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生態機能の役割と相互分担・・・「種族の延命」・・・?

2022-11-21 19:45:53 | 古事記字源
 居場所・立場の論理・・・「?」
 生態機能の役割と相互分担・・・「種族の延命」・・・?
   夫婦論:家族論・六親論

 ↓↑
 自分の自我・・・我が儘の節制・自我の抑制
  ↓↑
 「自分の自我」と「家族の規範」?
  ↓↑
 「家族」の構成員としての
 「自分自身の存在」・・・?・・・
 「社会協同体の個々人の存在」・・・
 「日本人」と
 「日本蜜蜂」との相異・相違・・・
        「自我」と「国家意志」との相異
         創意・総意・創痍・装威・層位・・・添う意?
 ↓↑
 意=立+日+心・・・「日立・常陸・常盤・月出」の心
   亠+丷+一+口+口+心
        日=口+口
          冂(ケイ・キョウ)+口
            継・冏・境
          口+凵(カン・コン)
              函・管・建
   亠+丷+一=音のハの一
           (はじめ・イチ)
            初・始・肇・哉・萌・朔・匡・一・太
            一女・始女・・・卑弥呼・壹與
            本・創・壹・市・位置・位地
        日=口を閉じる???
   イ
   おもう(想・憶)・・・山上憶良?
              サンジョウの記憶の良さ?
              山上   の垂訓?
         憶=忄(立身弁)の意志
   こころ・思い・気持ち
   わけ=意味・意図するところ・意義・理由
      譯・訳・和化・和歌・倭懸?
      意味・意図するところ
   思いめぐらす・考える
   意(おもう)
   意(こころ)
   ↓↑
   悪意・善意
    意会・意會
   確実(たしか)でしっかりした理解
      意幹=心の働き
   遺憾の意
   非常に残念に思う気持ち
   事件・事故を残念に思う気持ち
   意外=考えていたこととは違う
      思いの外・心外
   意気=積極的な心持ち・気概
      意気地(いくじ)
      意気地なし・・・
     「生地・育児・幾時・幾字」なし?
   ↓↑
   意気軒昂
  (イキケンコウ)
     健康・兼好・建工
     建興・・・建武中興・・・?
   ↓↑
   意気消沈
     銷沈=沈む
        意気銷沈・・・壱岐消沈?
               遺棄章譚?
      譚=言+覃=䜖=言+覀+貝
        タン
        ダン
        はなし・ものがたり
        はなす・かたる
        大きい
        のびる
        謲譚(サンタン)
        どなる・怒る
        奇譚(きたん)
        聖譚曲(せいたんきょく)
        譚歌(たんか)
        譚詩(たんし)
        ↓↑
     異聞奇譚=不思議な話
     老生常譚=年老いた人がいつもする話
      三国時代に
      魏の
      管輅が
      何晏を占い
     「易を勉強して徳を深めないと危険」
      と言うと同席していた
     「鄧颺 (トウヨウ)?~249」
      荊州南陽 魏
      字 玄茂
       魏の臣
     「曹爽」の腹心
      尚書となる
     「管輅」を呼んで未来を占わせると
      近々命を失うと告げられ
     「鄧颺 (トウヨウ)」は
     「老生の常譚」
      といって取り合わなかったが
      次の年
      予言は的中
     「司馬懿」
      兵権を取り戻し
      二人は、捕らえられ
      誅殺された故事
 ↓↑
 ・・・「テレサテン=鄧麗君」
 鄧麗君(デン・リージュン)
 1953年1月29日
 ~
 1995年5月8日
      大運1990年8月(37歳) 己酉印綬
 壬 辰(乙癸戊)食神・偏印 養⇔乙亥正財
 癸┏丑(癸辛己)傷官・印綬 墓⇔辛巳劫財
 庚 辰(乙癸戊)  ・偏印 養⇔己亥印綬
 丙┗子(壬 癸)偏官・傷官 死⇔甲子偏財
   申酉空亡 庚辰・魁罡
 ↓↑
 台湾出身
 歌手
 本名 鄧麗筠・Deng Lijūn
      筠(イン・たけ・竹の青皮)
    鄧=登+阝
    麗=一+冂+丶+一+冂+丶+鹿
      一+冂+丶+一+冂+丶+广+コ+Ⅱ+比
    ↓↑
   高麗=こうま
      コウライ・コウリ
      コウレイ・たかレイ
      こま・ごうらい
      たかま
      高 天ヶ原
    ↓↑
  高句麗
    麗(うるわしい)
    麗(うらら)
    麗(うららか)
    麗(つらなる)
    麗(ならぶ)=丽(レイ)+鹿(ロク)
           鹿鳴館(ろくめいかん)
           1883年(明治16年)
           外務卿「井上 馨(かおる)」による
           欧化政策で建設された西洋館
           『詩経』の「小雅鹿鳴の詩」・・・
           「小雅鹿鳴の詩」
            大雅とともに
           「詩経の詩」の三大別
           「風・雅・頌」の雅を構成
           周王朝の儀式・祭祀・宴会などに
           歌われた歌七四編を収める
           饗宴・宴会で集い饗(もてなす)館
     「奈良・奈羅・南良・仿」部(分・武)
      二頭の鹿が連れ立って移動する意
     「中原に鹿を逐う(魏徴の「述懐」)
     「鹿を逐う猟師は山を見ず(淮南子・説林訓)」
     「逐レ獣者
      目不レ見ニ
      太山(タイザン)ー
      嗜慾在レ外
      則明所レ蔽矣」
      漢文の
      ・・・乎古止点(をことてん・をことてむ)
          返り点
         上中下点
         甲乙丙点
            レ点
           ーニ≡点
 ↓↑  ↓↑
    鹿=皇帝
    覇王=覇者
       鹿=奈良の神のお使い
       飛鳥の大王
       蘇我入鹿⇔海豚・鯆・射鹿・・・蘇我蝦夷
         入鹿(イリしか)=伊里の大王
         伊里(いり)町=岡山県 南東部(備前 地域)
                 存在していた 町
 ↓↑ ↓↑
   ホータン市(和田市)
   中華人民共和国
   新疆ウイグル自治区
   ホータン地区
   県級市
   高品質の
   軟玉(白玉=和田玉)の産地・・・
      白玉(秦・斯盧・新羅)
        =和田玉(倭俀碧)⇔壁・僻・戸木・日置
   春秋時代
   楚の国の
  「卞和(ベンカ=和氏)の環」
  「和璧=カ(くわ)ヘキ」
  「連城の璧」
  「隋(ズイ・タ・ダ)侯の珠(たま)」
 と並んで天下の名玉
  「隋珠和璧」
   隋王朝の珠玉・大和(倭・妳俀)の日置
 鉱石探索者=山師
 の
 卞和(ベンカ=和氏)は
 岩石を
 宝玉の原石として献上したが
 詐欺(虚偽)師として
 厲(レイ)王に左脚・・・厲=厂+萬
 武(ブ)王に右脚・・・武=止+弋
 「左右両脚の切断」され
 文(ブン)王に
 その真実を認められた
 『韓非子・卞和篇(ベンカヘン)』
 の故事
 後
 趙(シヨウ)の
 恵文(ケイブン)王がこの玉を得ていたが
 秦(シン)の
 昭(シヨウ)王が
 十五の城と交換したいと言った故事
 「連城の璧」ともよばれた
 地名由来
 古代西チベット語
 「玉の城・玉の村」
 ウイグル語
 「玉の町」
 古代のホータン
 「于闐(ウテン)」
 と称されるオアシス都市国家で
 シルクロード(西域南道)の要衝
 中国語で和闐
     和田
 と音訳
 クスターナ=瞿薩旦那
       于闐 (うてん) の古名
       梵語
       ゴ―スタナ(ゴー=牛)
      「牛(うし)の国」
    ・・・主(うし・ぬし)の
       六合(國・郁・那・邦・圀・邦)
 テュルク語
 イリチ(伊里斉・伊里其)
 Ku(大地の)stana(乳房)
 Go(牛 の)stana
 異民族間で
 「Khotan」
 に変化した・・・
 玄奘は
 「瞿薩旦那(クスターナ)=于闐 (ウテン) 」
 と音写
 東西交易の要所
 ホータン(ウテン)
 于闐(ウテン)王国
 ゾロアスター教が流行
 仏寺も建立
 于闐(ウテン)王国
 ヴィジャヤ家(Vijaya, Visa)
 によって統治
 中国人は
 「尉遅氏」・・・「イチ・イジ」シ
 と呼んだ
   ↓↑
   麗⇔麓(ふもと)
   ↓↑
  艶麗=色っぽい
  婉麗=上品で美しい
 小綺麗(こぎれい)
  鮮麗=色合いが鮮やか
  典麗=きちんと整っていてきれいな様子
  美麗=あでやか
   ↓↑
  艶麗繊巧(センコウ)
   文章や絵画など
   きらびやかで美しい
   繊細な技巧表現造作
  活潑婉麗(カッパツエンレイ)
   元気でたおやかで美しい様子
  胸襟秀麗(キョウキンシュウレイ)
   心構えが立派で美しいこと
  秀麗皎潔(コウケツ)
   気品があって美しい様子
  「皎潔」=汚れが無く清らか
  盛粧麗服
   化粧をして美しい服を着る
  荘厳華麗
   威厳があってきらびやかで美しい
    君=尹(イン)+口(コウ)
        長官・監督・指導者
      君(クン・きみ)=⺕+丿+口
 ↓↑
 鄧
ー↓↑---
 鄧 禹(トウ ウ・2年~58年)
 後漢
 光武帝の武将
 字 仲華
 『後漢書・列伝6・本伝』
 「雲台二十八将」の筆頭
 『後漢書・列伝十二』
 2年(元始二年)
 ~
 58年(永平一年)
 荊州
 南陽郡
 新野県
 職官
 大司徒~太傅
 爵位・号
 酇侯
 梁侯
 高密侯
 高密元侯
 ↓↑
 光武帝~明帝
 13歳
 『詩経』を誦し、数年間長安で学ぶ
 更始帝=劉玄
 の挙兵当時
 鄧禹は出仕しなかった
 更始元年(23年)
 劉玄の部将であった劉秀が河北に派遣され
 鄧禹はこれを追って
 鄴で劉秀と合流
 河北で精鋭数千人を徴し
 劉子輿=王郎の軍を破り
 銅馬と称する
 農民反乱集団に大勝
 河北を平定
 ↓↑
 更始二年(24年)
 赤眉軍が西進して長安に侵攻
 これを迎撃
 劉秀は中原の経略に専念
 鄧禹を前将軍として節を授け
 麾下の精兵2万人を与え
 関中侵攻を任せた
 ↓↑
 建武元年(25年)
 河東郡
 劉玄の大将軍
 「樊参」の兵数万
 「王匡・成丹・劉均」
 らの兵十余万を撃って平定
 支配を徹底
 劉秀が即位すると
 鄧禹は大司徒を拝命
 酇侯に封ぜられ
 征西軍を指揮
 ↓↑
 建武二年(26年)
 梁侯に封ぜられ
 食邑四県
 関中は
 「赤眉の乱」で荒廃
 鄧禹の征西軍は厳正に軍紀を糺し
 衆望を集め
 「赤眉軍」は兵糧を切らし西に向かい
 鄧禹は長安を奪取
 ↓↑
 群雄の
 延岑
 と
 藍田で交戦
 劉玄により
 漢中王に封ぜられていた劉嘉を受降
 劉嘉の部将の
 李宝を非礼として斬った
 長安に戻って来た赤眉軍との戦闘で
 部将の造反や食糧不足などで
 敗北
 劉秀は
 鄧禹を
 馮異と替え
 鄧禹は
 赤眉軍に挑んだが敗戦
 ↓↑
 建武三年(27年)
 馮異軍に出遭った
 鄧禹は
 赤眉と戦い
 馮異を巻き込んで大敗
 馮異は敗軍をまとめて再度赤眉と戦い勝利
 鄧禹は敗残の二十四騎とともに
 劉秀と合流し
 大司徒と
 梁侯の印綬を返上し
 劉秀は
 大司徒を免じ
 梁侯はそのままにし
 数月の後
 右将軍を拝命
 ↓↑
 建武四年(28年)
 延岑を南陽に破り漢中へ敗走させた
 建武十三年(37年)
 「高密侯」
 に封じられた
 劉秀が
 文治政治に乗り換え
 左将軍
 賈復
 と共に臨時職の
 右将軍を辞して
 劉秀の意に沿って
 特進して朝請を奉じた
 建武中元一年(56年)
 司徒を代行
 東への巡狩に随行し
 泰山での封禅に立ち会った
 建武中元二年(57年)
 明帝の太傅を務め
 賓客として遇された
 永平一年(58年)
 57歳で逝去
 長男の
 鄧震が後を継ぐ
 元侯(高密元侯)
 と諡された
 鄧震の弟の
 鄧襲を昌安侯
 鄧珍を夷安侯
 鄧鴻は小侯に封じられた
 鄧禹の弟の
 鄧寛は明親侯に封じられた
 ↓↑
 人柄
 「教養・篤行を備え
  母に仕えては至孝。
  天下が定まってからは
  権勢や利殖を避け
  子の教育を重んじ
  帝の信任は厚かった」
 と評される
 孫
 鄧騭(護羌都尉鄧訓の子)
 孫娘の
 鄧綏(鄧騭の妹)が
 和帝の皇后
 玄孫娘の
 鄧猛女が
 桓帝の皇后となった
 末裔
 三国時代の
 蜀漢の武将
 鄧
 芝がいる
 ↓↑
 鄧小平(Deng Xiaoping・トン・シャオピン)
 1904年8月22日
 ~
 1997年 2月19日
       大運1990年5月(85歳)辛巳傷官
                ↓↑
 甲┏辰(乙癸戊)偏官・比肩冠帯⇔丁丑印綬
  ┣三合壬偏財
 壬┣申(戊壬庚)偏財・偏財 病⇔壬寅偏財
  ┣三合壬偏財
 戊┣子(壬 癸)  ・正財 胎⇔壬辰偏財
  ┣三合壬偏財
 壬┗子(壬 癸)偏財・正財 胎⇔庚子食神
  午未空亡
 ↓↑
 中華人民共和国
 政治家
 六四天安門事件
 1989年 6月4日(日曜日)
 「天安門事件」
 弾圧の張本人
 1978年12月
 ~1989年11月
 最高指導者
ー----
 ↓↑    ↓↑
      覃=覀+早
        襾+早
        西+早
        覀+日+十
        襾+日+十
        一+儿+口+日+十
        覃(およぶ)
        覃(のびる)
        覃(ひく)
        覃(ふかい)
   ↓↑ ↓↑
   意気衝天=気力や気概が天を衝く
   意気自如(ジジョ)
    心が平静な様子・平常心
   意気沮喪(ソソウ)
    やる気や元気がなくなるこ
    意気阻喪
   意気投合
   意到りて筆随う
    思いのままに文章が書けること
    書く気になれば
    筆がひとりでに進む
   意気が揚がる
   意気天を衝く=意気衝天
   意気投合する
    互いの気持ちがぴったりと一致すること
   意気に感じる
    相手のひたむきな気持ちに感動し
    自分も物事を行おうとする気持ち
   意気に燃える
    物事を積極的に行おうとする意欲
 ↓↑ ↓↑
   地名
   如意(ねおい)
      愛知県名古屋市北区
      埼玉県入間郡越生町
   粟田口(あわたぐち
   如意ケ嶽(にょいがたけ)町
        京都府京都市左京区
   意宇町(いうちょう・島根県松江市)
   上意江(じょういえ・宮城県遠田郡美里町)
   道意町(どいちょう・兵庫県尼崎市)
 ↓↑
 添(そ)う意・・・添付
 相手の希望や要望・意向に応じる
 連れ添う
 寄り添う
 介添え
 添付
 添=氵+忝
   氵+夭+㣺(心)
   氵+天+㣺
   氵+丿+大+㣺
   氵+一+大+㣺
   テン
   そえる・付け足す・付け加える
   言い添える=言い足す・言葉を付け加える
   介添え・介添(かいぞえ)
   人の近くに居てその人の世話をすること
   書き添える・書添える
   添い遂げる・添遂げる
   夫婦として最期まで人生を共にする
   添い寝・添寝(そいね)
   添う・副う(そう)
   そのものから離れずに近くにいること
   ↓↑
   画蛇添足(ガダテンソク)・・・
     纏足・天測・天則・展即?
    余計なものをつけたすこと
    蛇に足を付け足した絵を描く
    「蛇足」
   ↓↑
   錦上添花
    吉祥が重なることのたとえ
   「錦上に花を添う」
   ↓↑
   一生添うとは男の習い
    男が女を口説く決まり文句
   ↓↑
   馬には乗ってみよ人には添うてみよ
    何事も経験の結果の善し悪し
   ↓↑
   思うに別れて思わぬに添う
    好きな人とは一緒になれず
    思ってもいなかった相手と結婚
   ↓↑
   影の形に添うが如し
   「影の形に添うように」
   ↓↑
   興を添える
    場の雰囲気を楽しいものにするため
    何かをして盛り上げること
 ↓↑
 沿(そ)う意・・・沿岸
 長く続くものに
 離れずの状態を保つ
 方針や基準に従う
 長いものに巻かれる状態
 流れに沿う・従いに沿う

ー↓↑ー--
 彼、彼らの意に添う
 ↓↑
 1)
  爺×婆    ジジ×ババ
   |     |
   父----------母
    | |  |    舅---姑
    | |  |      |
    兄 姉 自      配
    弟 妹 分---------偶
          |  者
          |
         --------
     婿------女   男-------嫁
      子      子
       |       |  
        孫      孫

 上図の1)は
 「四柱推命」では
 下図2)の変通がその象意
 父母以外に付いている記号(♂)・(♀)
 自分の場所の(♂)・(♀)は
 自分自身が男=(♂)
 自分自身が女=(♀)
 の場合の家族関係
 舅・姑、子供と孫のところの記号(♂)・(♀)も
 自分自身が男=(♂)
 自分自身が女=(♀)
 を示す
 ↓↑
 2)
  印綬x食神       傷官x正官
  偏印x傷官       食神x偏官
   爺・婆        ジジ・ババ
    |           |
    父(♂)        母(♀)
    偏財ー---------印綬
           |  舅・姑
           |  傷官・食神(♂)=妻の両親の母
           |    |
           |  正財・偏財(♀)=夫の両親の母
     ―――――――            |
     |  |  |          |
     兄弟 姉妹 自分       配偶者
     比肩 劫財 比肩(♂)----正財・偏財(妻=♀)
     |  |   |       |
     劫財 比肩 比肩(♀)----正官・偏官(夫=♂)
                    |
                   子供
                 正官・偏官(♂)――(嫁=♀)
                 |  |
                 傷官・食神(♀)――(婿=♂)
                         |
                         孫
                       印綬・偏印(♂)
                        |  |
                       正財・偏財(♀)
 ↓↑
 3)
            兄弟・姉妹  自分
              ↓     ↓
              劫財 ・ 比肩
            ④/       /|\⑤
            /       /   |  \
       実母・養母     /     | 子供・子供(女の場合)
       ↓   ↓    ②       ③ ↓   ↓
        印綬・偏印   /      | 傷官・食神
            ↑ \ /        |   ↑
          | / \        |   |
          /     ①      |   |
     (女の場合)夫 ・夫     \    妻・ 妻(男性の場合)
         ↓  ↓      /  ↓  ↓
        正官・偏官     ⑥    正財・偏財
         ↑  ↑   /      ↑  ↑
  (男の場合)子供・子供          養父・実父
 ↓↑
 ①は父と母の関係
 ②は夫と自分(女)の関係
 ③は自分(男)と妻の関係
 ④は母が産み出す自分と兄弟姉妹の関係
 ⑤は自分(女)が子供を産み出す関係
 ⑥は妻が子供を産んでくれる関係
 ↓↑
 命式上で
 「⇔」は横の相互関係
 「↓↑」は楯の相互関係
 「/ \」は斜めの相互関係
 ↓↑
 「自分の格式変通」
 「祖父・母」、「父・母」、「配偶者」、「子供達」との
 スベテの相互関係
 ↓↑
 誕生
   天干変通 * 地支蔵干
   分野変通 * 格式
 生年
  祖父の変通 ⇔ 祖母の変通
   ↓↑      ↓↑
 生月
  父の変通     母の変通
           自分の格式変通
     ↓↑    ↓↑
 生日 自我=比肩⇔ 配偶者の変通
     ↓↑    ↓↑
 生時 初子の変通⇔ 次子以下の諸子の変通
 ↓↑
 自分が男性(比肩=♂)だったら・・・その自己存在は
 両親である父(偏財=♂)
     と母(印綬=♀)の関係(SEX)から生まれた
 「偏財=流財」である父が
 「印綬=知恵・慈悲」である母と結ぶ関係である
 この関係(偏財×印綬)は
 常に五行での
 「陽陰の干合関係」になる
 すべて、男と女の関係から始まる
 自分(比肩)は
 「母(印綬)」の生みの苦しみから生まれた
 この母(印綬)の苦しみは
 「父(偏財)」から与えられた喜び
          あるいは苦痛の結果でもある
 ↓↑
 偏財(父)→印綬(母)⇒比肩(男性の自分)
 自分(比肩)にとって
 父(偏財)は
 母(印綬)の「プライド=アナタのプライド」を
 「心傷させる存在」であるカモしれない
 その父(偏財)も
 自分の祖父(印綬・偏印)と
    祖母(傷官・食神)の関係(SEX)から生まれた
 印綬・偏印(祖父)→傷官・食神(祖母)⇒偏財(父)
 その母(印綬)も
 アナタの祖父(傷官・食神)
    と祖母(正官・偏官)の関係(SEX)から生まれた
 傷官・食神(祖父)→正官・偏官(祖母)⇒印綬(母)
 ↓↑
 自分(比肩)にとって
 父が「偏財=流財」であるのは
 家族のためにお金(生活費)を稼ぎ
 その一部をアナタ(比肩)のための
 「養育費」に充てねばならない
 父(偏財)とは
 額に汗して「家族」を養っていく存在である
 自分(比肩)は
 父(偏財)に苦労をかける存在なのだ
 比肩(男性の自分)→偏財(父)
 自分(比肩)が
 父(偏財)の稼ぎの一部を
 「消費=剋」する関係である
 ↓↑
 自分(比肩)にとって
 母が「印綬=名誉・知識・慈悲」であるのは
 自分(比肩)を
 直接的に出産の苦痛を伴って産み出し
 何時も付き添って
 その母乳とコトバと知恵を与えるコトで
 自分(比肩)を養育してくれる
 母(印綬)が
 自分(比肩)に
 「力」を与えてくれる(相生)存在である
 印綬(母)⇒比肩(男性の自分)
 両親=「父(偏財)母(印綬)」は
 自分(比肩)の兄弟(比肩)や
        姉妹(劫財)を
        生んだ(生む)可能性がある
 「四柱命式」で
 「生日天干=比肩」以外にある「比肩」は
 同性の兄弟で
 「劫財」は姉妹である
 ↓↑
 自分(比肩)にとって
 兄弟が「比肩」であるのは
 家族のリダーとしての立場
 継承権を争い
 肩を比べる「ライバル」であるからだ

 比肩(男性の自分)⇔比肩(男性の兄弟)
 自分(比肩)の
 「兄弟(比肩)=ライバル」とは
 「父(偏財=流財)」の労働によって得た「お金」
 と
 「母(印綬=知恵)」が与えてくれる
 「慈悲・愛情」の配分
         分奪者である
 すべては自分(比肩)のモノにはならない
 ↓↑
 自分(比肩)にとって
 姉妹が「劫財」であるのは
 「父(偏財)母(印綬)」の
 「財産」を分奪するからである
 比肩(男性の自分)⇔劫財(姉妹)
 自分(比肩)の
 「姉妹(劫財)=散財・忍耐」とは
 「正財(資産・不動産)」の配分、分奪者であり
 自分(比肩)に「我慢・忍耐」
     時には「犠牲」になってくれるからである
 姉妹が適齢期には他家へ嫁ぐ時には
 「嫁入り道具=正財」が必要である
 ↓↑
 また、事情によっては
 父(偏財)は
 他の女性(偏印)との関係で
 異母兄弟姉妹(劫財)を生ませる可能性がある
 偏財(父)→偏印(継母)⇒劫財(異母兄弟、姉妹)
 自分(比肩)にとって
 この女性(偏印)は
 養育者としての継母や養母になる可能性がある
 ↓↑
 母(印綬)は
 他の男性(正財)との関係で
 異父兄弟姉妹(劫財)を生む可能性がある
 正財(異父)→印綬(母)⇒劫財(異母兄弟、姉妹)
 自分(比肩)にとって
 この男性(正財)は
 養育者としての継父や養父になる可能性がある
 ↓↑
 適齢期を迎えたアナタ(比肩)は
 妻となるであろう
 配偶者(正財)との
 関係(SEX)を持つことになるであろう
 あるいは
 妻に類する複数の女性(偏財)との
 関係もあるかもしれない
 ↓↑
 比肩(男性の自分)→正財(配偶者)や偏財(愛人)
 配偶者(正財)である妻は
 自分(比肩)との関係によって妊娠し
 喜びと苦痛を伴って
 子供(正官・偏官)達を産んでくれる
 比肩(男性の自分)→正財(配偶者)
           偏財(愛人)⇒正官・偏官(子供達)
 ↓↑
 配偶者(正財)は
 自分(比肩)の財産であり
 アナタに従い
 連れ添って子供(正官・偏官)を護ってくれる存在でもある
 ↓↑
 自分(比肩)は
 妻(正財・偏財)と
 その子供達(正官・偏官)を養育していくために
 生活費を稼がねばならない
 ↓↑
 自分(比肩)は
 子供達(正官・偏官)から
 「干合(正官)」や
 「剋(偏官)」される関係である
 将来的には
 「正官(子供)」が
 自分(比肩)を護ってくれる事になる
 だが逆に
 自分(比肩)の関わりや
 実父母や
 妻の舅姑のかかわり次第(傷官・食神)で
 「子供(正官・偏官)」
 で苦労するかもしれないし
 苦労をかけるかも知れない
 ↓↑
 子供達(正官・偏官)は
 適齢期には彼等の配偶者である嫁や、婿を得て
 アナタ(比肩)の
 孫(印綬・偏印)を産んでくれるであろう
 ↓↑  ↓↑
 自分が女性(比肩=♀)だったら・・・
 その自己存在は
 両親である父(偏財=♂)
     と母(印綬=♀)
     の関係(SEX)から生まれた
 「偏財=流財」である父が
 「印綬=知恵・慈悲」である母と結ぶ関係であるが
 この関係(偏財×印綬)は
 常に五行での「陽陰の干合関係」である
 すべて
 男と女の関係から始まる
 アナタ(比肩)は
 「母(印綬)」の生みの苦しみから生まれた
 この母(印綬)の苦しみは
   父(偏財)から与えられた喜び
          あるいは苦痛の結果でもある
 ↓↑
 偏財→印綬⇒比肩(女性の自分)
 ↓↑
 だが、自分(比肩)にとっては
 父(偏財)は
 母(印綬)の
 「プライド=アナタのプライド」を
 「心傷させる存在」であるカモしれない
 その父(偏財)も
 自分の祖父(印綬・偏印)
   と祖母(傷官・食神)の
    関係(SEX)から生まれた
 ↓↑
 印綬・偏印(祖父)→傷官・食神(祖母)⇒偏財(父)
 その母(印綬)も
 自分の祖父母(正官・印綬)の
 関係(SEX)から生まれた
 ↓↑
 傷官・食神(祖父)→正官・偏官(祖母)⇒印綬(母)
 ↓↑
 自分(比肩)にとって
 父が「偏財=流財」であるのは
 家族のためにお金(生活費)を稼ぎ
 その一部を自分(比肩)のための
 「養育費」に充てねばならないからだ
 父(偏財)とは
 額に汗して
 「家族」を養っていかなければならない存在である
 自分(比肩)は
 父(偏財)に苦労かける存在なのだ
 ↓↑
 比肩(女性の自分)→偏財(父)
 ↓↑
 自分(比肩)が
 父(偏財)の稼ぎを
 「消費=剋」する関係なのである
 ↓↑
 自分(比肩)にとって
 母が「印綬=名誉・知識・慈悲」であるのは
 自分(比肩)を
 直接的に出産の苦痛を伴って産み出し
 何時も付き添って
 その母乳とコトバと知恵を与えるコトで
 自分(比肩)を養育してくれるからだ
 母(印綬)が
 自分(比肩)に
 「力」を与えてくれる(相生)存在である
 ↓↑
 印綬(母)⇒比肩(女性の自分)
 ↓↑
 両親=「父(偏財)や母(印綬)」は
 自分(比肩)の姉妹(比肩)や
        兄弟(劫財)を
        生んだ(生む)可能性がある
 「生日天干=比肩」以外にある「比肩」は
 同性の姉妹である
 「劫財」は兄弟である
 ↓↑
 自分(比肩)にとって
 姉妹が「比肩」であるのは
 肩を比べる「ライバル」であるからだ
 ↓↑
 比肩(女性の自分)⇔比肩(女性の姉妹)
 ↓↑
 自分(比肩)の
 「姉妹(比肩)=ライバル」とは
 「父(偏財=流財)」の
 労働によって得た「お金」と
 「母(印綬=知恵)」による慈悲と愛情の
 配分、分奪者であるからだ
 すべては自分(比肩)のモノにはならない
 ↓↑
 自分(比肩)にとって
 兄弟が「劫財」であるのは
 「父(偏財)母(印綬)」の
 「財産」を分奪するからである
 自分(比肩)の
 「兄弟(劫財)=散財・忍耐」とは
 「正財(資産・不動産)」の配分、分奪者であり
 あるいは自分(比肩)に
 「我慢・忍耐」
 時には
 「犠牲」になってくれるからである
 兄弟(劫財)には分家する者も出てくる
 ↓↑
 また、事情によっては
 父(偏財)は
 他の女性(偏印)との関係で
 異母兄弟姉妹(劫財)を生ませる可能性がある
 ↓↑
 偏財(父)→偏印(継母)⇒劫財(異母兄弟、姉妹)
 ↓↑
 自分(比肩)にとっては
 この女性(偏印)は
 養育者としての継母や養母になる可能性がある
 ↓↑
 母(印綬)は
 他の男性(正財)との関係で
 異父兄弟姉妹(劫財)を生む可能性がある
 ↓↑
 正財(異父)→印綬(母)⇒劫財(異母兄弟、姉妹)
 自分(比肩)にとっては
 この男性(正財)は
 養育者としての継父や養父になる可能性がある
 適齢期を迎えた自分(比肩)は
 夫となるであろう
 配偶者(正官)との関係(SEX)を持つことになる
 あるいは
 夫(正官)に類する
 複数の男性(偏官)との関係もあるかもしれない
 正官・偏官(夫・愛人)→比肩(女性の自分)⇒傷官・食神(子供達)
 ↓↑
 配偶者(正官)である夫との関係によって
 妊娠し、子供(傷官・食神)を産み出すだろう
 ↓↑
 そして、自分(比肩)は
 その子供達(傷官・食神)を養育していくために
 夫(正官)が稼いできた生活費の一部を充て
 「力」を注いでいくことになるであろう
 スナワチ、自分(比肩)は
 子供達(傷官・食神)を産み出し
 エネルギーと愛情を注いで養育していかねばならない
 「相生(傷官・食神)」する関係である
 将来的には
 「食神(子供)」が
 自分(比肩)を護ってくれる事になる
 だが逆に
 アナタ(比肩)の関わり次第の
 知恵と、教養(印綬・偏印)で
 「子供(傷官・食神)」
 で苦労するかもしれないし
 苦労をかけるかもしれない
 ↓↑
 子供達(傷官・食神)は
 適齢期には彼等の配偶者である嫁や、婿を得て
 アナタ(比肩)の
 孫(正財・偏財)を産んでくれるであろう
 ↓↑
 以上は家族としての人間関系が
 その基本的な絆として
 「対」としての
 「男女のSEX関係」
 で成り立っていることの説明である
 単純化すれば
 男と女の関係で子供が生まれるが
 その関係は
 各々の「利害関係」の一致であり
 結果として生まれてきた
 「子供」も「夫婦の利害」の対象となるのである
 同時に
 家族、血族、共同体を維持する
 「利害関係上の構成員」にもなっている
 ここで言う「利害関係」とは
 相対的なものであり
 精神的・感情的な「快=不快」
 物質的な「損=得」を兼ねあわせるモノである
 精神的・感情的な「快=不快」とは
 「愛情=憎悪」
 「好き=嫌い」
 等とも言われているモノである
 「愛」とは
 このコトバだけでは成り立たない概念で
 特殊な関係(恋人・夫婦・親子)で
 一般的に使用されている「愛」は
 「憎」としての「対」で考えねば
 その意味が見えなくなる
 モチロン
 「愛国心」などもである
 ・・・「make love」、「not make love」である
 この「利害関係のバランス」が取れているときは
 「家族は安定」している
 スナワチ
 自分(比肩)の存在を中心にしてみれば
 ↓↑
 両親=父(偏財)・母(印綬)
 伯父叔母=父の兄弟、異父(正財)・母の姉妹、異母(偏印)
 兄弟姉妹=同性の兄弟姉妹(比肩)・異性の兄弟姉妹(劫財)
 配偶者=妻(正財)・夫(正官)
 子供=男からみた子供(正官・偏官)
 子供=女からみた子供(傷官・食神)
 ↓↑
 と、なっており
 「四柱推命」での
 個人の「命式」上で
 同類の星(変通)が偏重したり
          欠けたりすると
 その意味する対人関係に於いて
 「問題」が出てくるコトを暗示し、示唆している
 スナワチ
 「共同の利害関係」が
 不一致となり、壊れる
 逆に「命式」が偏重していても
 必ず「人生の流れ」は
 そのめぐって来る時期に於いて
 その「命式」の
 「バランス」をとってくれるコトになっている
 ↓↑
 何はともあれ
 「直系・血族」は
 近親であるがゆえに
 「自我」を通すコトが出来る存在であると
 思いがちであるが・・・
 現実は状況による
 でも
 アナタ(比肩)の「家族」は
 人生の現実的な
 カナメであるのは言うを待たない・・・
ー----
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)  + (表紙・画像・音楽)」の  移転先・・・
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
 ↓↑
 干支歴
 ↓↑
 追加添文 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
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石川県 ・能登・・・イシの先見、ヨくノボる

2022-11-18 09:46:41 | 古事記字源
 あれれれレッ・・・TV画面に地震速報・・・
 2022年11月14日・月曜日・22時28分
 地震情報
 石川県
 能登・・・能く登る・・・登る能力・才能・機能

 ↓↑
 「渡辺 崋山(わたなべ かざん)」
 三河国田原藩士・家老
 ↓↑
 通称 登(のぼり)・・・「登」
 ↓↑
 諱  定静(さだやす)
 号  崋山・華山
 別号 全楽堂・寓画堂
 贈位 正四位
 ↓↑
 1839年
 江戸幕府、
 「蛮社の獄」
 「鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)」
 幕臣・旗本
 通称 耀蔵
 諱  忠耀(ただてる)
 に弾圧される
 ↓↑
 「鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)」
 ↓↑
 寛政八年十一月二十四日
 1796年12月22日
 ~
 明治六年
 1873年10月3日
        大運1871年8月(74歳)戊申正財
  丙 辰(乙癸戊)傷官・正財冠帯⇔癸酉偏印
 ┏庚┏子(壬 癸)正官・偏印 病⇔辛酉偏官
 ┗乙┗丑(癸辛己)  ・偏財 衰⇔戊子正財
  丙┗子(壬 癸)傷官・偏印 病⇔壬子印綬
    戌亥空亡
 ↓↑
 諱  忠耀
 号  胖庵
 渾名 「蝮(まむし)の耀蔵」
    妖怪
 戒名 青竜院殿法雲大輪居士
 墓所 東京都
    文京区・・・文教句?
    吉祥寺
 官位 従五位下
    甲斐守
 江戸幕府
 中奥番
 徒頭
 西丸目付
 目付・勝手掛
 南町奉行
 勘定奉行勝手方
 主君 「徳川家斉→家慶」
 氏族 林家(大給 松平氏)→鳥居氏
 ↓↑
 父  「林   述  斎」
    (はやし じゅっさい)
     儒学者
     林家八代
     林家中興の祖
     父  美濃国
        岩村藩主
        松平乗薀
     祖父 松平乗邑
        「享保の改革」の老中
     諱 松平乗衡(のりひら)
       林 衡(たいら)
     字 熊蔵・叔紞・徳詮
     号 述斎・蕉軒・蕉隠
       大内記
     渋井太室らに師事
     寛政五年(1793年)
     「林錦峯」
     の死去で林家を継ぐ
     文書行政の中枢として幕政関与
     文化年間
     朝鮮通信使の応接を
     対馬国で行う聘礼の改革に関与
     柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲
    (寛政の三博士)
     らとともに儒学の教学の刷新
     昌平坂学問所(昌平黌)
     の幕府直轄化を推進
     (寛政異学の禁)
     朱子学を基礎とし
     清朝の考証学に関心
     『寛政重修諸家譜』
     『徳川実紀』(成島司直と共同)
     『朝野旧聞裒藁
     (ちょうやきゅうぶんほうこう)』
     『新編武蔵風土記稿』
     など編纂事業を主導
     歌集
     『家園漫吟』
     中国で散逸した
     漢籍(佚存書)を集めた
     『佚存叢書』
     別荘
     錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)
     岩村藩時代に
    「百姓身持之覚書」を発見し
     幕府の
    「慶安御触書」として出版
     大正四年(1915年)
     従四位を追贈
 ↓↑
 母  前原氏
 ↓↑
 養父 「鳥居 成純」
 兄弟 「林  檉宇」
    「鳥居 耀蔵」
    「林  復斎」
 ↓↑
 妻  「登与(鳥居成純の娘)」
  ・・・登(のぼる)+与(あたえる)=登與⇔壹與⇔臺與
 子  「成文」
  ・・・文を成(な)す・・・成分
 娘  「伊沢 政達」の室
 ↓↑
 実父
 大学頭
 江戸幕府儒者
 「林 述斎」
 ↓↑
 父方の祖父
 「松平 乗薀」
 は
 美濃
 岩村藩
 第三代藩主
 ↓↑
 「松平 乗薀」
 の実父は
 「徳川 吉宗」
 の下で
 「享保の改革」
 を進めた老中
 「松平 乗邑」
 ↓↑
 「鳥居 耀蔵」
 は
 旗本
 「鳥居 成純」
 の
 長女
 「登与」・・・登与=登與⇔壹與⇔臺與
 の婿養嗣子となり
 鳥居家を継ぐ
 弟は
 「林 復斎」
 で
 「日米和親条約の交渉」
 甥は
 外交交渉を担当した
 「岩瀬 忠震」
 「堀  利煕」
  ↓↑
 「堀 利煕(ほり としひろ)」
 旗本・幕臣
 初名 利忠
 通称 織部・織部正・省之助
 字  欽文・士績虎
 号  有梅・梅花山人
 プロイセンとの
 不平等条約である
 日普修好通商条約交渉中に
 自決
 嘉永七年(1854年)
 日露和親条約調印前に
 国境設定の調査として
 樺太・蝦夷地の巡回
 箱館奉行となる
 同行者に
 武田斐三郎
 玉虫左太夫
 榎本武揚
 郷純造
 島義勇
 安政五年(1858年)
 外国奉行に就任
 神奈川奉行兼任
 諸外国大使との交渉
 横浜港開港に尽力
 通商条約で
 日本全権の一人として署名
 ↓↑
 万延元年(1860年)
 プロイセンの外交官
 フリードリヒ・アルブレヒト
 ・ツー・オイレンブルク
 との条約交渉
 利煕が
 プロイセンと
 裏交渉しているという風聞
 幕府から追及されたが
 何の弁解も行なわず
 プロイセンとの条約締結直前に切腹
 条約締結前になって
 オイレンブルクが
 プロイセンのみならず
 他の多数の近隣諸国
 (関税同盟、ハンザ同盟都市)
 のために交渉していたことが判明
 事前に理解していなかった
 堀の失態となり自決・・・
 死後
 「村垣範正」
 が
 「オイレンブルク」
 との交渉を引き継いで
 「日普修好通商条約」締結
 父 大目付の「堀 利堅」
 母 「林 述斎」の娘
 母方のおじに
 「鳥居 耀蔵」
 「林 復斎」
 従兄弟
 「岩瀬 忠震」
 異母弟
 パリ万国博覧会使節団
 「徳川 昭武」伝役
 初代
 帝室博物館長
 「山高 信離(石見守)」
 子 「堀 利孟」
 ↓↑
 別系統の「堀」の姓・苗字の人物
 ↓↑
 堀 達之助(ほり たつのすけ)
 文政六年十一月二十三日
 1823年12月24日
 ~
 明治二十七年
 1894年1月3日
 (明治二十七年)
     大運1889年3月(65歳)丁巳比肩
 癸未(丁乙己)偏官・食神冠帯⇔癸巳偏官
 甲子(壬 癸)印綬・偏官 絶⇔甲子印綬
          正官
 丁亥(戊甲壬)  ・正官 胎⇔乙巳偏印
 庚子(壬 癸)正財・偏官 絶⇔丙子劫財
  午未空亡
 ↓↑
 江戸幕府通詞
 辞書編纂者
 開拓使官僚
 名 徳政・徳祉・達之
   隠居後 達五
 ↓↑
 文政六年(1823年)
 オランダ語通詞
 中山武徳
 と
 陳
 の五男に長崎で誕生
 通詞
 堀政信の養嗣子
 ↓↑
 弘化二年(1845年)
 小通詞末席
 嘉永元年(1848年)
 アメリカ合衆国
 捕鯨船員
 「ラナルド・マクドナルド」
 より初めて英語を学んだ・・・
 嘉永六年(1853年)
 黒船来航時
 浦賀奉行所与力
 「中島 三郎助」
 とともに交渉担当
 アメリカ
 「マシュー・ペリー提督」
 が乗船する旗艦
 「サスケハナ号」
 に対して
 「I can speak Dutch!」
 と叫んだ
 アメリカ側通訳
 オランダ人
 「アントン・ポートマン
 (後に駐日米国代理公使)」
 を介し、オランダ語で交渉
 安政元年(1854年)
 アメリカ合衆国
 東インド艦隊の再来航でも活躍
 日米和親条約の翻訳にも関与し
 締結後は
 下田詰め
 下田に滞在の
 ドイツ商人
 「リュードルフ」
 が
 ドイツ
 (プロイセン、オーストリア
  ドイツ関税同盟諸国)
 も
 米英露と同様の条約を締結したいとの
 要求書簡を
 幕閣に報告せず
 独断で処理しようとしたと咎められ
 入牢処分
 獄中では吉田松陰と文通・・・
 ↓↑
 安政六年(1859年)
 「古賀 謹一郎」
 の尽力により出獄
 「蕃書調所 対訳 辞書編輯 主任」
 万延元年(1860年)
 筆記方兼務
 外国新聞の翻訳作業
 文久二年(1862年)
 日本初の新聞
 「官板バタビヤ新聞」として発行
 文久元年(1861年)
 「西 周(あまね)」
 とともに教授方に就任
 翌年には主任
 洋書調所より
 『英和対訳袖珍辞書』
 を
 日本初の英和辞書として刊行
 文久三年(1863年)
 開成所教授
 ↓↑
 慶応元年(1865年)
 箱館に赴任
 箱館奉行通詞
 英語通詞の育成
 「函館文庫」
 を作り
 箱館奉行所の
 洋書の保存に努めた
 ↓↑
 明治元年(1868年)
 箱館裁判所参事席
 文武学授掛
 に就任
 明治三年(1870年)
 開拓大主典
 明治五年(1872年)
 一等訳官 就任
 豪商
 「柳田 藤吉」
 が函館に作った
 「北門社郷塾」
 「開拓使立函館学校」
 の英語教師
 ↓↑
 明治五年(1872年)
 依願退職
 長崎に帰郷
 後に大阪に移転、死去
 墓所
 長崎県
 長崎市
 鍛冶屋町
 「大音寺」・・・「代音字」?
 墓域内の堀家墓地
 ↓↑
 曾孫 堀豊彦(政治学者)
 玄孫 堀孝彦(倫理学者)
 ↓↑
 1810年(文化七年)
 『蘭和辞典』
 の和訳を加え
 1814年(文化十一年)
 「福澤 諭吉」
 も使用したという
 史上最初の英和辞典
 『諳厄利亜(あんげりあ)語林大成』
 に不十分な点が多く
 ↓↑
 1862年(文久2年)
 堀 達之助
 西 周
 千村 五郎
 竹原 勇四郎
 箕作 麟祥
 などが編纂に参加し
  ↓↑
 『英和 対訳 袖珍辞書』
 (えいわたいやくしゅうちんじしょ
  A Pocket Dictionary
    of the English
    and Japanese Language)
 編纂
 本格的刊本英和辞典
 953ページ
 刊行部数は約200部
 「袖珍」
 「袖に入れて携帯するのに便利である」
 「pocket」に対応した語
 「枕辞書」とも呼ばれて珍重された
 ↓↑
 Picardの著した英蘭辞典
 「A New Dictionary
   of the English
   and Dutch Languages」
 のオランダ語部分を
 和訳する方法によって編纂
 ↓↑
 登・・・登場
  ・・・登壇
  ・・・登呂(とろ)
  ・・・登別(のぼりべつ)
  ・・・吐露・土呂・瀞・・・泥・坭・淤・淦
  ・・・泥人形=埴輪・埴=はに
     埴=土+直
       土+十+目+乚
       十+一+ナ+目+乚
       直・・・真・眞・悳・懸・県・・・
           値(あたい=価・價=イ+覀+貝
                 興
                 能=ム+月+七+匕
                 估=イ+古)
             価値
       異体字(異體字)
       值=イ+𥄂
       𡇛=囗+亠+ハ+ム
       𣓟=ナ+口+艹+十+八
       𣖇=亠+囗+ハ+口+十+八
       𣖴=卥+乚+十+八
       𥄂=ナ+目+一
     埴(はに)=十+一+直
     埴土(ショクド)
     埴輪(はにわ)
     埴生(はにゅう)  
     埴土(へな土)=粘土・・・年度
  ・・・土路(どろ)
 ↓↑
 能登町
 真脇遺跡
 約4000年間にわたる
 縄文時代の長期定住型遺跡
 七尾市
 佐波遺跡
 縄文時代の遺跡で
 西日本各地で出土する類似の出土品が発見
 718年
 氷見地区を除く地域が
 越前国から
 能登国として分離
 後
 能登国は
 越中国に併合
 757年
 再び能登国として分立
 (氷見地区は越中国)
 ↓↑
 越前国
 令制国の一
 北陸道
 4世紀以降
 角鹿国造
 高志国造
 三国国造
 江沼国造
 加我国造
 羽咋国造
 能等国造・・・能登
 が設置
 ↓↑
 689年~692年(持統3~6年)
 高志国(こしのくに)・・・高句麗・高麗・・・?
 高志道前
 高志道中
 高志道後
 の3国に分割・・・
 後
 高志前
 高志中
 高志後
 大宝律令制定後
 国印製作時に
 越前・・・呉越同舟
   ・・・語謁同拾?
       謁=エツ=閲・・・閲覧
       謁=言+日+匂
         言+日+勹+匕
       謁(まみ)える
       謁見
       謁(エッ)する
      内謁=内々の謁見
      拝謁=御目見え
 越中
 越後
 の
 三国に分割され
 「越前国」の領域は
 石川県
 福井県の北部
 後の
 敦賀郡(角鹿国)
 丹生郡(高志国)
 足羽郡、大野郡、坂井郡(旧三国国)
 江沼郡(江沼国)
 加賀郡(加我国)
 羽咋郡(羽咋国)
 能登郡(能等国)
 鳳至郡
 珠洲郡
 の
 十一郡にわたった
 ↓↑
 養老二年(718年)五月二日
 石川県北部
 羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡
 の四郡を
 能登国として分立
 ↓↑
 弘仁十四年(823年)三月一日
 石川県南部
 加賀郡
 江沼郡
 を割いて
 加賀国
 福井県南部
 (若狭国)を除く部分が領域となった
 七世紀末の越国からは五分割
 八世紀初頭の越前国からは三分割
 残った
 越前国は
 延喜式による等級で
 北陸道唯一の大国に区分
 ↓↑
 白山の西麓の・・・白頭山?
 石川県の一部・・・籍選懸?
 白山市の
 旧 白峰村地域
 旧 尾口村地域の一部
 小松市
 旧 新丸村地域は
 白山麓十八ヶ村
 白山信仰の登山をめぐる利権で
 加賀側
 と
 越前側
 で中世以来帰属争いが絶えない
 最終的に
 越前国でありながら
 明治初期に
 石川県に加えられた地域となった
 美濃国との境の
 岐阜県
 郡上市の
 旧
 石徹白村地域も
 越前国の領域で一時は福井県だった
 昭和の大合併で
 岐阜県側に越境合併
 ↓↑
 伯耆国・風土記
 手摩乳(てなずち)
 足摩乳(脚摩乳・あしなずち)
 の娘の
 稲田(奇稲田・くしなだ)姫を
 八岐大蛇
 (やまたのおろち
  八俣遠呂智・八俣遠呂知)
 が喰らおうとしたため
 稲田姫は
 山へ逃げ込んだ
 その時
 母が遅れてきたので
 姫が
 「母来ませ、母来ませ」
 と言ったことから
 「母来(ははき)の国」
 と名付けられ
 「伯耆国」となった
 ↓↑
 ・・・
 古語で
 「はは=蛇」
 上古
 「蛇=はは・はば・はぶ」
 ↓↑
 「伯耆民談記」(江戸時代)の地誌
 海から白い亀がやってきて
 「ハハキ=白亀」にちなんで
 「伯耆」と改めた・・・
 ↓↑
 奇稲田は
 素戔嗚尊 (すさのおのみこと) の妻
 ↓↑
 出雲の文化圏
 『古事記』
 伊邪那美神の埋葬地
 「出雲と伯耆の堺の比婆の山」
 島根県安来市
 鳥取県米子市
 の県境近く・・・
 ↓↑
 伯耆(ほうき)国
 ↓↑
 伯爵(ハクシャク)
 ↓↑
 伯=イ+白
   ハク
   頭に立つ者
   諸侯の長
   侯伯・方伯
   神・「河伯・風伯」
   兄弟の序列の
   最年長者・「伯兄・伯仲」
   父・母の年上の兄弟
   「伯父・伯母」
   一芸に秀でた者の敬称
   「画伯・詩伯」
   伯耆(ほうき)国・「伯州・伯備」
   ブラジル=「日伯」
   伯父(おじ)・伯母(おば)
   伯楽(ばくろう)
   伯剌西爾(ブラジル)
   伯林(ベルリン)
   旧華族制度
   五等爵の第三位・伯爵
   律令制
   神祇官の長官
   ヨーロッパにおける
   封建貴族の階層称号の一
   earl (イギリス)
   Graf (ドイツ)
   comte (フランス)
 ↓↑
 爵=爫+罒+寸
   シャク
   さかずき=杯・盃・卮・巵・盞=戔+皿
                 素戔嗚
   酒をつぐ容器・祭礼用の酒器
   貴族・諸侯の身分の等級
   爵位
   すずめ=雀
   α+爵
   嚼灂㩱㬭爝皭穱䂃釂
   爵(さかずき)
   栄爵=名誉ある高い位の爵位
   勲爵勲等と爵位
   公爵=五階級の第一位の爵位
   侯爵=五階級の第二位の爵位
   子爵=五等爵の第四位の爵位
   爵位=貴族や華族の階級称号
   魚竜爵馬(ギョリヨウシャクバ)
    古代の中国で行われていた演芸
    大魚が竜になってうねり歩いたり
    大きな
    雀や
    馬の形をしたものが
    飛び去ったりする
    非常に珍しく
    変わっているものとされている・・・
 ↓↑
 伯耆(ほうき)国=伯州・伯備・波伯吉国・伯伎国
 伯耆町
 鳥取県の西部に位置する町
 西伯郡
 鬼伝説・・・鬼=おに⇔あに
         をに⇔わに
        =鰐=和邇・和爾・王仁・和珥
 鴟尾の里・・・鴟=とび=鳶・鵄・鵈・弋・登日
              金鵄⇔金鵄輝く日本
                 皇紀二六〇〇年
              1940年 ( 昭和 15年)
               神武天皇即位紀元2600年
 ↓↑
 伯爵=ハクシャク=葉句借
 ↓↑
 伯=イ+白
   ハク
   頭に立つ者
   諸侯の長
   侯伯・方伯
   神・「河伯=河馬=魁罡=河神」
    ・「風伯=風師=飛廉=蜚廉=箕伯=風神」
        「雨師=屛翳( ヘイエイ )=玄冥」
   兄弟の序列の
   最年長者・「伯兄・伯仲」
   父・母の年上の兄弟
   「伯父・伯母」
   一芸に秀でた者の敬称
   「画伯・詩伯」
   伯耆(ほうき)国・「伯州・伯備」
   ブラジル=「日伯」
   伯父(おじ)・伯母(おば)
   伯楽(ばくろう)
   伯剌西爾(ブラジル)
   伯林(ベルリン)
   旧華族制度
   五等爵の第三位・伯爵
   律令制
   神祇官の長官
   ヨーロッパにおける
   封建貴族の階層称号の一
   earl (イギリス)
   Graf (ドイツ)
   comte (フランス)
   Count
 ↓↑
 爵=爫+罒+寸
   シャク
   さかずき
   酒をつぐ容器・祭礼用の酒器
   貴族・諸侯の身分の等級
   爵位
   すずめ・・・雀
   α+爵
   嚼灂㩱㬭爝皭穱䂃釂
   爵(さかずき)
   栄爵=名誉ある高い位の爵位
   勲爵勲等と爵位
   ↓↑
   公爵=五階級の第一位の爵位・prince・duke
   侯爵=五階級の第二位の爵位・辺境伯・marquess・marquis
   伯爵=五等爵の第三位の爵位
   子爵=五等爵の第四位の爵位・Viscount(ヴァイカウント)
   男爵=五等爵の第五位の爵位・baron
      新華族(三井家・岩崎家・住友家などの実業家)
      神職・僧職(阿蘇神社の阿蘇家
            浄土真宗木辺派の木辺家など)
      旧南朝の功臣の子孫(新田義貞の子孫、新田俊純など)
      朝鮮貴族(45名が叙せられた)
   ↓↑
   爵位=貴族や華族の階級称号
   魚竜爵馬(ギョリヨウシャクバ)
    古代の中国で行われていた演芸
    大魚が竜になってうねり歩いたり
    大きな雀や馬の形をしたものが
    飛び去ったりする
    非常に珍しく
    変わっているものとされている・・・
 ↓↑
 ・・・1989年の11月・・・?
 11月10日
 「ベルリン(伯林)の壁」崩壊・・・伯の林
 ↓↑
 1988年 戊辰
 1月1日
 ソビエト連邦
 ミハイル・ゴルバチョフ書記長
 ペレストロイカ開始
 1月5日
 六本木ディスコ照明落下事故
 死者3名負傷者14名
 1月13日
 台湾
 蔣経国総統没
 後任
 李登輝
 ↓↑
 3月13日
 青函トンネルが開業
 (海峡線 中小国~木古内間)
 1954年1月6日の起工式~24年の歳月
 7000億円の費用
 3月14日
 赤瓜礁海戦
 中華人民共和国とベトナムが衝突
 3月16日
 イラン・イラク戦争末期
 サッダーム・フセイン政権下
 イラクが
 クルド人を
 同国内ハラブジャで
 化学兵器で住民を殺害。
 3月17日
 コロンビア・ククタ付近
 アビアンカ航空410便
 ボーイング727
 ベネズエラ国境近くで墜落
 乗員乗客143人全員死亡
 3月18日
 東京ドーム開場
 3月24日
 中国
 上海列車事故で
 修学旅行中の
 高知学芸高校の
 生徒と教師計28名が死亡
 3月25日
 チェコスロバキア
 ブラチスラヴァ(スロバキア首都)
 で
 同国初の大規模民主化運動デモ発生
 ↓↑
 4月14日
 ソ連
 アフガニスタン撤退に関して合意
 (ジュネーヴ合意)
 翌年2月15日までに撤退完了
 ↓↑
 5月15日
 アフガニスタンからのソ連軍撤退開始
 5月23日
 レーガンアメリカ合衆国大統領
 訪ソ、首脳会議
 ↓↑
 6月19日
 第14回先進国首脳会議
 (トロント・サミット)開幕
 6月27日
 フランス・リヨン駅列車衝突事故
 ↓↑
 7月3日
 イラン航空655便撃墜事件
 イラン航空655便エアバスA300B2が
 アメリカ海軍の
 イージス艦「ヴィンセンス」に撃墜
 乗員乗客290名全員死亡
 7月3日
 トルコのイスタンブール
 ファーティフ・スルタン・メフメト橋
 (第二ボスポラス橋)開通
 7月6日
 北海油田
 石油プラットフォーム
 パイパー・アルファで爆発事故
 166名の死者
 ↓↑
 8月8日
 ビルマ
 8888民主化運動
 8月10日
 アメリカ合衆国大統領
 ロナルド・レーガン
 市民の自由法に署名発効
 第二次世界大戦中
 アメリカの
 日系人強制収容を謝罪し
 一人当たり
 20000ドルの補償
 8月20日
 イラン・イラク戦争停戦
 8月21日
 ネパール地震が発生
 ↓↑
 9月17日
 ソウルオリンピック開幕
 (10月2日まで)。
 9月18日
 ビルマ
 ソウ・マウン国軍総参謀長
 クーデターにより全権掌握
 国家法秩序回復評議会を設立
 9月29日
 アメリカ航空宇宙局
 スペースシャトル・ディスカバリー
 打ち上げ成功
 ↓↑
 11月8日
 アメリカ大統領選挙
 ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ
 当選
 11月15日
 PLOが
 チュニジア
 チュニスで
 パレスチナ国家独立宣言
 11月15日
 ソ連
 宇宙シャトル「ブラン」打ち上げ
 無人での軌道周回飛行
 11月16日
 ソ連
 エストニア共和国が主権宣言(1991年に独立)
 11月17日
 オランダ
 インターネットに接続された2番目の国となる
 ↓↑
 12月2日
 パキスタン総選挙
 ベーナズィール・ブットー
 イスラム国家で
 初の
 女性首相
 12月7日
 アルメニア
 マグニチュード6.9の地震
 1万5000人以上が死亡
 12月16日
 日本とアメリカ合衆国
 ビザ免除プログラム適用開始
 90日以内の
 観光、商用、トランジット
 目的での渡航の際のビザ取得が原則不要
 同プログラム適用は
 イギリスに次ぎ2カ国目
 12月21日
 パンアメリカン航空103便
 爆破事件
 ↓↑
 1989年11月8日~
 1989年
 11月10日~11~12日
 「ベルリンの壁」崩壊
 ↓↑
 11月
 11月6日 (~7日)
 第1回
 アジア太平洋経済協力(APEC)閣僚会議
 キャンベラで開催
 ↓↑
 11月9日
 中国共産党中央委員会第5回全体会議
 鄧小平
 中国共産党
 中央軍事委員会主席の辞任
 江沢民
 中国共産党総書記就任
 天安門事件で失脚した
 趙紫陽第一副主席の後任として
 楊尚昆の就任
 ↓↑
 東ドイツ
 中央ヨーロッパ時間18時
 記者会見で
 ギュンター・シャボフスキー
 勘違い発言で
 一般東ドイツ市民の
 ベルリン国境線の通行自由化
 ↓↑
 11月10日
 ベルリンの壁崩壊
 ↓↑
 ブルガリア共産党書記長
 トドル・ジフコフ失脚
 ↓↑
 11月24日
 チェコスロバキア
 ビロード革命
 共産党政権崩壊
 ↓↑
 12月1日
 東ドイツ
 憲法改正
 ドイツ社会主義統一党(SED)
 の国家の指導条項削除
 SEDの一党独裁制終焉
 ↓↑
 12月3日
 アメリカ
 ジョージ・H・W・ブッシュ大統領
 ソ連
 ミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長
 が
 マルタ島会談
 冷戦終結宣言(マルタ会談)
 ↓↑
 12月20日
 米軍パナマ侵攻
 ↓↑
 12月22日
 ルーマニア
 ニコラエ・チャウシェスク政権崩壊
 ルーマニア革命 (1989年)
 ↓↑
 12月29日
 日経平均株価
 38,957円44銭(終値38,915円87銭)
 ↓↑
 1989年
 干支 己巳(2月節分~)
 昭和64年(1月1日~1月7日)
 平成元年(1月8日~12月31日)
 ↓↑
 1月
 1月7日
 午前6時33分
 昭和天皇崩御
 ↓↑
 昭和天皇
 1901年(明治34年)4月29日午後10時10分
 ~
 1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分
    大運1988年12月(87歳)癸未偏官
  辛丑(癸辛己)偏財・食神 墓⇔戊辰傷官
 ┏壬辰(乙癸戊)正官・傷官 衰⇔乙丑偏印
 干合  偏印・偏官・傷官     
 ┗丁丑(癸辛己)  ・食神 墓⇔丁卯比肩
  辛亥(戊甲壬)偏財・正官 胎⇔癸卯偏官
   申酉空亡
 ↓↑
 皇太子明仁親王
 第125代天皇に践祚
 日本の元号「昭和」最後の日
 ↓↑
 1月8日
 元号「平成」
 ブリティッシュミッドランド航空
 92便不時着事故47人死亡
 1月11日
 国際連合決議第626号に基づき
 キューバ軍がアンゴラより撤退開始
 1月18日
 ポーランド統一労働者党
 独立自主管理労働組合
 「連帯」の合法化決定
 1月20日
 ジョージ・H・W・ブッシュ
 第41代アメリカ合衆国大統領就任
 ↓↑
 2月2日
 ソ連、アフガニスタンから撤退開始
 2月3日
 パラグアイ
 軍事クーデターで
 1954年~35年間独裁政権の
 アルフレド・ストロエスネル大統領失脚
 2月6日
 ポーランド
 政府と反体制勢力による円卓会議
 2月14日
 イラン最高指導者
 ルーホッラー・ホメイニー
 『悪魔の詩』の著者
 サルマン・ラシュディ
 同書の出版社担当者らの暗殺指令の
 ファトワーを発令
 24日
 イラン政府が
 ラシュディの首に
 300万USドルの懸賞金をかける
 グローバル・ポジショニング・システム
 に必要な
 GPS衛星24機
 地球周回軌道に投入
 2月15日
 ソ連軍
 アフガニスタン撤退完了
 2月17日
 アラブ・マグレブ連合成立
 2月24日
 ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故
 乗客9人死亡
 ↓↑
 3月1日
 アメリカ合衆国
 文学的及び美術的著作物の保護に関する
 ベルヌ条約に加盟
 3月2日
 欧州経済共同体加盟12カ国
 20世紀末まで
 フロン類の生産禁止に合意
 3月13日
 大規模な磁気嵐が発生
 カナダ
 ケベック州
 大停電発生
 地球各地で磁気嵐
 3月16日
 ソビエト連邦共産党中央委員会
 農家が
 国有地を
 修正借地することを可能とする改革案可決
 3月26日
 史上初の
 ソビエト連邦
 人民代議員大会議員選挙挙行
 ソビエト共産党敗北
 ↓↑
 4月7日
 コムソモレツが沈没
 4月15日
 イングランド・ヒルズボロ
 サッカーの試合で
 96人死亡
 4月26日
 リクルート事件
 総理大臣
 竹下登の秘書が自殺
 ↓↑
 5月2日
 ハンガリー政府
 オーストリアとの国境の
 鉄条網撤去
 鉄のカーテンが破られる

 6月3日
 宇野内閣発足
 6月4日
 北京
 天安門事件
 ↓↑
 1989年ポーランド議会選挙
 1度目の投票
 「連帯」
 両院で獲得議席数99%超の圧勝
 アリー・ハーメネイー
 イランの最高指導者に就任
 ソ連
 ウラル地方
 天然ガスパイプラインのガス爆発
 通りかかった列車2本が吹き飛ばされ
 607人が死亡
 6月15日~18日
 欧州諸共同体加盟国
 欧州議会議員選挙の投票
 6月18日
 ミャンマー
 軍事政権が
 英語国号を
 「Burma」から
 「Myanmar」に改称
 6月18日
 1989年ポーランド議会選挙の2度目の投票
 「連帯」の圧勝確定
 6月
 ポーランド
 自由選挙実施
 非労働党政党
 「連帯」が
 上院過半数を占める
 ↓↑
 7月19日
 ユナイテッド航空232便不時着事故
 ↓↑
 8月10日
 海部内閣発足
 8月19日
 ハンガリー
 汎ヨーロッパ・ピクニック開催
 約600人の
 東ドイツ市民が
 オーストリア経由で
 西ドイツへ亡命
 ↓↑
 9月19日
 UTA航空772便爆破事件
 ↓↑
 10月7日
 ハンガリー社会主義労働者党
 ハンガリー社会党への改組決定
 一党独裁政党に終止符
 10月14日
 田中角栄元総理
 衆議院議員引退表明
 10月17日
 東ドイツ
 エーリッヒ・ホーネッカー
 ドイツ社会主義統一党の
 書記長解任が党政治局で決議
 ホーネッカー失脚
 エゴン・クレンツ
 が後任
 10月17日
 サンフランシスコ
 ロマ・プリータ地震
 10月23日
 ハンガリー人民共和国
 社会主義体制を完全放棄
 ハンガリー共和国
 10月31日
 三菱地所
 アメリカのロックフェラー・センター買収
 ↓↑
 11月6日~7日
 第1回
 アジア太平洋経済協力(APEC)閣僚会議
 キャンベラで開催
 11月9日
 中国共産党中央委員会
 第5回全体会議
 鄧小平
 中国共産党中央軍事委員会主席の辞任
 江沢民中国共産党総書記の就任
 天安門事件で
 失脚の
 趙紫陽第一副主席の後任として
 楊尚昆の就任
 ↓↑
 11月8日
 東ドイツ
 中央ヨーロッパ時間
 18時に行われた記者会見で
 ギュンター・シャボフスキー
 勘違い発言で
 一般東ドイツ市民の
 ベルリンの壁を含む
 国境線の通行自由化
 11月10日
 ベルリンの壁崩壊
 ブルガリア
 共産党書記長
 トドル・ジフコフ失脚
 民主化開始
 11月24日
 チェコスロバキア
 ビロード革命
 共産党政権崩壊
 ↓↑
 12月1日
 東ドイツ
 憲法改正
 ドイツ社会主義統一党(SED)の
 国家指導条項が削除
 SEDの一党独裁制が終焉
 ↓↑
 12月3日
 アメリカの
 ジョージ・H・W・ブッシュ大統領
 と
 ソ連の
 ミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長
 がマルタ島で会談
 冷戦の終結を宣言(マルタ会談)
 ↓↑
 12月20日
 米軍パナマ侵攻
 12月22日
 ルーマニア
 ニコラエ・チャウシェスク
 政権崩壊
 ルーマニア革命 (1989年)
 12月29日
 日経平均株価
 史上最高値
 38,957円44銭
 終値
 38,915円87銭
ー----
 ・・・???・・・
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として
 モウ君の総合目次 (bake-neko.net)
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
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テイデンの午後の日・・・

2022-11-15 20:00:38 | 古事記字源
 落雷の兆しもないのに
 頻発した停電・・・5、6回・・・
 原因も不明・・・
 ↓↑
 2022/11/13
 14:32
 ~
 2022/11/13
 14:45
 約10戸
 飛来物の接触・・・???・・・何に接触したんだか

 PCの電源と
 灯油ストーブの電源が切れた・・・
 TVもヤクたたず・・・

 ↓↑
 文字に飢える・・・
 ↓↑
 タラチネの母の面影の匂いはオッパイ
 クンクンと
 ハナで弄って
 ハハの乳房をクチに含んだアノ匂い
 ↓↑
 クン と ミン
 訓   見ん
 ↓↑
 訓=言+川   見=観・視・看・診・美瑠
 ↓↑     ↓↑
 君       臣=匚+コ+¦
           匚+コ+¦
       姫=姬=㚦
         女+𦣞=女+臣=女+𦣝
         イ
         𦣝
         頤(おとがい)=𦣝+頁
         顎(あご)=咢+頁=頤
              咢=吅+亏(于)=㖾
              吅+一+丂
              咢=ガク
                いいあらそう
                おどろく
                いいあらそう・うるさく言い争う
                驚(おどろ)く=愕・驚愕
                鼓(つづみ)を打ち鳴らす
                物怖じせずに直言するさま
              咢⇔𦣝=𦣞=臣
                𦣝=匚+ᵎ+コ+╎
                𦣞=匚+口+╎
                臣=匚+コ+╎
              咒=吅+几=呪
                口+口+几
                呪う・呪詛
   品=ヒン
     ホン
     しな
     しなもの・いろいろな物・物品
     くらい・等級・位階
    人がら・人格・人の性質
    等級をつける・評価する・良し悪しを判断する
    たぐい・種類・物事の種類を数えることば
    きまり・制度・基準・法則
    仏典のなかで、章
    編などの一まとまりのこと
    昔の律令制で親王に賜った位
    品位は一品から四品まである
    駡=吅+馬
      バ
      ののしる・口ぎたなくけなす
      ののしり・悪口=罵倒
    哭=吅+犬
      コク
      なく・大きな声で泣く
      人の死を悼み大声で泣く礼法
      慟哭
    㖐=吅+尹
      イ
      鴨(かも)をよぶ
    㽞=吅+田
      リュウ
      ル
      とめる
      とどまる
      とどめる
      じっと動かない
      とどこおる=滞る・渋滞
      動かないようにする
      引き止める
      ロシアの通貨単位
      すばる=昴・星座の名
     啙=此+吅
       シ
       ジ
       よわい・よわる・短い
       せめる・しかる
       きず・短所・欠点
     喌=吅+州
       シュク
       シュウ
       シュ
       鶏を呼ぶ声
     㗊=シュウ=吅
       キュウ
       ホウ
       かまびすしい・やかましい
 ↓↑     ↓↑
 君=尹+口    民=尸+㇀+一+乀(㇂)
   ⺕+丿+口    コ+上+乀(㇂)
   コ+ナ+口    コ+㇙+一+乀(㇂)
           コ+㇙+弋
 ↓↑
 釧=金+川
   𠆢+王+丷+川
   亼+土+丷+川
   セン
   うでわ
   くしろ=釧路
      ↓↑
  泯=氵+民=冺=冫+民
      泯きる(つきる)
      泯びる(ほろびる)
      ビン
      ベン
      ミン
      メン
      つきる
      ほろびる
      ほろぶ
      なくなる・尽きる・滅亡する
      沈む・没する・死ぬ
      みだれる・混乱する
      暗い・目がくらむさま
 ↓↑
 勳=熏+力    旻=日+文(亠乂)
   千+口+丷+一+灬+力
   壬+口+丷+灬+力
   ㇒+十+口+丷+一+灬+力
   クン
   勳(いさお)
   勳(いさおし)
   功績・手柄
   成勲・成勳=すぐれた手柄
   戦勲・戦勳=戦争での功績
   懋勲・懋勳(ボウクン)=大きな功績
 ↓↑
  旻=日+文
    ビン
    ミン
     あきぞら
    そら
     あきぞら・秋のそら
    広大な空
 ↓↑
 倭=イ+委
   ワ・イ・やまと
   日本の呼称
   唐代(618年~907年)頃までの呼称
   小さい・背が低い
 ↓↑
 唩=口+委
   ワ・イ
   子どもが泣く声
 婑=女+委
   ワ
   婑媠(ワダ)
   美しいさま・可愛らしいさま
 𡯵=尢+委
   タイ
   㞇𡯵
   足が麻痺する病気
 崣=山+委=𡹜
   イ
   𡹜𡻣(イイ)
   山道が
   うねうねと曲がりくねっているさま
   嶊𡹜(サイイ)
   山が高く切り立っているさま
   嶮(けわ)しいさま
 䫋=委+頁=隤=頽
   イ・タイ・ダイ
   落ちる・下に落ちる・崩れ落ちる
   女隨人也通作委
 ↓↑
 奻=女+女
   ジョ・ニョ・ニョウ
   おんな・め
   𠨰=厂+コ+乚
   雌
   娘(未婚の女性)・婦(既婚)
   妻(めあ)わせる・嫁(とつ)がせる
   あなた=汝
   弱々しいさま
   二十八宿北方玄武(ゲンブ)
   第三宿
   おんな
 𠕷=冖+女
   ワのオンナ
 㚣=女+女
   コウ・キョウ・ギョウ
   姣
   美しいさま・愛らしいさま
   𤕢=佼
 奻=女+女
   ダン・ネン
 ↓↑
 𣅓=日+女
   ジツ、ニチのオンナ
 𥤨=穴+女
   ド・ヌ
   那胡切𥤨窒也
 𩁻=雨+女
   レイ・リョウ
   女性名字
 𪏮=黍+女
   ジョ・ニョ
   粘る・粘りがある
   黍(きび)⇔桼(うるし)
 䶒=齊+女
   サイ・セ
   𠆈
   才能があるさま
 婑=女+委
   ワ
   婑媠(ワダ)
   美しいさま・可愛らしいさま
 ↓↑
 姞=女+吉
   キツ・ゴチ
   𡜩=吉+女
   黄帝の子の姓
   國語:卷第十:晉語四
   黃帝之子二十五宗
   其得姓者十四人為十二姓
   姬酉祁巳滕葴任荀僖姞儇依是也
   唯青陽與蒼林氏
   同于黃帝故皆為姬姓
   燕姞(エンキツ)
   周代(前11世紀~前256年)の
   諸侯国南燕の君主の姓
   玉篇:卷三:女部第三十五:姞
   渠乙切姞氏爲后稷元妃南燕姓也
 𡟌=姞+女
   ソ・ス
 姦=女+奻
   カン
   かしましい・よこしま
   道義に反する・道理に背く
   悪事を働
   奸=女+干
   男女の道義を犯す=奸
   かしましい
   お喋(しゃべ)りで
   喧(やかま)しい
 𡢹=姦+男
   ヨウ
   強姦
 葌=艸+姦
   カン・ケン
   草名
   萱(かや)の類
   チガヤ(茅)などの類
   香草=葌草(菅)
   山海經:中山經
   山名
   河南省の中西部
   葌水はやがて
   伊水(伊河)に注ぐ
 𩤦=姦+馬
   カン・ゲン
   馬の異体字の一
   𢒠(日𠂊巾)
 ↓↑
 臣=シン・ジン
   おみ
   主君に仕える者
   主人に仕える召使い
   男の奴隷
   家臣の者が主君に対して
   謙(へりくだ)って自らをいう語
   しん
 𠈄=イ+臣
   カン・ゲン
   宦䆠𥦐𠋪
   主君に仕える・役人として仕える
   古くは
   後宮(皇后や妃などが居住する館)に
   仕える去勢された男子
   後には
   官吏(カンリ・役人)
   男子の使用人一般を指すようになった
   学問・学習に関する事務に携わる官吏(カンリ)
 𠙉=臣+几
   シ
   はじまる・はじめ・はじめる
   始乨・兘𠃭
   それ以降続く物事の最初
   出だし
   「始」は在物の経過の始点
   「物事はまず~から始める・~から始まる」
   「初」は存在自体
   「物はまず初めにある・~の初め」
   初めて・~の時に至ってやっと
   「初」
 ↓↑
 姫=女+臣
   キ・シン
   ひめ
   慎(つつし)む・慎み深い
   貴人の娘・婦人の美称
   天子や君主の妾(めかけ・側室)
   姬=姫
 ↓↑
 宦=宀+臣
   カン・ゲン
   䆠𥦐𠋪𠈄
   主君に仕える・役人として仕える
   後宮(皇后や妃などが居住する館)に
   仕える去勢された男子
   後には官吏(カンリ・役人)や
   男子の使用人一般を指す
   学問・学習に関する事務に携わる官吏
 ↓↑
 弫=弓+臣
   シン
   強い弓
 挋=扌+臣
   シン
   汚れや穢(けが)れを
   拭(ぬぐ)う・拭い清める
   与える・与え助ける
   給=賑
 𢼧=臣+攴
   䟴蜄𢼧
   動也
   與挋通
 𦚠=月(肉)+臣
   シン・ジン
   脤祳
   祭礼の際に神に供える生肉
   焼いた肉は「膰」
 栕=木+臣
   シン
   桭
   軒先
   二本の主柱(おもばしら)の間
   整う
 烥=火+臣
   +火4=総画数11 U+70E5 [未詳/]
   有烥炎箭以掩滅之
 ↓↑
 𤱥=田+臣
   シン
   畛𤱼𤱏
   畦道(あぜみち)
   田畑の境界を成す小道
   境界
   神に祝いや
   願いの言葉を
   述べる・申し上げる
 ↓↑
 䆠=穴+臣
   カン・ゲン
   宦𥦐𠋪𠈄
   主君に仕(つか)える・役人として仕える
   後宮(皇后や妃などが居住する館)に
   仕える去勢された男子
   後には官吏(役人)や男子の使用人
   学問・学習に関する事務に携わる官吏(カンリ)
 ↓↑
 䋗=糸+臣
   ケン
   䌑
   きつく縒(よ)り合わせる
   堅く引き締める
   緊
 茞=艸+臣
   シン・ジン
   茞蕂(シンショウ)
   ゴマ(胡麻)・ゴマ科の草
   別字「茝」
 ↓↑
 𦣦=臣+臣
   コウ・キョウ
   臦𦣩
   二人の家臣の考えや行動が食い違う
   互いに背きあう
 𦣩=臣+臣=臦・𦣦
 䛗=臣+言
   シ
   𧧃=𧧰
   隠し事や過(あやま)ちを
   暴(あば)き面と向かって言う
   訨
 𧧰=言+臣
   7䛗𧧃
 頣=臣+頁
   シン
   上目づかいに人を見るさま
 𩠝=首+臣
   イ
   おとがい
   頤=颐頥𩠢𩠞𩠡𩠛𩒫顊𩔦𩑪頉
   口腔(コウコウ・口の中の空洞部分)
   上下の骨・筋肉・皮膚などの組織の総称
   顎(あご)=頜=𦣝
   人体(頭部)
   養(やしな)う・養い育てる
 𩠞=臣+首
   イ
   おとがい
 𦣝=臣=𦣞
   イ
   頤
 姬=女+𦣝
   キ
   㚦
   姓
   黄帝
   姬水の近くで成長
   後の周王朝などの国姓
   天子や君主の妾(ショウ・めかけ・側室)
   婦人の美称
 巸=𦣝+己
   イ
   𦣤=𣢮
   大きく広がるさま・広く行き渡るさま
   熙
   楽しいさま・満ち足り喜ぶさま
   熙
 弬=弓+𦣝
   イ
   弓の名
 𣐵=木+𦣝
   イ
   船に溜まった水を汲み出す道具
 茝=艸+𦣝
   シ
   𦯭
   白茝(ビャクシ)=白芷
   ヨロイグサ(鎧草)
   セリ科シシウド属の草
   その根を乾燥させた生薬
   別名「苻蘺(フリ・ヨロイグサ)
   蘄茝(キシ)
   センキュウ(川芎)
   セリ科ハマゼリ属の草の苗
   別字「茞」
 頤=𦣝+頁
   イ
   おとがい
   颐=頥𩠢𩠞𩠡𩠛𩠝𩒫顊𩔦𩑪頉
 𩛉=食+𦣝
   シ
   饎𩜮𩟄
   よく調理され整えられたご馳走
   おいしい酒食=糦
   喜び楽しむ食べ物・食事
   アワ(粟)やキビ(黍)など
   それをじっくりと
   煮炊(にた)きしたおいしい食べ物・食事
 𩠛=首+𦣝
   イ
   おとがい
   頤=「𦣝=𦣞」+頁
   颐頥𩠢𩠞𩠡𩠝𩒫顊𩔦𩑪頉
 𦣞=臣=𦣝
   イ
   𦣝
   頤(おとがい)
   顎(あご)=頤
 ↓↑
 熙=巸+灬
   巳+灬
   己+灬
   巸
 臣=𦣝=𦣞=顎(あご)=頤
   𦣝=匚+丨+丂+丄
     乚+丨+一+㇉+丄
     丨+丨+一+㇉+丄
 ↓↑
 𦣷=臣+𠂉+「人从」+「十十十」+「口吅」
   リン
   のぞむ
   臨临𦣲
   高いところから低いところを見る、見下ろす
   高位の者が(高い席から)
   下位の者(低いところに控えている者)
   と会う
   高位の者が一般人のところへ出向く
   現場に出向く
   人・時・事などに面と向かう
   直接向き合う
 ↓↑
 姫=女+臣(𦣝=𦣞)
   姫氏国
   倭漢通用の国称
   日本紀私記の丁本
   野馬台詩には日本のことを
  「東海姫氏國」と称し
   日本神話において皇室の始祖は
   天照大神とされ
   女帝・神功皇后を輩出していることから
   姫氏の国と呼ぶ
 ↓↑ ↓↑
   漢の文化における「姫」
   黄帝と周王の姓
   その継承者の姓を意味
   王朝をたてた初代
   武王の三代前の時点
   周は殷の支配下にある一勢力であり
   古公亶父がその首長であった
   彼には年長順に
   太伯、虞仲、季歴
   という三人の息子がいた
   季歴の息子・昌(後の周文王)が生まれたときに
   様々な瑞祥があったため
   古公は
  「私の子孫で栄えるものがいるとすれば昌であろうか」
   と述べた
   太伯と虞仲は
   古公が季歴から昌へ家督を継がせたいと思っているが
   彼ら兄二人がいなくならないかぎり
   季歴は後継者になれないことを察し
   みずから出奔して
   荊蛮の地で独自に
   句呉国を興した
   太伯・虞仲が日本人の祖先とする説
   中国から日本にかけて存在し
   そのため日本は
   周王家(姫姓)から分かれた国
   「姫氏の国」と呼ばれた・・・
 ↓↑
 鹽=臣+𠂉+鹵+皿
   エン
   しお
   塩=𥂁䀋𪉹𪉩𪉟盐𨣎
   海水などに含まれる苦く辛い成分が
   結晶化したもの
   土中の塩分が結晶化した天然のものは
   「鹵」
   五味(甘・酸・鹹・苦・辛)の一
 𪊇=鹵+監
   カン
   コン
   塩っぽい・塩辛い
   𪉦𪊇(カンカン)=味がないさま
 𪊈=鹵+イ+仌+仌+丆+工
   サ
   ザ
   鹺=鹾𪉵𪉬𪉤𪊁
   塩・塩気(しおけ)・塩味・塩辛い
   仌+仌=冰=𣲝
   ヒョウ
   凍(こお)る
   氷=冫=冰=𣲝
ー----
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として
 モウ君の総合目次 (bake-neko.net)
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
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1911年11月某日・ツァラトゥストラはかく語りき…ツヅキ

2022-11-11 21:18:02 | 古事記字源
 11月11日・・・壱拾壱月・壱拾壱日

 福建での・・・福建(フクケン)
        福=礻+畐=福=示+畐
          礻+𠮛+田
          礻+一+口+田
          示+一+口+囗+十
 光復が・・・・光復=コウフク=降伏・降服・口腹・公覆?
        黄 蓋(コウガイ)
       ?~建安十九年(215年)⇔建、安心安全
        字 公覆
        漢末期の武将
        荊州零陵郡泉陵県の人
        孫堅・孫策・孫権に仕えた宿将
        子 黄柄

 ↓↑
 宣言
 福建軍政府が成立
 「孫道仁」・・・孫(まご)道(みち)仁(ひとし)
 を都督に選出
 ↓↑
 10月末
 広東同盟会会員の
 「陳炯明
  鄧鏗
  彭瑞海」
 等は広東化州、南海、順徳、三水
 などで民間軍による武装蜂起を決行
 11月8日
 「胡漢民」
 の勧告の下
 広東水師提督
 「李准」
 陸軍第二十五鎮統制
 「竜済光」
 らにより
 両広総督
 「張鳴岐」
 に各方面の代表を召集させ
 広東の独立問題を協議、翌日広東独立が決定
 11月9日
 「陳炯明」
 は徽州を占拠、広東の独立が宣言、軍政府成立
 「胡漢民」
 を都督に
 「陳炯明」
 を副都督に選出
 ↓↑
 11月12日
 山東煙台同盟会の
 「欒鍾堯
  宮錫徳」
 等の「十八豪傑」と称される
 同盟会会員により武装蜂起決行
 煙台海防営を占拠
 煙台道台
 「徐世光」
 武装蜂起を知ると家族を連れ
 海関税務司のイギリス人
 マイヤー公館に保護を求め
 青島に逃亡
 煙台の独立が宣言され山東軍政府が成立
 「陳其美」
 が都督に選出
 11月13日
 山東革命党の
 「丁惟汾」・・・丁の惟(おもう)の汾(汾水)
 の勧告と
 陸軍第五鎮統制
 「賈賓卿」
 等中下級軍官らの強い圧力の下
 山東巡撫
 「孫宝琦」
 は山東の独立を承認
 「孫宝琦」
 を都督に選出
 11月24日
 「孫宝琦」
 は独立を取り消す
 ↓↑
 11月17日
 寧夏同盟会支会は
 寧夏会党による武装蜂起を決行
 23日
 銀川で支那寧夏革命軍政府が成立
 ↓↑
 11月22日
 重慶では
 大漢蜀北軍政府が成立
 27日
 四川鄂軍により
 督弁鉄道大臣の
 「端方」
 を殺害
 ↓↑
 11月22日
 成都四川官紳代表大会は四川独立を宣言
 大漢四川軍政府が成立
 立憲党の
 「蒲殿俊」
 を都督に選出
 26日
 四川総督
 「趙爾豊」・・・趙の爾の豊
 は独立文書を発表、政治権力を軍政府に移管
 ↓↑
 11月8日
 同盟会会員の指導により
 陸軍第九鎮統制
 「徐紹楨」
 は南京城外60里の秣陵関で武装蜂起を宣言
 「徐紹楨」
 と上海都督
 「陳其美」
 江浙聯軍の協議により
 連合軍を組織し
 南京を攻略することを決定
 「徐紹楨」
 を江浙聯軍総司令に任命
 ↓↑
 11月11日・・・壱拾壱・十一・Ⅺ・壹拾・壹足
 江浙聯軍司令部が
 鎮江に成立
 11月24日~12月1日(旧暦9月11日)
 「徐紹楨」
 の指揮の下
 「黄興」
 も指揮に参加し連合軍は
 烏龍山、幕府山、紫金山、雨花台、天保城
 等の拠点を占拠
 両江総督
 「張人駿」
 と江寧将軍
 「鉄良」
 は同日夜に
 日本軍艦に逃亡し上海へ亡命
 12月2日
 南京城を攻略
 長江以南の地域はすべて
 革命軍の支配下
 3日
 「宋教仁」
 の提案で都督府は
 蘇州から・・・蘇の州⇔蘇我
 南京へ移転
 ↓↑
 12月2日
 駐漢口
 イギリス領事の斡旋により
 武漢革命軍と清軍の間で
 停戦協定が成立
 ↓↑
 1911年12月28日
 迪化にて新疆督練公所教練官の
 「劉先俊」
 らが挙兵するも
 新疆巡撫袁大化によって鎮圧
 劉ら主要メンバーは処刑
 ↓↑
 1912年1月7日午後12時ごろ
 伊犁 混成協統領
 「楊纘緒(イリ革命党)」
   ・・・伊犁=イリ=入(いり)・・・?
ー↓↑ー---
 イリ・カザフ自治州
 中華人民共和国
 新疆ウイグル自治区
 北部に位置する カザフ族 の副省級 自治州
 州都
  グルジャ市
(「伊寧=イーニン」市)
 全国で唯一
 タルバガタイ(塔城)
 アルタイ(阿勒泰)
 の2地区を管轄
 ↓↑
 伊犁(イリ)草原
 別名 那拉提(ナラティ)草原
 新疆ウイグル自治区
 新源県東部に位置
 新源県
 那拉(ナラ)
 提鎮
  「那拉提(ナラティ)=最も早く太陽が見えるところ」
      奈良綴・・・?
 ↓↑
 唐代
 「突厥」旧属
 カルルク部の地
 1124年
 契丹貴族
 「耶律大石」・・・大石・・・磐余彦=神武天皇
 イリ Yīli(イーリー)
 の
 カルルク部
   ・・・軽留句・珂瑠留句・・・?
ー↓↑----↓↑
      軽皇子
      孝徳天皇
      596年
      推古天皇4年
      ~
      654年11月24日
      白雉5年10月10日
      第36代天皇
      在位 645年7月12日
         皇極天皇4年6月14日
         ~
         654年11月24日
         白雉5年10月10日
         諱 軽(かる)
 ↓↑    ↓↑
      「軽=珂瑠」皇子
      文武天皇
      683年
      天武天皇12年
      ~
       707年7月18日
      慶雲4年6月15日
      第42代天皇
      在位:
      697年8月22日
      文武天皇元年8月1日
      ~
      707年7月18日
      慶雲4年6月15日
      諱  珂瑠 (かる)=軽 (かる)

ー↓↑----↓↑
 1124年
 契丹貴族
 「耶律大石」・・・大石・・・磐余彦=神武天皇
 イリ Yīli(イーリー)
 の
 カルルク部
 を
 臣服させて
 西遼を樹立
 イリ将軍
 (満州語:総統伊犁等処将軍
  Zŏngtŏng Yīli dĕngchu Jiāngjūn)
  清朝期に設置された
  新疆の最高軍政長官
  天山山脈北部
  恵遠城
  (新疆ウイグル自治区霍城県恵遠鎮)
 に駐箚
 ~
 1871年
 ヤクブ・ベクの
 新疆侵入に乗じて
 ロシア帝国が
 イリ地方を占領
 恵遠城も破壊の対象となり
 清朝は
 欽差大臣の
 「左宗棠」
 を派遣し
 1876年までに
 ヤクブ・ベク軍を鎮圧
 1881年
 ロシアとの間で
 「イリ条約」が締結
 賠償金と引き換えに
 「イリ地方」
 は清朝の支配下に戻った
  ~
  伊犁
  哈薩克
  自治州
  人民政府
ー↓↑----
 崇神天皇(すじんてんのう)
 開化天皇9年または10年
 崇神天皇68年12月5日)
 第10代天皇
 在位 崇神天皇元年1月13日
    ~
    崇神天皇68年12月5日
    日本書紀
    御間城 入 彦  五十瓊殖 天皇
   (みまき いりびこ い にえのすめらみこと)
    古事記
    御眞木 入 日子 印 恵 命
   (みまき いりひこ いにえのみこと)
 ↓↑
 垂仁天皇(すいにんてんのう)
 崇神天皇29年1月1日
 ~
 垂仁天皇99年7月1日
 第11代天皇
 在位 垂仁天皇元年1月2日
    ~
    垂仁天皇99年7月1日
    日本書紀
    活 目 入  彦  五十狭茅 天皇
   (いくめ いり びこ いさち のすめらみこと)
    古事記
    伊久米 伊理 毘古 伊佐知命
   (いくめ いり びこ いさちのみこと)
    上宮記
    伊久牟 尼利 比古 大王
   (いくむ にり ひこ)
ー↓↑----
 伊犁(イリ)草原
 別名 那拉提(ナラティ)草原
 ↓↑
 1912年1月7日午後12時ごろ
 伊犁 混成協統領
 「楊纘緒(イリ革命党)」
 同執事官
 「李輔黄」
 書記官
 「馮特民
  鄧宝珊(同盟会)」
 哥老会回族首領
 「馬得元」・・・馬を得る元
 らが霍城県の
 恵遠城将軍署
 南北の軍械庫を襲撃
 「袁大化」・・・袁(ヱン・猿・長袖・longsleeves)の
         大化(大化の改新・乙亥の変・645年)
 は新疆提法使
 「楊増新」・・・楊の増新・・・楊貴妃?
 にこれを鎮圧させようとしたが
 「楊増新」
 は迪化に駐屯したまま動こうとしなかった
 軍械庫では激しい応戦
 戦線が膠着
 前
 伊犁将軍の
 「広福」
 により停戦交渉
 伊犁 将軍
 「志鋭」
 は処刑され
 1912年1月10日
 伊犁 革命臨時政府の成立が宣言
 「広福」
 が臨時政府都督就任
 「楊纘緒」
 が総司令部長
 「賀家棟」
 が参謀部長
 「李輔黄」
 が前敵総指揮に就任
 3月
 「袁大化」
 が新疆都督に就任するも1か月で辞任
 後任の
 「袁鴻祐」
 も就任直前に暗殺
 代わって就任した
 「楊増新」
 による新疆統治が16年続く
 ↓↑
 中華民国の成立
 中華民国臨時政府
 一次内閣閣議
 11月1日
 清朝政府は
 「袁世凱」
 を内閣総理に任命
 海外華僑や留学生及び国内世論の間に
 「袁世凱」
 による初代大総統の気運
 11月9日
 「黄興」
 は
 「袁世凱」
 に書簡を送り
 ナポレオンやワシントンの資格を持って
 ナポレオン、ワシントンの功績を作るべしとし
 「袁世凱」
 に民主的に選出された総統となることを求めた
 11月16日
 パリ滞在中の
 「孫文」
 も国民軍政府に対し
 「袁世凱」
 の総統就任に
 同意の意向を示す電報を送信
 ↓↑
 1911年11月
 「黎元洪」
 を首班とする武昌団体と
 上海都督
 「陳其美」
 江蘇都督
 「程徳全」
 が代表する上海団体が
 同時に
 中央政府準備活動を展開
 11月9日
 「黎元洪」
 は湖北軍政府都督の名義により
 独立した各省に代表を武昌に派遣し
 中央政府組織のための
 会議開催を呼びかける電報を
 ↓↑
 11月11日・・・壱拾壱・壹拾壹
 上海都督
 「陳其美」
 江蘇都督
 「程徳全」
 等の三省軍政府都督は各省代表に
 上海での同様の
 会議開催を呼びかける電報を発信
 11月15日
 各省都督府代表聯合会が
 上海で開催され
 上海、江蘇、浙江、福建
 の省代表が参加
 武昌団体は会議は武昌での開催を主張
 武昌で
 最初に発生した革命であったため
 多くの省代表は
 武漢に到着し
 同盟会の主要指導者である
 「黄興
  宋教仁」
 等も武漢に入っていた
 上海団体の譲歩により
 各省代表が武漢に集結
 30日
 漢口で臨時中央政府組織
 及び
 『中華民国臨時政府組織大綱』
 制定のための会議開催が決定
 同時に
 上海にも各省1名の代表を駐在させ
 連絡機関を設置することが決定
 ↓↑
 11月21日
 各省代表は次々に武昌に到着
 漢陽は清軍の攻撃を受け
 陥落の危機にあったが
 各省代表は
 30日
 にイギリス租界の
 順昌洋行で
 第1回会議を開催
 14省の代表24名が参加し
 「譚人鳳」
 が議長に選出
 会議では
 臨時政府成立以前は
 湖北軍政府が
 中央軍政府の職権を代行し
 湖北軍都督が
 中央軍政府大都督を代行することが決定
 12月2日
 臨時政府組織大綱の制定が決定
 「雷奮
  馬君武
  王正廷」
 が組織大綱起草者に選出されると同時に
 「袁世凱」
 の意向によっては
 臨時大総統に推挙することが確認
 12月3日
 会議は3章21条で構成される
 『中華民国臨時政府組織大綱』
 を採択
 即日全省代表の署名の下に公布
 南京を
 臨時政府の所在地とする
 総統制による
 共和体制の方針が確認
 各省代表は
 7日以内に
 南京に集結
 10省以上の代表が集結した場合は
 臨時大総統選挙を
 実施することも決定
 ↓↑
 初代臨時大総統
 「孫文」
 12月4日
 「宋教仁
  陳其美」
 等は上海における各省代表の
 「沈恩孚
  兪寰澄
  朱葆康
  林長民
  馬良
  王照
  欧陽振声・・・欧(欧州)陽(日)に振り仮名?
  居正
  陶鳳集
  呉景濂
  劉興甲
  趙学臣
  朱福詵
  章炳麟
  趙鳳昌
  章駕時
  蔡元培
  王一亭
  黄中央
  顧忠琛
  彭錫範」
 などを召集し
 上海江蘇省教育総会にて会議を開催
 投票方式により
 「孫文」
 への
 帰国要請と
 政治参加を求める公電発信を決定
 「黄興」
 を暫定大元帥
 「黎元洪」
 を副元帥とし
 大元帥による
 中華民国臨時政府の方針を求めた
 「黄興」
 は大元帥就任要請を強く固辞し
 17日
 「黎元洪」
 を大元帥
 「黄興」
 を副元帥と決定
 ↓↑
 国旗問題
 湖北代表は「鉄星 十八星旗」
 福建代表は「青天 白日旗」
 江浙代表は「五色旗」
 を国旗と主張を行い対立
 五族共和を代表する
 「五色旗」を国旗とし
 「鉄星 十八星旗」を陸軍旗
 「青天 白日旗」を海軍旗
 とする折衷案が採用
 ↓↑
 12月11日
 上海と漢口両地方の17省代表が南京に入り
 中央政府設置に向けた会議が続行
 12月14日
 各省代表は
 『臨時政府組織大綱』
 に基づき総統選挙を行う事を決定
 「黎元洪」
 及び
 「黄興」
 の両派に別れていた
 12月15日
 代表は
 「袁世凱」
 の共和制賛成の方針を獲得し
 総統選挙は延期
 「袁世凱」
 への政治的期待が高まった
 ↓↑
 12月25日
 フランスのマルセイユより
 「孫文」
 が上海に帰国
 「孫文」
 は多くの革命団体より支持を受け
 大総統就任が期待される人物であった
 立憲派及び旧勢力より
 「孫文」
 は
 「袁世凱」
 から
 大総統の座を奪い取るものであると認識
 ↓↑
 12月28日
 南京で臨時大総統選挙予備会議が開催
 29日
 臨時大総統選挙が実施
 ↓↑
 臨時政府組織大綱第1条
 「臨時総統は
  各省都督代表がこれを選挙し
  投票総数の
  3分の2以上の獲得で当選とされ
  投票権は各省1票」
 と規定
 選挙に参加したのは
 直隷、奉天、山東、山西、河南
 陝西、湖北、湖南、江西、安徽
 江蘇、浙江、福建、広東、広西
 雲南、四川
 の17省45名の代表で
 「孫文」
 は17票中16票を獲得し
 中華民国初代臨時大総統
 に選出された
 ↓↑
 1912年1月1日
 「孫文」
 は南京にて
 中華民国の成立を宣言
 初代臨時大総統就任のための宣誓を行った
 『臨時大総統職宣誓書』
 の中で
 国民主権の国家
 漢満蒙回蔵諸民族による国家体制を強調
 1月2日
 「孫文」
 は各省に
 陰暦の廃止
 太陽暦の採用
 及び
 中華民国暦の採用を通達
 1912年
 中華民国元年
 とした
 ↓↑
 1月3日
 各省代表は
 「黎元洪」
 を臨時副総統に選出
 同時に
 「孫文」
 が提出した
 臨時政府各部総長
 次長名簿を承認
 正式に
 中華民国臨時政府が成立
 ↓↑
 臨時政府
 下部に10部
 陸軍部総長
 「黄興(参謀本部総長兼任)」
 海軍部総長
 「黄鍾瑛」
 外交部総長
 「王寵恵」
 司法部総長
 「伍廷芳」
 財政部総長
 「陳錦濤」
 内務部総長
 「程徳全」
 教育部総長
 「蔡元培」
 実業部総長
 「張謇」
 交通部総長
 「湯寿潜」
 が就任
 総統府秘書長
 「胡漢民」
 法制局長
 「宋教仁」
 印鋳局長
 「黄復生」
 が任命された
 ↓↑
 1月11日
 各省代表会議は
 南京を臨時首都とし
 五色旗を中華民国国旗と定め
 五族共和の象徴とした
 1月28日
 各省代表会議により
 臨時参議院が設置
 各省代表は
 参議院議員となり
 「林森
  陳陶遺」
 がそれぞれ正副議長に就任した
 ↓↑
 内閣総理大臣
 「袁世凱」
 武昌蜂起の後
 中国に権益を有す列強諸国は
 静観の立場を採り
 清朝政府
 革命政府
 の中での
 自己の権益に
 有利な政権を観察
 ↓↑
 1911年10月14日
 清は彰徳で病気療養中であった
 「袁世凱」
 を湖広総督としたが
 「袁世凱」
 が病を理由に就任を固辞
 10月22日
 湖南独立
 10月23日
 江西独立を受け
 10月27日
 「袁世凱」
 を欽差大臣に任命し
 北洋軍を率いて
 武漢進攻に着手
 10月29日
 山西独立
 新軍第二十鎮による
 灤州兵諫の発生を受け
 11月1日
 清朝は
 「袁世凱」
 を内閣総理大臣に任命
 11月2日
 漢口攻撃後
 清軍の軍事行動を停止
 水面下で革命政府との
 講和協議が行われ
 11月3日
 清朝により
 『憲法重大信条十九条』
 が発表
 ↓↑
 11月13日
 「袁世凱」
 が北京に到着して内閣総理大臣に就任
 16日
 責任内閣を組閣
 清朝の行政権が移譲され
 各国の政府承認を受けた・・・
 ↓↑
 11月26日
 「袁世凱」
 は
 イギリス駐漢口総領事
 ハーバード・ゴッフ(Herbert Goffe)
 を通して
 民国軍政府及び各省代表に
 停戦
 宣統帝の退位
 「袁世凱」の総統就任の
 講和三条件を提示
 12月1日
 双方は
 『武漢地区停戦協定』
 を締結
 武漢地区は
 12月3日午前8時~12月6日午前8時まで
 の3日間の停戦が実現
 停戦後は休戦交渉が行われた
 ↓↑
 12月8日
 「袁世凱」
 は
 「唐紹儀」
 を内閣総理大臣の全権代表として派遣
 12月9日
 「唐紹儀」
 は武漢に赴き
 「黎元洪」
 やその代表との会談を行い
 各省代表は
 「伍廷芳」
 を停戦交渉の全権代表に選出
 ↓↑
 清朝政府代表の
 「唐紹儀」
 と各省代表の
 「伍廷芳」
 は上海イギリス租界で交渉を開始
 「袁世凱」
 は宣統帝の退位を支持することを条件に
 各省代表は
 「袁世凱」
 の
 「中華民国大総統」
 への就任を支持した
 共和国から
 内戦や外国軍隊の介入を
 未然に防止する観点からも
 「孫文」
 もまた中国の統一と
 「袁世凱」
 を首班とする
 共和政府の樹立に同意
 ↓↑
 1912年1月1日
 中華民国臨時政府
 が正式に成立
 「孫文」
 が臨時大総統に就任
 1月2日
 「孫文」
 の大総統就任を知ると
 「袁世凱」
 は
 「唐紹儀」
 の交渉代表資格を停止
 ↓↑
 1月16日
 「袁世凱」
 は朝廷からの帰路
 東華門丁字街で
 同盟会京津分会組織の爆弾による
 暗殺計画に遭遇
 17日
 「袁世凱」
 は革命勢力に対し
 暗殺活動の停止を要求
 ↓↑
 1月20日
 民国臨時政府は
 「袁世凱」
 に対し、皇帝の退位と優待条件を提示
 1月22日
 「孫文」
 は
 「袁世凱」
 が宣統帝の退位に賛成すれば
 自らは大総統職を辞任し
 「袁世凱」
 の就任を要請する声明を発表
 地位が保証された
 「袁世凱」
 は清朝に対する圧力を強め
 慶親王
 「奕劻」
 と
 「那桐」
 への政治工作
 「隆裕太后」
 の寵愛を受けた太監である
 「張蘭徳」
 に賄賂工作を行い
 「時局の大勢は既に決し
  もし革命軍が北京に到達すれば
  皇帝の生命の確保もおぼつかないが
  退位することで
  優待条件を受けることができる」
 と退位を勧めた
 ↓↑
 1月29日
 清朝は朝議により宣統帝の退位を決定
 2月3日
 「隆裕太后」
 は
 「袁世凱」
 に全権を委任
 民国臨時政府
 との皇帝退位条件の交渉に当らせた
 ↓↑
 退位詔書
 2月6日
 臨時参議院は
 皇帝退位のための
 『優待条例』
 と
 「張謇」
 が起草した
 『退位詔書』を承認
 ↓↑
 大清皇帝尊号は
 今後も使用可能であり
 民国政府により
 外国君主と同等の待遇を受ける
 民国政府は
 毎年400万元を皇帝に支出する
 皇帝は
 暫時紫禁城に居住し
 後に頤和園に移る
 清室の宗廟は
 民国政府により保護を受ける
 光緒帝王の崇陵建設費用は
 民国政府が支出する
 宮廷内の雇人は継続して雇用される
 皇室の私有財産は
 民国国軍により保護される
 禁軍は民国陸軍に編入する
 皇帝退位に伴う優待条件以外に
 清皇室
 及び
 満蒙
 回蔵各王族の
 待遇条件7条も同時に定められた
 ↓↑ 
 西園寺内閣は
 清と革命軍の
 妥協政策を
 イギリスに提案したが
 イギリスは
 「袁世凱」
 と提携し
 共和制中華民国を成立させた
 日本陸軍は
 辛亥革命を進出の機会ととらえ
 1912年1月
 居留民保護のため
 漢口に
 日本陸軍
 中清派遣隊 (中支那派遣隊)を
 漢口に派遣し
 1922年7月まで
 駐屯させた
 歩兵四個中隊
 7000人規模で
 北京天津の
 支那駐屯軍よりも大きいものであった
 この時
 ロシア、イギリスも派兵
 ↓↑
 1912年2月
 第一次満蒙独立運動を開始
 イギリスに主導権をとられたことで失敗
 日本陸軍は
 日英同盟への不信をつのらせ
 他方
 外務省と日本海軍は
 日英同盟を重視し
 対立
 ↓↑
 2月12日
 清朝内閣総理大臣
 「袁世凱」
 等の内閣勧告により
 宣統帝の母后である
 「隆裕太后」
 は清皇室への優待条件を受け入れ
 『退位詔書』
 を発布
 清朝最後の皇帝
 宣統帝の退位と
 「袁世凱」
 が組織する共和政府への
 権限移譲が行われた
 有期限の元号は廃止
 1912年を
 元年とする
 無期限の
 民国紀元(中華民国暦)
 が施行された
 ↓↑
 『退位詔書』
 は
 「張謇」
 により起草
 臨時参議院を通過したものである
 「袁世凱」
 により
 全権組織された共和政府という表現は
 袁世凱により追加されたものである
 これにより清朝は滅亡し
 2000年以上続いた中国の帝政は廃止
  ↓↑
 「袁世凱」
 は北京で
 第2代臨時大総統に就任
 宣統帝退位後の
 1912年2月13日
 「孫文」
 は辞表を提出し
 臨時参議院に対し
 「袁世凱」
 の大総統就任を推薦
 2月15日
 臨時参議院は
 「袁世凱」
 の
 第2代臨時大総統就任と
 南京を首都とすることを承認
 3月8日
 『中華民国臨時約法』
 を制定
 ↓↑
 3月10日
 「袁世凱」
 は北京で
 中華民国
 第2代臨時大総統に就任
 諸外国からの
 政府承認が中華民国に行われた
 「袁世凱」
 は北京兵変を理由に
 北京に遷都
  ↓↑
 「袁世凱」
 は就任後強力な中央政府の保持に努め
 一部革命者による
 各省の分離独立の動きを阻止
 同時に
 列強との間に
 モンゴル
 チベット
 に対する主権承認交渉を行っている
 ↓↑
 1928年までの期間を
 「北洋時期」
 と称し
 期間内の中華民国政府は
 「北洋政府」と称される
 ↓↑
 1913年2月
 『臨時約法』
 中国史上初めての
 国会選挙が実施
 選挙の結果は
 国民党が第一党の地位を占め
 「宋教仁」
 を総理大臣とする内閣組閣準備が進められた
 3月20日
 「宋教仁」
 が上海で暗殺
 7月
 「孫文」
 により第二次革命が計画され
 「袁世凱」
 に対する武装蜂起が実行されたが
 鎮圧された
 第二次革命を阻止した
 「袁世凱」
 は自ら皇帝を自称しようとしたが
 支持を得られずに失敗し
 病死
 (中華帝国)
 ↓↑
 「袁世凱」
 の死後
 中国は軍閥割拠
 「孫文」
 は広州で
 護法政府を組織(第三次革命)
 中国の政治情勢は
 分断と動乱に突入
 ↓↑
 チベット
 「辛亥革命」に先立つ
 1906年~1910年
 四川省の総督
 「趙爾豊」
 が
 チベット東部地方一帯から
 ラサに至る地域を制圧
 チベットの国主
 「ダライラマ十三世」
 は1910年、インドに亡命
 ↓↑
 「趙爾豊」
 カム地方に
 西康省を設置
 「西蔵」
 についても
 ガンデンポタンを廃して
 建省しようと試みたが
 1911年
 武昌蜂起の報に接して
 成都に帰還
 革命派との抗争に敗北して死去
 ↓↑
 ダライラマ十三世は
 インドからチベットに帰還し
 チベットの独立を宣言
 中国の統治機構の一掃を指示
 チベット軍は
 ラサから中国軍を一掃したのち
 東進を開始
 1蜀軍(=四川軍閥)に代わり
 カム地方東部に進出してきた
 雲南軍閥と激しい戦闘
 1913年
 イギリス参加の
 シムラ会議が始まり
 停戦が実現
 その後も
 チベットの全域の回復を目指す
 ガンデンポタン
 中国の地方軍閥
 (アムド地方の中央部を掌握する
  イスラム教徒の
  馬歩芳とその一族
  アムド地方の東南部
  カム地方の東部を掌握する四川軍閥
  カム地方の南部を掌握する雲南軍閥)
 とが対峙する形成が続く
 ↓↑
 参照
 by ウイッキー----
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として
 モウ君の総合目次 (bake-neko.net)
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BBペデア
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1911年11月某日・ツァラトゥストラはかく語りき・・・ダレが?

2022-11-11 20:57:14 | 古事記字源
 辛亥=シンガイ=新改・侵害・心外・・・
    セイメイの変・・・
    清明=セイメイ・・・清(シン)と明(ミン)の王朝のヘン?
      =声明・姓名・生命・声名・聖名・正明
 狛犬・・・狛猫?

 愛新覚羅・・・心外であるカナ・・・別部=ベップ=捌分
 アイを阿多らしく覚える
     羅(うすもの・あみ・ラ)
     あみ・鳥あみ・鳥をとる網
     あみする・網にかけて捕らえる
     残らずつかみとる
     つらねる・つらなる・並ぶ
     薄い絹・うすもの
      新羅
      加羅
     阿部羅(あべら)
      甲羅
      雀羅(じゃくら)
      綺羅星(きらぼし)
     阿修羅
       羅刹(らせつ)
      阿羅漢(あらかん)
       羅漢柏(あすなろ)
      紫羅欄花(あらせいとう)
      沙羅双樹の花の色
      森羅万象
       羅馬尼亜(ルーマニア)
  ↓↑
  辛  亥  革  命
 (シン ガイ カク メイ)
 1911年・・・1+9+1+1=10+11=1+0+1+1=3
       1×9×1×1=9
 干支 辛亥
 宣統三年
 (清  宣統2年12月1日
         ~
     宣統3年11月12日)
 (日本 明治四十四年
 (皇紀2571年)
 ~
 1912年
 干支 壬子
 (清  宣統3年11月13日
         ~
         12月25日
      グレゴリオ暦2月12日)
  (中華民国元年 グレゴリオ暦2月12日)
 (日本 明治四十五年1月1日~7月30日)
 (皇紀2572年)
 ↓↑
 11月某日
 フリードリヒ・ニーチェ
 「ツアラツウストラ」
  (ツァラトゥストラはかく語りき)
 2月21日
 日米通商航海条約が調印
 日本関税自主権回復(小村寿太郎)
 3月29日
 コルトM1911
 アメリカ軍に制式採用
 ↓↑
 4月22日
 清華学堂(清華大学)設立
 ↓↑
 5月9日
 清が幹線鉄道国有化令を発布する
 ↓↑
 6月15日
 ニューヨーク州で
 C-T-R(IBM)創業
 ↓↑
 7月1日
 ドイツ帝国軍艦が
 モロッコのアガディール港に寄港
 フランスを威嚇する
 (アガディール事件)
 7月13日
 第3次
 日英同盟協約締結
 7月24日
 イェール大学
 歴史家ハイラム・ビンガム3世
 マチュ・ピチュ遺跡を発見
 ↓↑
 8月18日
 イギリスで議会法が制定
 下院の優越が法制化
 8月21日
 イタリア人
 ビンセンツォ・ペルージャ
 が
 ルーブル美術館の
 「モナリザ」を盗む
 ↓↑
 9月14日
 ロシア帝国首相
 ストルイピンが狙撃される
 9月29日
 北アフリカ
 オスマン帝国領をめぐって
 イタリア王国が
 オスマン帝国に宣戦布告
 (イタリア・トルコ戦争)
 ↓↑
 10月10日
  ・・・拾月拾(ひろう)日
     足月足(たら・たり・たる・たれ・たろ)日
 清
 武昌新軍が蜂起
 辛亥革命開始
 ↓↑
 11月4日
 モロッコに関し
 独仏協定締結
 モロッコではフランスの権益が認められ
 ドイツが仏領コンゴの一部を獲得
 11月30日
 外モンゴル(モンゴル国)
 清から独立宣言
 11月某日
 メキシコ革命・・・墨西哥=MEXICO
 農民派の
 サパタ
 蜂起
 11月某日
 フランス映画『ジゴマ』日本公開
        字語眞?
 ↓↑
 12月14日
 ロアール・アムンセン・・・賂蛙亜留・編務選?
 南極点到達・・・・・・・・難局・難曲
 ↓↑
 日付不詳
 ヘイケ・カメルリング・オネス
 超伝導現象発見
 ↓↑
 1911年10月10日
 清
 武昌 新軍が蜂起
 辛亥革命 開始
 共和革命・・・・協和?
 10月
 「孫文」
 の影響を受けた革命軍が
 武昌と漢陽を武力制圧
 「黎元洪」
 を都督として
 中華民国軍政府が成立宣言
 清国は革命軍制圧に失敗
 15省が次々と独立を宣言
 ↓↑
 1911年12月29日
 上海で
 「孫文」
 中華民国
 大総統に選出
 1912年2月12日
 清最後の皇帝
 「溥儀」・・・溥儀=フギ=不義・付議・附議・伏木?
 退位
 清国滅亡
 アジアで史上初の
 独立
 共和制国家
 中華民国
 誕生
 勃発日
 10月10日
 に因んで
 「双十革命」・・・双十革命=双足革命=双拾革命
 とも称す
 辛亥革命は
 第一革命とされ
 「袁世凱」
 に鎮圧された
 第二革命
 護国戦争が
 第三革命
 ・・・三革命=サン書く名・・・?
 ↓↑
 スローガン
 「駆除韃虜
  恢復中華
  創立民国
  平均地権
 (打倒清朝
  回復中華
  樹立民国
  地権平等)」・・・地権平等
        ・・・知権別府(びょう?)同?
           別府(ベップ・ベフ・びゅう・びょう)
   別府 (吉富町) - 福岡県築上郡吉富町の地名
  「びょう」と読む
   別府 (宇佐市) - 大分県宇佐市の地名
  「びゅう」と読む
   別府(錦 町)- 熊本県球磨郡錦町
  「びゅう」と読む
   上別府=うえんびゅう
       かみべっぷ
       かんびゅう
       びにう・びふ・びぶ
       びゅう・びゆう
    地名はビュウ(別府)
   鹿児島県 いちき串木野市
        荒川の小字の
        別府から発祥
 福岡市 別府(べふ)
 糟屋郡
  志免町別府(べふ)
 遠賀町 別府(べふ)
 築上町 別府(べふ)
 吉富町 別府(びょう)
 宇佐市 別府(びゅう)
 ↓↑
 別府=神社の領地・収穫米の収蔵地
 別府=ベップ=別部=捌附
 別府=ビョウ=廟・苗=艹+田
          描=扌(手)+艹+田
          猫=ねこ・根子
          秒=禾+少
          眇=目+少
          鋲=金+兵
          錨=金+苗
          病=疒+丙
          屛=尸+并・・・屏風
    渺=氵+眇
      氵+目+少
      氵+目+小+丿
      ビョウ
      はるか・果てしなく広がるさま
      かすか・きわめて小さくはっきりと見えないさま
      α+眇
      眇緲篎
     渺(かすか)
     渺(はるか)
     渺渺(ビョウビョウ)
     渺茫(ビョウボウ)
     ↓↑
     雲烟縹渺(ウンヱンヒョウビョウ)
      非常に遠くまで
      薄く長く伸びている雲や霞の様子
      雲烟=雲と霞=雲煙
      縹渺=遠くにかすかに見えること=縹緲・縹眇
     ↓↑
     烟波縹渺(エンパヒョウビョウ)
      水面がもやなどでぼやけてい
      空と水面の境界がよくわからない風景
      縹渺=ぼやけて、はっきりと区別できない様子
     ↓↑
     往事渺茫(オウジビョウボウ)
      昔のことは
      遠くかすんではっきりとしない
      往事=過ぎ去った過去のこと
      渺茫=はるか遠い様子
         広くて果てしない様子
     ↓↑
     虚有縹渺(キョウヒョウビョウ)
      ぼうっとしていて
      はっきりとしない様子
      虚有=実質的な内容が存在しないこと
     ↓↑
     虚無縹渺(キョムヒョウビョウ)
      何もなく
      どこまでも広がっている風景
     「虚無縹緲・虚無縹眇」
     ↓↑
     神韻縹渺(シンインヒョウビョウ)
      芸術作品にある
      表現できないほどのすぐれた趣
      神韻=神業
 ↓↑
 別府=びゅう・・・WHY びゅう?
   =謬・繆・・・誤謬
    繆(あやまる)
    繆(いつわる)
    繆(たがう)
    繆(まつわる)
    繆(もとる)
   乖繆(カイビュウ)=食い違う・そむきたがう
   悖繆・悖謬(ハイビュウ)=言動が
       正しい道理から外れていること
 ↓↑
 辛  亥  革  命
 ↓↑
 三民主義
 救国主義(孫文)
 対外的な
 中国の国際的地位の平等
 内的には
 国民の政治的平等と経済的平等
 当初
 民族主義は
 清朝専制支配の
 打倒と
 統一的独立国家の建設
 辛亥革命後
 五族共和を
 「民権主義」は
 君主制に代えて
 人民主権の
 共和制国家の
 樹立と
 五権分立
 (立法権・司法権・行政権・考選権・糾察権)
 「民生主義」は
 同盟会の時期には
 土地所有の集中と
 地主の利益独占を防ぐための
 〈地権平均〉
 による土地問題の解決
 辛亥革命後
 大資本家の企業利益独占防止
 〈資本節制〉による社会問題の解決
 当時の中国では
 最も急進的な
 ブルジョア民主主義革命の綱領
 民生主義における
 地権平均も
 地価の上昇分を
 地主から
 国家に吸収するにとどまり
 地主の土地所有権を保存
 人民大衆を
 革命に
 立ち上がらせるにはいたらなかった・・・
 ↓↑
 民生主義
 1896~97年
 ヨーロッパ亡命中の
 「孫文」
 が資本主義の弊害
  富の分配の不公平に基づく
  社会問題の発生を見て
 中国でも起こるであろう
 社会問題を
 未然に防止するために構想
 1905年(光緒31)
 中国同盟会の結成
 「民族・民権・民生」の
 三大主義を発表
 「H.ジョージ」
 の土地単税論の影響を受けた
 〈地権平均〉
 土地の申告価格に基づいて課税し
 地価上昇分を国家に納め
 国民全体に還元
 を
 「民生主義」
 の最も重要な要とした
 革命後の12年
 〈地権平均〉
 〈資本節制〉
 が主要な内容とし
 24年
 国民党第1回全国代表大会宣言で
 労働者農民
 への援助の方針が追加
 耕す者に田の主張が掲げられ
 地主制廃止の方向が示された
 ↓↑
 辛亥革命
 広義では
 清末期からの一連の革命運動から
 中華民国成立まで
 比較的長期間の政治的運動
 「袁世凱」
 を中心とする
 北洋軍閥により撤回され
 地権平等も実現しなかった
 ↓↑
 「康有為」
 1840年(道光20年)
 アヘン戦争
 清は欧米列強と外交で対峙
 一部官僚と知識人により
 1860年代~1890年代
 「洋務運動」
 が発生
 欧米の知識を導入し
 殖産興業
 富国強兵
 を目指す政治活動が提唱
 北宋より続いてきた
 文官偏重の
 伝統的な政治体制の改革は限定的で
 1894年(光緒20年)・・・弐拾年・念撚・念粘
 日清戦争
 で日本に敗れ
 洋務運動の限界が露呈
 ↓↑
 「康有為」
 を中心とする改革派は
 明治維新をモデルとして
 立憲君主制を維持しながら
 政治・社会制度に
 大幅な改革を求める内容の上奏
 1895年(光緒21年)
 光緒帝
 の支持を獲得し
 1898年(光緒25年)
 「戊戌変法」
 が実行
 改革は保守派の反発を招き
 改革は
 103日で失敗
 改革派は海外亡命
 ↓↑
 1900年(光緒26年)
 「義和団の乱」
 進駐した八カ国連合軍
 (オーストリア=ハンガリー帝国
  フランス、ドイツ国、イタリア王国
  大日本帝国
  ロシア帝国、イギリスとアメリカ)
 によって北京を占領
 保守派の間にも
 改革の必要性が認識
 「戊戌変法」
 と同様の改革案が提出・実行
 1906年(光緒31年)9月1日
 憲政移行の方針を定めた
 『欽定憲法大綱』を発表
 1910年(宣統2年)
 中国初の議会として
 中央に
 資政院
 新疆省を除く各省に
 諮議局
 を発足させ
 1911年(宣統3年)5月
 内閣が設置
 内閣成員の半数が
 満洲人
 内皇族が5名の
 皇族内閣で
 憲政移行失望・・・
 ↓↑
 新軍編成
 清末期
 八旗
 及び
 漢人緑営
 を主体とする
 清中央軍は実質的な戦力を喪失
 「太平天国」鎮圧で
 各地方の兵力に依拠し
 日清戦争では
 旧式軍隊の落伍が顕在化
 1901年(光緒27年)
 陸軍の全面改革を実施
 全国に
 新式陸軍36鎮を設置
 その内
 6鎮を朝廷直属
 他は
 各地方巡撫・総督の管轄
 幹部養成に各地に
 軍学堂
 が設置
 一部地域では
 留学生を軍官に積極的に採用
 ↓↑
 反清思潮
 清末の政治的閉塞感から
 漢人の間に
 反満意識が形成
 太平天国で
 満洲人排除
 が政治主張
 1890年代
 明末の著作に刺激を受け
 満洲人排除が発生
 清朝打倒の
 革命運動家は
 反清
 復明思想
 を利用し
 「鄒容」
 による
 『革命軍』著作が生まれ知識人に拡大
 「孫文」
 などの革命勢力は
 満洲人を満洲に追い出し
 漢人の明王朝が支配していた
 黄河・長江流域
 その周辺地域に
 漢人の国家建設を目指した
 辛亥革命後
 革命スローガンは
 「打倒韃虜」
 から独立の動きを見せた
 チベット、モンゴル
 などの少数民族を
 漢族の支配下に置こうと
 「五族共和」
 を唱え始めた
 ↓↑
 辛亥革命
 興中会(華南地区)
 華興会(湖南地区)
 光復会(蘇浙滬地区)
 後に成立した
 中国同盟会
 により実行
 他に
 共進会(長江流域)
 文学社
 同盟会中の
 丈夫団
 などが革命に関与
 中国同盟会は
 全国革命組織
 が緩やかに団結した連合体であり
 同盟会会員は
 各地に様々な
 外郭組織を構築
 ↓↑
 指導者
 孫文
 黄興
 宋教仁
 蔡元培
 趙声
 章炳麟
 陶成章
 など・・・
 ・・・これらの漢字の名前、姓名の意味・・・ヘン?
 ↓↑
 革命の主要な政治主張
 清打倒
 共和制政体
 の確立
 1894年11月24日
 興中会は
 「満洲駆逐
  中華回復
  衆議政治の確立」
 を活動骨子
 1904年2月15日
 華興会
 「満洲駆逐
  中華回復」
 を政治主張
 1905年8月20日
 中国同盟会
 「満洲駆逐
  中華回復
  民国建国
  地権平等」
 を綱領に定め
 「民族主義
  民権主義
  民生主義」
 が唱えられた
 ↓↑
 1890年代
 武力革命によって
 清を打倒し
 フランスやアメリカのような
 共和制を確立していこうと唱えた
 初期の革命思想
 海外に居住する
 留学生
 華僑青年
 による
 革命団体もまた海外で組織化
 1890年
 「楊衢雲」
 を中心とする
 輔仁文社が香港で成立
 1894年11月24日
 「孫文」
 サンフランシスコで
 興中会
 を結成、革命に必要な軍資金の調達を開始
 両者は
 1895年1月
 に香港で合併
 興中会の名称で活動を継続
 10月26日
 広州で初めての武装蜂起
 「広州起義」を起こして失敗
 香港へ入国禁止された
 「孫文」
 はロンドンに活動拠点を移動
 翌年には清による
 「孫文誘拐事件」が発生
 国際的に報道されて
 「孫文」
 の名が広く知れ渡った
 ↓↑
 1900年
 「義和団の乱」
 1901年
 「北京議定書」
 により列強の中国進出
 清国知識人の間に危機感
 日清戦争以降
 日本への留学生は
 1904年には
 2万人を越えた
 留学生の多くが
 官費留学生だったが
 革命思想が浸透し
 留学生による各種団体が設立
 民主革命の必要性が広く訴えられた
 留学の革命参加者
 章炳麟
 鄒容
 陳天華
 などがおり
 彼らは後に国内革命組織の根幹を構成
 1904年
 日露戦争が勃発
 清朝は中立を宣言
 主戦場は
 清国満洲地区
 外国軍隊が
 自国領土内で戦闘を行う事態に
 救国の声が高まり
 「黄興」
 が指導する華興会
 「陶成章」
 「蔡元培」
 が指導する光復会
 江蘇の
  励志学会
  強国会
 四川の
  公強会
 福建の
  益聞会
  漢族独立会
 江西の
  易知社
 安徽の
  岳王会
 広州の
  群智社
 等、各種革命団体が設立され
 相互に提携することは少なく
 地方色の強い個別運動だったが
 清打倒
 漢族の共和制
 による政権樹立を共通の目的としていた
 漢族による
 18省での政権樹立を目指し
 東北三省
 新疆
 チベット
 内モンゴル
 は当初活動範囲から除外されていた
 革命活動は
 反清を掲げる地下組織と提携
 華興会(湖南地区)は哥老会
 光復会(蘇浙滬地区)は青幇
 興中会(華南地区)は三合会
 と密接な関係を構築
 ↓↑
 1905年夏
 「孫文」
 は日本で
 興中会
 華興会
 光復会
 等の各団体を団結させることに成功
 8月20日
 東京で
 中国同盟会が組織化
 「駆除韃虜
  恢復中華
  創立民国
  平均地権」
 を定めた綱領が
 『民報』
 (旧名は華興会機関紙の
 『二十世紀之支那』
  同盟会成立後に改称)
 上に発表
 同盟会は
 大衆への啓蒙を通じて
 革命運動を大衆運動へと拡大
 『民報』は
 「章炳麟」
 「陶成章」
 らが主筆となり
 「胡漢民」
 「汪兆銘」
 が執筆
 「康有為」
 「梁啓超」
 が主編した
 保皇派機関紙
 『新民叢報』
 と論戦
 ↓↑
 他の革命団体
 ↓↑
 共進会
 1907年7月
 同盟会の一部より
 長江流域での
 革命発動を行うべきと主張する
 「劉揆一
  焦達峰
  張伯祥
  孫武」
 などが東京にて組織化
 同盟会と共に
 武昌起義を指導
 ↓↑
 日知会
 1906年2月
 「劉静庵」
 を代表成立
 「孫武
  張難先
  何季達
  馮牧民」
 など百名以上が参加
 後に
 同盟会
 湖北分会機関となった
 ↓↑
 南社
 1906年
 江南地区
 「陳去病」・・・陳=陳列の
         去=除去・・・帰去来?
         病=やまい
 等により
 黄社、神交社、匡社
 等の文学団体が設立
 1909年
 南社が誕生
 文学作品を通した新思想の啓蒙
 ↓↑
 文学社
 1911年1月30日
 振武学社は
 文学社と改名
 「蔣翊武」
 を社長
 「詹大悲」
  ・・・詹=厃+儿+言
       ⺈+厂+儿+言
      セン
      よく喋る・口数が多い
      つまらないことをしつこく言う
      みる・一点をみる
      足す・足りる
   「詹諸(センショ)」
    月にいるヒキガエル(蟾蜍・蟇蛙)
        引き換える
    月自体
    譫(うわごと)=言+詹
    譫(たわごと)
    譫妄(センモウ)
    幻覚などを伴う軽度の意識障害
    アルコール中毒や
    高熱、認知症などで起こる
    譫言・囈言(うわごと)
     大=一+人
     悲=非+心
 を文書部長
 「劉復基」・・・劉+復+基
 を評議部長に選出
 新軍内部の
 青年軍人組織
 革命思想の新軍内部への
 浸透と武器調達を担当
 武昌起義で指導的な役割を果たした
 ↓↑
 1900年代
 清国では日本留学熱で
 辛亥革命直前には
 数万人が日本留学
 1905年
 中国同盟会が東京で成立
 日本で軍事教育を受けていた
 同盟会会員による
 丈夫団
 も結成
 日本留学生の指導者
 「孫文
  黄興
  宋教仁
  胡漢民
  廖仲愷
  ・・・廖=广+翏
       广+羽+㐱
       广+羽+人+彡
       リョウ
       むなしい
       がらんとして
       うつろ(虚ろ・空ろ)
       廖(むな)しい=虚しい
  朱執信
  汪精衛(汪兆銘)」
 等
 ↓↑
 清末期
 各地で
 洪門(天地会)五房の
 長房青蓮堂
 二房洪順堂
 三房家后堂
 四房参太堂
 五房宏化堂
 四川発祥の
 哥老会
 などの秘密結社が結成
 反清活動を展開
 ↓↑
 哥老会
 は
 華興会
 ↓↑
 青幇は
 光復会
 ↓↑
 三合会は
 興中会
 とそれぞれ親密な関係を構築
 「孫文」
 もかつては
 広東省由来の
 洪門二房洪順堂会派の
 致公堂の会員で
 清打倒
 ↓↑
 海外華僑
 辛亥革命
 の重要な役割
 海外華僑は
 それぞれの居住地で
 同盟会に対する
 資金援助を行うと同時に
 帰国後出身地で
 革命団体を組織化
 多くの武装蜂起に参加
 1894年11月
 「孫文」
 がサンフランシスコで
 興中会を結成し
 20数名の華僑が参加
 黄花崗72烈士
 でも海外華僑が29名
 ↓↑
 新軍兵士
 1908年以降
 革命運動は
 群集運動から
 新軍内の同調者獲得に重点が移り
 革命人士は新軍内で秘密裡に
 革命思想の普及
 科挙制度の廃止により
 多くの青年知識人が
 新軍に加盟
 文学社社長の
 「蔣翊武」
 「劉復基
  詹大悲
  王憲章
  張廷輔
  蔡大輔
  王文錦」
 などが新軍内部のメンバー
 ↓↑
 1907年9月~10月
 清朝は
 資政院
 諮議局
 を設置
 士紳及び商紳への参政の機会を提供
 1909年
 新疆省を除く各省に
 諮議局が設置され
 士紳、商紳が選挙により
 諮議局に選出
 各省の
 諮議局による
 間接選挙で
 資政院の民選議員(98議席)が選出
 士紳、商紳は
 本来は立憲派であったが
 その後発足した内閣が
 朝廷主導であったことに
 失望、武昌起義以降
 立憲派も
 辛亥革命に参加
 ↓↑
 外国人
 辛亥革命を支持する日本人
 「梅屋庄吉」・・・梅の屋の庄の吉
 などの支援が顕著で
 多くの革命団体が
 日本で組織・運営され
 「北一輝」
 を初めとする日本人も同盟会に参加
 武装蜂起に
 参加した日本人にも多くの死亡者
 ↓↑
 1895年~1911年
 興中会
 同盟会
 により
 合計10回の武装蜂起が実行
 失敗したが
 革命思想を中国に普及
 ↓↑
 第一次
 広州起義
 1895年春
 香港を中心とする興中会は
 第一次
 広州起義を計画
 「陸皓東」・・・陸=阝+坴
         皓=白+告
         東=比企詞・寅卯辰
 により革命旗
 「青天 白日旗」・・・白の日の旗
 がデザイン
 10月26日
 「孫文」
 「楊衢雲」
   ・・・衢=行+瞿
        彳+亍+䀠+隹
        彳+一+丁+目+隹
        彳+二+亅+目+隹
        彳+一+亅+目+隹
        ク
        ちまた
        みち
        よつつじ
        わかれみち
        四方に通じる大通り・よつつじ
        よこみち・えだ・わかれみち
 は
 「鄭士良
  陸皓東」
 を率いて武装蜂起による
 広州占拠準備するが漏洩
 「陸皓東」
 逮捕され失命
 香港当局は清朝の圧力により
 両名に5年間の入国を禁止
 「孫文」
 の日本、アメリカ、ロンドン等への
 海外亡命生活
 各地で
 革命宣伝
 活動資金の募金
 ↓↑
 恵州起義
 1900年
 「義和団の乱」
 華北地方は無政府状態
 6月
 「孫文
  鄭士良
  陳少白
  楊衢雲」
 及び
 「宮崎滔天
  平山周
  内田良平」
 などが横浜から香港に到着
 イギリス当局により入国を拒否
 9月25日
 「孫文」
 は黒龍会の支援の下
 馬関を経て台湾に移動
 台湾総督府民政長官と会談
 台湾総督府の
 広州武装蜂起の支持を獲得
 「孫文」
 は台北市に武装蜂起司令部設置
 10月8日
 「鄭士良」
 等に命じ
 恵州三洲田(深圳三洲田)で
 武装蜂起指示
 (恵州起義
  庚子革命・庚子首義
  三洲田首義等)
 決起軍2万人に拡大
 台湾総督府官僚の態度が変化
 補給と軍人の参加の
 約定が覆され
 革命軍は物資補給に困窮し解散
 武装蜂起では
 「史堅如」
 「山田良政」
 などが落命
 「孫文」
 は決起失敗後
 日本当局により日本に移送
 ↓↑
 1907年5月
 革命党
 三合会
 の
 「許雪秋
  陳芸生
  陳涌波
  余紀成」
 により武装蜂起決行
 黄岡城(潮州饒平県)占拠
 (黄岡起義)
 「許雪秋・・・・
  陳芸生」・・・
 はシンガポール華僑で
 シンガポールで同盟会に参加
 黄岡起義後
 清朝は
 潮州総兵
 「黄金福」・・・黄金の福
 を派遣して武装蜂起を鎮圧
 革命党員200名が殺害
 6日間で
 「黄岡起義」失敗
 ↓↑
 第2回恵州起義
 1907年
 黄岡起義に呼応すべく
 「孫文」
 は恵州に人員を派遣して武装蜂起を指示
 6月2日
 「鄧子瑜
  陳純」
 等少数の三合会は
 恵州から20里ほど離れた
 七女湖
 で清軍の武器を強奪
 5日
 泰尾に侵攻し清軍守備兵を撃退
 楊村、三達、柏塘
 等で清軍を撃破
 帰善、博羅、龍門各地の会党も
 武装蜂起に呼応
 革命軍は200余名の規模
 清 水師提督
 「李准」
 は革命軍鎮圧に出動
 黄岡起義が失敗し
 革命軍への支持喪失
 梁化墟にて革命軍は解散
 一部香港
 大部分は
 羅浮へ逃亡
   ↓↑
 安徽起義
 1907年7月6日
 光復会の
 「徐錫麟」
 は安徽省安慶で武装蜂起
 「徐錫麟」
 は
 安徽巡警処会弁
 兼
 巡警学堂
 監督
 を務めており
 学校卒業式の当日
 巡撫恩銘を視察した後に
 学生を率いて革命軍を組織し
 戦闘が開始
 4時間の激戦の末に革命軍は崩壊
 「徐錫麟」
 捕えられ処刑
 ↓↑
 欽州起義
 1907年8月
 広東省欽州
 (広西の那彭、那麗、那矺三郷)
 で民衆反乱
 「孫文」
 は会党指導者
 「王和順」・・・王の和への
         順(したがう・随う・遵う)
 を
 「中華国民軍都督」として連絡役とし
 9月には欽州の占拠を計画したが失敗
 「王和順」
 はベトナムに帰還
 ↓↑
 鎮南関起義
 1907年12月2日
 黄明堂は
 「孫文」
 の指導を受け入れ
 「鎮南関都督」の名目で
 中越国境の鎮南席砲台を攻撃
 「孫文
  黄興
  胡漢民」・・・胡(えびす)漢(よこしま)民(たみ)
 なども自ら砲台攻撃作成に参加
 広西提督調
 「陸栄廷」
 は4000の軍勢により革命軍を包囲
 鎮南関起義失敗以降
 清朝は
 「孫文」等に対する捜索を
 安南に拡大し
 「孫文」
 はシンガポールに移動
 武昌起義成功まで
 中国に足を踏み入れることはなかった
 ↓↑
 欽州、廉州起義
 1908年2月
 「黄興」
 はベトナムを本拠地に
 200名の勢力により
 広東欽州
   廉州
 で計画
 14日
 作戦
 ↓↑
 河口起義
 1908年4月
 雲南省河口での武力蜂起計画
 4月30日
 「黄明堂」
 がベトナムより雲南河口に侵攻
 「黄興」
 も指揮に参加
 5月26日
 清軍により河口が陥落
 参加者はベトナムに撤退
 ↓↑
 庚戌新軍起義
 1910年2月12日
 「黄興
  胡漢民」
 及び新軍内の
 「倪映典」
 は広州警察と新軍との衝突に乗じ
 広州新軍を組織し武装蜂起
 戦死者100余名
 逮捕者100余名
 を出し
 100名以上の参加者が香港に撤退
 武装蜂起失敗
 ↓↑
 黄花崗起義(第二次広州起義)
 1910年11月13日
 「孫文」
 はマレー半島のペナンに
 「趙声
  黄興
  胡漢民
  鄧沢如」
 等を召集
 同盟会の行動方針決定の会議を招集
 地方での武装蜂起全て失敗
 広州での武装蜂起で
 清軍との全面対決方針を決定
 ↓↑
 1911年4月
 「趙声
  黄興」
 等は広州で武装蜂起を指揮
 清軍の間で市街戦展開
 革命軍は崩壊
 武装蜂起失敗
 ↓↑
 マレー半島での
 革命活動
 1911年12月16日
 「孫文」
 と軍事顧問であった
 「荷馬李」
 ・・・荷の馬の李(木ノ子・すもも・守桃)?
 は陳金鐘大廈に滞在
 革命活動は
 当時
 マレー半島は中国本土以外で
 華人人口が最も密集し経済的にも発展
 「孫文」
 は数度にわたりマレー半島を訪問し
 現地の華人に対し革命への参加を呼びかけ
 多くの華人から支持
 ↓↑
 武昌起義
 1911年3月
 武漢新軍内部に文学社が組織化
 共進会は
 陸軍第八鎮
   第16協第32標
 に集中して会員を集め
 武昌起義の段階で
 5,000名の兵士が
 文学社及び共進会に加入
 新兵総数の3分の1に達した
 文学社と共進会は
 新興知識層による革命組織であり
 新軍兵士は革命の潜在力となるため
 両者は新軍兵士を主要な工作対象とした
 ↓↑
 1911年5月9日
 清朝
 鉄道の国有化政策実施
 民間資本により建設された
 粤漢線
 川漢線
 の買収を発表
 国有化政策は
 湘、鄂、川、粤の民衆の反発を招き
 四川省が中心となり
 保路運動が展開
 ↓↑
 6月17日
 四川民間各団体により
 「四川保路同志会」結成
 四川諮議局議長の
 「蒲殿俊」
 が会長に、副議長の
 「羅綸」
 が副会長に選出
 8月5日
 成都で川漢線鉄道会社の臨時株主総会開催
 8月24日
 市民によりゼネスト実施
 9月1日
 川漢鉄道会社の株主総会指導で
 「抗糧抗捐活動」が実施
 9月7日
 四川都督
 「趙爾豊」
 は保路同志会の指導者を拘束
 鉄道会社と同志会を弾圧
 激昂した民衆が
 総督衙門で請願行動を起こすと
 「趙爾豊」
 は清兵に発砲を命令
 請願行動中の市民30名が射殺
 (成都血案)
 9月8日
 成都近郊の農民は
 同盟会
 会党組織である
 哥老會の指導の下に
 保路同志軍を組織して
 武装蜂起、省城を包囲し、清兵との交戦
 9月25日
 同盟会会員
 「呉玉章
  王天傑」
 等は栄県の独立を指導
 清朝は端方に
 湖北新軍の一部を指揮させて
 四川での革命運動の鎮圧を命じた
 ↓↑
 「蔣翊武
  孫武」
 湖北新軍は
 「張之洞」
 による訓練された
 「鄂軍」であり
 中級軍官以下多くの人材が官費で
 日本に留学
 革命党の影響力
 共進会
 文学社
 の影響を強く受けた
 保路運動が民衆蜂起に変化した後
 命令を受けた
 「端方」
 は湖北新軍を率いて
 四川鎮圧に向かったが
 それにより
 武漢の清朝勢力が弱まったことを
 好機と捉えた
 革命党人士は
 革命蜂起の絶好の機会と捉えた
 ↓↑
 1911年9月24日
 文学社
 共進会は
 武昌で
 双方の責任者と
 新軍代表60余名で会議を開催
 武装蜂起の
 統一指揮部(起義総指揮部)を組織
 文学社の
 「蔣翊武」
 が総指揮に
 共進会の
 「孫武」
 が参謀長に
 共進会の
 「劉公」
 が政治準備局総理に選出
 起義総指揮部は
 武昌小朝街85号文学社機関に
 準備局は
 漢口
 ロシア租界
 宝善里14号に設置
 1911年10月6日(旧暦8月15日)
 武装蜂起が確認
 準備不足により
 10月16日に延期
 ↓↑
 10月9日
 「孫武」
 はロシア租界で
 爆弾を製造している際に爆発事故発生
 負傷
 ロシア当局の調査を逃れるために逃亡
 武装蜂起の文書や旗などが押収され
 秘密工場の隣に居住していた
 「劉公」自宅より
 「劉公」の弟である
 「劉同」が連行
 湖広総督の
 「瑞澂」・・・澂=すます=澄=瀓
 がこの事件の発生を知るや
 全市に警戒命令を発し
 革命党関係者の逮捕に当った
 文学社の
 「蔣翊武」
 は清朝当局の動きを知り
 予定を早めて武装蜂起を決定
 各方面に文書を送付
 9日夜
 「彭楚藩
  劉復基」
 が起義総指揮部で逮捕
 「楊宏勝」
 が弾薬輸送中に逮捕
 10月10日
 深夜に3名は斬首
 ↓↑
 新軍工程営後隊正目(班長)の
 「熊秉坤」・・・熊の秉の坤
 等は予定を早めて蜂起を決定
 隊官の
 「呉兆麟」
 を決起軍臨時総指揮
 「熊秉坤」
 を参謀長とすることを決定

 1911年10月10日20時
 「程正瀛」・・・程の正の瀛(エイ)
 による武昌起義は発動
 決起兵士は
 軍の武器庫を襲撃
 文学社
 共進会
 の影響を受けた大部分の兵士が呼応
 「呉兆麟
  熊秉坤」・・・熊を秉(とる)坤(未申・コン)
 は決起部隊を指揮し総督府を攻撃
 南湖砲隊の砲撃の下
 夜明け前には
 総督衙門を占拠
 湖広総督
 「瑞澂」
 は逃亡
 ↓↑
 10月11日未明
 決起軍
 湖北省諮議局大楼會議室に集結
 新軍八鎮十五協二十九標二営司務長の
 「蔡済民」・・・蔡の済の民
 により会議が招集
 軍政府の組織と都督人選が議論
 革命党の
 「呉醒漢
  徐達明」
 等10数名以外
 湖北諮議局議長
 「湯化竜」
 副議長
 「張国溶」
 及び議員
 旧軍官
 「呉兆麟」
 が参加
 会議は
 「湯化竜」
 が議長となり進行
 「呉兆麟」
 により第21混成協統領
 「黎元洪」
 を都督とすることが提案
 立憲派により承認
 革命党勢力は
 「黄興
  宋教仁」
 は武昌におらず
 「彭楚藩
  劉復基
  楊宏勝」
 は被害を受け
 「孫武」
 は爆発事故で負傷
 「蔣翊武」
 は逃亡中であった
 「黎元洪」・・・黎(くろ・黎明)の元の洪(洪水)
 を都督
 「湯化竜」
 を民政総長(一説には総参謀)
 に選出決定
 ↓↑
 10月11日
 中華民国
 湖北軍
 政府成立
 11日午前
 武昌全域が決起軍の支配下
 夜には謀略処が設置
 謀略処により
 中華民国軍政府鄂軍都督府
 (中華民国湖北軍政府)
 の成立が宣言
 同時に軍政府の檄文と
 『安民布告』が発表
 国号を
 「中華民国」
 と改め
 清朝年号の「宣統」を廃止
 黄帝紀元の採用を発表
 「宣統3年」を
 「黄帝紀元4609年」とした
 軍政府は
 参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置
 諮議局大楼を事務所とし
 十八星旗を軍旗とした
 謀略処は軍政府名義により
 『布告全国電』
 や
 『通告各省文』
 などの電信を全国に発信
 ↓↑
 10月12日
 革命党人である
 第二十一混成協第四十二標士兵
 「胡玉珍
  邱文彬
  趙承武」
 等は漢陽で武装蜂起を決行、支配下に置く
 「趙承武」
 は漢口を攻略
 武漢三鎮は革命勢力下に置かれた
 ↓↑
 武昌起義後の
 各省の呼応
 清は北洋軍を派遣し
 武漢三鎮江北漢口
 漢陽を攻撃
 以前罷免されていた
 北洋軍の
 「袁世凱」・・・凱=豈+几・・・凱歌・凱旋
 が再び召還され
 北洋軍内部の人心動揺を抑えた
 革命軍は
 陽夏防衛戦を展開したが
 北洋軍に敗北
 11月27日
 江南武昌に撤退
 47日間の作戦の中で
 1万人強の死傷者
 武昌防衛堅持
 中国14省が
 清朝からの独立を宣言
 内地十八省中で清朝の統治が及ぶのは
 甘粛
 河南
 山東(途中で独立取消)
 直隷
 のみとなり
 独立した各省では
 一部が革命党の主導を受け
 大部分は諮議局メンバーによって
 政治運営が行われた
 清朝は
 直隷、河南、山東、甘粛
 と清朝の本拠地
 満洲の
 東三省(奉天、吉林、黒竜江)
 を掌握していたほか
 内モンゴル王公たちも
 清朝支持を表明
 北方では勢力を保持
 ↓↑
 10月22日
 湖南共進会の
 「焦達峰・・・焦(あせる)達の峰
  陳作新」・・陳の作の新
 は会党及び新軍で組織した部隊を率いて
 長沙で武装蜂起決行
 湖南巡撫
 「余格誠」・・・余(あまり)の格の誠(まこと)
 を敗走させ
 巡防営統領
 「黄忠浩」・・・黄の忠告?
 を斬首
 決起軍は
 中華民国
 湖南軍政府の成立を宣言
 「焦達峰」を都督
 「陳作新」を副都督
 とし
 『討満清檄文』を発表
 ↓↑
 10月22日同日
 陝西同盟会の
 「井勿幕・・・井の勿の幕
  銭鼎
  景定成」・・景の定を成
 は陝西袍哥会と連絡し
 会党と新軍の革命メンバーが協力し
 武装蜂起
 2日間の戦闘の後に西安を制圧
 護理巡撫
 「銭能訓」
  ・・・銭(セン・ぜに)=金+戔
     を
     能(よく)
     訓(よむ)
 は逃亡
 西安将軍
 「文瑞」・・・文の瑞
 は自殺
 決起軍により
 秦隴復漢軍政府の成立が宣言
 日知会の旧会員であり
 新軍隊官の
 「張鳳翽」
 が都督に選出
 ↓↑
 10月23日
 江西同盟会の
 「林森
  蔣群
  蔡蕙」
 等は
 九江の新軍での武装蜂起実行、独立宣言
 翌日には
 九江軍政分府が成立
 第二十七混成協第五十三標標統の
 「馬毓宝」
   ・・・毓(はぐくむ)
       =毎+㐬(云+川(爪)?)
        トツ
        リュウ
        子が生まれる
        突出する=突
        はたあし=旒
 が九江軍政分府都督に選出
 ↓↑
 10月29日
 山西同盟会会員
 新軍標統の閻錫山は
 「姚以階
  黄国梁
  温寿泉
  趙戴文
  南桂馨
  喬熙」
 等の人と協力し、新軍により
 太原起義を発動
 山西巡撫
 「陸鍾琦」
 を殺害して
 山西軍政府の成立を宣言
 「閻錫山」
 を都督に選出
 12月12日
 「曹錕」
 による反撃により太原から撤退
 ↓↑
 10月29日
 直隷では灤州兵諫が発生
 新軍第二十鎮統制
 「張紹曽」
 と第三十九協協統
 「伍祥禎」
 四十協協統
 「潘矩楹」
 第二混成協協統
 「藍天蔚」
 第三鎮第五協協統
 「盧永祥」
 等が協力し
 直隷灤州より清朝政府に対し
 最後通牒要求12条を提出し
 年内の
 国会開設
 憲法草案の起草
 責任内閣制の採用
 と
 皇族の
 国務大臣就任の制限を求めている
 ↓↑
 10月30日
 雲南同盟会
 「李根源」
 は新軍標統
 「蔡鍔
  羅佩金
  唐継尭」
 等と協力し新軍による
 重九起義を発動
 翌日には
 昆明を占拠して雲南軍政府が成立
 雲貴総督
 「李経羲」
 を送還し
 「蔡鍔」
 を都督に選出
 ↓↑
 10月31日
 南昌同盟会の
 「蔡公時」
 は新軍による武装蜂起を実行
 江西軍政府が成立し
 「李烈鈞」
 を都督に選出
 ↓↑
 11月3日(旧暦九月十三日)
 上海同盟会、光復会、上海商団の
 「陳其美
  張承槱
  李平書
  李英石
  李燮和」・・・燮=やわらげる・整える・調和する
          =爕・㸉・夑
 等は上海で武装蜂起を決行
 「張承槱
  劉福標」
 等が組織した
 「青幇洪幇」
 による決死隊
 「李平書
  李英石」
 による上海商団の武装集団
 「李燮和」
 と連絡を取った呉淞地区で
 蜂起した軍・警察蜂起部隊の
 「朱家驊
  徐霽生」・・・霽=雨+齊=はれる・空が晴れる
 等により組織され
 中国敬死団がその中心となった
 4日
 江南制造局を占拠
 上海光復が実現
 8日
 中華民国
 軍政府
 滬軍
 都督府が成立
 「陳其美」・・・陳(陳列)其の美
 を都督に選出
 ↓↑
 11月4日(旧暦九月十四日)
 貴州革命党の
 「張百麟」
 を中心として
 新軍及び陸軍学堂学生により
 武装蜂起が実行され
 貴陽を占拠
 大漢貴州軍政府が成立
 貴州新軍第一標教官
 兼
 講武堂堂長
 陸軍小学堂総弁の
 「楊藎誠」
 を都督、趙徳全を副都督に選出
 ↓↑
 深夜より未明
 杭州に駐在する
 新軍第二十一鎮
   第八十一標標統代理
 「朱瑞(浙江光復会会員)」
 隷下部隊の軍官
 「呂公望(同盟会会員)」
 同盟会会員の
 新軍第八十二標
 「周承菼」
 および
 隷下部隊の軍官
 「呉思豫
  蔣百里
  蔣百器
  楊廷棟
  呉肇基」
 光復会の
 「王文慶」
 上海より
 漁民120名からなる
 決死隊
(長 蔣介石、同盟会)
 を率いて武装蜂起を決行、杭州を攻撃
 陸軍警察(憲兵)執事官の
 「童保暄(浙江光復会会員)」
 は城站に臨時総司令部を設置
 「童保暄」・・・童(わらべ)保暄(喧嘩)
 が臨時総司令官
 「葛政恩・・・葛(つる)政(まつり)の恩(おん)
  黄雲秀」
 が参謀
 「朱瑞」
 に指揮された
 第八十一標第一、二営は
 旗営を包囲
 第三営(兪煒)
 決死隊第4隊(長 王金発・光復会)は
 保国寺軍機局と附属陸軍小学を
 砲兵営は隍山を占領
 「葛敬恩」
 の指揮する騎兵連は総司令部の掩護を担当
 「顧乃斌」・・・顧=雇+頁+乃+文+武
 率いる第八十二標第三営
 と決死隊主力(張伯岐 率いる第1、2隊
        董夢蛟 率いる第3隊)
 「尹鋭志(光復会、女性)」・・・尹(イン)
 等は撫台衙門を
 第5隊は旗城門下を占拠
 「楊廷棟」
 が兵を率いて巡撫府を包囲
 巡撫
 「増韞」
 を捕虜
 5日午後
 代表署理として杭州将軍
 「德済」
 が軍政府に投降
 革命勢力は杭州を支配
 浙江革命軍を名乗り
 「周承菼」
 が総司令に就任
 都督には
 「童保暄」
 を立てる予定であったが
 最終的に立憲派
 浙江諮議局議長の
 「湯寿潜」
 を都督に選出
 ↓↑
 11月5日
 江蘇省の
 立憲派
 紳商
 は江蘇巡撫
 「程徳全」
 に対し蘇州の独立宣言を要求
 江蘇革命軍政府が成立
 「程德全」
 が都督に就任
 ↓↑
 安徽同盟会の
 「呉暘谷」
 等は標炮営を指揮し武装蜂起、省城安慶を攻撃
 立憲派勢力は
 安徽巡撫
 「朱家宝」
 に対し独立を勧告
 11月8日
 安徽諮議局は独立を宣言
 「朱家宝」
 を都督に
 「王天培」・・・王の天の培(つちかう)
 を副都督に選出
 ↓↑
 11月6日
 広西諮議局在は省城の桂林で
 清朝からの離脱独立を決定
 広西の独立を宣言
 当初
 清朝巡撫
 「沈秉堃」
 が都督とされたが
 数日後に
 清軍提督
 「陸栄廷」
 が政変により都督に就任
 ↓↑
 11月9日
 福建同盟会の
 「鄭祖蔭
  彭寿松
  許崇智」
 陸軍第十鎮統制の
 「孫道仁」
 等により福州で武装蜂起
 清朝総督
 「松寿」
 は自殺
ー----
   ↓↑   ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
  +
 (表紙・画像・音楽)」の
  移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/11
 ↓↑
 干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 ↓↑
 現在の「ボクのHP」は「モウ君の総合目次」として
 モウ君の総合目次 (bake-neko.net)
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm
 ↓↑
 追加添文
 「戦争と平和」・・・「モウケの生き方」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2006%E5%B9%B4%EF%BC%91%EF%BC%91%E6%9C%88%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8E%E9%A0%83%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB
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