・・・温帯低気圧・・・隠れキリシタン・・・「あわび(鮑・鰒・・・アブ-マリア=ヴィナス誕生は二枚貝=帆立貝?)」・・・泡の美?・・・「古銭の穴と文字(十字架)」を擬似信仰対象とした・・・銭を拝金?・・・興福寺-中金堂の再建・・・
ナマエのヘン・・・?
ーーーーー
博多の櫛田神社・・・櫛田=セツデン=説伝・・・節電?
櫛=くし=十八節?
田=た・デン=囗(国)+十(Ⅹ=カイ)
↓↑
天平宝字元年(757年)
松阪にあった
櫛田神社を勧請した
天慶四年(941年)
小野好古・・・小=八(はち)を亅(引っ掛け)
野=里を予(あずかる)
は
古(いにしえ・十の口)が
好(す・女の子)き
が
藤原純友の乱・・・・純=糸(イト)の屯(たむろ・駐屯)
友=ナの又
ナ=娜大津
しなやか(しなやか・ダ・ナ)
娜=女+尹+阝=女+那
=女性が弱そうで美しいさま
異体字は「𡟦=女舟阝」
那=なんぞ・いかんぞ・ナ・ダ
疑問・反語の助字
西方の異民族の国(四川省)名
「豊かで限りない」という意
何
奈(ナ)=「何曷胡盍那𨚗庸奚詎」
どこ・どれ
那辺
なに・いずれ
刹那(セツナ)・那落
禅那(ゼンナ)・旦那(ダンナ)
異体字は「𨙻・哪・挪・㖠・𢑽・𣟎・𨚉・𨚗・郍
𣟎=𢑽=木の立ち枯れ」
を鎮めるため
京都の八坂神社に祈願
平定後に
素盞嗚神
を勧請した・・・
平安時代末期
平清盛
が所領の
肥前国
神埼の
櫛田宮を
日宋貿易
の拠点とした博多に勧請した・・・
戦国時代に荒廃したが
天正十五年(1587年)
豊臣秀吉
によって博多が復興され
現在の社殿が造営・・・
明治元年(1868年)
神仏分離令
以前の江戸時代
東長寺に属する
神護寺が
櫛田神社を管理
明治二十四年(1891年)に県社に列した
↓↑
博多湾(津)=「冷泉津・草香江・沖の浜」
「那津(なのつ)・荒津(あらつ)」
「娜大津」
「灘津(なだつ)・筑紫大津」
平安時代・1161年
平清盛
により日本初の人工港
「袖の湊」が建設
ーーーーー
緑林=中国新王朝(8~23)
王莽
の失政と飢饉で各地に民衆が蜂起
湖北では反徒が
緑林山(湖北省当陽県)に集結し
劉秀
らを推戴する南陽(河南省)の
豪族集団と合流
緑林の推す
劉玄
を
更始帝
に立てて漢王朝復興をめざし
王莽死後の長安を占拠
政治が乱れて部将が離反
劉秀
も河北で
光武帝
として即位
更始帝は
赤眉に敗れて殺された
反徒が
緑林山に拠った故事から
後世群盗を
緑林とよぶ
↓↑
更始帝(コウシテイ)⇔帝=みかど・テイ・タイ
見化度・綴 ・他意・対・碓・鯛・体
更に始めを
亠(音)の
八の倭(和・冖)の
巾を綴る
新末、後漢初
緑林軍による更始政権の皇帝
姓は劉
諱は玄
南陽郡
蔡陽県(湖北省棗陽市西南)の人
前漢の宗室
祖父は
蒼梧郡・・・・梧=十+八+五+口=あおぎ・ゴ・グ
太守の
劉利
父は
劉子張
で
光武帝
劉秀
の族兄
正室は
趙萌の娘
側室は
平林の豪族の娘
何氏・・・何?
と
韓氏・・・韓?
子は
劉求・劉歆・劉鯉(寿光侯)
孫は
劉巡(求の子)
曾孫は
劉姚(巡の子)・・・・姚=女+兆=美しい・妖艶・ヨウ・チョウ
異体字は「𡜞・窕」
「魏紫姚黄」=牡丹の名
↓↑
更始(コウシ・23年~25年)
劉玄(更始帝・淮陽王)が建てた元号・・・玄=くろ・ゲン
↓↑
王莽の末期・・・莽=艹+大(一人)+廾=草深い・粗雑
覆い被(かぶさ)る
異体字は「莽・莾・𦱠」
緑林の乱
赤眉の乱・・・・⇔白眉・媚態・眉唾・・・「眉輪・目弱」皇子
などが起こると
長兄の
劉演・・・・・・演=氵(水)+寅(とら・イン)
族兄の
劉玄とともに
南陽の豪族と連合して挙兵し(22)
新市の
緑林と平林の兵と同盟
劉玄を
更始帝とし・・・・玄=更
玄=赤または黄を含む黒色
老荘思想で説く哲理
空間・時間を超越し
天地万象の根源となるもの・・・物質
微妙で奥深いこと
元号を更始元とした
↓↑
建武(ケンブ)・・・ヤマトタケル・・・タケル=建・武
↓↑ 建武の中興(1334年)
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
語他意語添 納
第九十六代天皇
南朝の初代天皇
(在位、1318年3月29日
文保二年二月二十六日
~
1339年9月18
延元四年八月十五日
↓↑ ↓↑
建武の中興(1334年)後、
38年=参拾八年・・・纂拾う捌(さばいて)撚る
編纂 後
延元四年八月十五日(1339年)後、
33年=参拾参年・・・簒拾う 纂の撚(よる)
簒奪 編纂
『古事記』の写本
最古の
「伊勢本系統」
南朝、建徳二年(1371年)~文中元年(1372年)
北朝、応安四年(1371年)~文中元年(1372年)
にかけて真福寺の僧
賢瑜によって写された
↓↑ 真福寺本『古事記』三帖
後漢
光武帝
劉秀の最初の元号
25年~56年
建武32年(56年)4月に改元され
建武中元元年となった
↓↑
日本で天皇親政を再興した
後醍醐天皇が採用する
建武(ケンム)・・・ケンム=兼務?
南朝は1334年1月29日~1336年2月19日
北朝は1334年1月29日~1338年8月28日
↓↑
建武元年6月
劉秀(光武帝)は
更始朝より独立し
鄗(コウ・河北省高邑県)で即位
建武と改元
10月
洛陽遷都
↓↑
3年 宜陽にて戦わずして赤眉軍を降す
劉盆子、伝国璽を光武帝に奉ずる
盆(分皿)子(一了)=ボンシ=本詞・翻史
伝国璽=コクジ=国字
光武帝=コウブテイ=後部綴・高部綴・公武綴
5年 斉を平定
9年 隴西(隴右)の軍閥、
隗囂が病死・・・隗=けわしい・カイ・ガイ
囂=かまびすしい・やかましい
わずらわしい・さわがしい
ゴウ・キョウ
10年 隗囂の子の
隗純が漢に降る
隴西を平定
12年 公孫述が戦死・・・公の孫(まご)を述(のべる)
蜀を平定
16年 交阯郡(ベトナム北部)
徴姉妹の反乱
17年 皇后・郭氏を廃し
陰氏を皇后
18年 馬援の交阯遠征
19年 交阯平定
陰氏の子
劉陽(改名して劉荘、明帝)を皇太子
23年 匈奴が南北に分裂
26年 南匈奴の
日逐王比が・・・日を逐(おう・チク・ジク)
王(おう・ワム)を
比(くらべる・ヒ)
漢に帰順
↓↑
更=さら・ふける・ふかす・かえる・あらためる・コウ
↓↑更新・変更・更改・更迭
一夜を五等分した時間の単位
夜を五つに分けた時刻
三更・初更
さらに・そのうえ
深まる・ふける・夜がおそくなる
深更・・・夜更(ふ)け・深夜
甦 (ソ)の代用字=よみがえる・・・読み替える
更生
更地(さらち)・今更(いまさら)
名のり、「とお・とく・のぶ」
更衣 (ころもがえ・コウイ)
↓↑更紗 (サラサ)
鸕野讚良=(うののさらら・うののささら)
↓↑ 菟野沙羅羅
鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)
持統天皇=大倭根子天之廣野日女尊
高天原廣野姫天皇
斉明七年(661年)
夫(天武)とともに
父の天皇(天智)に
九州に随行
天智元年(662年)
筑紫国の
娜大津で・・・博多湾・博多津
草壁皇子
を産んだ
娜大津=福岡-博多(はかた)
櫛田神社=祭神は
大幡大神(櫛田大神)
天照皇大神
素盞嗚大神(祇園大神)
日本全国に櫛田神社があり
櫛名田姫
を主祭神とする神社だが
この神社は
櫛名田姫は祀られていない
↓↑ ???・・・元々は櫛名田姫を祀った・・・?
↓↑ ↓↑
くしけずる=梳る=櫛で髪の毛をとかして整える
梳=木+㐬(云爪)=十+八+亠+ム+爪
異体字は「𣐌・𣓜・𣙳・㧧・疏・疎
声符は「疏・蔬」
くしけずる・とく・とかす・すく・けずる
ショ・ソ
梳⇔疏経
けずる・すく
櫛は梳(と)くモノ・・・
句詞(九史=九州史)は解くモノ・・・?
櫛=髪すき(梳)の歯・・・梳(ス)き歯
櫛=𠂉(髪挿し・くし)
梳=木+㐬
疏=とおす・とおる・通じる・疏水
うとむ・うとい・親しくない・疏外
あらい・まばら・疏密
おろそか・疏漏・粗製乱造
さかん
水路を分けて通す
疏水・疏通
関係が分け離れる・とくなる
疏遠・粗末な・疏食(そし)」
しるす・箇条書きにする・条文書
上疏
注につけた注釈・注疏
ふみ(文)・手紙・書疏
↓↑ ↓↑ ↓↑
『三経義疏(サンギョウギショ)』
聖徳太子の著
『法華義疏』(伝 推古天皇二十三年・615年)
『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇十九年・611年)
『維摩経義疏』(伝 推古天皇二十一年・613年)
の総称
それぞれ『法華経・勝鬘経・維摩経』
の三経の注釈書(義疏・注疏)
「勝鬘経は
舎衛国
波斯匿(はしのく)王の娘で・・・匿=隠匿
在家の女性信者である
勝鬘夫人が説いた」
「スートラ(sūtra)=経」
「推古天皇十四年(606年)
聖徳太子が
『勝鬘経・法華経』を講じた
日本書紀
『法華義疏』のみ
聖徳太子真筆の草稿が残存」・・・
↓↑ ↓↑
鬘=かづら・つる(蔓)草や草木の枝
花などで作った髪飾り
やなぎ・ゆり(百合)
稲穂などを髪に巻きつけた飾り
添え髪・かもじ
自分の薄い髪、短い髪を補うために
添え加える髪
演劇役の髪型を扮装する小道具、かづら
蔬(あおもの)=艹+疏
あおもの・菜・野菜
あらい
異体字は「疏・疎」
蔬⇔菰(こも)
↓↑↓↑
更=一+申+乀
異体字は「㪅(丙+攴)・𠭍(雨+又)」
↓↑
更レ僕未レ可レ終
ボクをカフルも、
イマダ、終わるベカラズ
應對の事多くして
擯相(傳命の者)を
かふ(替)るも
說き盡されず
僕は太僕=中国の官名・九卿の一
朝廷の車馬・牧畜をつかさどった
擯相=擯詔(ヒンショウ)=擯介(ヒンカイ)
主人と客の間にたって世話をする人
を掌(つかさどる・たなごころ・手のひら)
↓↑
雨(あめ)過(す)ぎて
四望、更(さら)に清新
ーーーーー
・・・???・・・