユウロウ)、勿吉(モッキツ)
       靺鞨(マッカツ)、女真(ジョシン)
       ツングース系狩猟民族)
       の混在居住地だった・・・?・・・
       だが多分、
      「古事記の物語」は「九州-有明海」の
      「諫早湾(泉水海)」を囲む
      「長崎」「佐賀」「熊本」「鹿児島」など
      の伝承出来事と重なり、
      「福岡」、「大分」、「宮崎」などにかさなり・・・
      本州山陰、山陽、四国、
      東海、関東、東北と重なっていく・・・
     兎に角、「日本武尊(ヤマトタケル)」は
    ・・・「宮簀媛(宀呂竹責ヒメ)=美夜受比売」に
    ハメラれ、謀られた・・・
   「草薙神剣の有無」は彼女によって
   「武装解除」された「捕虜のハナシ」・・・?
ーーーーー
 自其國越科野國、
 乃言向科野之坂藭而、
 還來尾張國、
 入坐先日所期
 美夜受比賣之許。
 於是、獻大御食之時、
 其美夜受比賣、
 捧大御酒盞以獻。
 爾美夜受比賣、
 其於-意須比-之  其於-おすひ(襲=上着)-の
 襴意須      襴(ひとえ・ラン)に
          おす(襲=上着)の裾に
 (比三字以音)・・ランイス
 著月經。     月経(ツキのさわり)
          著(つ)きたり…いちじるしく
 故見其月經、   その月経を見て
 御歌曰、     御歌にいわく

 比佐迦多能    ひさかたの(久方の)
          比べ方、酒(サカ)多の
 阿米能迦具夜麻  天の香具山
 斗迦麻邇     鋭喧(とかま)に?
 佐和多流久毘   さ渡る鵠(クビ)?
 比波煩曾     弱細(ヒハボソ)?
 多和夜賀比那袁  撓(タワ)や?
          腕(ガヒナ)を?
 麻迦牟登波    枕かむとは?
 阿禮波須禮杼   我(アレ)はすれど?
 佐泥牟登波    さ寝むとは?
 阿禮波意母閇杼  我(アレ)は思へど?
 那賀祁勢流    何が著(ケ)せる?
 意須比能須蘇爾  襲(オスヒ)の裾(スソ)に?
 都紀多知邇祁理  月立ちにけり?

 爾美夜受比賣、答御歌曰、
 多迦比迦流    高光る
 比能美古     日の御子
 夜須美斯志    やすみしし
 和賀意富岐美   我が大君
 阿良多麻能    あらたまの
 登斯賀岐布禮婆  年が来経れば
 阿良多麻能    あらたまの
 都紀波岐閇由久  月は来経行く
 宇倍那      諾(ウベ)な
 宇倍那宇倍那   諾(ウベ)な諾(ウベ)な
 岐美麻知賀多爾  君待ちがたに
 和賀祁勢流    我が著せる
 意須比能須蘇爾  襲(オスヒ)の裾に
 都紀多多那牟余  月立たなむよ
 ・・・???・・・
 故爾御合而、   かれ、ここに御合しまし
 以其
 御刀之草那藝劒、 その御刀の草那芸剣(クサナギノツルギ)を
 置其       そこに置き
 美夜受比賣之許而、その美夜受比売(ミヤズヒメ)の許
 取
 伊服岐能山之藭  伊服岐(イブキ)の山の神を取りに
 幸行。      幸行しき
ーーーーー
 ↓↑ ↓↑
 「草薙神剣者。尤是天璽。自日本武尊催旋之年。
  留任尾張熱田社。外賊偸逃。不能出境」
  『古語拾遺(大同二年・807年)』」
 ↓↑ ↓↑
  朱鳥元年(686年)六月十日条・・・686年⇔668年?
  天武天皇が病
  占いで草薙剣による祟り
  剣を尾張国の
  熱田社(愛知県名古屋市の熱田神宮)に送り置いた
 ↓↑ ↓↑
  大阪府大阪市の地名「放出(はなてん)」
  道行が神罰を怖れ
  草薙剣を「放り出した」ことが地名由来
  同地の
  阿遅速雄神社の伝承
  鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝
  和銅元年(708年)
  道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際
  元明天皇に知られるのを恐れ
  新しく神剣が作られ
  熱田神宮別宮の
  八剣宮に奉納された・・・
 ↓↑  ↓↑ ↓↑
  遠賀川の物部氏関連神社群の「古物神社」
 「古物神社は八幡宮」で
 そこに「布留御魂神社と剣神社」が合祀・・・?
 福岡県鞍手郡中山の剣岳には昔、草薙剣があった
 剣岳の山頂には八剱神社の上宮
 ↓↑ ↓↑
 天智天皇九年(670年) 新羅の文武王の代に使節を送った
 ↓↑
 在位期間
 天智七年(668年2月20日)〜672年1月7日
 ↓↑
 「茜草指
  武良前野逝・・・武良前野-逝・・・逝=死
  標野行・・・・・・・標野-行・・・逝≠行
  野守(のもり)者・・・
 ↓↑   野守(やもり=ヤモリ=守宮・家守・矢守
            ↓↑  病もり(守)・・・看病人?
            ↓↑
     ニホンヤモリ(日本守宮、Gekko japonicus)
     爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ属のトカゲ(蜥蜴)の一種
 ↓↑   単に「ヤモリ」と呼称する

     モリ(守)=3世紀から6世紀ごろの
     古代日本の地域的、海運的首長につけられた
     語尾名称のひとつ
  ↓↑
  不見哉・・・・・フケンヤ
  君之・・・・・・訓(クン)詩(シ)?
  袖布流」・・・・袖振る=相手の霊魂を招き寄せる呪術?
          袖布流=湯部振る・喩分部振る?
          ソデふる・・・素(訴・蘇)出訃留・・・「訃=言+卜」?
                「卜」は「仆(ばったり倒れる)」の原字
                 人の死の知らせ・訃報・訃音
  ↓↑
  紫の       紫草能
  にほへる妹を   保敝類妹乎
  憎くあらば    尓苦久有者
  人妻故に     人嬬故尓
  吾恋ひ     吾戀---目八方
  め       目(推量を表す助動詞の已然形)?・・・~だろうか
  や       八(反語を表す係助詞)?・・・・・・・・いや~ない
  も       方(詠嘆を表す係助詞)?・・・・・・・・なぁ
  ・・・???・・・この「日本語訳」は?であるカナ・・・「目線は八方」・・・
  反転・倒置で解釈・・・?
  「め」は推量の助動詞「む」の已然形
  「やも」は反語の終助詞「どうして~するだろうか、そんなことはしない」
 ・・・いい加減な目八方であるカナ・・・
 ↓↑
 野守=のもり=謡曲、五番目物・世阿弥作
    春日野を行く旅僧が老人から
    野守の鏡の故事を聞き
    鬼神の奇瑞 (キズイ) を見る・・・?
 ↓↑
 野守草=植物名・ハギ(萩)の異名・・・長州藩、萩、松下村塾
 ↓↑
 野守(のもり)の鏡(かがみ・金立日儿)=鑑・加賀見・各務
     =大和国 春日の里を訪れた山伏(やまぶし・ワキ)・・・
              山伏(サンフク・耶麻を伏せる)?
      そこへ現れた
      野守の老翁(前シテ)は
      この野にある溜まり水が
     「野守の鏡」と呼ばれていることを教え
      そして「真実の野守の鏡」とは
      この水ではなく
     「鬼神のもつ明鏡」のことだと明かす
      この溜まり水が
      和歌の世界で
     「野守の鏡」と呼ばれるに至った故事を語る
     「山伏」は
      その「真実の鏡」にも関心を示すが
      老翁は
     「鬼神の鏡は
      世にも恐ろしい物なので人には見せられない」
      と告げると、野中の塚に姿を消してしまう
     「山伏」が
     「真実の鏡(鑑=歴史?)」
      を拝すべく一心に祈っていると
      塚の中から鏡をたずさえた
      鬼神(後シテ)が出現し・・・鬼神=卑弥呼の神?
      鬼神は、大宇宙のすみずみまでを
      明鏡に映し出し
      この世界の諸相を見せる・・・
 ???・・・だからナニ?・・・
 ↓↑
 野守(のもり・ヤモリ・ヤシュ)
         ・・・野手(野球の)
            野趣=自然のままの・素朴で田舎っぽい
 ↓↑            野性的・ワイルドな・
 ヤモリ=やもり=守宮・家守・矢守・病もり・・・?
 ニホンヤモリ(日本守宮、Gekko japonicus)
 爬虫綱有鱗目ヤモリ科ヤモリ属に分類される
 蜥蜴(トカゲ)の一種・単にヤモリと呼称
 ↓↑
 民家やその周辺に生息
 動物食で
 昆虫やクモ、ワラジムシなどの
 陸生の節足動物を食べている
 天敵は猫等の哺乳類の他、鳥類、ヘビ、爬虫類
 夜行性で、昼間は壁の隙間等で休む
 獲物目当てに灯火の周りに現れる
 トカゲやカナヘビ同様
 驚いたり敵に捕まりそうになると
 尾を自切する
 切れた尾は分離後10分程度非常に複雑な動きをする
 尾は再生されるが
 元の尾と再生尾とでは視認できる程度の違いがある
 冬になると壁の隙間や縁の下等で冬眠
 繁殖形態は卵生
 5月から9月にかけて1-3回に分けて
 1度に2個ずつの粘着質に覆われた卵を木や壁面に産みつける
 卵は1ヶ月半から2ヶ月程度で孵化
 家の内外の害虫を捕食し
 虫害から家を守るとされ
 「守宮(家守)」と書かれ
 似た名の
 「イモリ(井守)」とともに親しまれてきた
 ↓↑
 アカハライモリ(Cynops pyrrhogaster)
 有尾目イモリ科イモリ属に分類される
 両生類の一種
 略してアカハラ
 イモリと呼ぶ
 別名
 ニホンイモリ(日本井守、日本蠑螈)
 和名の「井守」
 野井戸の中にも生息するので
 「井戸を守る」に由来
 水田に生息することから
 「田(井田)を守る」との意味に由来・・・
 ヤモリは爬虫類
 イモリは両生類・変態動物
 イモリの黒焼き=ほれ薬
 大陸中国の
 ヤモリの黒焼き
 が
 日本では
 イモリの黒焼きになった・・・
 蠑螈=いもり・エイゲン=イモリ=井守
    イモリ科の両生類
    日本特産で池や井戸にすむ
    形はトカゲに似る
    体は黒褐色で腹は赤い
    アカハラとも
    井戸のなかにすむことから
    有尾目イモリ科の両生類
    日本の固有種
    体長約10センチ
    背面は黒褐色で斑点
    腹面全体が赤い
    イモリは
    池や井戸など水のあるところを守る・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・

コメント
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477年 宋・昇明一年 興(武) 十一月・七支問う?

2018-08-16 23:53:54 | 古事記字源

 ・・・旧のお盆(月遅れのお盆) 8月13日~16日・・・「盆入りの8月13日の夕方に先祖の霊が迷わないように迎え火を焚き、盆明けの8月16日の夕方に送り火を焚いて先祖の霊を見送る」・・・「盆=分(八刀)+皿=皿の上のモノを分ける」・・・「逝く=ゆく=行く・往く(往復)」・・・ 「逝く=辶+折=二度と帰らない世界へイクこと、イったまま帰らないこと・死ぬ・二度と帰らない世界へイク・行ったきり帰らない」・・・「お盆=逝った人の往復」って?・・・魂魄の現世帰還・・・「カネが無くても阿波踊り」は「タマシイのお迎え」・・・
 お盆、終わった
 日本人の
 戦争、負けて終わった・・・
 ↓↑    ↓↑
 昭和二十年(1945)八月十五日
 乙酉(庚・ ・辛)
 甲申(己・壬・庚)
 丙辰(乙・癸・戊)
 ↓↑    ↓↑
 神武天皇が即位日(紀元前660年2月11日)
 今生天皇最期の平成三十年
 お盆、終わった
 ↓↑
 「往くなり(説文解字・巻二)」
 「逝、往くなり(方言)」
 「逝、秦晉の語なり(方言)」
 ↓↑
 往=彳+王(古体は「㞷(屮王)」、「主」ではない?)
     王=人が手足を広げる様で?、足をすすめるの意?・
 ↓↑    ↓↑
       西周金文の象形文字は
      「七支刀(しちしとう)=六又鉾(むつまちほこ)」
       にみえる
      『泰□四年五月十六日丙午正陽
       造百練□七支刀
       □辟百兵 宜供供侯王 □□□□作』
      『先世来未有此刀   
       百済□世□奇生聖音
       故為倭王[二/日]造 伝示□世』
 ↓↑    ↓↑
       晋(西晋)の 泰始四年(268年)?
 ↓↑    ↓↑
       秦■四年
百済の蓋鹵王が
       宋に遣使457年に鎮東大将軍に任ぜられた
      468年の宋年号=泰始四年(468年)?
      468年6月8日
      戊申(己・壬・庚)
      戊午(丙・ ・丁)
      丙午(丙・ ・丁)
 ↓↑    ↓↑ 
         百済王=蓋鹵王
       百済の世子=武寧王=斯摩王
 ↓↑    ↓↑ ↓↑    ↓↑
              太和(泰和)四年(369年)?
              百済の独自年・・・???
 ↓↑    ↓↑ ↓↑    ↓↑
      「泰始四年(268年)五月十六日」=「丙午」
          西暦268年5月8日=「丙午」
          戊子(壬・ ・癸)
          丁巳(戊・庚・丙)
          丙午(丙・ ・丁)
       臺與の時代=壹與(235年+13+α)=248年+α
      『晋書』起居註に
       秦始二年(266年)
       倭の女王の使者が朝貢
       150年後の
       義熙九年(413年)
       倭王讃の朝貢(倭の五王)
 ↓↑    ↓↑              
      「泰和四年(369年)
       百済王の太子
       奇生聖音が
       倭王旨のために
       七支刀を造った
       この世にも珍しい刀を献上するので
       末永く保存して欲しい」
 ↓↑    ↓↑
       奇生聖音=近仇首=貴須は同一人物・・・?
       倭王-旨(うまし・シ)
       広開土(こうかいど)王=好太王(こうたいおう)
       國岡上廣開土境平安好太王=永楽大王
       (374年~412年)は高句麗の第19代王
       日(ひ・か・ニチ・ジツ)・・・曰(いわく・エツ)
       十(とお・と・そ・たり・ジュウ・ジツ・ジフ)
       大王
       斯麻(しま)=武寧(ぶねい)王
       獲加多支鹵(わかたける)大王
 ↓↑    ↓↑
 倭の五王
 ↓↑    ↓↑
 「讃」→履中天皇? 仁徳天皇? 応神天皇?
 「珍」→反正天皇? 仁徳天皇?
 「済」→允恭天皇
 「興」→安康天皇
 「武」→雄略天皇
 ↓↑    ↓↑
 413年 東晋 義熙九年
    讃
    東晋・安帝に貢物を献ずる
  (『晋書』安帝紀・『太平御覧』)
 ↓↑    ↓↑
 421年 宋  永初二年
    讃
    宋・武帝に朝献し除授の詔
    安東将軍倭国王
  (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 425年 宋  元嘉二年
    讃
司馬の曹達を遣わし
    宋の文帝に貢物を献ずる
  (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 430年 宋 元嘉七年
    讃
    1月
    宋に使いを遣わし、貢物を献ずる
   (『宋書』文帝紀)
 ↓↑    ↓↑
 438年 宋 元嘉十五年
    珍
倭王讃没し、弟珍立つ
    宋に朝献し、自ら
   「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓
    六国諸軍事安東大将軍倭国王」
    と称し、正式の任命を求める
   (『宋書』夷蛮伝)
    4月
    宋文帝
    珍を
    安東将軍倭国王とする
   (『宋書』文帝紀)
    珍は
    倭隋ら13人を
    平西・征虜・冠軍・輔国将軍
    にされんことを求め許される
   (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 443年 宋 元嘉二十年
    済
    宋・文帝に朝献し
    安東将軍倭国王とされる
   (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 451年 宋 元嘉二十八年
    済
宋朝・文帝から
   「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
    六国諸軍事」を加号される
    安東将軍はもとのまま
   (『宋書』倭国伝)
    7月
    安東大将軍に進号する
   (『宋書』文帝紀)
    上った23人は、
    宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる
   (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 460年 宋 大明四年
    済
    12月
    孝武帝へ遣使して貢物を献ずる
 ↓↑    ↓↑
 462年 宋 大明六年
    興
    3月
    宋・孝武帝
    済の世子の
    興を安東将軍倭国王とする
   (『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
 ↓↑    ↓↑


 477年 宋  昇明一年
興(武)
11月
    遣使して貢物を献ずる
  (『宋書』順帝紀)
    興没し、弟の武立つ
    武は自ら
   「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
    七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する
  (『宋書』夷蛮伝)
 ↓↑    ↓↑
 478年 宋  昇明二年

上表して、自ら
    開府儀同三司と称し、叙正を求める
    順帝、
    武を
   「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
    六国諸軍事安東大将軍倭王」とする
  (『宋書』順帝紀・「武」と明記した初め)
 ↓↑    ↓↑
 479年 南斉 建元二年

  南斉の高帝、王朝樹立に伴い、
    倭王の武を
    鎮東大将軍(征東将軍)に進号
  (『南斉書』倭国伝)
 ↓↑    ↓↑
 502年 梁  天監一年
  武
4月
    梁の武帝、王朝樹立に伴い
    倭王武を
    征東大将軍に進号
  (『梁書』武帝紀)
ーーーーー
 「標」の原義から「禁野」と誤解した・・・?
 「標」の原義は「墓標」ではないのか・・・?
 ↓↑    ↓↑   
   ゆく・いく・いぬ・すすむ
   往還・往診・往路・・・往来・往復
   むかし・いにしえ・以前に・かつて
   已往(イオウ)・既往・古往
   のち・あと・おり
   以往・往往
   已往(イオウ)・帰往(キオウ)
   既往(キオウ)・古往(コオウ)
   往来・往復・・・往き来(いきき)
 ↓↑    ↓↑
 往還(オウカン)・往古(オウコ)
 往古来今(オウコライコン)
 往歳(オウサイ)
 往事渺茫として都(すべ)て夢に似たり
 往時(オウジ)・往生(オウジョウ)
 往生素懐(オウジョウソカイ)
 往生際(オウジョウぎわ)
 往昔(オウセキ)・往年(オウネン)
 往訪(オウホウ)
 往亡日(オウモウニチ)
 往きがけの駄賃
 往き大名の帰り乞食
 往く者は追わず
 右往左往
 以往
 ↓↑    ↓↑
 逝=辶+折(扌斤)・・・扌(手・て・シュ)
             斤(おの・キン・コン)
   辵+折(扌斤)
   辵 (ちゃく・しんにょう・しんにゅう・しにょう)
   ゆく・いく・セイ・セツ・テツ
   去る・人が死ぬ・die・death
   ある人を敬って死をいう言葉
   逝水・逝去・長逝
   永逝(エイセイ)・遠逝(エンセイ)
   急逝(キュウセイ)・夭逝(ヨウセイ)
   逝水(セイスイ)=流れ去る水
 逝=死
   いく・立ち去って帰らない
   死ぬことを婉曲にいう語
 逝=辶+折(おる・セイ・セツ・テツ)
   通仮字は筮・噬
   異体字は䠠・遞・遰・递・遆・𨒾
       𨓝・𨓠・𨔄・𨔛・𨕑・𨘬
   逝の部首は辵
 折+α・・・誓・哲
ーーーーー
 天智天皇
 ↓↑
 誕生 626年
 崩御 672年1月7日
 ↓↑
 天智天皇七年(668年) 新羅の文武王の代に使節を送った
 天智天皇九年(670年) 新羅の文武王の代に使節を送った
 ↓↑
 在位期間
 天智七年(668年2月20日)~672年1月7日
 ↓↑
 舒明天皇の第2皇子
 叔父・孝徳天皇(軽皇子)の皇太子
 先代 斉明天皇(皇極天皇重祚)
 次代 弘文天皇(大友皇子)
 ↓↑
 皇后・倭姫王(やまとひめのおおきみ)=古人大兄皇子の娘
 夫人・道君-伊羅都売(いらつめ)=道君氏の娘
    第七皇子=志貴(しき・施基)皇子
        (春日宮天皇=後に親王=光仁天皇の父)
 采女・宅子娘(やかこのいらつめ)=伊賀国造某の娘?
    第一皇子=友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)
 ↓↑
 誕生 626年
 崩御 672年1月7日
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 天智十一年十二月三日(672年1月7日)
 近江大津宮で崩御
 ↓↑
 近江大津宮
 斉明天皇六年(660年)
 と
 天智天皇十年(671年)
 に漏刻(水時計)を作って国民に時を知らせた
 ↓↑
 天智天皇の蒲生野行幸は
 天智七年(668)五月五日
 ↓↑
 「茜草指
  武良前野逝・・・武良前野-逝・・・逝=死
  標野行・・・・・・・標野-行・・・逝≠行
  野守者
  不見哉
  君之
  袖布流」・・・・袖振る=相手の霊魂を招き寄せる呪術?
 「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも」
 ↓↑
 「額田王が
  大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく
  宴などでおおやけに披露した歌と思われる
 (宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)」
 ↓↑
 「才女の額田王がからかいかけた
  どう少なく見積もっても、
  この時すでに
  四十歳になろうとしている
  額田王に対して
  天武もさるもの
  『にほへる妹』などと、しっぺい返しをした
 ↓↑
 天智天皇の大殯(おおあらき)の時の歌
 ↓↑
 「かからむと
  かねて知りせば
  大御船(おほみふね)泊
  はてし泊に
  標結(しめゆ)はましを(万2-151)」

 大殯 殯(あらき)の尊敬語
    埋葬までの間
    天皇の遺体を柩におさめて安置しておくこと
 ↓↑
 吉野の宮に幸いでませる時
 弓削皇子の額田王に贈り与ふる歌一首
 ↓↑
 「古(いにしへ)に
  恋ふる鳥かも
  弓絃葉(ゆづるは)の
  御井(みゐ)の上より
  鳴き渡りゆく」
 ↓↑
 額田王の和こたへ奉る歌一首 倭京より進入(たてまつ)る
 ↓↑
 「古に
  恋ふらむ鳥は
  霍公鳥(ほととぎす)
  けだしや鳴きし
  我が思へるごと(万2-112)」
 ↓↑
 遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は
 ほととぎす
 もしかすると
 鳴いたかも
 私が昔を偲んでおりますように
 ↓↑
 吉野の宮に幸せる時
 持統天皇の吉野行幸
 持統四年(690)~同八年頃
 弓削皇子は二十代
 額田王は六十代
 倭京=飛鳥京
 霍公鳥=過去を偲んで
     悲しげに鳴く鳥・・・霍公鳥≠雷鳥
                 霍≠雷
           霍=にわか・つる・カク
             はやい・すみやか
             霍乱(カクラン)・霍然=カクゼン=確然
             霍然=突然・急に・いきなり
             確然=確固
     ホトトギス=不如帰・杜鵑=時鳥
     一度帝位を退いたのち
     復位を望んだ
     蜀の望帝が
     その志を果たせず
     死して「ほととぎす」と化し
     往時を偲んで昼夜分かたず鳴いた
     中国の故事
   「我が思へるごと」は
    西本願寺本などの原文に
   「吾戀流碁騰」とあり
   「あがこふるごと」と訓む説も・・・
 ↓↑
 「古に恋ふる鳥かも」
 (昔を懐かしがる鳥なのでしょうね)
  と暗に
  額田王を鳥に喩えて詠んだ
  弓削皇子の歌に対し
  中国の故事を踏まえて
  婉曲に「その通りです」と答えた歌・・・
 ↓↑
 668年
 ↓↑
 干支
 戊辰年
 日本
 天智天皇七年668年
 皇紀1328年
 中国
 唐
 乾封三年、総章元年
 ↓↑ 
 東ローマ皇帝コンスタンス2世が暗殺
 ↓↑
 10月
 唐・新羅連合軍(唐・新羅の同盟)
 が
 高句麗を滅ぼす(唐の高句麗出兵)
 唐が平壌に安東都護府を設置
 日本
 1月
 近江令を制定
 2月20日(天智天皇七年一月三日)
 天智天皇即位式 
 4月10日(天智天皇七年二月二十三日)
 大海人皇子が立太子
 6月19日(天智天皇七年五月五日)
 近江蒲生野にて薬猟
 大海人皇子と額田王の相聞歌
 9月
 新羅使、調を貢進する
 新羅の僧が
 草薙剣(天叢雲剣)を
 国外に持ち出そうとする
 草薙剣盗難事件
 ↓↑
 誕生
 行基、奈良時代の僧(~749年)
 ユスティニアノス2世
 東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝最後の皇帝(~711年)
 ↓↑
 死去
 7月15日
 コンスタンス2世
 東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(630年~) 
 智儼、中国華厳宗の第二祖とされる僧(602年~)
 ブラーマグプタ、インドの数学者、天文学者(598年~)
ーーーーー
 ↓↑
 秋の田の
 かりほの庵の苫をあらみ
 わが衣手は露にぬれつつ
 ↓↑
「屋根を葺いている苫が粗いので
 私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」
 ↓↑
 香具山は
 畝火雄々(を愛)しと
 耳梨と
 相争ひき
 神代よりかくなるらし
 古へもしかなれこそ
 うつせみも嬬(妻)を争ふらしき
 ↓↑
 「高山波
  雲根火雄男志等
  耳梨與
  相諍競伎
  神代従如此尓有良之
  古昔母然尓有許曽
  虚蝉毛
  嬬乎
  相挌良思吉」
ーーーーー
 ・・・???・・・

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・・・逝≠行・・・藤の本の理の稀・・・サイワイなり

2018-08-15 22:11:48 | 古事記字源

 ・・・雷鳥(ライチョウ)と鯱(シャチ)・・・三輪山=御諸山(みもろやま)・美和山・三諸岳(みもろだけ)、大神神社(おおみわじんじゃ)・・・阿蘇山は三重(三輪)の外輪、内輪、噴火口・・・の活火山・・・?・・・カルデラ・・・珂瑠の出羅・・・?

 「トーテムポール(totem pole)
 北アメリカインデアンの
 北西沿岸部に住む彼らが
 生活空間に立てた
 柱状の
 木の彫刻標識
 崇拝の対象としての偶像ではなく
 宗教的なものではない」・・・
 ・・・「崇拝偶像」ではなくても「宗教的なモノ」だろう・・・
 「標野=しめの=示野」の「標(しるべ)の木々or竹々の竿・旗・旗竿」は漢字一文字では「桓」である・・・
ーーーーー
 桓=めぐらす・カン
   宿場の標識
   ぐるぐる巡るさま
   武勇が優れたさま=桓桓たる武王
   桓表=漢代、駅や宿場のまわりに立てた鳥居のような木の柱
      鳥居・盤桓
      宿場の印として周りにたてた木
      周りに巡らせた木
      元気あふれるさま
      武勇のあるさま
      「狟」に当てた用法
      ぐるぐる巡るさま
      桓桓=武勇が優れたさま・桓桓たる武王
      桓表(カンピョウ)・・・かんぴょう=干瓢・乾瓢
                  千成瓢箪
      漢代、駅や宿場のまわりに立てた
      鳥居のような木の柱
      盤桓(バンカン)=あちらこちら歩きまわること
               徘徊すること
               「広い庭を盤桓する」
               先に進まずにとどまること
 桓=棺を墓穴におろすために四すみに立てる柱
   めぐる・めぐらす
   木+亘=桓・垣・垣根
       恒
       亙音の変化セン・ カン・コウ
       亘エン・垣カン・桓コウ
 桓=しるしとして立てた木・まわりにめぐらした木
   いさましいさま・ぐるぐるめぐるさま・桓表
 桓=木+亘
   異体字は 楦・𣒯
   桓因(カンイン)は檀君神話の帝釈天
   三桓(サンカン)・盤桓(バンカン)
 桓=木+亘
   樹木と、物の旋回・巡回・巡らす状態
ーーーーー
 篠芽=しのめ・「篠芽竹」の略
    遅く生え、青くて味の苦い竹の子
    (和名抄)
    篠芽竹(しのめだけ)
    ヤダケの別名・・・矢竹・・・矢立
ーーーーー
 標野=しめの
    皇室や貴人が占有し
    一般の者の立ち入りを禁じた野
    禁野(キンヤ)
    狩り場などに用いた
     ↓↑
    「あかねさす
     紫野行き
     標野行き
     野守は見ずや
     君が袖振る」〈万・二〇〉
     ↓↑
    第三十八葉(巻1・20 - 21)
    茜草さす
    紫野行き
    標野行き
    野守は見ずや
    君が 袖 振る
     ↓↑
    紫草(むらさき)の
    にほへる
    妹を 憎くあらば
    人妻ゆゑに
    われ恋ひめやも
     ↓↑
 「標野(しめの)の語源」
  額田王の万葉歌1-20が初出
  歌の読者が
 「標」の原義から「禁野」と誤解した・・・?
  ↓↑
 「茜草指
  武良前野逝・・・武良前野-逝・・・逝=死
  標野行・・・・・・・標野-行・・・逝≠行
  野守者
  不見哉
  君之
  袖布流」
  ↓↑  
  額田王は
  横野を標野と書き誤った・・・?
  ・・・ならば、「横野」は「横島」だろう・・・?
  「下関市横野町は
   古代、北東から南西に伸びる砂洲で
   その先端が
   村崎ノ鼻である」・・・「村崎=むらさき=武良前=紫草」?
   ↓↑
   しめの =標野(ヒョウヤ)
   しめなわ=標縄・注連縄・七五三縄
        境界
        領域の出入り禁止を示す縄張り
        神事において神聖な場所を画するために用い縄張り
        新年に門口に魔除けのために張った
        藁(わら)縄を左縒(よ)りにない
        藁の尻を三・五・七筋と
        順にはみ出させて垂らし
        間に紙の四手(しで)を下げる
        しめ(注連・占め・締め・絞め・染め・閉め・〆る)
        すめ-る=済める
        すべ-る=統べる・総べる
   ↓↑   ↓↑
 標=しるべ・しるし・ヒョウ・ヘウ
   目じるし・目標・標識・標柱
   朝廷の公事(くじ)のとき
   百官の席次を定めた
   しるしの
  「白木」・・・白記・・・?・・・新羅
         白文=葉区分・・・
         漢文本文だけで
         注釈、
         句読点・返り点・送り仮名
         などのついていない漢文
        「白字」に同じ
   ↓↑
   標識・標準・標的・標本・指標・商標
   道標・浮標・墓標・目標・門標
   標札=ヒョウサツ=表札
   標語・標示・標榜
   名のり
   えだ・かた・こずえ・しな・すえ・たか・ひで
   標縄(しめなわ)
   澪標(みおつくし)
   標飾(しめかざり)
   道標(みちしるべ)
   ↓↑
 禁野=キンヤ
    天皇の狩り場として、一般人の狩猟を禁じた野
    標野(しめの)
    大和の宇陀野、河内の交野(かたの)など
   ↓↑
 あかね(茜・アカネ)さす
       ・・・紫にかかる枕詞・・・筑紫に懸かる?
          紫=此れはイト(伊都・意図・糸=シ)?
            此=止+七(ヒ・匕・牝)
              イトにトドメる匕(七ヒ)
 万葉名で
 「茜、茜草、赤根、安可根」と記録
       ・・・安可根
       安=やすらか・アン・落ち着いている・心配がない
         安住・安泰・安堵
         安価
         たやすい・簡単
         安易・安直
         たのしむ・甘んじる
           ・・・アマンジる・・・阿毎ム地留?
              海人ム字留?海女ム字留?
           阿蘇山=「高、中、烏帽子、杵島、根子」岳
         安逸=安佚=気楽に過ごすこと
            何もせずに、ぶらぶらと遊び暮らすこと
            佚=イ+失(𠂉一人)・カミさしの始めの人
         おく・すえる
         安置
         いずくんぞ・疑問・反語の助字

 アカネが登場する歌は13種
 すべてが
 「紫・日・月・照る・昼・君」にかかる枕詞
 纁(糸+熏・そひ・そび)=薄い赤色
   イトをイブス・・・伊都を慰撫す?
   ↓↑
 標野=一般人の立ち入りが禁じられた土地
    額田王の相手である大海人皇子の御料地
 野守=御料地を守っている警備人
    or
    天智天皇・・・?
 君 =女性が男性を呼ぶときに使った
 袖振=愛情を示したり、悲しみを表すしぐさ
   ↓↑

 禁野(キンヤ)
 宗教的聖地の山陵・墓山・寺社
 墾田予定地
 狩猟地・牧・杣(そま)・御厨(みくりや)
 などは原則からはずされる場合もあり
 狩猟・薬猟地は
 古くから一定の季節に
 標(しめ)を張り
 囲い込んで標野(しめの)とし
 他の民業を妨げない範囲で
 猟物
 や
 薬草
 を採獲する慣行があった
 禁野は7世紀後半以降
 「公私共利の原則」を法的に確立していく際に
 標野を皇室猟野とした・・・
   ↓↑
 結界(ケッカイ)
 標野(しめの)は禁野であり結界地
 標結(しめゆ)う
 結界することを意味するが
 これは「印を結ぶ意」であって
 かならずしも界を結ぶ意ではない・・・?
   ↓↑
 茜草指
 武良前野逝
 標  野行
    野守者不見哉
    君之袖布流・・・訓之素出振る?
   ↓↑
 額田王(ぬかだのおおきみ)
 斉明朝~持統朝の代表的な万葉歌人
 大海人皇子(天武天皇)の妃
 十市皇女の母
 後
 天智天皇の妾
 ↓↑
 額田王の作品
 秋の野のみ草刈り
 葺き宿れりし
 宇治の宮処の
 仮廬し思ほゆ --『万葉集』巻一(7)
 ↓↑
 熟田津に
 船乗りせむと
 月待てば
 潮もかなひぬ
 今は漕ぎ出でな --『万葉集』巻一(8)
 ↓↑
 熱田津爾
 船乘世武登
 月待者
 潮毛可奈比沼
 今者許藝乞菜
 ↓↑
 熟田津=道後温泉・当時は海港
 ↓↑
 三輪山を
 しかも隠すか
 雲だにも
 心あらなも
 隠さふべしや --『万葉集』巻一(18)
 天智六年(667)
 近江大津宮遷都に際し
 飛鳥京を去る折の歌
 ↓↑
 あかねさす 紫 野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
 茜草 指  武良前野逝 標野行 野守者不見哉君之袖布流
 ↓↑
 天智七年(668)五月五日
 天智天皇の
 蒲生野行幸における歌
 ↓↑
 君待つと
 わが恋ひをれば
 わが屋戸のすだれ動かし
 秋の風吹く--『万葉集』巻四(488)・巻八(1606)
 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
 天皇
 遊猟
 蒲生野時
 額田王 作歌
 茜草指 武良前野逝  標野     行
 茜さす 紫野  行き 標野(しめの)行き
 ↓↑
 野守者不見哉 君之袖布流
 野守は見ずや 君が袖振る
 ↓↑
 紫草(むらさき)の
 匂へる妹(いも)を
 憎くあらば
 人妻故に
 我恋ひめやも(大海人皇子)
ーーーーー
 ・・・???・・・三角関係・・・
 三角関係の面積=底辺×高さ÷2=S=1/2bc sinA・・・
 n角形の内角の和=180×(n-2)
 凸 n 角形は「n - 2」個の三角形に分割される
 S = √s(s - a)(s - b)(s - c)
   s =1/2(a+b+c)
 ・・・???・・・

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