城郭探訪

yamaziro

佐和山城天守の行方

2012年01月25日 | 平山城

 関ヶ原の合戦で、西軍だったはずの小早川秀秋の寝返りによって窮地に追い込まれた三成は、捕らえられ処刑される。ドラマでは、三成の居城、佐和山城が炎上し、三成は木陰から見つめるばかりであった。

 長谷川さんは賤ヶ岳のふもとで生まれ育った。織田信長の後継争いで羽柴秀吉と柴田勝家が戦ったこの山が遊び場で、中世城郭に興味をもつ原体験となった。城郭研究家として、これまで県内の主要な中世山城の縄張り図を作成し、地域の古い地名や伝承を手がかりに、米原や多賀、近江八幡などで新しく城跡を発見してきた。本当に存在した城の跡を知りたい、そんな「リアリティーの追求」こそが長谷川さんを城郭研究に駆り立てる原動力になっている。
 長谷川さんは「彦根城天守の前身は佐和山城天守である」という独自の仮説を立てている。

 

ファイル:Sawayama-jyo01.jpg『佐和山城図』 文化11年(1814年)、紙本著色。個人蔵。石田三成入城後、改修が加えられた後のものと推測されている。

 


和田山城   近江国(五箇荘)

2012年01月25日 | 平山城

和田山城遠景(右の峰が和田山城)

 

探訪 和田山城

和田住宅案内図の左上に「和田山城祉」と

観音堂の前にペンキで「和田山城祉」と観音堂の横から登り口

和田山城縄張図(『五個荘町史』第一巻より)

『近江の山城』によれば、

                     寛文年間(1661~73)に成立した地誌『淡海木間攫』に、六角佐々木政頼の
          三男和泉守高成が和田山に城を築いて居し、和田氏を称したとあるとされる。六角政頼については、高頼
          の父とする説もあるが、六角氏の系譜上どこに位置する人物か未だ解明されていない。和田氏についても
          詳細は不明である。

左の峰のこの岩の上から清水山「箕作城祉」が一望できます

この岩周辺から、佐生城が木立の間から見える

三角点

 ところで、箕作城と特に佐生城には立派な石垣が築かれていて、石垣を多用した観音寺城の支城としてふさわしい姿をあらわしています。ところが和田山城には石垣が確認されません。

櫓台はこの辺り?木立の間から愛知川や国道8号線・湖東地域が一望できます。

 和田山城は六角政頼の子和田高成が築城したとも、六角義弼が築城したとも伝えられていますが、確証はありません。永禄11年(1568)に観音寺城が織田信長に攻められた際、六角氏は箕作城と和田山城に将兵をおいて攻撃にそなえたといいます。信長は手前の和田山城をあとにして、奥の箕作城を先に攻め落とし、これがきっかけで観音寺城に詰めていた六角氏父子は戦を交えないまま敗走しました。こうした経緯から、和田山城・箕作城・佐生城が観音寺城の北東方面を防御する支城群として機能したことがうかがえます。実際にこの三城は、観音寺城の防衛線となる愛知川や東山道に面する重要な場所に位置しています。

 ところで、箕作城と特に佐生城には立派な石垣が築かれていて、石垣を多用した観音寺城の支城としてふさわしい姿をあらわしています。ところが和田山城には石垣が確認されません。和田山南麓の和田集落には「ホリノウチ」という字が残されていることから、そこに館跡があったと推測されていますが、この推測にしたがうと、観音寺城の支城として機能する以前の和田山城は在地土豪の詰城だったとも考えられます。

 和田山城はおよそ28m四方の方形の土塁をめぐらせた単郭式山城です。北東と南西に延びる尾根に面した土塁では、土塁は高さ1mを越える規模で残されていますが、ほかでは50㎝以下しか残されていないところもあります。東尾根に面した土塁には高さ3m程度の櫓台が設けられ、その対面の土塁には半円形の張出し部が設けられています。縄張り図によると張出し部には中央に窪みが設けられていたようで、これを狼煙台と見る方もおられます。主郭の周囲は斜面を段々に削り出していますが、植林のための整地の跡のように見える部分もあって、城跡の規模を的確に把握することは難しい。