砕石のノミ跡が
探訪 布施山城跡
入山口の石仏様=布施山北峰登山口、比高差:120m(布施溜池の放流口)
お城のデータ
所在地:東近江市(旧八日市市)布施町 map:http://yahoo.jp/uLFhlt
区 分:平山城
現 状:山林
築城期:室町期
築城者:布施氏
城 主:布施三河守
遺 構:曲輪跡・土塁、井戸、畝状竪堀(西側)・くぐり門
標 高:240m 比高差:120m
目標地:布施公園
駐車場:布施公園
訪城日:2012.1.19
お城の概要
前方後円墳に築かれた山城
(主郭が後円墳・副郭が前方墳) 近江では、数少ない畝状竪堀が西側に!
布施山(玉緒山)山頂の古墳に築かれた城、石積の虎口、土塁、井戸跡が残る、自然の要塞となっている、雪野山、太郎坊山、瓶割山を望むことができる。
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 布施城主 佐々木氏族 布施参川守」の名を記す。
布施氏は佐々木六角氏の家臣であり、本家筋といわれる布施三河守家と、布施淡路守家に分かれていた。布施山城の城主は布施三河守家であり、布施淡路守家の城は、東方5kmにある大森城。
永禄6年(1563)に、六角氏被官の後藤氏が六角義弼に観音寺山城内で誅殺され、これに反発して家臣が自領へ引き上げた「観音寺騒動」が起きた際、永禄9年(1566)、布施三河守は布施山城に拠って、浅井氏と呼応して六角氏に反旗を翻した。
この騒動は、蒲生氏の調停によって収拾されたが、六角氏の権限を制限した「六角式目」が制定されました。
布施三河守は永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻の際、この城に籠もり戦いましたが敗れて廃城となりました。
主郭まで、赤いビニールテープで案内!
布施山、標高:240.8m。三等三角点、点名:布施、展望:なし
虎口はくぐり門、古墳の石室を利用した、むき出しになった古墳。
布施山城へは布施地区にある通称「溜池」横の観知溜館(みちるかん)駐車場に車を置き、観知溜館と布施山(玉緒山または願成寺山)の橋を渡ると石仏があり、そこから入山、赤のビニールテープの案内で山頂へ。
山頂の前方後円墳を利用した、狭い面積を目一杯利用して、方形というよりは円形に近い形の主曲輪(約南北30m×東西30m)があり、南東隅には井戸(溜め井)と思われる5m×4mほどの窪地がある。
主曲輪周囲には、高さ1m前後の土塁が廻らされている。この土塁は幅が相当厚く、土塁幅からすれば相当の高さがあったであろうとことが推測される。
主曲輪の北には幅5mほどの袖曲輪を介して20m×20mの方形曲輪を配している。こちらの曲輪にも周囲に土塁を巡らせている。高さは50~60cm程度でしかないが、主曲輪同様に土塁底の幅は相当広い。また、近江の城には少ない畝状竪堀は西側に残る。
布施山城・・・ 布施氏は六角氏(観音寺城・旧五個荘地区)の家臣であるが、永禄6年(1563)の観音寺騒動後に主家と不和になり、湖北の浅井氏(浅井長政・小谷城)に通じ布施三河守が籠城した(布施山城の戦い)。その際、浅井氏は愛知川畔まで侵攻し、六角氏側の背後を脅した。
布施三河守【ふせ みかわのかみ 生没年未詳】
信長公記巻九に「六角承禎の家に代々伝わっていた真鳥羽根付き節無しの矢軸という名宝も布施三河守によって探し当てられ、信長公に献上されるところとなった」と記載あり。
布施山東側のふもとには布施の溜池があります。後白河法皇が記したとされる「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に「近江におかしき歌枕、老蘇轟、蒲生野布施の池、安吉橋・・・・」とあり、この頃から溜池が知られていたとがわかります。現在は、溜池とその周辺が公園整備され、水と緑に親しみ野鳥や植物などの自然観察ができ、芝生広場や遊戯施設も備えた親水公園です。冬季には水鳥が飛来し、野鳥観察ができます。
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。