城郭探訪

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小川城      近江国(安曇川)

2013年07月07日 | 平城

o城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町上小川    map:http://yahoo.jp/bD33QH

現 状:農地

区 分:平城

遺 構:郭・土塁・案内標柱

築城期:室町期

築城者:小川氏

城 主:小川主膳正秀康

目標地:藤樹書院跡の北西側、161号線沿い

駐車場:農道に路上駐車から:1分

訪城日:2013.7.7

お城の概要

水田の北側、個人宅の西側にL字状で土塁が残っていました。 

小川城は安曇川町上小川の小川氏宅を中心とした一帯と考えられる。
現在は小川氏宅の裏庭から西側に隣接する田圃の北側に、高さ1~1.5mの土塁が約20mにわたって残っている。

土塁の西端では、田圃を取り囲むようにL字型に曲がっており、当時、は田圃も曲輪の一部であったことが窺える。

籐樹書院跡の100m手前で地蔵様(祠)のある路地に右折して国道161号線の高架手前まで行くと、道路沿いに【小川城跡】案内板、これの水田の先20mに土塁が見えます。 

国道161号線の高架手前まで行くと右手水田の先に土塁が見えます。京方面へR161号線の側道は一方通行。

   

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「高島郡 小川 住 佐々木隋兵 小川伝四朗」の名を記す。 

『滋賀県中世城郭分布調査』のその他城郭一覧には、高島郡 小川城(安曇川町上小川) 佐々木氏の家臣小川主膳正秀の居城で織田信長の高島征服の折に落城した。

  佐々木氏家臣小川氏の居城とされる。小川氏について、『中世城館調査報告書集成』によれば、『小川記』なる書物に「小川城ハ蒲生郡箕作城主 食邑七萬石 佐々木定頼ノ二男従五位下源義實ノ築ク処ニシテ」とあるとされる。

 佐々木定頼とは六角定頼のことと思われるが、定頼の子に義實の名は確認できない。「七萬石」という六角氏家臣としては少々大きすぎるようにみえる禄高や、箕作城主に小川氏あるいは義實を名乗る人物が見受けられないことからも、『小川記』の内容の信憑性には疑問が残る。

 小川主膳正秀康の代の元亀三年(1572)、織田信長の高島攻略によって、小川城は他の高島の諸城と同様、信長に屈した。

その後の小川城については不明である。なお、『日本城郭大系』では城主名を「主膳正秀」としているが、「康」の字が欠落したのだろう。

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


五番領城 近江国(安曇川)

2013年07月07日 | 平城

天満宮。城の北東隅にあたります。

お城のデータ

所在地:高島市安曇川町五番領字西良240

現 状::天満宮・信広寺・中村氏邸

遺 構::土塁・空堀

区 分::平城

築城期:室町期 応永2年・正平24年(1369)

築城者:山崎兵庫頭

目標地:天満宮

訪城日:2014.7.6

お城の概要

 五番領城は、安曇川南岸の平野部のなかにあります。高島郡を南北に走る街道と、安曇川沿いに朽木谷へ向かう街道の交差する場所にあり、交通上も重要なところにあったと思われます。

信広寺および天満宮一帯が城址とされています。『郡誌』の記述によれば、天満宮は兵庫頭により城の鬼門に守護神として祀られたということなので、天満宮が城の北東隅であると考えられます。また、信広寺の西方には「西良(にしら)」の小字が残っているということですが、『日本城郭大系』によれば「西堀」の字が「西浦」→「西良」と転じていったものとされています。寺の西側にはその堀跡と思しき、緩いカーブを描く耕作地があります。

角が2本共ありません!

天満宮の西側の耕作地。堀跡か。

お城の歴史

 高島七頭の1つ山崎氏の居城とされる。『高島郡誌』に、「応安二年(1369)佐々木氏の麾下山崎兵庫頭 此地を領有し 城郭を築きて」とある。山崎氏は他の七頭と異なり、同じ佐々木姓ではあるが、高島氏流ではなく愛知氏流とされる。
 元亀三年(1572)の織田信長の高島攻略により、五番領城の山崎氏も他の高島の諸城と同様、信長に屈服した。

応安2年・正平24年(1369年)山崎兵庫頭によって築かれたと云われる。 山崎氏は高島七頭の一人であるが、唯一西佐々木家の末裔ではなく、愛智氏系の一族である。

元亀年間(1570年~1573年)山崎左馬介が城主のときに織田信長の軍勢との戦いで兵火により焼失し廃城、子孫は帰農し中村と姓を改めた。

『日本城郭体系 11』によりますと、創築年代は「応安二年(正平二十四、一三六九)」、創建者は「山崎兵庫頭」、形式は「平城」です。

 城の歴史は「(中略)五番領城に関する唯一の文献ともいうべき『近江輿地志略』には「五番領村に在り。平城也。山崎兵庫頭居住の址なり」と記されているのみで五番領城が具体的に村の中のどういう所にあったのかは、今日までほとんど知られることはなかった。

 『高島郡志』にも城のことは書かれていても、その位置については触れられていない。ところが江戸中期から明治初年にかけての「五番領村絵図」(区有)をみると、その中に城の一部と推定される堀が描かれたものが二点ばかりあるのである。一つは享保十七年(一七三二)に五番領村が幕府の直轄地になった際に作られた絵図を、元文五年(一七四〇)に再度写して役所へ納めた時のもの。もう一つは、寛保三年(一七四三)に作られたものである。それによると、信広寺と中村新右衛門(現在、中村壬子三氏)の屋敷地の裏側に南北に細長い「西堀」があって、その堀はさらに東へ折れてL字形を呈している。この西堀は、江戸時代全般を通じて灌漑に利用されたと思われ、水をたたえていることがわかる。しかし西堀は、天保十三(一八四二))の絵図には載っておらず、おそらくその大半は土塁をもって埋め、寺域と屋敷地の拡張を江戸時代末期頃に行なったのであろう。とにかく、これらの絵図によって、五番領城は西堀と東側の道路とに挾まれた、信広寺・中村新右衛門および天満宮などの敷地一帯にあったものと推定される。したがって、五番領城は六〇m×六五mのやや南北に長い方形プランの平城であって、空堀跡をいれると七四m×七九mの規模を計ることができる。(後略)」とあります。

信広寺。

土塁

築山に残る五輪の塔

中村邸の水瓶

信広寺西側の耕作地。堀跡か。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、高島郡誌

  今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


田中氏館(下ノ城・南市城)    近江国(安曇川)

2013年07月07日 | 居館

お城のデータ

所在地:高島市(旧:高島郡)安曇川町田中南堀 map:http://yahoo.jp/NqWA6H
別 称:下の城・南市城
築 城:鎌倉期末
初城主:佐々木田中出雲守氏綱
区 分:居館

遺 構:地名

標 高:93m 比高差:ー

目標地:下ノ城バス停・稲荷神社・安曇川中学校

駐車場:下ノ城草の根ハウス周辺

訪城日:2013.7.6

お城の概要

安曇川中学校の西400m程の県道沿いにある稲荷神社から北へ少し行った辺りに築かれていたと考えられている。遺構はなく、この周囲に残る「北堀」、「東堀」、「南堀」、「堀ノ内」などの地名により推測する。

さて、南市城の遺構と思われるものは今日ほとんど残存しておらず、したがってその位置に関してもこれまで推測の域を出なかった。

しかしながら、現在使われている下ノ城周辺の小字名とそれの畦畔の観察を通じて、大体の南市城の位置を確認することはできる。まず、下ノ城集落とそれの南に伸びた道路までの水田を「南堀」といい、集落の北に伸びた水田を「北堀」という。また集落の東に接した水田を「東堀」というが、それに対応する西堀の小字名はない。そのかわりに北堀の西隣りに「戌亥堂」が、南堀の西隣りに「堀ノ内」がある。だが、この戌亥堂なるものが、果たして南市城に関連した建物であったかどうかは、今のところ明らかでない。つぎに畦畔についてであるが、集落は周囲の水田よりも若干高く、北辺は東西にほぼまっすぐに区切られており、その集落の北辺に接して幅七mの水田が平行に長く走っている。さらに、その北隣りの水田(幅一三m)も東西に長く延びている。残りの三辺のうち西辺の畦畔もほぼ同様に観察することができる。これによって、南市城は現在の下ノ城集落に重複していて、六五m×六八mの南北に少し長い方形プランの平城であって、周囲の幅七mの空堀跡を入れると七九m×八二mの規模を有していたことが知られる。(後略)」とあります。 

稲荷神社

お城の歴史

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「高島郡安曇川町田中字南堀」、別称は「下ノ城」、創築年代は「鎌倉時代後期」、創建者は「佐々木田中出雲守氏綱」

 城の歴史は「(前略)南市城は、上寺城と共に田中氏の居城(館)であって、佐々木高島氏の始祖ともいうべき高信の次男頼綱(朽木氏)が、次男氏綱を田中郷の地頭に任じて、田中氏を名のらせたことに始まる。

田中城(上寺城)に対する、田中氏の居館(下ノ城)。高島七頭の一人で田中城を詰城とした田中氏の居館。

田中氏は、高島高信の次男頼綱のさらに次男である氏綱にはじまる。田中氏は、いわゆる高島七頭の1つとして勢力をもった。
その後の田中城および田中氏について詳細は不明だが、元亀三年(1572)の織田信長の高島攻略によって、他の高島の諸城と同様信長に制圧されたものと思われる。


 ちなみに、江戸時代初期に柳川城主32万石にまで登りつめた田中吉政は、天文17年(1548)、筑後国主田中吉政は、田中重政の長男として近江国に生まれ、母は、浅井郡国友(滋賀県長浜市国友町)の地侍(じざむらい)国友与左衛門の姉。

田中氏の出自(しゅつじ)については、江戸幕府が編纂した系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』に、「先祖 は近江国高島郡田中村「滋賀県高島郡安曇川町田中」に住し、伯耆守崇弘のとき田中を称号する』としています。近江守護の佐々木氏の庶流の高島田中氏としています。

一方、田中吉政の出身地を浅井郡三川「滋賀県長浜市(旧:東浅井郡虎姫町)三川」とする説もあり、慶長9年(1604)正月に、吉政自身が寄進した三潴(みずま)郡大善寺の玉垂宮の鐘の銘には、「生国江州浅井郡宮部縣子也(あがたのこなり)」とあったようです。そして、田中家は、吉政の 正嫡忠政「吉政の四男」に跡継ぎがなかったため廃絶しますが、本家を継がなかった吉政の長男吉次の系統や三男吉興の系統は旗本として家が残ります。このうち、三男吉興の家に係わる系図(柳川古文書館蔵)の、吉政の父重政は、「江州浅井郡三河(川)村に蟄居、病死」したと記述されています。蟄居は本貫ですることが多い ことから、吉政の出身地を三川とする説も有力です。

この田中氏の出身と云われるが?。田中吉政は(現:長浜市)虎姫町三川城主で、 の、現在のところは真偽不明である。     

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、日本城郭体系、遺跡ウォーカー、高島の城、田中吉政公とその時代

   今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


田中砦   近江国(安曇川)

2013年07月07日 | 

田中砦は田中神社の背後の山にある。

お城の概要

所在地:高島郡安曇川町田中 map:http://yahoo.jp/XDqPaT
別 名: -
築 城:田中氏
初城主:田中氏
区 分:砦
遺 構:堀切
目標地:田中神社

駐車場:田中神社

訪城日:2013.7.6

田中神社の様子

お城の概要
 田中城(上寺城)から北東へ約2km、田中氏館(下ノ城)から北西に500m、田中神社の北西の尾根に位置している。
 田中神社横から山中に入り、神社背後の裏山に築かれた砦だ。山には杉が植林されているが、砦跡は植林されていないため分かる。
 なだらかな北からの尾根を幅約4mの横堀(堀切と呼ぶのが適当かもしれない)を配し、横堀は北から西に廻っている。
 砦跡は東西、南北とも25m程度の削平地で、堀底からは高さは3~4mあるが、切岸はなだらかで台地状である。 北からの尾根を堀切で遮断して城域とした単郭の縄張りとなっていた。 

 東に田中氏館:下之城(南市城)があり、南の丘陵には田中氏の詰の城『上寺城』ある。
田中城(上寺城)が築かれる前の田中氏の詰めの城か!

お城の歴史
 詳細不明。田中砦は、築城年代や築城者については定かでないが、高島七頭の一つ田中氏が在城した。

高島 田中氏

 戦国時代、田中吉政の活躍で有名になった田中氏は、近江国高島郡田中村の出身という。

『寛政重修諸家譜』では、橘氏の末裔に田中氏をあげ、「筑後守忠政がとき嗣なくして家絶ゆ。庶流田中久兵衛政諧が家伝に、先祖近江国高島郡田中村に住し、伯耆守嵩弘がときより田中を称号す、其男重政なりといふ」と説明している。
『藩翰譜』では、吉政の父の名を宗弘とし、「兵部少輔橘長政は伯耆介宗弘が男なり。本国は近江の人、先祖累代、高島郡田中と云ふ所にぞ住してける」とみえる。
 また、鈴木真年編による『古代氏族系譜集成」所収田中氏系図をみれば、遠祖は橘朝臣仲遠とあり、民部大輔親信の子重信が近江国高島郡田中を領して田中を称したとされ、兵部少輔吉政の父は実氏となっている。いずれが正しいのかは、にわかに判断し難いが近江国高島郡田中村から出てきたことは間違いないようだ。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、高島の城、武家家伝

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2013年07月07日 | 番外編

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